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予知夢から始まる英雄譚  作者: 鴉山 九郎
【6章 蠱惑の導きは傲慢の果てに】
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4.愛しのあの娘を忠実に

 『英雄』の本軍は、つい先日までベスティニア皇国の一部であった辺境の地、カーチェフに駐留していた。

 カーチェフは一度、天想軍の手にも渡っている。短期間で街の支配者が次々と変わり、住人も苦労していることだろう。自分が死んでも墓に入れてくれる者がいないから。

 生きた住民は、有翼人が街を制圧する際に一掃している。人間はまんまとその後釜に座っただけだ。

 街から離れた森に一度降り立つと、あたしはそこから歩いて街に入っていった。

 着ているのは、旦那が初めてあたしのために選んでくれた服だ、なんて言ってみたりして。実際は、そんな浮ついた言葉の似合わない、地味な服装。フード付きで、顔を隠せるようになっているという気の使い方が良い。

 さすがインキュバスだけあって、旦那は細かいところまで、よく気が付く。なんでもいいよ、なんていう面倒くさい注文(その実、なんでもよくない注文)に、こんな適切な答を返してくるのだから。

 これなら、軍にいてもおかしくない、魔術師の女を装うことができる。

 カーチェフ城に向かう途中、開けた広場を通りかかると、男達の怒号が聞こえてくる。各々、武器を手に、訓練に精を出しているようだ。感心感心。うっかり『英雄』が混じっている、なんてことがないかしら、とそちらへ顔を向ける。

 そうして見てしまったものに、足がすくんで動かなくなった。硬直の魔法でもかけられたように。


「ちゃんと的に当てろよぉ!」

「急所に命中させたやつには、酒を奢ってやるぞー」

「各部位に点数つけて競うってのはどうだ」

「お、いいねえ。やっぱ頭が高得点か?」


 何人かの人間が、弓で的に狙いをつけていた。その的というのが、城壁に磔にされた有翼人だった。

 ふと、旦那が話していたことを思い出す。人間に殺されて、磔になった有翼人の幹部がいる。今ここで的にされている死体は、旦那が見たものと同じなのではないか。

 肘は曲げられないまま、頭上高くで両の手首がまとめられ、杭を打たれている。まっすぐそろえられた足首にも、同じく杭が。そして、左右に広げられた翼には、どれが杭なのか分からないほど、たくさんの矢が突き刺さっていた。

 けれど、どんな杭よりも深く。彼を城壁に食い止めているのは、磔十字の中心——心の臓を貫く槍だ。

 彼を絶命させた得物なのかもしれない。自分がこいつを仕留めた、という顕示欲にまみれている。あるいは、有翼人に対しての警告か。

 頭を垂れているのが、せめてもの救いだった。きっと、こう時間が経っていては目なんか腐り落ちている。ただでさえ血みどろで、抜けた羽根が痛々しいってのに、これ以上にグロテスクなものを見せられるのはゴメンだ。

 そう思うのに、目を離せない。矛盾している。

 しばらくして、何かが喉を逆流してくるような感覚に襲われた。自分の胃に、吐けるものなんかありやしないのに。声を出さず、空気を吐くためだけに口を開く。

 視線を地上に戻しても、嫌な光景からは逃れられない。


「ほら、怖気付くな! 今のうちに、連中を殺すのに慣れておけ」

「……で、でも」

「連中を怖がるのは分かる。俺達だって、最初はそうだった。だが、戦場で向かい合った時に相手を恐れるようではいかん」

「練習台があるなんて恵まれてるよ。私の時は、そんなのなかった」


 剣を持った新兵らしき男が、拘束された獣人の前に押し出されていた。この街の生き残りの獣人かなんかだ。訓練の一環として、その獣人を殺せと言われているらしい。

 先輩二人はいかにも気遣わしげな声を出している。だが、説得力のないにやけ顔で、背中に回した手には銀貨を握っていた。

 新兵の男に先輩を振り返る余裕はない。だから、自分が賭けの対象にされていることにも気付きやしない。

 どちらの男の手に銀貨が叩きつけられるのか。賭け事が好きなあたしでも、最後まで確認する気にはなれなかった。

 そこを去ろうとすると、あたしに気付いた獣人が、必死な目を向けてくる。また、足が縫い付けられたみたいに動かなくなる。犬系の獣人特有の長い鼻面を、布でぐるぐる巻きにされて、自慢の牙を剥くこともできずにいる。

 あんた達の方が、よっぽど恐ろしいよ。そう人間に言いたくなる。

 新兵の男は困惑しているだけだ。本当に恐慌をきたしているのは、獣人の方じゃないか。

 その場にとどまって、内心で毒を吐いても、あたしが何か行動するわけじゃなかった。

 うったえかけるような目なんて、何百回、何千回と見てきた。生気を吸い取られて死ぬのと、体中を切り刻まれて死ぬのと、どう違うっていうんだ。見ようによっては、干からびて死ぬ方がむごいじゃないか。

 血を流す方が残酷だなんて、言えない。

 ああ、でも。あたしは快楽を与えてやれる。獲物は幸福のまま昇天する。恐怖の淵をさまよわせた挙句、絶望に突き落とすのは、やっぱり残酷だ。

 獣人の視線に気付いて、男の一人があたしを振り返った。


「なんだ? 何を見ている」


 最初の一音は脅すような低音だったのに、人の顔を見るなり、すぐさま柔らかな声色へと修正をかける。相手に分かるように態度を変えるなんざ、インキュバスだったら三流以下だ。こいつは今、あきらかに“きれいな女”であるあたしに反応していた。

 もう一人の男も、こちらを見る。目が合った瞬間、わずかにまぶたが上がったのを、見逃さない。


「試したい魔法があるのでしたら、どうぞ。譲りますよ」


 それを聞いて、新兵の男はほっと息を吐き出した。獣人は不自由な体をがたりと揺らす。

 試したい魔法。あるには、あるんだよ。ああ、でも、そっちの満身創痍の獣人よりは、あんた達みたいな活気の良い男がいいねえ。あたしの魅了魔法にかかってみないかい。あんた達だって、大歓迎だろう?

 ——なんて、言えるはずもなく。

 あたしは、淫らなことなんて何一つ知らない、という大人しい顔を装って答える。


「いいえ、大丈夫です。それより、お聞きしたいことがあるのですが」


 視界の片隅で、獣人の瞳からふっと光が消える。それだって、お馴染みに過ぎる光景だ。今さらカウントするのも馬鹿らしい。

 男達はこちらに集中していて、獣人の変化には気付かない。いや、面と向かっていたとしても、鈍感な人間では、人のわずかな変化にも気付かないのだろう。


「我々の知っていることなら、なんでもお答えしますよ」

「そんな大層なことではないのです。『英雄』がどこにいらっしゃるのか、知りたくて。私、一度お会いしたいと……いえ、一目見るだけでも構わないのだけれど。とにかく、あの方がいらっしゃる場所を知りたいのです」

「ああ、なるほど」


 声から、落胆がにじみ出ている。

 この美女が俺を前にして、他の男に興味を示しているのは気に食わない。けど、それが『英雄』相手じゃあ、憤ることもできない。あの方と比べたら、人間の男はすべて取るに足らない雑草扱いでも仕方のないこと。

 なんて、卑屈になっている。

 顔の表情から、声の調子から、体の仕草から、あらゆる情報が読み取れる。感情の変化が、手に取るように分かる。


「城の三階の部屋にいると聞きました。ほら、あそこの。左から数えて五番目の窓の——」


 男は失望しながらも、あたしの質問に答えた。

 そうでなくてはならない。素直に言ってしまいたくなる、そのようにあたしが誘導したのだから。あたしを前にしたら、人はすべてを答えたくなってしまう。それが機密かどうかなど、関係なく。聞かれもしないことも含めて。

 単純な衝動として、この“美女”を喜ばせたいから。


「教えてくださってありがとう。感謝します」


 礼を言うと、男は分かりやすく舞い上がった。ちょろいもんだ。

 『英雄』のもとへ向かう間、あたしは目にしてしまった残虐な光景について、とりとめもなく考えた。

 あたし達が高みから人を動かして喜んでいるように、彼らのそれも遊戯なのだ。強者になったがゆえの特権。だって、以前は獣人も同じことをしていた。

 殺戮。陵辱。強奪。される側がする側へと変わっただけ。

 逆転ものはあまり好みじゃないが、当事者としては、さぞスカッとする展開なのだろう。

 いたぶられる獣人に寄せたのは、同情、なんかじゃあない。人間の弄び方が、あたしとは気が合わなかっただけだ。あんな趣味の悪いやり方はない。

 鼻をこすって、顔をしかめる。いつまで経っても血の匂いが拭えず、げんなりした。


 人目につかない場所で背中の翼を可視化させると、あたしは『英雄』が寝泊まりするという部屋に、窓からお邪魔した。まさか三階の窓から忍び込む侵入者(それも、壁をよじ登って夜這いをかけようとする淫女)がいるとは、思うまい。

 室内に誰もいないのに鍵が開いていたからといって、無用心だとは責められない。

 窓枠に足をかけ、翼を景色に溶け込むように透明化させてから、部屋の中に体を滑り込ませる。

 内装はなんとも殺風景なものだった。必要最低限のものしか置かれていない。一軍を率いる男の寝室とは思えないぐらい、質素倹約が徹底されていた。

 これは、豪奢な家具は『英雄』が放り出したのだな、と想像してみる。前にこの部屋を使っていたであろう獣人も有翼人も、手間と金のかかったものが大好きな連中だ。彼らのようにはならない、という戒めも込めて、彼らの匂いがするものは徹底的に排除しちゃった感じ。

 そしてなにより、『英雄』自身、庶民的な感覚の持ち主なのだろう。

 成り上がりだけど、初心を忘れない。民の好感を得やすいタイプ。

 『英雄』が部屋に戻ってくるまでの間、そんなふうに、あたしはまだ顔も合わせていない男について、あれこれ考察して暇をつぶした。当然、頭だけではなく手も動かす。下準備もせずに待ち構えるなんて、処女でもやらない。

 着ていた服を脱ぎ捨て、あきらかに一人用ではないベッドに下着姿で寝そべる。柔軟体操のような伸びをしながら、ただの部屋を罠の張った檻へと変えるための詠唱を始める。男の正常な判断に、もやをかけるための仕掛け。漂い始めるのは、フーフバラの屋敷に充満するのと同じ色香。

 完璧な自分のフィールドを作り上げ、満足するのも束の間。タイミングよく、ドアノブがひねられる。

 室内に足を踏み入れた男は、朦朧とした景色に怪訝な顔をした。魔力を孕んだ色香が、すぐさま男の鼻腔をくすぐって、自らの手で背後のドアを閉めるよう要求する。男はその通りにしたが、眉間には小さなしわが寄り、逆の手では腰の剣をまさぐっていた。


「ああ、人間の『英雄』……カリム様。お会いしとうございました」


 『英雄』はバッとこちらを向き、ベッドに寝転がるあたしを見て、目を見開いた。


「なっ……なにを、しているんだ。きみは」


 勝手に部屋に入り込み、ベッドの上で下着姿になっている見知らぬ女に向ける言葉としては、面白みに欠ける。彼の子種をもらおうとする女に言い寄られることだってあるだろうに。どうにも反応が初々しい。

 あまりの衝撃に一瞬、『英雄』は夢から醒めたような顔になった。


「こうして、カリム様がお帰りになるのを待っていたのです」

「いったい、どこから入って……」

「寝台もこうして、ほら、人肌の温もりを備えております。そんなところにいらっしゃらないで、どうぞ、こちらへ。おいでくださいな」


 シーツを撫でた手で、そのまま『英雄』を手招きする。

 急かすような動きをしてはいけない。ゆっくりと、誘い込むように。すると、指先の軌道に『英雄』の視線がついてきた。

 釘付けになっている目。息を吐き出す口。上下する喉仏。強張った肩。汗ばんできた手。——そして、棒のように動かない足。

 体全体があたしを欲しているってのに、まるで、最後の理性が足に宿っているみたいだ。上半身と下半身の葛藤に苦しむように、『英雄』の顔が歪む。

 これは、下着まで取っ払っちまった方がいいかねえ。秘所を暴くのは殿方の楽しみだろうと思って、せっかく残しておいたのに。


「暑くなってきましたね。少し、失礼します」


 これまでだって大分失礼していると思うけどね、と内心で笑う。

 下着の紐を解くと、秘部を隠していた布が落ちて、惜しげもなく裸体がさらされる。けど、もう少し近くに寄らないと本当に大事な部分は見えないよう、角度を考えた手を添える。

 『英雄』は目を丸めたままだった。見てはいけないと思うのに、目をそらすことができない。悩ましげに眉をひそめる顔が、幼く見えた。そうした挙動の一つ一つに、『英雄』と言えど、普通の男なのだなあと思えた。

 すなわち、数分後にはあたしに夢中になる。ハチドリが花の蜜を吸うぐらい、当たり前のこと。恥じる必要のない、自然の摂理。

 『英雄』は色香の影響を受けて、実際に暑いと感じているはずだった。証拠に、額には汗がにじみ前髪が張り付いている。


「カリム様も暑くはありませんか。服をお脱ぎになっては?」


 暑かったら裸になるのが普通だ、と錯覚させる。彼は、この素晴らしい発想に感銘を受けるだろう。なんでこんな簡単なことに今まで気付かなかったのか、と。

 迷いながらも、『英雄』がシャツのボタンに手をかけた。それさえも、あたしは焦れったい。上なんかどうでもいいんだ。下を脱げ、下を。

 服を脱ぐのが面倒だっていうんなら、前だけくつろげてくれればいい。最悪、そこだけ露わになればいいんだ。なんでもいいから、早くあたしに伸し掛かってしまえ!

 そう思ったことが伝わったわけでもあるまいに、『英雄』は一番上のボタンを外しただけで、手を下ろしてしまった。襟が詰まっていたのが苦しかっただけだ、とでも言いたげに。


「きみが何を求めているのかは知らないが……いや、分かるけど、そういうことではなくて。……きみをよこした人間がいるなら、そいつに、こういうご機嫌取りはやめろと伝えろ」

「……。女性には不自由していないから、ですか」

「そういうことを言っているんじゃない」


 怒ったように『英雄』は首を振る。酔いを覚まそうとするかのような動作に、心臓が早鐘を打つ。

 こいつ、もしかしてサキュバスの色仕掛けが、通用していないのか。人間の売女なんかと同じように、あしらわれるなんて。サキュバスのプライドが許すわけない。このまま引き下がれるか。


「私は、初対面の女と寝るような真似はしない」


 興醒めだ。きりっとした顔に、鼻白む。

 徹底的な言葉を突きつけてやった、という気になっているのだろう。欲望に打ち勝つことができた、と勝手に満足しているのだろう。だが、まだ終わっちゃいない。

 顔をそむけてベッドとは反対方向に歩いていく男に、あたしは対抗心を燃やしていた。

 初対面の女とは寝ない。結構。貞操を守るのはなにも女だけの務めではないし、たまに、そういう潔癖な男もいる。それならそれで、こちらはやりようがあるってもんだ。

 むしろ、あたしとしてはそっちの方が得意分野なんだからね。

 暴いてやろうじゃないか。『英雄』の愛しいあの娘を。


「待って。私よ、分からないの?」

「——リリィ?」


 かかった。

 『英雄』がこちらを見ていないのをいいことに、あたしは舌なめずりを隠さない。

 『英雄』は、あたしの脱ぎ捨てた服を拾おうとしているところだった。服を着て帰れ、と言うつもりだったのだろう。だが、あたしの声——記憶にあるであろう声、を聞いた瞬間、その動きが止まった。一度は掴んだ布が、指の間をすり抜けて落ちる。

 サキュバスとインキュバスは、獲物の記憶の一部を覗くことができる。恋心を抱く相手を探るためだ。不鮮明な部分も多いし、色恋に関することしか見れないので、相手の内面をすべて知れる能力というわけじゃない。

 それでも有用な手立てであることに変わりなく。あたしはちょいと『英雄』の心を覗き見た。

 その記憶は、建て付けの悪い扉の向こうに隠されているように、引っかかりのある抵抗を示した。つまり、少々力を込めて押しさえすれば、必要な情報が手に入るということ。実に簡単。

 あたしの前で想い人の姿を秘そうなんざ、おこがましいのさ。

 『英雄』の想い人は、少女の姿をしていた。いや正しくは、幼い時分のまま記憶が止まっていた、というべきだろう(少女愛好ではないと断言しておいてあげよう。『英雄』の名誉のために)。彼は、自分も少年だった頃にした恋を、引きずっているらしかった。

 ある時、少女は少年とはぐれ、そしてそのまま、姿を消してしまった。突然の別れが、しこりとなって『英雄』の心の隅に残り続けているようだ。

 なら、成長した少女と感動の再会を果たしたら? お互いにもう大人なのだし、情を通じることだってあるだろう。不自然な流れではあるまい。

 『英雄』の記憶にある少女の姿から、彼女が大人になった姿を作り出す。成長した想い人へと、化ける。


「カリム……?」


 『英雄』はなかなか振り返らなかった。声に違和感はないはずだ。さっき、名前を呼んで反応したのだから。

 見知らぬ女がいつの間にか、懐かしい女の姿と声に変わっていたとしても、それは些末なこと。色香が、都合よく彼の頭を惑わしてくれる。何か変だ、と思っても何が変なのかは分からないはず。それなのに、『英雄』は見知らぬ裸の女を前にした時以上に、警戒をあらわにしていた。

 やがてこちらを向いた『英雄』の目は、まるで亡霊でも見るかのようだった。


「おまえはだれだ。彼女は、十年以上前に、死んでいる」

「ま、待ってよ。勝手に殺さないで。私はちゃんと、ここに——」

「ありえない。生きているわけない」


 『英雄』のかたくなな口調に、あたしは閉口する。

 たしかに、記憶には“はぐれた”とあったのだ。なんでそれが、死んだことになっているのか。記憶の細部を見られないのが悔やまれる。だが、“死”を確認していない以上、それは『英雄』の思い込みでしかない。

 だいたい、死んだと思っていた人が生きていたら、喜ぶのが普通だろうが。


「私は、快進撃を続ける『英雄』の名前がカリムだと知って、ここまで来たのよ。人違いかもしれないけど、望みは捨てちゃいけないって思ったから。でも、こうして再会できたんだから、これは運命よね」

「運命なんて、糞食らえだ」


 怒気を含んだ声は震えていた。

 霧が晴れるように、『英雄』の惑いが消えていくのが分かった。もはや完全に、『英雄』は術の影響外にいた。なにがこの男の目を醒ましたのか分からない。こちらを偽物だと決めつけて、部屋にかけられた魔術に気付く素振りさえ見せる。


「おまえはなんだ? 人間じゃないな」


 そこまで分かっていてなお、剣を抜くのをためらうのは、あたしが愛しい女の姿をしているからか。正気であるがゆえの躊躇。

 こんなの、付け入らない方が損というもの。じゃなきゃ、サキュバスの名が廃る。


「ああ、だったら、何だっていうんだい。そんなこと、あたしを抱かない理由にならないよ」

「得体の知れないものを抱けと言っている時点で、ずいぶんと要求がハードだと思うが」

「まあ、いいさ。そんなに嫌なら、唇だけでも奪わせてもらうよ。そしたら、気が変わるかもしれないじゃないか。一つ、気を付けておきな。腰が抜けちまわないようにね——!」


 キス一つでも、生気は奪い取れる。その一回の味を覚えて、『英雄』があたしのことを忘れられなくなったら、それでいい。

 ベッドから飛び降りて、ぎょっとした顔をする『英雄』にそのまま飛びつく。まさに、襲いかかるとしか表現しようのない状態。現場を見た十人が十人、痴女だと断言するぐらい。それぐらい、あたしは切羽詰まっていたわけだ。

 いつもなら、こんな強引な手段は取らない。なぜなら、あたしは求められる側であって、求める側じゃない。

 唇が触れそうになったところで、今度はあたしの方がぎょっとした。直前で、『英雄』から飛び退く。

 『英雄』は不思議そうな顔で、あたしを見ていた。『英雄』が抵抗らしい抵抗をしなかったのは、心のどこかでちょっと期待していたから——なんかではなく、押しのける力もないほど無気力だったからだ。


「あんた、なんで、そんなに生気が薄いんだい……?」


 美味い不味い以前の問題だ。そんな判別もつかないほど、“味”というものがない。水増ししたスープも真っ青の、もはやスープ風味の水になっているレベル。

 あたしの呟きに、『英雄』は首を傾げた。

 さっき一瞬見せた怒りが嘘のように、『英雄』の目は虚ろだった。光のない瞳は、何度だって見てきている。光が失せる、失意の瞬間だって。もしかして、他のサキュバスに先を越されたんじゃないか、なんて考えもよぎるが、すぐにそれを否定する。

 底のない穴を覗きこんだかのような気分になる、『英雄』の目は、これまで見てきたどんな目よりも、異質だった。


「私の生気は薄いのか」


 こちらもまた、呟くように言ったので、あたしは条件反射的に頷きを返した。

 すると、『英雄』は泣き笑いするような顔になった。


「もうすぐ死ぬからだろうな」


 その意味を聞き返したかった。だが、廊下から近付いてくる数人分の足音に、逃亡の姿勢を取らざるを得なかった。

 あたしの背中から、飛膜を張った翼が、そして慌てるあまり、ついうっかり出してしまった尻尾が、何もなかった空間に浮き出る。

 『英雄』の顔が強張る。蹴破られるようにして部屋のドアが開くのと、『英雄』が剣を抜くのは同時だった。


「カリム様! そいつ、サキュバスです!」


 室内に飛び込んできた一人が叫ぶと、『英雄』は一切の迷いなく剣を振るった。あたしはそれを、背中で聞いた。すでに、窓枠から身を乗り出している状態だったからだ。空を切ってうなる剣筋に、冷や汗が流れる。

 転げるように飛び立った瞬間、背後で、窓枠に剣が叩きつけられた。

 肝が縮み、『英雄』を振り返りたくなってしまう。その気持ちをぐっと抑えて、あたしは最初に降り立った森に向かって一目散に飛んだ。

 地上の人間どもが、空飛ぶ女の裸に、興奮したような声を上げている。それを聞いて、服を忘れてきたことに気付いた。

 苛立ちを、ため息と一緒に吐き出す。

 どこかで調達して帰ればいいだけの話さ。腹いせに、一人ぐらい食べておきたい気分だし。




 屋敷に帰る頃には、辺りはもう真っ暗になっていた。

 バルコニーに直接降り立つと、その場にいたヒヨスちゃんは、顎が外れるんじゃないかと思うぐらいの大口を開いた。


「サルビアが男装してる!」


 行きと格好が違うことに、そこまで驚くか。ヒヨスちゃんの大声に、あたしの方がびっくりしてしまった。


「ちょっと事情があってねえ」

「男装!」


 男装、男装、とヒヨスちゃんが騒ぎまくるものだから、何事か、と旦那もバルコニーに様子を見に来る。旦那はあたしを目にすると、ちょっと足を止めた。それからすぐ、気遣わしげに寄ってきた。


「俺が選んだ服は気に食わなかったか?」

「そうじゃないんだよ。デルフィの旦那、不味いことになった。『英雄』が誘惑に乗らなかったんだよ」


 瞬きを一つして、旦那は目を細めた。


「気に食わなかったのは『英雄』の方か……」


 ん? と思ったが口を出さずにいると、旦那は何やらぶつぶつ言いながら悩み始める。


「その線は考えなかったな。俺は、男なんて抱いたことないんだが……いや、待てよ。抱く側になると決まったわけじゃない。俺が抱かれる側になる可能性だってあるわけだ。……うわ、絶対に嫌だな、無理」

「んん? 旦那、なにか勘違いしてないかい?」

「いや、だって、お前が男装して帰ってきたってことは、そういうことだろう?」


 あたしが男装しているのは、服を奪った相手が男だったからだ。旦那のように、女から服を剥ぎ取ることはできないから、仕方なく、男の格好をしているのだ。


「そういうことって、どういうことだい?」

「サキュバスのお前が誘惑できなかったんだから、その、つまり……」


 なぜか、そこで言い淀む。頬を赤くして恥ずかしがる旦那なんて、とても珍しい。よく分からないが、得した気分になった。


「『英雄』は、同性愛者なのだろう……? 俺、俺は、まったく誘惑できる自信がないのだが……」


 目に涙さえ浮かべそうになっている旦那の後ろで、真に受けたヒヨスちゃんがドン引きしている。

 とりあえずこの晩は、二人の盛大な誤解を解くために費やすこととなった。

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