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予知夢から始まる英雄譚  作者: 鴉山 九郎
【6章 蠱惑の導きは傲慢の果てに】
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2.天国へ帰るエクスタシー

 犬獣人の女から搾り取れる生気がなくなると、旦那様は新たな獲物を屋敷に連れ込みました。カリンダという名の有翼人の女でした。女は、旦那様と遭遇した時点ですでに消耗していたといいます。

 仲間と合流することができた、と思い込んだのでしょう。旦那様の姿を見るなり、女は安堵の表情を浮かべて気絶してしまったそうです。

 大方どこからか遁走してきたのだろう、というのが旦那様の推測です。珍しい拾い物だと笑っていました。


 屋敷に足を踏み入れた獲物は、二度と、正気で外には出られません。屋敷中に漂う色香は淫魔による魔術。術の渦中に飛び込んだ虫は、次第に正常な判断ができなくなっていくのです。

 でも、たまに。ごくわずかですが、強気を保てる者が現れます。

 今回、旦那様が連れてきたのが、それでした。

 一眠りから覚めるなり、己の現状を正しく理解したらしく、ここから出せ、と騒ぎ始めました。今は、普段なら鍵などしない部屋に鍵をかけて、女を閉じ込めてあります。

 普通なら、すでに逃亡する気など失くしている頃合いです。それどころか、一生ここに住まわせてほしいと懇願していてもおかしくありません。ここは、そういう幻術が人を侵食していく場所ですから。

 今日も朝から独房と化した一室はうるさく、ヒヨス様も辟易としていました。できれば、早く旦那様が帰ってきて、あの女を黙らせてほしいものです。そんなふうにやきもきしていると、わたくしの思いが伝わったかのように旦那様が帰ってきました。

 屋敷の玄関に現れた旦那様を、わたくしはごく落ち着いた風を装って、出迎えます。


「おかえりなさいませ、旦那様」

「腹が減った」

「お食事の準備が整っております……とは、言えませんね」

「久しぶりに気骨のある奴が相手か。いいな、俺が直々に調理してやる」


 旦那様の品の良い顔に、インキュバスの片鱗が見え隠れする笑みが浮かびました。それで安心を覚えてしまうのですから、わたくしも随分と旦那様を信頼しているものです。


 女を閉じ込めてある部屋に案内すると、旦那様は相手に声を発する間も与えず、さっさと手篭めにしてしまいました。その手際の良さには感服するばかりです。

 ただ、獲物である有翼人の女の目からは、強い光が失われていませんでした。ぐったりとして体は動かないようですが、口からは罵倒の言葉が休まることがありません。


「この糞虫がッ! いつまでもこんなことが続けられると思うなよ! 絶対に! 地獄に落としてやるッ!」

「威勢がいいですね」

「イキも良いな。絶品だ」


 旦那様は唇をなめて、満足げです。

 あれと渡り合えている旦那様が、ちょっと信じられません。わたくしはできるだけ危害を被らないよう、ベッドから離れた、扉の近くに待機していました。


「必ず、仲間が私を助けに来る! そうなったら、お前達なんて一網打尽だ!」

「……。そういえば、旦那様。今日は何を見てこられたのですか?」


 有翼人は妙に勝ち誇った顔をしておりました。内心のせせら笑いを表に出さないように努めて、わたくしはこの状況で日常会話を持ち出します。

 意図を察した旦那様は、わたくしとは反対に、あざけるような笑いを隠そうともしません。


「この乱世の情勢をな。まったく、番狂わせもいいところだ。少し前まで影も形もなかった人間の勢いが著しい」

「『英雄』と呼ばれる大層な人間がいるそうですね。つい最近は、有翼人の幹部を討ち取る快挙を成し遂げたとか」

「そうらしいな。たしか……、こんな感じだ」


 旦那様は自分の姿をいじり、普段とは雰囲気の違う有翼人に成りすましました。ただ完全には納得できていないようで、不服そうに顔をしかめています。


「う、嘘だ」


 青ざめた顔で呟いたのは、有翼人の女でした。見開いた目は夜空を映し、その中に散りばめられた星が、瞬くように震えます。


「ああ、顔はあまりじろじろ見るな。その……な、あまり、直視したい状態じゃなかったからな。自分でも不出来なのは分かっている。ま、雰囲気としては合ってるだろ」


 これまで騒がしかったのが嘘のように、室内が一瞬静かになりました。と、次の瞬間、破裂したように女が叫びだしました。ただそれは、先ほどとは種類の違う金切り声でした。


「アーノルド様が死ぬわけない! アラベラ様を残して死ぬなんて、そんな不誠実なこと、あの方がなさるわけない!」

「すごい信頼の仕方だな。だが、死んだのは確かだ。今日、この目で見てきたが……人間もひどいことをしやがる。そのアーノルドさんは、磔になって晒されていたよ」

「嘘だ! お前達の言うことなんて、信じるものか!」


 女は必死に否定しますが、残念ながら本当のことのようです。旦那様の顔が、わずかに曇っていましたから。

 別に、その磔になったという有翼人を同情しているわけではないと思います。ただ、旦那様を含めて、この屋敷で暮らすサキュバスとインキュバスは、血を見るのが苦手なのです。きっと、今日はむごい光景を見てしまったのでしょう。

 女とて、『英雄』という存在を耳に入れていたからこそ、こんなにも必死なのでしょう。もし本当に嘘だと決めつけているなら、鼻で笑って流せばいいのですから。


「お前達は嘘吐きだ! 姿から何から何まで嘘まみれの、クズ共め!」


 ぴくりと、心外そうに旦那様の眉が上がります。


「嘘吐きだと? 俺は本当のことしか言っていないし、それを言うなら、有翼人の方が堂々と嘘を吐いているじゃないか」


 女はしわになるほど強く、シーツを掴みました。


「千年帝国なんて言っているが、あれが滅んだのは帝国の誕生から987年目だ」

「四捨五入すれば千年だ!」


 ふっと女の肩の力が抜けます。あまりにもどうでもいいことを指摘され、安堵しているのが見え見えです。でも、噛みつくのは忘れていません。

 旦那様は頷きました。


「九八七年帝国なんて、言いにくいしな。見栄を張って千年にしたんだろう」

「ゴミ屑以下の淫魔共があんなことしなければ、帝国は確実に千年繁栄したんだ。お前達のせいだ。お前達は世の害になることしかしない。今のこの戦乱だって、引き起こしたのはお前達なんだろう!」

「はは、始まったよ。有翼人らしい思考だな」


 旦那様の、目元の笑みだけが、すっとなくなりました。

 こちらとしては、うんざりなのです。それこそ、千年近く前の出来事(正確に言えば、792年前です。これだって、大きく四捨五入すれば千年です)を持ち出してごちゃごちゃ言われても、知ったことではありません。

 “お前達”と一緒くたにされるのも、いったいどの範囲までなのでしょうか。女は、サキュバスとインキュバス全体を指しているように聞こえます。ですが、わたくしが仲間意識を持っているのは、せいぜいこの屋敷に住んでいる者まで。旦那様と、ヒヨス様だけです。

 有翼人と違って、“わたくし達”は全体としての仲間意識はないに等しいと言えます。


「有翼人に言わせれば、すべての悪いことは我々のせいになる。帝国が滅んだのは淫魔のせい。仲間割れをするのも淫魔のせい。戦争が起こるのも淫魔のせい。犯罪に手を染めるのも。欲に溺れるのも。人を陥れるのも。疫病が流行るのも! 凶作になるのも! 天災が起こるのも! 全部、淫魔に責任があると!」


 旦那様は興奮したようにまくしたてました。


「誰かのせいにするのは気が楽だろうな。自分に浅ましい感情はないと、そう思い込める。そんなものは、植え付けられたものだから、本当の自分じゃないと思えるのだろう。……だが、そんなわけがないんだ」

「お前達が煽るから——」

「もとからないものを、どう煽るんだ? 俺達は余計なものを省いて、本性をむき出しにさせるだけだ。現れたものこそ、本心なんだ。人は、もとから醜いんだよ」


 ぶわりと、女の羽根が逆立ちます。全身全霊で、彼女は言われたことを拒否しようとしていました。


「お前の話す声を聞くだけで虫酸が走る。この、万年発情期の淫売共が……! お前達の脳みそは下半身に詰まっているんだ! 欲情しかない下等生物共め!」


 この後も続く罵倒の数々。バリエーションが豊富過ぎて、常に人を貶す言葉を考えているのではないか、と思うぐらい、舌が滑らかでした。発声もまた良くて、腹が立ちます。

 最初は薄ら笑いで聞いていた旦那様も、終いにはこめかみに青筋を浮かべました。


「はは、面白いことを言う。お前は根本的な勘違いをしているぞ。獲物を前にした淫魔に、性欲はない。あるのは、食欲だけだ」

「うるさい! この変態——」

「俺の言うことが分からないなら、てめえの方が変態だ。お前は、肉を食べる時に、牛や豚に欲情するのか?」


 さっと女は口をつぐみました。旦那様の視線に籠もるのが、いやらしいものではないと、ようやく気付いたのでしょう。言うなれば、肉屋の前で品定めをしているような目なのです。

 旦那様は冷たい声で続けます。


「お前は仲間の助けを期待していたが、それは無理だろうな。幹部の一人を失ったと知るや、有翼人共は雲隠れしやがった。やばいもんに障った、って直感したんだろう」


 おや、外は雲でも出てきたのでしょうか。女の目の中で、かすかに輝いていた星々が光を失いました。

 その瞬間、女は堕ちたも同然でした。なのに、自分ではまだ気付いていないようです。震える声で、なおも抗おうとしています。


「か、体が屈しようと、心までは屈しない。負けるものか……」

「心? 心だって?」


 旦那様は心底嫌そうに眉をひそめました。


「そんなもの、いらねえよ。そのうち自分から差し出すだろうが、頼まれたって貰いたくないね。こっちから願い下げだ。……俺が欲しいのはただ一つ、お前の生気さ」


 身も心も差し出す、なんてよく言いますが、こちらとしては身だけで結構なのです。心なんて厄介なものを押しつけられたら、たまりません。

 異常な状況下で精神が錯乱するのか、それとも、生物としての一種の防衛本能なのでしょうか。屋敷に連れ込まれた獲物は、そのうちに、わたくし達に恋慕のような情を抱くのです。

 獲物が従順になってくれるので、それ自体は便利といえば便利なのですが……。愛してるだの好きだの囁かれると、この女の言葉を借りるわけではありませんが——虫酸が走ります。

 これがきっと、生理的な嫌悪というやつなのでしょう。

 女を追いつめた旦那様は、生き生きとしていました。相手の精神が弱っているのを嗅ぎ取って、旦那様は最後の仕上げにかかります。


「現実なんざ忘れさせてやるさ。苦い現実よりも甘い夢。だろ、カリンダ? んじゃ、まあ、第二ラウンドいってみよーか」

「い、いやだ。帰りたい。空に帰りたい……!」

「安心しな。ぶっ飛ばしてやるよ、天国にな」


 有翼人の女は身をよじって逃げようとします。それを、旦那様は馴染みの姿に戻りながら、捕らえました。

 かつての上司の姿で迫るのは、さすがに女が可哀想ですから。なんて、旦那様にそんな、一抹の情けをかけるような優しさがあるはずありません。

 だから単純に、その姿のままだと、女の生気が萎縮して食べ辛かったのでしょう。

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