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予知夢から始まる英雄譚  作者: 鴉山 九郎
【1章 暴食の宴は蛛網の円卓にて】
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2.珍味は惑わす

 二ヶ月ぶりの我が家の匂いを、思いっきり吸い込む。つんと冷えた冬の空気が肺を満たす。遠征でここを出る時には、まだ秋の色を残していたラヌート山も、今はすっかり葉を落として裸の枝をさらしている。

 足を動かすたび、落ち葉が乾いた音を立てた。居住区は冬籠もりのために、枝と枝の間を隙間なく埋めたアラクネの糸により、巨大な繭のような外観になっていた。

 出入り口は、アラクネ一人が通り抜けできるぐらいの穴が東西南北に一つずつ、計四つしかない。

 わたしがそのうちの一つ、西の穴から居住区に入ると、黒い影が襲いかかってきた。ここ最近は戦闘漬けの日々だったから、とっさに反撃の方法が五つほど頭に浮かぶ。そのうちの最善と思われる反撃を行動に移す前に、わたしは思いとどまった。

 ここは世界で一番安全な我が家ではないか。

 つまり、胸に飛び込んできたのはわたしの姉妹で、かけてくる言葉は一つだ。


「おかえり、ソフィー!」

「ただいま、ルーシィ。ちょ、……ちょっと、胸が苦しいんだけど」


 これがルーシィではなかったら、やはり攻撃を受けたのだと再判断して撃退しているところだ。

 ルーシィはにこにこ笑顔でわたしから離れる。肩の上で二つ結びにした髪がゆれた。


「ごめんね、久しぶりに会えて嬉しくなっちゃって。聞きたい話もあるし、見せたいものもあるの! ね、今からソフィーの部屋に行こ?」


 こちらが承諾する前に、腕を引っ張られてどんどん先へと進んでいってしまう。人懐っこさのためだろうか、ちょっと強引でもルーシィのすることなら許せてしまう。これが他の姉妹なら、気安く触らないで、と腕を払いのけているところだ。

 居住区はアラクネの糸で天井が作られているため、昼でも夜のように暗い。それなのに、多くのアラクネが火を怖がるためか、街灯やランタンといったものは身近に置かない。居住区を進むわたしたちを照らすのは、立ち枯れた木々にこびりつく光る苔だ。その独特の光源が作り出す、大人びた雰囲気をわたしは気に入っていた。

 ようやくわたしの居室に辿りつくと、ルーシィはぱっと手を離した。


「さて、じゃあ、ソフィーに渡したいものがあります!」

「頑張ってきたわたしへのご褒美?」

「そんなところ!」


 えへへ、と照れ笑いをしてルーシィは肩掛け鞄を探り始める。

 ルーシィがわざわざこの奥まったわたしの部屋を選んだのは、これから渡すものを他の人に見られたくないからだろう。ここなら、誰も近づきたがらないから。

 ルーシィは肩掛け鞄から、なにやら白い布の塊のようなものを取り出して、それをほんの少し躊躇したように見つめた後、思い切りをつけてわたしに押し付けた。

 その動作に面食らったが、とりあえず受け取ったものを広げてみる。思わず息をのむと、ルーシィの八つ目が不安げな上目遣いになった。


「これは……服? それも、アラクネの糸で作られた? いったいどうやって……」


 光沢のある白地の服。蜘蛛の巣をあしらっているのだろう細かな模様が、丁寧に縫われている。引き寄せられるようになでた布地は、さらさらと指がすべり、粘つきはない。だが、光にかざすときらめく様は、どう見ても、どう考えても、素材がアラクネの糸であることを示している。

 サイズはわたしに合わせてあるらしく、かなり細いシルエットだった。


「気に入ってくれた?」


 ルーシィの問いかけに、一瞬言葉を返せなかった。

 気に入るとか気に入らないとか、そういう次元の話ではない。


「そうね、個人的な感想を述べるなら、すごく素晴らしいものだと思うわ。こんなものを、どうやって手に入れたかはすごく気になるところだけど」

「ほんと? よかった! それね、あたしが作ったんだよ。あたしの糸で!」

「ルーシィの?」


 ますます困惑するほかない。

 こちらの困惑をよそに、ルーシィは本当に嬉しそうだった。

 アラクネの糸から、その特有の粘着性を取り除くことは不可能だと思っていた。というより、これまでそんな代物は見たことがないし、聞いたこともない。それができるなら、アラクネは皆、自分の糸で衣服を作るだろう。今わたしが着ているような毛皮なんて必要ないはずだ。

 いや、それは言い過ぎか。ラヌート山の冬は寒いし。でも、ルーシィが作ったという服を触った感じ、薄いわりに防寒にも優れていそうだった。

 ルーシィはいったいどんな技術を使ったのやら。探求心に満ちているのは結構だが、危ないことには手を出してほしくない。もし彼女が、わたしと同じように、魔法なんかに手を染めているとしたら、それは褒められたことではない。


「それでね、あたし、ソフィーにどうしても聞きたいことがあって」

「あら、これはご機嫌取りのつもりだったの?」

「ち、違うよ」

「ふふ、大丈夫。わかってるわ」


 わたしの意地悪に慌てるルーシィが可笑しかった。


「もう、意地悪しないでよ。それで、その……外の世界ってどんな感じだった?」


 随分と漠然とした問いかけをされてしまった。

 でも、ルーシィの目は必死だし、下手な受け答えはできない。そもそも、アラクネが自分の生まれ育った山を離れることなんて、滅多にないのだから、自分が目にしていない世界というだけで変な期待をしてしまうのかもしれない。

 わたしも、山を下りて二ヶ月間も遠征したのは初めてのことだった。ママが一緒だったし、小さくても我が家であるラヌート山は常に見える距離にあったから、平静を保つことができたけど。


「そうね、悪意の蔓延するとんでもない場所だったわ。今回でリザードマンは滅んだし、これで少しはまともな世界になるといいけどね」


 先に手を出してきたのはリザードマンの方だった。奴らは戦乱の初期から、獣人の国——ベスティニア皇国とやりあっていて、獣人共を殺せるなら他がどうなってもいいと考えるような連中だった。いや、むしろ進んで犠牲になるべき、とすら考えていたもしれない。

 ラヌート山を戦略的に使える土地だと判断したかどうか知らないが、とにかく、奴らは二年前のある時、この地に攻め入ってきた。抗戦にでた姉たちと、マザー・ヴェールピナスの力もあって、その時はトカゲ共を追い返すことができた。しかし、何人かの姉が——ママからすれば娘たちが、死んでしまい、わたしたちの母は怒り狂った。

 その時のマザー・ヴェールピナスの激怒のしようは、今思い出しても身震いする。わたしたちには優しくて、決して危害を加える存在ではないとわかっているのに、恐れてしまうほどだった。

 それからというもの、ママは平地への進出に積極的になった。この大地をアラクネのものにすれば、娘たちが不当に死ぬこともない。襲われる前に襲えという発想だ。

 そして手始めに報復として、対リザードマンの戦闘が繰り広げられることになった。今回の遠征は、畳み掛け、最後の仕上げだ。リザードマンが苦手とする、沼も凍りつくような冬にわざわざ攻撃を仕掛け、彼らの宗国を滅ぼした。

 リザードマンのことがなくても、ちょっと外を歩けば悪漢に出会うことは、サテュロスが証明してくれた。やはり外の世界は危険だ。庇護のない女子供が出歩ける場所ではない。


「うーん、そういうことじゃなくてね……」


 わたしの答えが不満だったのか、ルーシィは苦笑いした。


「あたしが聞きたいのは、こう、感動したものとか」

「感動したもの」

「感激したものとか」


 どちらもそんなに変わらない。


「たとえば? 例をあげてみなさいよ、ルーシィ」

「うん、たとえば。たとえばね、山では見られないような景色とか」


 リザードマンの死体が浮かぶ沼は、たしかにこのラヌート山では見られないだろう。感動するかは微妙なところだが、ママが作り出したものだと思えば、感激できなくもない。

 わたしの表情になにを考えているか悟ったのか、ルーシィが顔の前で手を振る。


「あのね、あたしが言いたいのは、きれいなもののこと! 山では咲かない花とか、ここまで飛んでこない鳥とか。そういうもの、ソフィーはいっぱい見れたのでしょう?」

「ルーシィ、わたしたちは観光をしに行ったわけではないのよ」

「うん、わかってる。でも、あたしはそれが羨ましいの。今まで知らなかったものを、この目で見られたら、きっと感激しちゃう」


 うっとりとルーシィは語る。現実を見ていないからこそ、語れる内容だ。

 実際は、始終ぴりぴりとした環境に身を置いていたから、そんなものがあったとしても目を向ける余裕がなかった。


「ごめんなさいね。わたしにはそういう目の付け所はなかったわ」

「八つも目があるのに?」

「この目は、ママとルーシィを見ることだけに特化しているの」

「じゃあ、ソフィーに隠し事はできないね」


 本気だと思われなかったのか、笑われてしまった。


「不甲斐ない姉を許してね。じゃあ、今度はルーシィの話をしましょう。わたしたちが留守の間、なにか面白いことはあった?」

「そりゃあ、もう、毎日がたのし——あっ、違うんだよ、ソフィー」


 失言したとばかりにルーシィは口に手を当てる。だが、その仕草は冗談めいていて、これがまだ軽口の類であることがわかる。

 ルーシィはくすくす笑いながら続けた。


「叱る人がいないから、気が楽だったのはたしか。でも、やっぱり寂しかったよ」

「わたし、そんなに怒っているかしら」

「あたしの周り、すっごく静かだったもん。……でね、退屈になっちゃって。ちょっと普段は行かないような場所まで行ってみたの」


 ルーシィは声を潜めた。小さい頃、二人だけの秘密を作る時によくやったように、彼女はわたしにだけ、ひっそりと教えてくれる。


「罠を仕掛けてある地帯があるでしょう? あたし、罠を作っていても、自分の罠に獲物がかかっているところを実際に見たことがなくて」

「この期に見ようと思った?」

「うん」


 ルーシィは食料調達係、それも獲物を捕らえるための罠作りを専門に任されている。罠にかかった獲物の回収は、また別の者がやる。だから、ルーシィが罠にかかった獲物を実際に目にしたことがない、というのは当然だった。

 捕らえられた時点では、大抵の獲物に息がある。大人しくしていたら食われてしまう、だから獲物は大いに暴れる。そうすることで体に巻きつく糸が切れることを望んで。

 それは絶対に無理な願いなのだけど、人というのはそう簡単に諦めがつくものではない。必死に生きようとするのは大切なことだ、うん。

 向こうはまさに死に物狂いだ。無駄な足掻きで、こちらが怪我を負う危険性も大いにある。

 そんな場所に、罠作りの大事な担い手であるルーシィを連れて行くわけにはいかなかった。ほかの姉妹はいくらでも替えがきくが、彼女の代わりはいない。

 ルーシィが作る罠は網目が細かく、他の姉妹が作った罠よりも多くの獲物がかかる。彼女が施す繊細な作業には他の姉妹も一目置いており、もちろん、ママの覚えもいい。

 それが理由か、ルーシィの蜘蛛に似た胴体には、蜘蛛の巣にかかった蝶のボディペイントが施されている。なんでも最初は、本人は蝶だけを描いたらしいのだが、わたしと同じように姉たちがあとで勝手に描き足してしまったらしい。

 わたしと違うのは、ルーシィはそれを不満に思っていることだ。わたしは、らしくて良いと思っているのだけど。


「またそんな危険なことをして……。なんでおまえがそこに行くことを禁止されているか、わかってる? だいたい——」

「で、でも、ほら。この通り。怪我なんて一つもしてないし! ソフィーが心配するようなことはなにもなかったよ!」

「そうね、今回はね。でも、次もそうだとは限らないのよ」

「も、もう。次があるみたいな言い方しないでよ」

「そう? ならいいけど」


 絶対に次もやる。わたしにはわかる。

 わずかに動揺したルーシィだったが、わたしが手に持ったままの衣服に目を向けると、落ち着きを取り戻した。


「そしたらね、ちょうどいい感じに人間の男が捕まってたんだ」

「それってどれくらい前の話? まだ残ってる? わたし今、すっごく、人間をご馳走になりたい気分なんだけど」


 人間の肉の味を、脳が勝手に思い起こす。ありもしない肉を、舌が転がす。いけない、よだれが出てきた。


「人間は下処理が楽でいいわよね。獣人やリザードマンと違って」

「あー……ごめん。最初は人間だと思ったんだけど、実際は違ったの」

「どういうこと?」

「らいかんすろーぷ……? って言ってたかな。自分のことを、人間と獣人のハーフだって言ってた」


 ルーシィが説明するには、そのライカンスロープというのは人間と獣人の混血児で、自分の任意でどちらの人種の姿にも変わることができるのだそうだ。さらには人の姿を捨てて、完全な獣に変身もできるという。

 異なる人種の血が交わることで、新たな人種が誕生する。その可能性に、『バフォメット』の理念が脳裏をかすめた。奴らが求めていたのはそういうことなのかもしれない。

 わたしが険しい顔をしていたのだろうか。ルーシィが怯んだように言葉を止めていた。

 とりあえず今は、奴らの汚らわしい思想を思考から締め出す。


「珍しい獲物がかかっていたのね。扱い方は人間、獣人、その他獣って感じで変わらなさそうだけど。それで、味はどうだった? 今までとは違う感じ?」

「えっとね、そのことなんだけど……。食べられていないっていうか」

「ああ、毒味は大切よね。初めてのものなんだから。そこはちゃんとほかの姉妹にやらせたのね、偉いわ」

「そういうことじゃなくて……。もうここにはないっていうか、いないの。逃げたから」

「逃げた?」

「正確には、逃がした、だけど」


 言っている意味を正確に理解するのに、七秒かかった。普段のわたしはそんなに馬鹿じゃないのに。


「逃がした? 誰が? どこの愚か者がそんな真似を?」

「あたしが逃がしたの。助けてくれないかって言われて、それで——」

「おまえは救いようのない馬鹿ね。どこの世界に、懇願されてみすみす獲物を逃がすような捕食者がいるのよ。ああ、言わなくていいわよ。知ってる。ここにいるのよね」


 お人好しも度が過ぎれば惨事を引き起こす。ルーシィの擦れていない性格は好ましいものだったが、まさかこんな真似をやらかすとは思っていなかった。

 頭が痛くなり、こめかみに手を当てる。

 ルーシィがなおも弁解しようとするのが、余計に悩ましい。


「ただで逃がしたわけじゃないし!」

「そう。腕の一本や二本、置いていってくれた? 少量の肉を得るために本体を生かすなんて、阿呆みたいだけど」


 再生する奴なら別だ。だが残念ながら、そんな生物にはお目にかかったことがない。


「裁縫を教えてくれたの! それと、アラクネの糸できれいな織物を作る方法を!」


 ルーシィは早口にまくしたてた。

 曰く、アラクネの糸は適切な処置を施せば、その特有の粘つきを取り除くことができるとか。今回は道具が足りなくてできなかったけど、草木の汁を使って色染めできるとか。着る人に合わせた意匠の凝らし方とか。その男について行けば、さらなる技術を教えてくれるとか。

 ……最後、なんと言った?


「ねえ、ルーシィ。まさか、その男の言葉を間に受けているわけじゃないでしょうね」

「でも、その人の言った通りにしたら、本当に服を作れたんだもの」


 思わず手に力を込めれば、ルーシィから貰った服にくしゃりとしわが寄った。

 彼女がわたしのことを思って作った代物だ、できれば大事に扱いたい。けど、それがどんな過程で作られたものか知ると、途端に沸き立つものがあった。

 よそ者のお節介野郎。顔も知らない男を、内心で罵る。余計なことをわたしの可愛い妹に吹き込みやがって。


「そいつがそもそもなんでこの山に来たか、おまえはわかってるの?」

「え?」

「金に目が眩んだからよ。わたしたちはそういう噂を、外に流しているの。罠はなにも、おまえが作る網だけではないのよ」


 こんな人里離れた山に、なにもないなら人はわざわざ入ってなんかこない。だから、わたしたちは宝の噂を流す。

 金銀財宝なんていういかにも嘘っぽい話ではなく、この山にしか自生しない貴重な薬草だとか、水脈を掘り当てる獣だとか、毒を察知する鳥だとか。それっぽい噂を。

 全部が全部、嘘だとは言わない。実際、山に繁殖する幾種類もの植物の中には、そういう効果があるものもあるだろう。知られていないだけで。

 とにかく、それらを国に持ち帰ったら一攫千金間違いなし、一夜にして富豪に成り上がれる。人はそれを夢見て、この山にやって来るのだ。同時に人喰い人種の噂を耳にしても、己の冒険譚が盛り上がる、としか考えない能無しが、わたしたちの腹の足しとなる。


「彼はそんな人じゃないよ。最初から、アラクネの糸が目当てだったの。彼、仕立屋さんで働いているらしくて、あたしたちの糸を素材に使えないか、ずっと前から思ってたって」

「ああ、それは盲点だったわね。たしかに見ようによっては、アラクネの糸も金のなる木だわ。これだけ軽くて強靭な素材もなかなかないでしょうね」

「そんなんじゃないよ」

「外の世界は策略と策謀に溢れているの。いたいけで純粋なおまえを取り込もうとした男と同じような汚物が、そこかしこにいる」


 彼女が純粋でいられるのも、ここがママの庇護下にあるからだ。信じて男についていったが最後、彼女は絶望を知るだろう。

 そんなことも知らず、ルーシィはむっと頬を強張らせた。八つの目に反抗心がありありと浮かんでいる。


「実際に会いもしていない人のことを、よくそこまで断言できるね」

「おまえは外の世界を知らないから、そんなことを言えるのよ。まともじゃない世界から来た奴が、まともなわけないでしょう」

「彼はそんな人じゃない! ソフィーは会ってないからわかんないんだよ!」


 反抗心は怒気へと変わり、八つの目が吊り上がる。

 ルーシィにそんなふうに睨まれる日が来るなんて。たぶん、四ヶ月ぶりだ。悲しい。だがそれ以上に、ルーシィがその男を信じてしまっているのが悲しい。

 自分が騙されているとも知らないで。可哀想に。


「ルーシィ、おまえ、その男に会ったのは一度だけではないね。罠から逃がされた身でありながら、何度もおまえのもとを訪れたのだろう」

「それは、その人の知識を教えてもらうために——」

「そいつはおまえにどんな話をしたの。世間知らずなお嬢さんに夢見させるぐらいには、素敵なお外の世界を教えてくれたのかしら」


 ルーシィは口をつぐんだ。

 その失望が、わたしにではなく男に向けられたものならよかったのに。


「……それで、おまえはどうしたいの。一番重要なおまえの気持ちは?」


 こんな話をする時点で、結論は知れたもの。でも、聞かないことには始まらない。


「あたしは、人を幸せにするものを作りたい」


 ぼそりと、けれどはっきりと、ルーシィが答えた。抽象的な物言いだが、彼女の意志は伝わってくる。


「罠作りは人を幸せにしないと、そう言いたいわけね。おまえの姉さんや妹は、ごはんが手に入って喜んでいるけど」

「人の命を絡め取るものが、幸福を作るわけないじゃない」

「ふうん。なら、おまえはその男の言う通りについて行って、どこかに閉じ込められて、ただ糸を生成するだけの存在になっても、満足ってわけだ」


 アラクネの糸だけが目当てなら、約束通りに男が彼女に技術を教えてやる必要もない。その事実を突きつけると、ルーシィの目は驚愕に見開かれた。


「それで、ママに褒めてもらう以上の満足を! 得られるってわけね! その方がよっぽど幸せを感じるんだね、ルーシィは!」


 わたしにはママに褒めてもらう以上の栄誉は存在しないけど、彼女はそうじゃないのだろう。酔狂なことだけど、ただ糸を吐き出し続けるだけの人生の方が魅力的に映るらしい。姉妹に喜んでもらうより、男の金儲けに使われる方が幸せらしい。

 話しているのも馬鹿馬鹿しくなって、どうしようもなく悲しくなってくる。

 ルーシィに背を向けて、わたしは持っていたままだった服を、部屋の隅の木のうろに向かって投げ捨てた。本当は引き裂いてしまいたかったけど、それは彼女が込めたわたしへの思いまで引き裂く気がして、できなかった。


「……それでも、それでもあたしは外に行きたいの……お姉ちゃん」


 背後から、か細い声が聞こえてくる。

 頼りにされている、そのことが今は忌々しかった。


「……こんな時だけ、姉扱いしないでよ」


 自分でも思っていた以上に低い声が出た。それに、こんなことを言いたかったわけじゃない。案の定、ルーシィの戸惑った雰囲気が伝わってくる。

 けど、一度胸の内をこぼしてしまうと、あとからあとから思いが溢れてくる。

 気づいたら、強い口調で言い募っていた。


「普段は名前で呼ぶくせに、こんな時だけ——おねだりしたい時だけ“お姉ちゃん”なんて言って! わたしを惑わすなって言いたいの! お前のそれは計算なの? 天然なの? どちらにしろ、たちが悪いわ!」

「……なにそれ」


 抑えつけたように震えた声が返ってくる。

 泣かせてしまったかと思った。けど、気まずく思いながら振り返って見た彼女は、思っていた以上にふてぶてしい顔をしていた。

 震えている唇はけっして、悲しみによるものではなくて。頬が徐々に紅潮していく。


「なにかと姉面するくせに、本当に必要としている時には頼っちゃ駄目なんだ。自分の都合のいい時だけ姉でいようなんて、虫が良すぎるんじゃない?」


 大きく息を吸い込んでルーシィは言い放つ。


「同時期に生まれた三十二個の卵のうちの一つだったんだから、孵った順番なんて誤差みたいなものじゃない!」


 呼吸が乱れた。

 わたしはルーシィよりほんの少しだけ早く、殻を破って世界に生まれ出た。だから、姉として振舞ってきた。だが、ルーシィはそうは思っていなかった。そういうことなのだろう。単純にして明快な答えを、今になって見い出してしまった。

 ひくりと口の端が引きつる。


「じゃあ、おまえはなぜ相談事をわたしに持ってきたの? わたしは頼れる“姉”ではないのでしょう?」

「そんなの、同期のよしみに決まってるじゃない! 他よりも理解があるだろうって期待したの! 期待はずれだったけどね」


 相手がわたしだから、まだ言葉だけで済んでいるのだ。これがほかの姉なら、ルーシィは引っぱたかれていてもおかしくない。いやむしろ、引っぱたかれて当然の手合いだ、こんなの。

 そもそも相手が肯定するとしか考えていないなら、相談なんかするべきではないのだ。結論は最初から自分の中にあるくせに、なにが相談だ。それこそ、皿の上に乗った獲物にでも話していろと言いたい。彼らなら、狂ったように首を縦に振ってくれるだろう。


「そんな大口を叩けるなら、誰にも言わずそれを実行してみせなさいな! ほら、無理でしょう? 無理に決まっているわよね! マザーのもとを離れたアラクネが、一人で生きていけるわけないんだから!」


 ルーシィは答えなかった。最後に一睨みすると、わたしの部屋を走り去っていく。

 急に訪れた静寂に、先ほどまでの怒鳴り合いが反響しているようだった。実際はそんなことないのだけど、わたしの頭の中をわんわんと、言われたこと言ったことが延々と回る。

 服を投げ捨てたうろを見下ろして、息をつく。

 明日。明日、謝ろう。



 *****



 ルーシィはいい子なのだ。

 そんなことは、まだ仕事が与えられず、一日を全力で遊び倒すことが役割だった子供の頃から知っている。

 疲れ果てて眠ってしまうまで、子供の時分は遊ぶことをやめなかった。限度を知らず。適度を知らず。馬鹿みたいなことを繰り返しながら、子供たちは自分の限界を知っていく。

 何ができて、何ができないかを。


『そんなこともできないなんて、あんた本当にアラクネ?』


 ああ、うるさい。うるさいうるさい。もう何年も聞いていなかった嫌味が耳によみがえる。

 そんなことは知っているのよ。自分が一番よくわかっているんだから、わざわざ口に出してもらわなくてもいいわよ。

 わたしがアラクネとして出来損ないだなんてこと、とっくの昔から知っている。


『あの子、糸を吐き出せないんだって』


 ひそひそと、誰かが囁く声がする。これも、遠い昔の音。

 わたしができないことは、アラクネとして致命的だった。もとから体内で生成されていないのか、それとも管が詰まっているのか、尻の先から出るはずの糸が出ない。

 生まれつきだ。ママは不完全に生んでしまってごめんね、なんて言ったけど、姉妹からすればそれはわたしの不備だった。わたし自身、ママを責める気はないから、そう思っている。

 それでも、面と向かって悪口を言ってくる輩には、言い返すことができた。だが、こそこそと陰口を叩く連中にはそうもいかない。表面的には、なにか不便なことはない? なんて人がよさそうな顔をするものだから。

 どいつもこいつも、自分より劣る存在としてわたしを構って、ちっぽけな自尊心を満たしていた。

 ただ一人、能天気な同期をのぞいて。


「ソフィー、一緒に遊ぼう」


 記憶の中で、ルーシィの声だけが鮮明だった。

 わたしが言い返したことでギスギスした空気になったところへやってきては、割り込んで、ルーシィはいつもわたしを連れ出した。

 少し強引に場を切り上げていたけど、それでも彼女が恨まれることはなかった。

 その性格ゆえ、ルーシィは皆から愛されていた。彼女がそこにいるだけで、皆の心に寛容さが生まれた気がする。

 わたしとは大違いだ。ひねくれて、皆の輪を乱すわたしとは。


「糸が出せないなんて、もったいないね」


 初めてわたしの体質を知った時のルーシィは、たしかそう言った。

 それを聞いて、今以上に荒んでいたわたしは、彼女も己の敵かと毛を逆立てた。自分の都合の悪いように曲解して、遠回しに馬鹿にしていると信じた。


「木々の間を飛びまわる楽しさを知らないなんて」


 彼女がそう口にするまでは。

 戸惑うわたしの腰に細腕をまわして、ルーシィはひどくにっこりと笑った。性格の悪い姉たちが浮かべる種類のものではなかったのに、なぜか嫌な予感を抱いたのを覚えている。

 なにをするつもりか問うわたしに、ルーシィは楽しげに答えた。


「あたしたちはね、これから空を飛ぶんだよ!」


 意味がわからない——

 なんて思う隙もなく、文字通り、わたしたちは空を飛んだ。いや、その状況こそ、意味がわからなかった。

 自分の足が地を離れ、視界の隅を飛ぶように緑色の景色が過ぎ去っていった。耳のそばでごうごうと風が鳴り、それ以外の音は——ルーシィの、この状況を思いっきり楽しむ笑い声だけだった。

 ただ、ルーシィが手を離したら、もれなくわたしがぺしゃんこになる事実だけは理解できたので、必死に彼女にしがみついていたと思う。

 ルーシィは木々の枝に自分の尻と繋がったままの糸を巻きつけて、自在に山の中を飛びまわっていた。たった一筋の蜘蛛の糸、それがわたしたちの命綱だった。その命綱は、伸びに伸びると、いとも簡単にぷっつり切れるのだけど。

 ブランコの要領で勢いをつけて、次々と糸をかける枝を変えていく。切れてから次の糸に繋げるまでに、落下の浮遊感を味わう。調子に乗って、その間に宙返りをしてみたり。それが楽しいらしい。意味がワカラナイ。

 最後は大技とばかりに、木々を見下ろすような高さまで放り投げられた。

 ああ、青空に流れる白い雲がきれい。ルーシィの糸が陽に当たって銀色にきらめいている。

 それまで周りの景色を楽しむ余裕なんてなかったわたしは、その時だけ、顔を上に向けていた。おそらく、気絶しかかってたんだと思う。

 今思い返してみると、わたし、実はルーシィにも結構ひどいことをされていた気がする。そこに悪意がないだけで、トラウマを残してくれた分、ほかの姉妹より一段悪質だ。

 ようやく地面に戻ってくると、わたしは土の感触を懐かしむようにへたり込んだ。いや、ただ単に足が震えて立っていられなくなっただけだけど。


「ね、楽しかったでしょ?」


 ルーシィは平然とそう言ってのけた。

 わたしは涙目で彼女を睨みつけて、涙声で彼女をなじった。


「この馬鹿っ! こんなこと、二度とやらない! というか、やるなっ! バカバカ! 馬鹿娘!」


 ルーシィは困ったように笑った後、わたしの頭を抱えて、なだめるように優しくなでた。ママの次に安心できる体温だった。

 皆が腫れ物のようにわたしを扱う中、彼女だけはママと変わらない愛情を向けてきた。

 この存在をなくしてはならない。彼女にふりかかる危険は、わたしが払いのけなければ。そう強い使命感がわいてきて、初めて本当の妹ができた気分になった。

 わたしは彼女だけの姉になろうと、決めたのだ。



 *****



 翌朝、一回り年下の妹にルーシィの居場所を尋ねると、彼女はひどく狼狽した。

 視線はあちこちに飛ばされ、受け答えは要領を得ない。それでもなんとか聞き取れた部分的な内容に、腹の底が冷えた。

 始業の時間をとっくに過ぎているのに、仕事場に姿を現さない。調子でも悪くしているのかと、居室を確かめに行ったら寝床はもぬけのから。今皆が必死になって探しているけど、まだ見つかっていない。麓の付近で彼女の姿を見たなんて目撃情報もあって——

 それ以上は必要なかった。

 自分の血が引けていく音が聞こえるようだった。


「あ、あの、大丈夫……ですか」


 うろたえていた彼女が冷静さを取り戻すほど、今のわたしはひどい顔色をしているらしい。きっと唇なんか真っ青だ。

 大丈夫、と言うために開いた口は、


「冗談を言う相手は選びなさい」


 なんてまったく違うことを声にする。あ、これは大丈夫じゃない。

 ふらりと体が勝手に動く。どこに向かうのだろう。ああ、これは山を下りる方向だな。

 自分のことなのに、いちいち考えないと行動の意図がわからない。

 わたしが心ないことを言ったせいで固まった妹を、そのままにしてきてしまった。礼を言うのも忘れた。あとで謝る時に一緒に言おう。

 じゃないと、感じの悪い姉という噂が、また広まってしまう。その噂が姉たちの耳にまで入ったら、また小言を言われる。それは面倒だ。

 わざとルーシィとは関係のないことを考えながら、わたしは彼女のことを探しに向かった。




 結論から言うと、ルーシィは見つからなかった。

 どうやら、最後に彼女とまともな会話をしたのはわたしらしい。事情を聞くために、わたしはお母様のもとまで引きずられるようにして連れてこられた。

 最初は姉たちが話を聞こうとしたのだが、わたしがあまりにも取り乱していて手に余ったらしく、お母様にまかせることに決めたようだ。


「わたしのせいだ、わたしのせいだ……。もっとちゃんと、優しく諭してあげれば、こんなことには……っ」


 知っている限りの事情を吐き出した後、わたしは泣き崩れた。


「ソフィー、オマエが気に病む必要はありません。あの子は己の意思で愚かな決断をしたのです。オマエが後押しをしたわけでもないでしょう。だから、そんな悲愴な顔をしないで」


 声はいつも通り優しいのに、底に金属のような冷たさを感じた。

 表向きはそう言いながらも、やはりお母様もわたしを責めているのか。胸が締め付けられる思いに駆られながら、涙で歪んだ視界にお母様を入れる。

 予想に反して、わたしを見るお母様の目は慈愛に満ちていた。小さい頃、悪夢を見て泣きべそをかいた時と同じ、子に寄り添う顔をしている。

 なら、あの突き放すような冷たさは誰に向けたものか。

 そこに気づくと、涙は止まり、背筋が寒くなった。


「ルーシィの捜索は、しないの……?」


 思わず、口調が幼くなってしまう。


「愚かな家出娘をこちらから探す必要はありません。自分から出て行った者を、探して見つけ出したとしても、素直には戻らないでしょうからね」


 変わらず優しい声色だった。けど、内容には有無を言わせない響きがあった。

 うつむいたわたしに、ママが近寄ってくる。正面からやわらかく抱きしめられ、背をさすられる。


「ま……ママは、どこにも行かないよね? わたしを見捨てたりしないよね?」

「オマエが良い子でいる限りは、ね」


 髪の毛をすくように、頭をなでられる。

 動揺にまかせて、とても恥ずかしいことを聞いてしまった気がする。けど、いい。どうでもいい。

 ママに甘えられるのなんて久しぶりだから、今は思う存分、甘えていよう。


 わたしは一度、山の麓まで下りた。ルーシィを探そうと決めた時、自然と足が向いた場所だった。

 木々を抜けた先に、開けた大地が広がっている。葉に遮られることのない陽が照っている。夜のように暗い昼ではなく、昼のように明るい昼が、ある。

 この先に、彼女は行ったのだと確信した。

 あと一歩。先を行けば、彼女を追っていける。今ならまだ、間に合うかもしれない。そう思った。けど——

 わたしはその一歩を、踏み出せなかった。

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