2.不審に耳を澄ませろ
城の回廊に出たぼくらは、足音を殺して二人の大人のあとを追った。
二人の背中に集中していたから、城の内装に感動している暇はなかった。あとで大広間まで迷わず戻れるだろうか、なんて不安がちらりとよぎる。けど、曲がり角で二人の姿を見失う恐れに比べたら、なんてことはない。
何度か本当にそうなりかけた時、ラインハルトの目立つ色をしたふっさふさの尻尾は、いい目印になった。
次の曲がり角で、それすら見つけられなかった時は、尾行に失敗したかと思ったけど。
呆然とするぼくをつついて、レパが一つの扉を指さす。その目立たない扉に近づいて、耳を澄ませてみると、中から緊迫した大人たちの会話が聞こえてきた。ゼッル様とラインハルトの声も混じっている。
声を出すわけにはいかないので、ぼくはレパにぐっと親指を立てた。
すると、レパが満足げにごろごろと喉を鳴らしかけたので、すぐに立てた親指を人差し指に変えなければならなかった。レパが両手で自分の首を絞めたところで、ぼくらは中の話し声に集中した。
苛立たしげに歩きまわる足音がまず聞こえた。爪をわざと床に当てているのか、時々、カツ、カツと神経質な音が鳴っている。
「サルク城が陥落し、タズィ公が戦死したまでは分かる。だが、なぜ! 同じ場所でピューマ公も戦死しているのだ!? クーガバーク領主のピューマ公が!」
「ピューマ公はサルクの街に援軍として向かい、そこで人間軍に殺されたのです。タズィ公と共に」
「なぜ、そんな勝手なことを! しかも共倒れするような真似をしおって! ええい、奴はいったい何を考えておったのだ!? 先のことも見通せんのか!」
この吼えるような声は、アリオク閣下のものだ。
大広間で出していた声はぼくらの体を芯から響かせたけど、今は部屋の調度品を震わせているらしい。不安定に積み上げた食器を運んだ時のような、カタカタという小刻みな音が鳴っている。
激昂するアリオク閣下に、誰も答えなかった。
しばらくして聞こえてきたのは、ラインハルトのきんとした声だった。
「ピューマ公は、旧友であるタズィ公を見捨てられなかったのでしょう」
数秒の沈黙のあと、ラインハルトは失笑をまじえて続けた。沈黙は笑いをこらえようとした時間だろうか。
「犬属だとか、猫属だとか、そういう枠組みを超えた美しき友情ということですな。こんな世の中だからこそ、彼らが気高く、より輝いて見えるでしょう? ……ほんと、くだらない。こんなもの、タズィ公が好きだった演劇のネタぐらいにしかならないよ」
「故人を笑い者にするのはやめなさい」
ゼッル様がたしなめる。ラインハルトはふん、と鼻を鳴らして了承したのかしていないのかよくわからない返事をした。
ひとしきり吼えて落ち着いたのか、アリオク閣下は先ほどまでとは打って変わって沈んだ声を出す。
「ああ、しかし、ピューマ公が戦死か……。これは我々にとって、かなりの痛手だぞ」
「そもそも、どうしてこうなったのか、アリオク様はお分かりでない! 私としては彼らの死よりも、そちらの方が嘆かわしいですな!」
「貴様、さっきから黙って聞いていれば……。いちいち癇に障る奴だな。俺が直々に黙らせてやってもいいんだぞ」
この恐ろしい声は聞いたことがないものだった。おそらく、虎獣人の将軍のどちらかだと思うのだけど。
ぐっ、とラインハルトは一瞬詰まる。だがすぐに、はん、と馬鹿にしたような声を出して開き直った。
「結構。そうやって脅すのが君らの仕事だとしたら、私はアリオク様の悪い部分を指摘するのが仕事だからね。勝手に言わせてもらう」
悪知恵を働かせるのが仕事だと思ってた、と内心で茶化す。けど、そんなふざけた気分は、ラインハルトがいくらか改まった声を出したことで、失せてしまった。
「タズィ公は幾度となく、援軍の要請を寄越していたはずです。それを見て見ぬふりをしたのは、どこの御仁でしょうね?」
「吾輩がわざと援軍を出さなかったとでも言うつもりか!」
「ピューマ公はいつまで経っても動こうとしない貴方に代わって、タズィ公を、サルクの街を助けに向かったんだ」
「援軍を出していたところで、間に合わなかった! まるで吾輩が見捨てたかのような、人聞きの悪いことを言うな」
「ほう? クウガ城からは間に合って、ディニュー砦からでは間に合わなかったと? 馬鹿な。杖をついた老人でも十日あれば辿り着ける。そして、サルク城は十日は持ちこたえられる城だ!」
「砦にはわずかな兵しかいなかったのだぞ! 彼らを出陣させて、砦の防御が薄くなったらどうする? その間に人間軍に襲撃されたら? ——人間どもめ! ネズミのようにちまちまと小賢しい戦法をとりおって!」
最近、リーフマルジュ領では人間の襲撃が相次いでいると聞いた。リーフマルジュ領は大陸の中央部にある、タズィ公の領地だ。
村が襲われたと報告を受けた兵士が向かった頃には、人間は姿をすっかり消している。しかも、実際の被害は大したことはないどころか、皆無に等しい。そんなことが何度か続いて、こけおどしだと兵士が油断したところで、穀物庫が本当に襲われた。中身をごっそり奪われ、あとにはそれこそ、ネズミの腹も満たせないような麦が数粒残るだけだったという。
リーフマルジュ領のあちこちで、同じような被害が繰り返されているらしい。
相手が本気じゃなかったとしても、兵士は本気で向かわなければならない。実際に、火を放たれて灰燼に帰した村もあるからだ。人間がいつどこで本気を出すかなんて、兵士たちにはわからないし、村人にはなおさらわかるわけがない。ただ、燃やされた村のことは聞いているから、鎧を着た人間を見つければ、大急ぎで城守に知らせにいく。
兵士たちは休むことができず、精神的にもへろへろだ。疲弊した部隊が向かったら、人間軍が待ち構えていて、返り討ちにされたなんて話も聞いた。
そして、ディニュー砦はリーフマルジュ領と皇領の境にある。
サルク城への援軍が悠々と出て行ったあと、空になった砦を人間に占領される、なんてことがあったら笑い話にならない。アリオク閣下はそれを懸念しておられるのだ。
「……どちらにしろ、貴方にとって、タズィ公の死は驚くに値しないようだ。なら、その事実がすべてを物語っている」
「なにを分かったような口を! ——サルク城が落ちても、ディニュー砦とピューマ公のクウガ城さえあれば! 人間軍の侵攻自体は防げるのだ! くそっ! だが、それも城主不在となれば話は別だ。早く、代わりの者を送らねば……」
誰に言うわけでもない罵倒のあと、ばん、という机を叩きつけたらしい大きな音が鳴った。耳をくっつけていた扉からもその振動が伝わってきて、びくりと体が震える。反射的に扉から離れようとした自身をおさえ、さらに注意深く中の会話を聞く。
続いて聞こえてきたのは、ゼッル様の声だった。
「そのことですが……、人間軍が二手に分かれたという情報が入っております。おそらく、ディニュー砦とクウガ城を同時攻略するつもりなのかと」
「ふん、兵力を分散させるとは愚の骨頂よ。所詮、兵法のへの字も知らぬ野良人間か。ましてや、ディニュー砦とクウガ城を同時攻略しようなどとは……笑わせる」
「だが、一方に援軍を送られるのを防ぐ、という意味では、そう悪い手ではないと思うぞ?」
よく似た声が二つ続く。どちらがどちらか、までは言えないけど、虎将軍二人のものだろう。体格が似ていると声も似るのだろうか。
「砦の兵力増強もただちに行う。クウガ城にはアリエルを、ディニュー砦にはクフィルと今夜大広間に集めた——」
聞こえてきた二つの名に興奮を覚える。どちらもアリオク閣下のご子息で、アリエル様が長男、クフィル様が次男だ。
閣下はご自分の息子たちに、人間の相手をさせるつもりだ。二人の勇敢な獅子と戦う羽目になるなんて、人間もついてない。人間なんて、二人の咆哮一つで吹き飛んでしまう。
そして、その先はぼくらにも関係のある話だった。
これ以上乗り出せる身はないけれど、気持ちだけはもう部屋の中に飛び入っているような気分で、閣下の決断を聞く。そんなところで、バタンと、先を言わせないようわざと音を立てたとしか思えない、空気の読めない奴がいた。
「お待ちください! 話が違います。彼らは有翼人と戦わせるために鍛えた兵士たちだ!」
ラインハルトの言うことは的外れではなかった。
翼を持つ兵士たちを相手することを想定した訓練の数々を思い出してみる。たしかに、あれだけきつい訓練をこなして今日ここまで来たのに、それが意味のないものに変わるのはもったいない気がした。
それから、物足りないと思った。
「事情が変わったのだから、話が違っても仕方なかろう」
「あれは君が考案した策だろう! それでいいのか!?」
「……仕方ないわ。状況は変わった。柔軟に対応するのも、私達の仕事でしょう? 人間との戦闘が、有翼人と戦うより難しいとも思えない。彼らに不足はないわ」
「しかし……」
「有翼人に当てている主戦力を呼び戻すわけにもいかない。内乱の鎮圧のために師団は出払っている。だとしたら、今空いている部隊はあの子達しかいないのよ」
皇都に来てから叩きこまれた大陸の勢力図を、頭の中で思い起こす。最初の頃は、これがなかなかできなかった。地図を見たのも皇都に来てからが初めてだったし、なんであんな小さな紙面に大陸が収まるのかもわからなかった。
ようやく地図の読み方がわかった時、自分たちが住んでいる国の広さを実感した。と同時に、自分がそれまでどれほど狭い世界で生きていたかを知った。生まれ育った村が、ペン先をちょんとつけた程度の点で表されていて、衝撃を受けたのだ。ぼくが、その村を飛び出したことを後悔しないと決めた瞬間でもあった。
そして今、広大な領土を持つベスティニア皇国が、少しずつ狭まられようとしている。ぼくらはそれを阻止するために戦っている。
大陸の中央部から攻め入ってきていたケンタウロスは、少し前に引き上げていった。彼らと入れ替わるようにして攻めてきたのが、人間の軍だ。ケンタウロスと獣人の間で膠着状態が続いていた戦線を、人間たちはあっさりと突破した。らしい。長年、ケンタウロス勢力に睨みを利かせてきたタズィ公が死んだということは、そういうことなのだろう。
さらに、人間の勢力が台頭してきたという噂が聞こえ始めた頃、この国の西の端で、もう一つの勢力が起ち上がった——いや、降り立った。これが、有翼人だった。長年、国を持たずにふらふらとしていた彼らは『浮遊の民』と呼ばれていたが、やっと地に足をつける気になったらしい。それがベスティニア皇国の一部であることが迷惑なのだけど。
有翼人は遠い昔に大帝国と呼ばれるような国を築いていて、他の人種は彼らにひれ伏すしかなかった時代がある、というのは、これまたここに来てから習ったことだ。その繁栄は千年続いたといわれ、かつての有翼人の国を『千年帝国』と呼ぶこともある。今のベスティニア皇国よりも、大きく、強い国だったというから、想像がつかない。
……だけど、なんで、そんな強い国が滅んだのだろう?
そんな疑問が一瞬かすめるが、すぐに頭を振って思考を戻す。とにかく、彼らはそんな帝国人の子孫なのだ。アリオク閣下やゼッル様が、なんかぱっとしない人間よりも、有翼人を警戒するのはもっともだった。
「まったく、ケンタウロス共が引いたと思ったら、有翼人が降臨するわ、人間が決起するわ……散々だな」
「時まさに乱世というわけですなあ」
虎将軍の二人が、さほど緊張感のない口調で感想を述べている。ぼくもまったく同じことを考えていたから、勝手に満足感を覚える。
「…………」
「ラインハルト、どうしたの? やっぱり納得できないわけ?」
答えを聞いてやろうと耳を澄ませていたが、奴は返事をしなかった。代わりに、カツカツという神経質な足音がこちらに向かってきた。……音が意外に近い!
なにかを確信したようなまっすぐな歩き方に、ぼくらの盗み聞きがバレたと知った。
レパと目配せして、一緒に逃げよう——と思って隣を見たら、すでにレパの姿がない。親友の逃げ足の早さに驚いて、廊下の左右を見渡したのがいけなかった。そんなことをしている暇があるのなら、ぼくもさっさと逃げればよかったのだ。
それなら、こんな思いっきり顔を突き合わせることなく、背中と尻尾を見られるだけで済んだのに。
扉を開けたラインハルトは最初、ぼくの頭よりも高い位置に目を向けていて、そこに誰もいないことを訝しむように首を傾げた。そして、視線を下げた先に見つけたぼくに、目を見張った。驚きを見せたのも一瞬のことで、すぐにラインハルトの顔は汚いドブネズミを見つけた時のように歪む。
「貴様、そこで何をしている」
一応聞いてはいるものの、弁解の余地はなさそうな言い方だった。
なんと答えようか、必死で頭を回転させる。とりあえず、レパは最初からいなかったものとして庇うのは決定事項だ。
「さすがは隠密に優れた猫属。大したものね。まったく気付かなかったわ」
やんわりとラインハルトを押しのけて、ゼッル様が顔をのぞかせた。
思いがけず褒められたことで、下がり気味だった尻尾が誇らしげに持ちあがった。ゼッル様が味方になってくれるなら、この場を切り抜けられるかもしれない。
「どうした。誰かいたのか」
「ええ、閣下。私が特に目をかけていた子が、抜き打ちで驚かせに来たみたいで。自分が育てたとはいえ、この成果には目を見張りますね」
「ほう、そんな優秀な者がいるのか。これは、人間なんぞでは物足りないと文句を言われてしまいそうだな」
ゼッル様の口から出たでまかせに、ぼくは呆けたように突っ立っていた。
ぼくは今、ゼッル様が直々に鍛え上げた兵士として、いや隠密としてかもしれないけど、ここにいるのだ。実際にそうだったなら、どんなに良いだろう。夢見心地のまま、もう少しこの気分を味わっていたくて、調子に乗ったぼくはゼッル様と話を合わせた。
「でも、ラインハルト様には気付かれてしまいました。ぼくはまだ未熟です」
「そうねえ、この狐様はとりわけ気配に敏感のようだから、気に病むことはないのよ。でも、彼にも気付かれないようになったら、堂々と一人前を名乗れるわね」
不肖の弟子になりきるぼくに、ゼッル様は微笑んだように見えた。この芝居を面白がってくれているようだ。
「ラインハルト様はすごい方なのですね」
おだてるふりをして、ラインハルトに目を向ける。
見つけたネズミが手の内の者で、さぞかし悔しい顔をしているのだろうな、と思った。だけど、彼の様子にぼくは内心でどきりとした。ラインハルトが、怯えているように見えたのだ。
ラインハルトは強張った表情でぼくを見たあと、疑心に満ちた目をゼッル様に送った。
「君、部下に私のことを尾けさせているのか……?」
ささやくようにしぼり出された声は、部屋の中にいる人たちには届かない。その必死な表情に、ぼくの中で不信感がわき上がる。
ゼッル様はラインハルトを見つめ返したまま、なにも言わない。
「なにか、やましいことでもあるんですか」
無邪気を装って、直球な質問をぶつけてみる。
ラインハルトはこちらを見もせず、牙が隠れるぐらいキュッと口をかたく引き結んだ。そして、くるりと背を向ける。部屋の中に戻るのではなく、廊下の闇に消えていこうとする彼を、ゼッル様が呼び止めた。
「どこへ行くの?」
「……体調が優れなくてね。悪いけど、帰って休ませてもらうよ」
その声は、演技だとは思えないほどやつれて聞こえた。だけど、何かを隠すために嘘をついているように聞こえたのも確かだった。
ゼッル様も信じ切っていない顔をしていたけど、それ以上引き留めることはなかった。
ラインハルトの姿が見えなくなると、ゼッル様はぼくに向き直った。
「さて、あなたのことだけどね。こういうところで冒険心を発揮しちゃ駄目よ。もし、ここで私達が極秘の軍議でもしていたらどうなったと思う? 大広間での食事が、最後の晩餐になるところだったわよ」
それが脅しでもなんでもなく、本当のことだというのはわかる。ゼッル様がぼくを守ろうとして、この会話も小声で行っていることからも明らかだ。
神妙に頷くと、ゼッル様はふと笑った。
「まあ、こんな所で極秘の軍議をしていたら、私達の方も悪いと思うけどね」
「あの、今回のは……」
「ああ、大したことじゃないのよ。明日には皆の耳に入ることだわ。だけど、正式に発表がないうちはあなたも口外しないこと」
「はい」
返事をしたあと、迷ったけど、思ったことを口にした。
「ラインハルトのことは——」
「“様”を付けなさい。あなたが内心で彼のことをどう思っていようと、軍隊では階級が絶対よ。……彼のことも、あなたが気にする必要はないわ。何か企んでいようと、それに対処するのは私達。あなたは立派に、人間の攻勢を防いでくれればいいの」
ゼッル様の言葉に、ひげがぴんと張った。
「じゃあ、さっきの話は決まりなんですね!」
思わず声が大きくなってしまって、ゼッル様が鼻先の前で人差し指を立てる。それから、片目をつむってみせた。
「他言無用よ、……明日までだけどね」
勢いよく頷くと、ゼッル様は笑いながら、もう行っていいと言ってくれた。ぺこりと頭を下げてから、ぼくは大広間へ戻るふりをする。歩いている間、ゼッル様の視線を感じていたけど、廊下の角を曲がるとそれもなくなった。
部屋の扉が閉まる音がしてから、ぼくはもう一度、廊下の角から顔を出した。あまり近寄ることはできないので、必死で耳を立てる。
廊下が静かなのがさいわいして、閣下とゼッル様のかすかな声が届く。
「ラインハルトはどうした?」
「やはり納得できないみたいで、怒って出ていってしまいました」
「なんだ、子供のようなやつだな」
笑い声が響いたあとは、他愛もない会話が続く。
ゼッル様に警戒されてしまったらしく、それ以上の収獲はなかった。仕方なく、ぼくは大広間に戻ることにした。
散々道に迷ってようやく辿りついた大広間で、ぼくの姿がなかったことを仲間に問いただされ、用を足していたのだと答えたのはいけなかった。それからしばらく、トムリンはトイレがめちゃくちゃ長い、といじられることになったのだ。




