1.少年よ希望を抱け
『獣人。獣がそのまま立ち上がったかのような脚と尻尾を持つ、獣頭の人種。その姿は一つの人種とは思えないほど豊富で、個々の体格差も大きい。優れた感覚器官は、野生動物顔負けの性能を誇る。』
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どんな石も磨かねば輝かない。いかなる玉も放られれば曇りゆく。
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初めて足を踏み入れた城の大広間は、もうとにかく、見るものすべてがぴかぴかと光っていて、まぶしかった。
床を覆う絨毯はふわふわと毛足が長く、足裏の肉球にやさしい。布団だってこんな柔らかなものに出会ったことはない。足で踏むのがもったいないぐらいで、今すぐ絨毯の上に寝転がって、思いっきり伸びをしたあと、体を丸めて眠ってしまいたい衝動にかられる。
ああ、考えただけであくびが出そう。
上官となる大人たちの前で、そんなマヌケな顔をさらすわけにもいかないから、必死で噛み殺したけど。
見たこともないほど長いテーブルの上には、これまた見たこともない豪勢な料理がずらりと並んでいる。子どもの頃から夢見ていたような光景だ。夢で見たよりもずっと、料理の品数は多いし、量だって食べきれないほどあるけど。片田舎で生まれ育った少年の夢は、なんて慎ましやかだったことだろう。現実は貧相な想像をはるかに超えていく。
今夜は起きたままこれを食べられるっていうんだから、夢みたいな話だ。夢じゃない、って頰っぺたをつねって再三確認しているのに、そんな感想しか出てこない。
漂ってくる匂いに、ひくひくと勝手に鼻が動く。匂いが鼻から口に入り込んできて、唾がわき出る。
もし、犬属の獣人だったら、ここで細長い口をみっともなく開けて、はあはあと舌を見せているところだ。でも、ぼくは猫の獣人だから、こういう時でも澄ました顔をできる。なんでもない風を装って、目はテーブルの上の料理に釘付けなんだけど。
あー、馬鹿でかいシャンデリアに照らされて、ソースのかかったお肉がきらきら輝いてる……。
「諸君、閣下がお見えだ」
近くにいた兵士が、もったいぶった言い方で告げた。
ぼくを含めて、この場に集められた猫属の少年兵たちは、大広間の入り口へと一斉に顔を向けた。
料理なんて目じゃない。シャンデリアも絨毯も、閣下に比べればなんてことはなかった。この人を目にするため、ぼくは今日、ここへ来たも同然だった。
今、この国に一人しかいない元帥、猫属のアリオク閣下。雄々しさを体現した獅子の獣人。
大広間に、その姿が現れる。
大きな足が重みを感じさせる歩みで、大広間の中心を堂々と進んでいく。絨毯に埋もれる爪は、ヒビ割れなんてなく、刃物みたいに磨かれていた。ぼくの全身灰をかぶったような毛色とはまるで違う、黄金色の毛並み。中でも、たっぷりと蓄えられたたてがみは、一歩歩くたびに波打ちながらきらめく。大きな体に、少し窮屈そうに着こんだ軍服には、たくさんの勲章が並んでいた。その一つ一つが、彼の功績なのだと思うと胸が打ち震えた。
周りからも感嘆のため息がもれる。ぼくらの少ない語彙から、アリオク閣下の偉大さを称えるにはとにかく、すごいと言うほかなかった。
「すっげぇ……」
「本物だあ」
「おい、皆。なにボサっとしてんだよ。敬礼しろよ、敬礼」
料理にはつられなかった猫属の口も、閣下のお姿には呆けたように口を開けていた。仲間に尻を叩かれて、皆が慌てて敬礼の姿勢をとる。
その声が閣下の耳に入ったのか、おかしそうにひげが震えるのがわかった。尊敬と恐れが混在していたぼくの中で、恐れが薄れて尊敬の度合いがますます上がる。
近しい配下を引きつれて、閣下は大広間の前へと向かっていた。彼のあとを、見とれてしまうような、けれど目を合わせるのが怖い猫属の猛者たちが続く。
夜にまぎれたら絶対に敵に見つからなさそうな、黒豹の女軍人。筋骨隆々の二人の虎獣人は、体格も顔も、双子かと思うぐらいそっくりだ。でも、毛色だけは決定的に違っていて、一人は黄地に黒の縞、そしてもう一人は白地に黒の縞だった。どちらも、ぼくのぼやっとした縞模様とは比べものにならないほど、くっきりとした模様を浮かせていた。
気付いたら、自分の目じりから下がる線模様を、指でなで付けている。いくら毛をおさえつけたところで、ぼくの模様が濃くなるわけでもないのに。ちょっと恥ずかしくなって、周りの連中に気付かれないように手をおろす。
最後尾には、場違いな姿があった。
プラチナ色の毛並みをした、狐の獣人。猫属の猛者たちと比べると一回り体が小さく、また狐にしては尻尾のボリュームが乏しい。
——裏切り者の狐野郎だ。
「あいつって……」
「ラインハルトだ。サンダリオ閣下が死んですぐ、こっちに寝返った奴」
「恥さらしだよなあ。どの面下げて、ここにいるんだろ」
敬礼の姿勢は自然とくずれ、皆がささやき合う。
狐野郎の大きな耳には、こちらの声が丸聞こえだったらしい。不愉快そうに鼻にしわを寄せて、通り過ぎる際には思いっきり睨みつけられた。けど、貧弱そうな見た目からの眼飛ばしは、猫属の少年兵をひるませることすらできなかった。
むしろ、噂通りの陰険っぽさだなあと、アリオク閣下とはまた違う本物に出会えたことに、妙な感動さえあった。
軍部には大きく分けて二つの派閥がある。
主に犬っぽい獣人が所属する犬属と、主に猫っぽい獣人が所属する猫属。この二つの派閥から一人ずつ選ばれた元帥が、これまでこの国の大王を支えてきた。
現在の猫属の元帥は、さきほども言ったようにアリオク閣下だ。そして、犬属の元帥だったサンダリオが三年前の戦闘で命を落としてから、犬属の元帥は不在の状態が続いている。
そんなわけだから、今、犬属の皆さんは大変なことになっているのだ。その間に、猫属は力を付けようというわけである。そのぐらい、ぼくにもわかる。
ラインハルトはもともと、犬属の元帥サンダリオに仕えていた参謀だった。
それが、彼が亡くなり、犬属が落ち目になったと見るや、猫属に身をひるがえしたのだ。自身の地位を守るための小細工にも余念がなかったという。サンダリオに付き従っていた重臣の多くは、仇討ちするために城を出ていったというのに、だ。
猫属と犬属は対立しているけど、互いに勇敢な戦士は認め合う。気高い戦士は派閥に関係なく称える。
だからこそ、ラインハルトのような卑怯者は、猫属と犬属のどちらからも、さげすみの目で見られた。
……プラチナ色の毛並みは、ちょっと羨ましいけど。
「諸君ら、食べ盛りで腹を空かせているところだろうが、少しの間、吾輩の話に耳を傾けてくれたまえ」
前に立ったアリオク閣下が、太く低い声を出した。
体の芯に響く声に、背筋が伸びる。閣下の言葉を聞き続けていたら、猫背だって治っちゃうかもしれない。
「諸君らはこれから、戦地へと赴くことになる。それは国のため、大王の剣となり盾となるということだ」
身震いが一瞬襲ったけど、これは武者震いであって、決して恐れからくるものじゃない。アリオク閣下の力強い声は、ぼくらの決断を肯定しているのだから。
「怖気付くな。諸君らの前には栄光への道が開かれている。戦わぬ者に名誉はない。押し寄せる敵をはね返し、敵陣を食い破る、これに勝る興奮があるか。己の手で掴み取る勝利は、何ものにも代えがたい喜びだ」
そこで一息つき、閣下はぼくら少年兵のことを見渡した。
「体の大きさなど関係ない。持って生まれた体格を嘆くような真似はするな。大きな者はその体をもって敵を威圧できる。小さき者はより俊敏に敵を翻弄できる。……だが、吾輩はそんな戦術の違いを言っているのではない。猫属は皆、それこそ目の青い子猫であろうと、獅子の魂を持っているのだ。猛々しい心を内に秘めているのだ。外見だけで自身の力量を見誤るでないぞ」
熱狂的な興奮が、少年兵だけでなく、場にいた猫属全員にわき起こった。このあとすぐに戦闘が始まるのだとしたら、どんな奴が相手だって勝てる気がした。このあとに始まるのは、大量の料理との格闘なのだろうけど。うん、それにだって勝てる。
この場でたった一人、冷めた目をした男がいるのはわかっていた。
水をさされるような気がしたけど、やっぱりちょっと気になって、そいつのことを見てしまう。そして、後悔する。
ラインハルトは嘲笑を浮かべていた。そのいやらしい顔つきに、ぞわりと毛が逆立つ。ラインハルトの不遜な態度に気がついた黒豹の姉御が鋭く睨みつけると、奴は無関心を装って顔を背けた。
「だが、体力は付けるに越したことはない。今夜はよく食べ、それを己の力とするがよい。吾輩からの、諸君らの栄光への前祝いだ」
アリオク閣下の演説は拍手で締めくくられた。
それから、少年兵たちはわっと料理に群がった。その光景は兄弟たちと食卓の上の料理を奪い合った記憶を、思い起こさせる。
男ばかりの五人兄弟の三番目だったぼくは、いつも微妙な立場だった。年上の二人に自分の分が奪われたあと、騒ぎを聞きつけた母がやってきて、ぼくが弟から食べ物を横取りしている場面を見つけ咎めるのだ。お兄ちゃんなのに何をやっているの、と。そういうのはもっと早くに来て言ってほしい。納得できなくて、この世は弱肉強食なんだよ、と力説してみても母はまったく取り合ってくれなかった。
ふんだんに盛りつけられた料理を見ている限り、この晩餐会ではそんなことが到底起こり得るとは思えないけど。
前の連中が落ち着いてから、ぼくも皿を取って好きなものをつまみ始めた。
立食パーティーなので、細かい礼儀作法は必要ない。これも、アリオク閣下が平民出身のぼくらのことを思いやった結果かもしれない。あくまで出征を祝うものだから、食事ぐらい気兼ねなく取らせてやりたいとか。そんなところにまで気をかけてくださるなんて、さすがはアリオク閣下だ。
でも、染みついた食事情からはなかなか抜け出せない。骨についたわずかな肉を舌でこそげとっていると、肩をつかまれた。背後を取られるとは不覚。舐めていた骨をとっさに強く噛んだのは、ごはんを取られまいとする防衛本能だ。貧乏性丸出しである。
「トムリン! 見ろよ、このスープ! 鳥の足が丸ごと入ってるぜ。ついでやるから皿よこせよ」
「トムでいいって言ったろ。ぼくは遠慮しておくよ」
話しかけてきたのは、皇都に来てから友達になった少年、豹柄の猫獣人レパだった。
レパは商家の出身で、ぼくよりかはいくらか裕福な暮らしをしてきたようだ。そんなこいつでも目を輝かせているのだから、貴族の暮らしがどれほど贅沢なものかわかる。
ぼくは染みついた癖を心のすみで嘆きながら、そっと骨を皿に戻した。残っていたソースに骨が沈むのを見て、この皿を舐めたい、と思ってしまった自分にまた悲しくなる。
「なんで? おいしいぞ?」
「ぼくはほら、猫舌なんだ。そのスープ、湯気立ってるし」
同じ猫獣人に対して、こんなことを言うのはかなり屈辱的だった。
レパは実においしそうにスープを喉に流し込んでいる。ぼくの答えを聞いたレパはもちろん、からかうように笑った。
「おまえって、すっごく“猫っぽい”よな! イメージ通りって感じ!」
「うるさいな。猫獣人が猫らしくてなにが悪いんだよ。動くものは目で追いかけるし、日向で昼寝するのが大好きだし、熱いものは嫌いだよ!」
「あはは、おれも日向で昼寝するの好き」
今度一緒に昼寝しような、と妙な約束をさせられてしまった。
ひとしきり笑ったレパは別のテーブルを指さして言った。
「あっちに、そんな方々のための冷製スープがあるぞ」
「どうも」
「すねんなよー。おまえにもおいしい物を教えたかったんだよー」
「はいはい」
あしらうふりはしたものの、匂いにつられて、レパが教えてくれたテーブルへと向かう。やたらとまとわりつくレパも、そのままくっついてきた。
「なんだよ。猫っぽくない猫獣人さんはあっちで、熱いもんでもたらふく食ってろ」
「さっぱりしたのが欲しい。さっきの、すごくこってりしてた」
なんだかんだと言いながら、壁際のテーブルまで二人で一緒に行く。
二人して冷製スープに口を付け、ぼくは馴染みのない味に首を傾げた。
それを見たレパは、ここぞとばかりに魚の出汁がどうのとか、うんちくを聞かせてくる。ぼくはというと、魚という単語だけを耳に入れて、あとは聞き流していた。村では魚を食べる習慣がなかったから、これが人生初の魚料理である。……うーん、ぼくは肉の方が好きだな。
でも、白身が口の中で簡単に崩れていく感触はおもしろい。
ふと気付くと、うんちくを垂れていたレパが静かになっていた。隣を見ると、レパは視線だけでテーブルをはさんだ向こう側を指した。
「ラインハルト、こういう場で水を差すような態度はやめなさい。大人げないわよ」
「これは失礼。少年たちを見ていたら、自分の若い頃を思い出してしまってね。でも、同じ精神年齢まで落ちることはなかったな」
猫属の参謀、黒豹のゼッル様とラインハルトが向き合っていた。肩をすくめたラインハルトを、ゼッル様は壁際に追い詰める。
他人の目に入らないように、という配慮なのだろうけど、ここまで来ると二人の会話は丸聞こえだった。
「そういうところを改めて、と言っているの。……不満があるのなら、はっきり言ったらどう? 遠回しにではなくて」
「では、はっきり言わせてもらうけどね、こんな子供騙しに金をかけるなんて馬鹿げてる。これ、君の提案か? だとしたら、君への評価を見直す必要があるな」
「アリオク閣下が言い出したことよ。でも、あなたが言うほど馬鹿げてるとは思ってない。兵士の士気を高めるのは上官の役目、でしょう?」
「そもそも、猫属の兵士を前線に投入すること自体に反対なのだけどね、私は」
ゼッル様はラインハルトをまじまじと見つめたあと、力が抜ける笑い方をした。
「人の力量を見誤るのは、あなたの悪い癖ね。せっかく頭の良い策を考えても、それがすべてを台無しにする。私達のことを馬鹿にしないで。それとも何? 統率者を失った犬属を使えっていうの? それこそ、冗談じゃないわ」
「過大評価しているのはどっちだか」
「あら、じゃあ、あなたは力量をきちんと把握した上で、自分の上官を死地に追いやってきたということ? そんなに気に食わない上官が多かったのかしら」
ゼッル様がわざとらしく言うと、ラインハルトの瞳孔が攻撃的に細くなった。牙を剥き、本当に食ってかかるんじゃないか、と思うぐらいの激しい形相のまま、言葉だけで噛みつく。
「ああ、気に食わないやつは多かったね。どいつもこいつも、私の忠告を聞かない馬鹿ばっかりだった。でも、本気でそんなことを言っているなら、君も馬鹿の一人だな」
「他人からどう見られているか、あなたも少しは自覚すべきね」
鼻先がくっつかんばかりに接近し、ゼッル様は低くしぼり出すようにうなった。
端から見ているだけでもすごい迫力なのに、それをラインハルトは真正面から受けた。さすがにひるんだのか、言葉の応酬が途切れる。
ばつが悪そうに耳をそらし、ラインハルトはその場から逃げようとした。けど、急ぎ足でやってきた城の衛兵とすれ違い、立ち止まる。
衛兵が切迫した様子で、ゼッル様に何事かをささやくと、ラインハルトの耳がぴくりと反応した。一度は離れようとしたゼッル様を振り返り、目が合っても、二人の間に再び火花が散ることはなかった。代わりに、さっきとは別の種類の緊張が走る。
衛兵がもとの持ち場に戻ると、彼らは一時休戦だとばかりに頷き合い、慌てた様子で入り口とは別の扉から大広間を出ていった。
ぼくは興奮を隠せず、レパと顔を見合わせた。
レパも同じ気持ちだったらしい。追っていって何があったのか確かめようぜ、と好奇心に満ちあふれた顔をしていた。
ラインハルトとゼッル様の会話を盗み聞いたことで、ぼくらは少し興奮していたんだ。本人たちの知らないところで、勝手に秘密を共有したような快感があった。内容は決して話さないけど、ぼくたちは深い事情を知っているんだぞ、と自慢したいような気分だった。
つまり、秘密を知るのはとっても楽しい。
ぼくとレパはさらなるスリルを求めて、こっそりと大広間から抜け出した。




