5.ほうき星にしかなれない
人は群れて生きる生き物なのだと、ようやく痛感した。といっても、氏族を抜けて旅をしてきた道中で、寂しさというものを感じたことはない。
他人と同じ空間にいるのは苦手だった。
話すこと自体は嫌いではなかったが、私が話すと決まって変な空気になるからだ。言動の何がいけなかったのか分からなくても、この空気は私が作ったのだということぐらいは分かった。
なので、できるだけ黙っていることにした。
そうしたら、楽しくないのなら無理に合わせなくてもいい、と逆に気を遣われた。
皆と一緒にいたいのに、皆といると輪を崩してしまう。大勢の中に混ざっても、私はいつも孤立していた。
でも不思議と、悲しいと思ったことはなかった。申し訳ないと思ったことなら、あるけども。
だから問題は、急に人恋しくなったとか、そういうものではなく、もっと現実的だった。
氏族にいた時は、どれだけ私が付き合い辛い相手だろうと、気にかけてくれる仲間がいた。怪我をしたら、手当てをする専門の者がいる。病気をしたら、栄養のつくものを作ってくれる優しい人がいる。
自分が弱った時、助けてくれる者を求めて、人は群れる。
一人になった今、すべてを自分でやらなければならなかった。利き腕が使えないとか、痛みで動けないとか、そんなことを言っている場合ではない。やらなければ死ぬ。死ぬのは嫌だから、悲鳴を上げる体を無理やり動かす。
当たり前のことなのに、その当たり前のことに今さら気付いた。
グリフォン騎兵との戦闘で負った傷は、自分で手当てした。切り裂かれた腕は、左手と口を駆使して雑に縫い合わせた。今は包帯を替えるのにも苦労するが、数週間もすれば、前のように弓を引けるようになる。
ジャッカル獣人に爪を突き立てられた箇所は、川でよく洗い流してから、手持ちの塗り薬を塗布した。戦闘中はなぜあんなに動けたのか、自分でも不思議なくらい、今は歩くのにも慎重になっている。
こんな状態のまま、『英雄』に会いに行っても仕方がない。彼とは、万全の状態で出会いたかった。
それに、こんな歩幅じゃ、とてもではないが追いつけないだろう。川で流されたことで、距離も開いてしまったことだし。
景色を楽しむ余裕ができたとでも思って旅するしかない。
脚を骨折しなかっただけ儲け物だ。脚の怪我はケンタウロスにとって致命傷だから。場合によっては寝たきりになって、そのまま死んでしまうことだってある。
「おい、そこの女。金目のもんを置いていきな。そしたら、命までは取らないでおいてやる」
ゆっくり街道を歩いていたら、変わった鳴き声の野犬に出くわした。
無視して通り過ぎようとするも、わきから湧いて出てきたお仲間に囲まれる。
「…………」
先ほどから、こちらを見つめる気配には気付いていた。気配というより、洗っていない犬の臭いがだだ漏れだった。
分かっている。二足で歩く犬はいない。彼らは獣人だ。だが、あまりの獣臭さに、本当に野犬なのではないか、と一瞬悩んでしまったのも事実だ。
「聞こえてないのか? 金目のものを置いていけ。命が惜しかったらな」
野犬ではなく野盗らしい獣人が、同じ内容を繰り返す。
まるで、以前自分に向けられた言葉を、そっくりそのまま口にしているかのようだった。言えばいいと思っている。気持ちがこもっていない。迫力が足りない。これでは、金だけ置いて逃げよう、なんて発想には至らない。
——むしろ、こちらが身ぐるみ剥ぎ取ってしまいたくなる。
野盗の中には、子供を抱えた女も混ざっていた。男達と同じ犬系の獣人なので、連行される奴隷というわけでもないだろう。ということは、仕事場に戦えもしない女子供を連れてきてしまったのか。この野盗達は。
隠す場所もないから、一緒にいた方が安全、とでも思ったか。
なるほど。こいつらは、人間軍に村を襲われて逃げてきた住民だ。皇都はもう人で溢れていて、貴族様に押し出された農民は、こうして駆け出しの盗賊になっている。そんなところか。
私を狙ったのは、女が一人旅をしていて、しかも怪我をしているようだから。
数が多ければ有利だと無条件に信じ込んでいる彼らは、もう一仕事終えたような顔をしていた。
「おい。なんとか答えろよ」
無言を貫いていると、野盗の一人が怖気付いた顔をした。
「ま、待て。こいつは止めとこう。こいつ……なんか、やばいぞ」
「何が——」
何人もの獣人の毛皮をつなぎ合わせて作った、素敵な衣装に、ようやく気付いてくれたらしい。頭巾だけは引き続き、狼獣人のものを使っている。
獣人達の毛が逆立った。耳が反り返り、尻尾がくるりと股の間にはさまる。
分かりやす過ぎる。
「数はこっちの方が多いんだ! 全員で襲いかかればなんとかなる!」
「ならない」
左手で引き抜いた短剣で、叫んだ獣人の喉を掻っ切る。それを見ただけで尻餅をついた腰抜けがいた。
「身ぐるみ剥がせてもらうよ、アハ。大丈夫。肉と内臓と骨は残しておいてあげるから」
今さら命乞いを始めても遅い。出会ってしまった以上、私に見逃すなんて選択肢はないのだから。
ああ、まただ。また、視界が赤く染まる。
あの日以来、目の調子が時折おかしくなる。スイッチを入れたように、景色が全面赤く染まる。今も。
赤く赤く、夕陽に照らされたように、風景が染まっていく。笑いが、止まらなくなる。
人は一人では生きられない。
だから、野盗達も徒党を組んで襲いかかってきた。短い盗賊稼業は終わりを告げて、今は皆で仲良く毛皮になっているけども。
「……いまいち」
盗賊に向いていなければ、毛皮にも向いていなかった。
普段食べている物の差か、先のグリフォン騎兵に比べると、毛並みが良くなかった。せっかく剥いだ毛皮だが、これはここに置いていくことにした。持っていても荷物になるだけだ。
近くの川で身を清めた後は、人間軍を追いかける旅の続きだ。追いつく頃には、弓を引ける体になっている。
*****
私がようやく人間軍に追いついたのは、早朝に霜が降るような寒い季節になってからだった。サルクの街の惨状を見たのが春の頃だから、実に半年以上もかかってしまった。
怪我の治りが遅かったわけじゃない。痕は残ったが、傷は順調に癒えた。
問題は道中にあった。喧嘩を売ってくる獣人があまりにも多かった。それだけ、ベスティニア皇国の治安も荒れていたのだろう。一つ一つ丁寧に対処していたら、旅も順調に遅れていった。
おかげで、毛皮の継ぎ接ぎが増えた。
変わらないままの頭巾を被り、人間軍の行軍を見下ろせる高台を歩く。この盛り上がった土地には、背後に鬱蒼とした藪があった。もし見つかっても、すぐに身を隠せる。
兵士達の装備や武器はばらばらで、まさに寄せ集めの群衆といった体だ。つい先日まで農民だった泥臭さが抜けきっていない。私を襲ってきた獣人の野盗と、そう雰囲気は変わらない。
こいつらが、私の母を殺したのだ。
中には、同じ奴隷という身分にいた者もいるだろう。そいつらはのうのうと生き残って、人を殺すために従軍をしている。
そう考えたら、一瞬、目の前が赤くなった。
頭を振って、すぐにもとの視界に戻す。慎重にならなければ。実際に母を殺したのが誰であれ、命令を下したのは『英雄』だ。まずは『英雄』を殺す。それから、あとの連中をどうするか考えればいい。
人間達の頭を見下ろしながら、『英雄』を探す。
こんな野暮ったい集団の中に、『英雄』なんて大層な肩書きの人物がいるのだ。さぞ、周りとは違うオーラを放ち、光り輝いていることだろう。簡単だ。そういう派手な男を見つければいいのだから。
一人一人に、素早く視線を移す。
なかなか見つからない。足を速め、前の集団の方へ移動すると、人間のやり取りが耳に入ってきた。
「カリム様、砦の内部より書簡が届きました」
「これで最後か」
「そうですね。協力者を得ることにも成功しましたので」
速めた足を、また緩める。
様付けされているということは、あの茶色い頭が『英雄』か。話しかけたのは、その隣の金髪を一まとめにした青年だった。
多くが徒歩の中、その周囲だけ馬に乗った人間が集まっていた。『英雄』と青年は馬の鼻面を揃え、並んで進んでいる。
青年から受け取った書簡を、『英雄』は馬上で広げる。
「砦の総司令官は若獅子クフィル。元帥アリオクの息子です」
「元帥の息子? たしか、前にも聞いたな」
「それは兄の方ですね。息子が二人いるんですよ」
ベスティニア皇国には元帥が二人いる——いや、いた。彼らが話しているのは、残された一柱のことだ。狼獣人のサンダリオと対をなした、獅子の獣人アリオク。
あいにくと、姿を見たことはなかった。狼の毛皮も気に入っているが、獅子の毛皮も豪勢そうで良い。機会があったら、ぜひとも頂戴したい。贅沢なものを食べているだろうから、最高の毛艶をしているはずだ。
いかんせん、人間の毛皮というのは期待できそうにない。今こうして観察している分にも、実に貧相で、皮を剥ぎ取ったら骨しか残らなさそうなのが可哀想なぐらいだった。
『英雄』だって例外ではない。
確かに、防具こそ他より立派なものを身につけているが、決して派手ではない。馬に乗っていなかったら、周りの人間に溶け込んでいる。
地味な男、というのが私の印象だった。
隣の金髪の青年の方が、よほど『英雄』らしい。立ち振る舞いが颯爽としていて、自信に満ちあふれている。
「彼らとはいつ合流することになっている?」
「この道を抜けて——」
答えようとした青年の声が止まる。
「……ちょっと待ってくださいね」
不審そうに眉をひそめた横顔が、目だけでこちらを見る。完全に姿を見られる前に、私は後ずさって背後の藪にまぎれた。
青年は木々の列に目を走らせたが、視線が私のところで止まることはなかった。
「どうした?」
「いえ、少し気になることがあって」
すっきりしない顔をしながらも、青年は『英雄』との会話に戻っていく。
『英雄』を狙うならば、あの青年がそばにいない時が好ましい。隙を窺うためにも、もう少し、人間の行軍に付き合うことにした。
『英雄』が一人になる瞬間を、ずっと待ち続けた。何日間も、彼らのあとをつけた。
そうしたら、ディニュー砦が見えるような場所まで、一緒に来ることになってしまった。サルクの街で、老獣人から聞き出した、ベスティニア皇国の堅固で名高い砦だ。
本当にここを落とすつもりか。
呆れのような感心を抱いてしまう。いくら私が戦術に疎いといっても、砦攻めの厄介さは身に沁みている。頭を引っ込めた亀に矢を射るぐらいの徒労に思えたものだ。
きっと、そんなことは人間も百も承知だろう。夢ばかりを見て、ここまでは来られない。行軍中の様子からして、頭を使っているのは明白だ。私には想像もつかない搦め手を使うに違いない。
それをちょっと見てみたい気もしたが、そんな考えはすぐに振り払う。
獣人や人間がどうなろうと知ったことではない。どちらが滅びようと、どうでもいい。私の手にかからなければ、意味がない。
陽が落ちて、砦の見張り塔には煌々とした火が灯る。あそこで、獣人が寝ずの番をしているのだろう。
人間軍は、森の縁で夜営の準備を始めていた。砦から見つかるのを恐れてか、火を使う様子はない。
私はそれを、森のさらに奥深くから観察しつつ、干し肉をかじった。木々の間から、人間達が和気藹々と携帯食を分け合う姿が見える。不思議だった。これから決戦に向かうというのに、彼らには悲壮感がなかった。
戦を知らない子供でもあるまいに。
特に『英雄』の表情は穏やかだった。一日の終わりに、家族の顔を見渡して満足する父親のようだ。彼には、皆と夕餉を囲むこの時間を、何よりも楽しみにしている節があった。
当分、『英雄』が一人になることはないだろう。
せっかくなので、少し休息を取ることにする。人間の睡眠はケンタウロスより長い。そのことが、道中幸いした。彼らが寝て起きる時間に合わせると、私は朝までにすっかり回復していた。
足をたたみ、木に背を預ける。一時間か、二時間。私が起きる頃には、人間は見張りを残して眠りに入っているだろう。それは、何度も狙い続けたチャンスの一つだった。
衣擦れの音で、目を覚ました。
辺りはすっかり静まり返っていて、寝る前に聞いた、人間達のささやき合うような会話はすでになかった。だからこそ、そのほんの小さな音が私の耳に届いたのだろう。
ゆっくりと身を起こし、暗闇に目をこらす。マントを羽織った人影が、夜営の地から離れようとしていた。
確証はなかった。だが、ほとんど無意識に、グリフォンの羽根を使って新調した矢を掴んでいた。矢を弓に添え、そっとその人物を追いかける。
しばらく後をつけると、そいつは何もない、森の開けたところで止まった。まさか、こんなところで用を足すわけでもないだろう。銀色の月明かりに照らされ、そいつは誘っていた。色気のない誘いだ。
そんなあからさまな挑発を、私は見逃せなかった。
静かな夜だ。弓を引き絞るだけで、怪物が地面を引っ掻く不気味な音に聞こえる。ならば、風を切る矢が上げるのは、獲物を食らう獣の唸りだ。
「無意味な……」
ぼそりと、『英雄』が呟いた。
ぼうっとした立ち姿から想像もできないほど速く、腕が振られる。射るのと同時に抜かれていた剣が、矢を叩き落とした。
その剣の振りで体の向きが変わり、私は真正面から『英雄』と対峙することになった。
暗く、光のない目が、私を見た。
「暗殺の心配をしなければならないほどになったとは、驚きだ。私には今のところ、心配の必要はないが、仲間には心労をかける」
「…………」
こいつは、近くで見て、実際に話して、始めて分かる凄さだ。
遠くから眺めているだけでは、そこいらの有象無象と変わりない。それなのに、目の前に立たれると大物感に溢れている。命を狙われたというのに喋り方が落ち着いているのも、その印象に拍車をかける。
だが、何よりも、得体の知れないモノを相手にしている気分にさせられる。それが一番、強烈だった。
圧倒はされるが、少なくとも、『英雄』と呼ばれる人物がまとう空気とは思えない。
陽を感じられる部分が一欠片もなかった。全身が影に包まれているようだ。
そんなふうに、あらゆる言葉で称賛することも貶すこともできたが、人間には違いない。矢を振り払ったということは、矢が当たれば死ぬということだ。
こちらに向かってくる気配がなかったので、もう一本矢を取り出して、狙いをつける。
「私はきみに、なにか怨まれるようなことをやっただろうか」
射った矢は『英雄』の首筋をそれた。彼は一寸も動いていなかった。私の手元が狂ったのだ。
——赤くなったから。
太陽が戻ってきて、もう一度夕焼けを見せたかのようだった。
見るものすべてが赤く染まっていく中、『英雄』の目だけが取り残される。ぽっかりと、穴が浮いているように。
あの目は、私のような異常は持っていないのだろう。突然のように、激情が噴き出すこともないのだろう。
「母さんがいなかった」
「……そうか」
「死体を見つけなかったら、生きていることになるかも。って思った」
「なら、生きているかもしれない」
「でも、そこにはいなかった。じゃあ、死んだも同然だ」
「きみのお母さんが死んでいるとしても、それは獣人のせいだよ」
「母さんをさらったのは獣人だ。でも、母さんがそこにいなかったのは人間のせいだ。誰を怨めばいいか分からないなら、みんな怨めばいい。そう思ったら、すっきりした」
「だから、私に怨みをぶつけに来たのか」
「そうだったけど、今は違う。ただ、塗り潰したくてたまらない。獣人も鬱陶しかったけど、あれ以上に目障りに思えて仕方ない。黒色が邪魔で、邪魔で。だから、赤く塗り潰すんだ。赤色に染めてやるんだ」
「思ったんだけど、きみとは会話が成立している気がしないね」
『英雄』が苦笑した。
「……まあ、慣れてるからいいけど」
『英雄』はこちらを見つめたまま、動かない。
あの、赤い景色に目立つ黒点を、消し去りたかった。二つの目玉を潰したら、血が溢れる。暗い穴を満たすように、埋めるように。そうしてやっと、すべてが統一された赤になる。
弓を背負い、短剣を抜く。
えぐり出す感触を、この手で確かめたかった。そうでないと、信じられない気がした。それに短剣なら、そのまま皮剥ぎの作業に移行できる。皮を剥いだら、奴の赤い中身が見れる。奴が流すであろう血と、同じ色を。
「アハ。お前の皮では何が作れるかな。人間の皮って加工し辛そう。着心地も最悪そうだし、服はないよね。アハっ。切り刻んで、小分けにして、せいぜい袋として使ってやるのが限界かな。ああ、水入れにしてもいいかも。喉が渇いた時、いちいちお前に口を付けないといけないと思うと、ぞっとするけど。でも、それなら、いつも持ち歩けるし。水を飲むたびに、お前を殺した時のことを思い出して、楽しくなれる。仇を取ったんだ、っていう証を、いつでも何度でも、確認できる。アハっ! 妙案! 余りは玄関マットにしよ。家に帰ったら、さっそく敷いてあげる。嬉しくて、何度も何度も踏んじゃうだろうから、きっと、一日か二日ですぐ駄目になっちゃうけど。仕方ないよね。だって、『英雄』の皮だもん。そうだ。お前の後に、あの人間達も殺していこ。そしたら、大収獲だ。代えの玄関マットもいっぱいだ。ご近所にも配れる。アハ! アハハ! これで私も、皆の輪に入れるよ。だって、おみやげを持って帰るんだから! これって、すごく気の利いたことだよね!」
『英雄』は唖然と聞いていたが、途中で苦笑いが戻った。
といっても、それは口元だけで、暗い目にどんな感情が映っているかは分からない。これは私の見え方のせいなのか、それとも本当に『英雄』の目が異質なのか、区別はつかなかった。
「ピナレスが言っていた〈追い剥ぎ〉って、きみのことか。知ってるか? きみ、巷で有名な殺人鬼になってるよ」
「なんで? 襲ってきたから、返り討ちにしただけなのに。その証に皮を剥いだだけなのに」
分からない。分からない。分からない。
どいつもこいつも被害者面して。自分は他人に危害を加えたことはないんです、っていうような顔をして。『英雄』の諭すような顔を見ろ。こいつだって、私から奪っていったのに。たくさん殺しているのに。
「先に奪われたから、奪ってやったんだ! それの何が悪い! 人から奪っておいて、自分は奪われたくないなんて、そんな我が儘が通るわけないだろ! 言って分からないなら、やってやる。殺してやる。全部、奪ってやる!」
短剣を両手で握り締めて、空き地に飛び出す。突っ立っている体を蹴り倒したくて。短い助走から、強く地を蹴り、跳んだ。
四つの足がすべて、地を離れた。
——その瞬間、耳慣れた音が四方から聞こえた。
「か、はっ」
全身のあらゆるところを、太い針に貫かれた。そんな衝撃を受けた。
宙を跳んだ体は、地面に縫いつけられるように、勢いを失って倒れる。体全体がカッと熱く感じた後、すぐに熱が引いていく。無数に空いた穴から、血が逃げ出ていく。
見なくても分かる。
自分の体全体にあますことなく、矢が突き刺さっているのだ。きっと今、私は針山のような姿になっている。
不思議と、痛みは感じなかった。一度に感じた痛みが大き過ぎて、痛覚が遮断されたのかもしれない。
眼前に、『英雄』の足があった。手を伸ばせば届く。短剣ではなく毒矢を突き立てれば、まだ殺せる。
「カリム様、お下がりください。その女、まだ何かしようとしてますよ」
感覚の掴めない手で、矢筒のあたりを探っていると、きびきびとした声が聞こえた。その声に従って、『英雄』の足が遠ざかる。
殺せたのに。邪魔をされた。
怒りを込めて声がした方を見上げると、前に見た金髪の青年がいた。私の顔が歪んだのは、痛みのせいじゃない。
「殺してやる。殺してやる。殺してやる——」
「うーん、恐ろしい執念だ。カリム様、しつこい女とは付き合わないに限りますね」
「なんの話をしているんだ」
『英雄』の呆れた声がする。『英雄』がやけに落ち着いていたのは、最初からこの段取りがあったからか。仲間を信頼しきって、自分の命を預けていたからか。
違う、気がする。
『英雄』は、どこか不満げだった。自分一人で対処できたのに、とでも言いたげに。
なめられたものだ、とは思わなかった。
『英雄』は不思議な自信を持っていた。自分が死ぬ可能性を、微塵も信じていなかった。
それだけが、許せなかった。
「末代まで呪ってやる。根絶やしにしてやる。滅べ……滅べ……」
「まだ死なないのか。カリム様、とどめを刺しますか?」
「いや……、待て」
死にゆく者を見続ける趣味でもあるのだろうか。
魔法なんて使えないが、本気で呪いをかけるつもりで、『英雄』を睨む。『英雄』は何を思ったか、私の前でかがみ込んだ。手は決して届かない距離で。
「憐れだ」
仕留めた敵に対しかける言葉として、最悪の侮辱だった。だが、私が最後の力を振り絞って怒鳴る前に、『英雄』は目を伏せて続けた。
「同時に、羨ましい。きみには、怒りを向けられる相手がいたんだな。私は、誰に、何に、ぶつけたらいいのか分からないまま、ここまで来てしまった。巨大な怪物の腹の中でもがいているようだよ。叫んだものは自分に返ってくる。どうしようもなくて、無性に腹立たしい」
こいつは何を言っている。
私にだけ届かせようとしたその声は、音こそ小さかったが明瞭に聞こえた。
『英雄』は私と目を合わせ、疲れた微笑を見せる。
「私の性格は、あんまり褒められたものじゃないんだ。だから、最後に意地悪をしようと思う。——きみは本当に、私が憎いのか?」
塗り残った黒い瞳が遠のき、『英雄』が立ち去っていく。
最期の最期で、『英雄』はとんでもない衝撃を残していってくれた。先ほどの侮辱がかすんでしまうほどの。なんということをしてくれたのか。私には、もう、考える時間が、ないのに。
でも、思い返すような走馬灯も、私にはなかった。なら、このつかの間の時間を、『英雄』に思いをはせる時間にしてもいい、か。
『英雄』も、誰かから奪われたのだろうか。あるいは、何か、から。彼の怒りは、そこに由来するものか。私に分かったような口を利いてくれたから、そうなのだろう。そうか……、考えられない話ではなかった。
こんな時代に生まれたのだ。誰であれ、失うものがはるはずだ。それが、私の場合は、親愛なる両親であっただけのこと。
『英雄』の場合は、誰だろう。私のように両親か。あるいは、大切な恋人だろうか。尊敬していた師匠か。
彼に従い、進撃を続ける人間達も。肉親を奪われたのかもしれない。友人を失ったのかもしれない。
人の命じゃなくても、心は壊れる。信念を砕かれて。信じていたものに裏切られて。愛をどこかに忘れてきて。
そうだ。自分だけじゃない。お前だけじゃない。どこかの誰かにもそう言った。そう、頭では分かっていても、思ってしまう。叫びたくなる。
——なんで、私が奪われなければならないんだ!
世の中のせいだ。個に怒りを向けたところで、それは八つ当たりでしかない。そいつが、直接何かを奪っていった相手だったとしても。そいつを始末したところで、何の解決にもならない。
そのことに、気付かされてしまった。
残酷な真実に、気付くよう、仕向けられた。いや、本当はもっと昔から、知っていた。
世の中なんて巨大なものに、どうやったら立ち向かえるのか分からなかった。私達は、その腹の内にいるのに。考えるのもまどろっこしくて、確かな形を持ったものに向かった。だって、私は弓を射ることしかできない。
『英雄』ならば、この行き場のない怒りを抱きとめてくれる気がした。受け皿になってくれる気がした。
今、ようやく自覚した。私が何に激情していたのか。
この世界が憎い。大切な人たちを奪っていく時代の流れが、納得できない。ここで死ななければならない運命に、激怒する。
——誰がこんな世の中にしたんだ! 誰が戦争なんておっ始めたんだ! なんで私が死ななきゃならないんだ!
そう、癇癪を起こした子供のようにわめき散らしたかった。
『英雄』が抱いていたのも、こういう感情なのだろう。でも、彼は私より大人だったから、叫んでも誰も受け止めてくれないと知っていた。それを理不尽にぶつけてきた女に対して、彼は意趣返ししたに過ぎない。
あるいは、共感してくれる者が欲しかっただけか。
次第に、頭が働かなくなる。
この駆け巡った考えが、時間にしてどのくらいのものなのか。分かりそうもない。
瞼が重くなる。ゆっくりと閉じていく世界は、相も変わらず赤くて。瞼の裏側の世界は、静寂そうな黒が広がっていた。
*****
家路は遠く、幾度の夜を迎える。
空を見上げたケンタウロスの女は、誰を見つけようとしたのか。満天にきらめく星の中から、探す一つは見つけられたのか。
一筋流れていった星に、理由も分からないまま、女は涙した。




