1.勇気の方向性
『ケンタウロス。人間と変わらない上半身と、馬に似た下半身を持つ人種。人間よりは大柄だが、馬と比べるとやや小柄。その特徴的な四足で、どの人種よりも速く大地を疾走する。』
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行き場を失くした怒りはいずこへと。向かう先が分からぬまま足は進む。
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氏族長の天幕に、すべての隊長が集められた。決して狭いわけではない天幕内が、ケンタウロスでぎっしり詰まっている。
厩舎に押し込まれたみたいだ、と短気な青年隊長が早くも不機嫌になっている。無遠慮に尻尾を振り回し、周りの者に苛立ちを伝染させる。
そこまで露骨ではなかったが、他の大多数もどこか浮き足立っていた。
なにせ、こんなことは初めてだ。よほど重大な決定でもあったのだろう、というのが皆の見解だった。
ついにベスティニア皇国に全面的に攻め込むのだろうとか。亡国の民と化したリザードマンを受け入れるのだろうとか。いやいや、中立国であったドワーフと同盟を組むのだろうとか。
様々な憶測が流れている。
私はというと、そのどれにもぴんと来なかった。もともと戦略面には弱い。いや、それどころか戦術にだって疎い。そんな野良娘がなぜ、こんなところに並び立っているのか。私の方が聞きたい。
ただ必死に、戦場を駆けて、偉そうな奴の首を獲っていただけなのに。一つ、首を持って帰るたび上官が驚いた顔をするから、調子に乗ってしまった。気付いたら、こんな地位にいた。かつての上官が敬語を使ってくるようなところに。
己の腕一本でのし上がったと言えば聞こえはいいが、中身は戦士になる前と変わらない。狩人のままだ。獲物も敵も、弓で狙いをつければ射抜ける。私にとって両者に違いはなかった。
ある日いきなり、大層な肩書きと部下を与えられて、私は途方にくれた。生来の口下手が災いして、まともな部隊運用すらできない。幸い、優秀な副官も一緒についてきたので、彼にすべて丸投げすることができた。そして、変わらず今に至る。
お飾りの大将だ。でも、それでもいいらしい。君の勇姿に意味があるのだ、と氏族長に言われた。
周りのざわめきが収まり、氏族長が姿を現したことを察する。顔を上げて見た氏族長の暗い顔に、胸がざわついた。
「我々は戦線を撤退することに決めた」
重々しく口を開いて出た第一声が、それだった。
一拍置いて、皆が騒ぎ出す。最初から苛々していた青年隊長が、氏族長に食ってかかった。
「どういう意味ですか!」
「言葉の通りの意味だ。すべての戦場を放棄し、この戦乱から一切の身を引く。これ以上の戦闘に意味はないと判断した。続けても、我々が消耗するだけだ。たとえ勝ったとしても得るものは何もないに等しい」
「そ、それでは、先に死んでいった奴らが浮かばれません! あいつらは何のために死んだんだ!」
「では、その弔合戦をいつまで続けるかね。……そういった者をこれ以上増やさないための、今回の決定だ。惰性で戦闘を続けても、負けに行くようなものだろう」
「……っ、他の氏族を見捨てることはできません。奴らが引かない限り、俺は戦場に残ります」
「それも心配ない。これは私の一存ではないからな。今季の族長会議で決議が取られた。すべての氏族が剣を置く。代わりに、盾を持つ」
周りの者が息を呑む。
「我々が生まれる前から、この戦乱に、ケンタウロスは身を投じ続けてきた。いい加減、身も心も疲れ果てている。そのくせ、勢いのある新興勢力は次々と現れ、大陸の勢力図はどんどん塗り変わる。——今あるものを守る、その方針に転換するべきだ」
辺りはしんと静まり返っていた。氏族長が背負う疲労感に、皆が頭を垂れていく。無理をして奮い立たせていた気力が、ぷつぷつと途切れていく音を聞いた。
「聖郷に帰ろう。かの都を守り通せれば、それでいいだろう」
氏族長が優しい声で皆をなだめる。
最初に声を上げた青年隊長は、悔しそうに唇を噛んで下を向いた。誰かが、すすり泣きを始めた。敵をそのままに引き下がることを、全員が納得したとは思えない。でも、全体がどこかほっと安心していた。
思っていても言い出せなかったことを、他でもない氏族長が言葉にした。皆が、これ幸いと寄りかかろうとしていた。
それでいいのか。
どこからも異論が出ない。驚き、焦り、反論しようとしているのは私だけか。ここにいる連中はこれまで、嫌々戦っていたのか。戦わされてきたと、思っているのか。驚愕の事実だ。
疲れたからやーめた、なんてそんな馬鹿な話があるか。得るものがない? だからなんだ。殺された親や兄弟、戦友の仇を取れると思うだけで、私なら奮い立つ。
さらけ出された腑抜けの集団に、大きな失望を覚える。今まで、こんな者達と肩を並べていたなんて。
憧れの戦士だった氏族長が、今はただ、くたびれた中年男にしか見えない。吐き出せない思いの渦を抱えたまま、氏族長を睨む。
どんな憶測よりも荒唐無稽な話が現実になるとは。せめて、私だけは腑抜けの仲間でないことを証明しなければ。
集会が解散された後、私は氏族長に突きつけるべき言葉を練った。
口下手なのを自覚してからは、こうして事前に話す内容を考えてから、人に意見を言うようにしていた。考えなしに口を開くと、気持ちが先走って、感情に任せた言葉しか出てこない。相手を説得したいならそれは逆効果だと、私は再三学んだ。
何を考えているか分からない。
と、よく言われる。君とはポーカーで勝負したくない、とも。私は、感情が表に出ていないようだ。これでも、色々考えているし、感情豊かなつもりなのだが。
表情の変化がないまま、突然堰を切ったように話し出すから、相手に恐怖を与えるらしい。そういう時は大抵、何かしら気持ちが昂っている。それで余計に、相手に詰め寄るような感じになってしまっているのだろう。
だから、万全の準備をした。氏族長相手に失礼ないように。ちゃんと、水を頭からかぶって冷静にもなった。
それなのに、当の氏族長とその副官が台無しにしやがった。
夜が更けると、氏族長は必ず星空を見上げに高台に出る。戦死した仲間の輝きを見るために。
星の一つ一つが、死んでいったケンタウロスが昇天した姿なのだと、昔、母に教えられた。輝く一等星には気高い戦士しかなれない。自分もあの一等星になる、とても強い戦士になる、と幼い頃、母にそう豪語した。
氏族長は星に目を向けながら、何か話していた。隣には副官の姿がある。
盗み聞きするつもりはなかった。二人の後ろ姿を見つけ、近寄っていく間に、聞こえてしまった。ケンタウロスのよく聞こえる耳が、この時は仇になった。
「死んだ者は語りかけてくれないな。我らの判断に賛同するのか、叱責するのか。それすらも分からない」
「貴方も、他の族長も、ケンタウロス全体のことを考えて決断なさったのです。このまま戦い続ければ、我々はいずれ滅んでしまう。そのようなことは、先祖の戦士達も望まれないでしょう」
「ケンタウロスも軟弱になったと嘆かれていそうだ」
氏族長が苦笑する。空を仰ぎ見る氏族長につられて、私も顔を上に向ける。
星が静かに瞬いていた。そこから声が聞こえてくることはない。四年に一度、ツムジ山脈の頂を登った時だけ、彼らは語りかけてくれる。私も二回、その儀式に参加したことがある。
私達が平原にいる間は、ご先祖様もただ見守るだけだ。
「……恐くなったのだ、終わりの見えない戦いが」
澄んだ夜の空気に、氏族長の声がよく通った。
「戦乱の濁った空気が、誰も彼もを狂わせていく。温厚なサテュロスの中に『バフォメット』などという過激派が生まれたのも、この世の中のせいだ。彼らは野に生きる獣のように自由だった。規律も戒律もなく、思うがままに生を謳歌する。それを野蛮と呼ぶか、素朴と呼ぶかは人によるところだが……少なくとも、あんな身の毛のよだつ行為はしないはずなんだ。本来の彼らならば」
氏族長は常日頃から、サテュロスに対して好意的な態度を取っていた。氏族長だけではない、おそらくケンタウロスの中にサテュロスを嫌う者はいない。
ツムジ山脈を登る際には、彼らの里を必ず通らなければならなかった。勝手に訪ねてきたよそ者に対して、彼らは眉の一つもひそめない。それどころか、山登りで疲れ果てた私達のそばで宴会の準備を始める。理由を問えば、せっかくの出会いの記念に酒を飲まないのはなぜか、と逆に問われる。
その無邪気さに、氏族長は彼らのことを親愛の情を込めて“愛すべき山羊たち“と呼んでいた。
来る者拒まず、去る者追わず。刹那の出会いを大切にする。彼らのスタンスは気持ちのいいものだった。その態度はケンタウロスに限らず、すべての人種に同等にふるまわれた。
基本的には、どの国も人種も、サテュロスに悪意を持つことはなかった。彼らは戦乱とは関わりのない場所で、好きなように生きている。そのはずだった。
「『バフォメット』が人間によって壊滅させられたと聞いた時、私は恐ろしくなった。温厚なサテュロスを悪魔に変えてしまうほど追い詰めたこと。そして、人間がアラクネの一派に続いて悪魔退治までやってのけたこと。大人しい彼らが剣を取るまでに至った、その原因の一端が我々にもあるのではないか、とね。戦乱がこのまま続けば、その刃がいつか我々に向けられる日も来るかもしれない。誰かが引かなければ、争いはいつまでも続く。……私は、そう思ったんだ」
「退くのもまた勇気でありましょう。時にそれは、戦いに向かうことより難しい」
二人の言葉が耳を通り抜けていく。整えてきた私の言葉が崩れていく。
生ぬるい気休めの言葉など、この時代になんの役に立つ。そんなもの、犬にでも食わせてしまえ。
ここで退いたら、どのみち蹂躙される未来しかない。氏族長だって、それを分かっているはずだ。ケンタウロスが生き残るためには、戦乱から逃げる選択肢などありえない。負けるなんてもってのほかだ。勝つしかほかに方法ない。
「——なにがっ、何が勇気だ! そんなものは臆病者の言い訳だ。腰抜けのやることだ。今さら後に引けるなんて本気で思ってるのか!」
氏族長と副官が驚いた顔をして、振り向く。
やってしまった、なんて後悔は心の隅に追いやる。気付いたら、声を荒げていた。拳が握られていて、肩が強張っていた。自制の効かない尻尾が宙を払う。
「その言い訳にも他者を引き合いに出すなんて! 卑怯もいいところだ。どこぞの山羊どもが勝手にやらかして自滅した。それだけのことに、なんで私達が責任を感じないといけないんだ!」
「マティルダ、控えろ。氏族長に向かって、なんという口の利き方をする!」
「嫌だ、黙らない!!」
副官の叱言に、反射的に口ごたえしてしまう。一瞬肝が冷えたが、すぐにどうでもよくなる。氏族を追い出されるなら、それでも構わない。そんなことされなくても、自分から出て行く。
「臆病者に払う敬意なんてない。リカルド・オド、あなたはもっと勇敢な人だと思っていた。がっかりです」
「マティルダ!」
前に出ようとした副官を、氏族長リカルドが手で制する。気にすることなく、私は思いの丈をぶつけ続けた。
「お前は、獣人に捕らえられ、奴隷としてこき使われる仲間を見捨てる判断をしたんだ。彼らを見殺しにして、自分はのうのうと郷に帰るという立派な決断をした! それを勇気だと! よくもそんなことを!」
副官がはっと言葉に詰まった。リカルドはじっと私のことを見ている。
きちんと目を合わせて、私の思いを聞いていた。それが余計に、こちらを逆上させる。その目に、なだめようとする意思があったからだ。今日だけで何度、私を幻滅させる気なのか。諦めろと、この人は言うつもりだ。
相手が口を開く前に、決意を叫ぶ。
「私はたとえ一人でも、母を助けに行く。たった一人の肉親を放っておくことなんて、できない。母だけじゃない、奴隷となったケンタウロス全員、彼らを救うため全力を尽くす」
「マティルダ……、君はまだ、お母さんのことを——」
顔を背けた副官が、言いにくそうに口ごもる。
そうやって気を使われるのも、腹立たしくて仕方がなかった。それが、見当外れな思いやりだからだ。
「母は生きてる。私は、ツムジ山脈で母の声を聞いていない」
四年前、初めてツムジ山脈の儀式に参加した時には、誰の声も聞こえなかった。自分が未熟だからかと思ったが、そうではなかったらしい。今年の夏、二度目の儀式に参加したら、ちゃんと語りかけてくる存在があった。去年死んだ、私の父だった。
それがきっかけで、十年前、さらわれたきりだった母の生存に、確信を持てた。
副官は黙りこくり、リカルドは目を閉じて諦めたように頷く。
「立派な志だ。私が君の立場だったら、同じようにしただろう」
「私は、私があなたの立場だったとしても、同じ選択は取らないと思う」
吐き捨て、二人に背を向ける。一秒でも早くここから駆け去りたかった。
もう呼び止められることもない。私はこの瞬間から、オド氏族の一員ではなくなったのだ。
自室として利用していた幕舎に戻ると、私はさっそく長旅の準備を始めた。
手入れをせず放っていた髪を、短剣を使って雑にそろえる。子供の頃、私の髪を切ってくれていた父は、毎回懲りずに私をおかっぱ頭にした。きっとそれしか知らなかったのだ。自分で髪を切るようになってからも、私は習慣のように同じ髪型にしている。
首元がすっきりした後は、旅装束へと着替える。服の上からは胸当てを着ける。
手荷物は少し大きめの袋に無造作に放り込んでいく。他人種からすれば大荷物でも、ケンタウロスにとってはこの程度どうということはなく、平気で担いで長距離を移動できる。
だからこそ、労働奴隷として獣人に目をつけられたのかもしれない。皮肉なことだ。
獣人といえば、忘れてはいけないものがあった。
寝床として使っていたマットの上から、獣人の毛皮を取る。
狼の獣人の身から剥ぎ取ったこの毛皮は、父の仇を取った証だった。狩人として戦利品を身につけるのは当たり前のことなのに、仲間からはなぜか引いた目で見られていた。彼らだって、動物の毛皮は身につけるのに。
あれかもしれない。仇敵の一部を肌身につける、という行為を嫌悪されているのかもしれない。それなら理解できる。
私も最初はおぞましかった。しかし、一度思い切って羽織ってみると、その暖かさに病み付きになった。獣人も死んだら役に立つ、ということだ。
頭巾をかぶると、狼の頭が私の頭の上に鎮座する。そこから毛皮がマントのように上半身の背に広がって、前肢のあたりでふさふさの尻尾が垂れる。尻尾は矢筒に加工してあった。
最後に、弓矢を手に取る。私の大事な相棒だ。毛皮にした獣人も、この弓で仕留めた。
荷物を背負うと、室内はほとんど物がない殺風景な場所になる。もともと物は多い方ではなかった。名残惜しさも特に感じない。垂れ幕を押して、さっさと外に出る。
陣営内は、夜だというのに多くの人が行き来していた。皆、ここを立ち退く準備で忙しいのだろう。誰一人として、私を気に留める者はいなかった。
別れを告げる相手もいない。ここには私の仲間はいたが、友はいなかった。それを寂しいとも思わなかった。
逃げ腰になった同族に期待するぐらいなら、見守ることしかできないご先祖様に頼った方がいい。あの中なら私の父もいるし、父なら私の肩を持つだろう。陣営を出る前に一度、空を見上げてお願いする。
どうか、私を母のもとまで導いてください。
願いが通じたのか、星が夜道を照らしてくれた気がした。それでも、背後のかがり火に比べれば淡い光だ。行く先はまだまだ暗い。気を引き締めた後、私は強く地を蹴った。




