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予知夢から始まる英雄譚  作者: 鴉山 九郎
【2章 悶える悪魔は色欲に沈んだ】
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5.彼方の愛に届かない

 『バフォメット』はますます有名になった。悪名高い賊の一つとして、人々に恐れられた。あるいは、憎まれた。

 近頃は、こちらの装束を目にしただけで名を言い当てる者も多い。

 あの悪魔がやってくる。女子供は隠れろ。男は武器を取れ。

 そう警戒されてしまっては、やりにくくもなる。お忘れかもしれないが、オレ達はもともと素朴な農牧民。迎え討たれるのは困る。正面対決なんて土下座してでも回避したい。手薄な村を襲うのがせいぜいの、臆病者の集まりだ。

 そう、実際のところ脅威でもなんでもなかった。戦局に影響を与えることなんてできやしない。陣地取りに夢中なお上には、せいぜい小バエ程度に思われていれば上等なぐらい。

 それが、妙な連中に目をつけられた。


「人間の『英雄』ねぇ。大層な肩書きじゃないか」


 口にした単語の皮肉さに唇が歪む。

 彼らはいわゆる“正当に”名を上げた集団だった。こちらの悪評が出回り始めた頃、同じく名前をよく聞くようになった。

 ラヌート山のアラクネ一派を壊滅させた、人間の首謀者。まぐれのような成功の後、あちこちの農村で仲間を募り、順調に集団の規模を増しているらしい。アラクネを打倒した事実は、それだけ人間を調子付かせた。

 まったく、己の所業を華々しい名で讃えるとは。なんという厚かましさ。少しはオレを見習ってほしい。悪魔の名を自称する謙虚さを。

 まあ、色々あって。その『悪魔』は今、その名にふさわしく『英雄』に追われているわけだが。

 やる気のない討伐隊を差し向けられたことは、以前にもあった。そういう連中は、オレ達が全力で逃げれば、わざわざ山中まで追ってこなかった。殺す気で追われるなんて、初めての体験だ。

 スリリングにもほどがある。




 これは敗走とは言わない。戦略的撤退というやつだ。

 ああ、これ、一度言ってみたかったんだよね。まるで自分が知将にでもなった気分じゃないか。——それとも、言い訳三昧の愚将か。

 いつもの段取りで人間の村を襲おうとしたところ、狙いに定めていた村がもぬけの殻だった。最近はこういうことがよくあった。事前にこちらの動きを察知すると、立ち向かうより逃げることを選択する村が増えている。

 だからこの時も、またか、と思うだけだった。

 ただ、期待だけで興奮しきっていた仲間の一人は、落胆を隠さなかった。苛立ちまぎれに家を漁ろうと、無人の民家に押し入ろうとした。

 その次の瞬間、家が吹っ飛んだ。

 轟音に鼓膜が震えた。何が起こったか、分からなかった。ただ、不用意な仲間の体も、家と一緒に木っ端微塵になったことだけは理解した。

 ばらばらと降ってくる家のかけらと一緒に、どこの部位とも分からない肉片が落ちてきたから。

 皆が混乱した悲鳴を上げた。口から入ってきた埃と煙に、むせ返る。焦げの匂いに鼻の奥がひりつく。息苦しさに涙がにじむ。

 不明瞭な視界が、もうもうと上がる土埃と硝煙の向こうに、人影をとらえた。


「逃げるぞ……!」


 確固たる根拠があったわけじゃない。ただの直感だった。『英雄』様ご本人に相対してしまったと。

 連中のやり口には、聞き覚えがあった。


「応戦しないんすか! 仲間がやられてんのに!」


 すでに武器を抜きかけていたジャイルズが、大きく咳き込む。声を張り上げたことで煙を吸い込んだのだろう。

 マントで自分の鼻と口を覆いながら、オレはすでに後ずさりを始めていた。


「アラクネの残党を蹴散らした手口に似ているんだよ……! この場に居座っても肉片になるだけだ」


 住民を先に避難させて、残された家をぽんぽんと吹っ飛ばしやがる。とんでもなく派手で過激な戦法を、『英雄』様は好んで使う。ここまで大掛かりだからこそ、用意は周到だ。ここで粘ったところで、殺される未来しか見えない。

 幸い、こちらも事前の準備は怠っていない。逃走経路は常に確保してある。弱いからこそ、注意深く生きる。そこは人間と共通するところだ。

 逃げるが勝ち。という便利な言葉が世の中にはあるわけだし。今こそ、その心意気を存分に使っていこう。

 仲間を引き連れて逃走する間際、ぼそりと英雄が言うのが耳に入った。


「有名になるというのも考えものだな」


 その言葉には、ひどく共感した。




 山岳地帯が多いこの地域は、『バフォメット』にとって絶好の拠点だった。きっと地元住民よりオレ達の方が、この辺りの隠れ家や抜け道に詳しい。

 そもそも、他の人種には“抜け道”とすら認識できていないか。

 切り立った崖は天然の要塞として立ちふさがる。道とも呼べない狭い足場は、一歩踏み外せば底の見えない渓谷にまっさかさま。これまでの討伐隊が、オレ達を追ってこなかったのは、山中まで追ってこれなかったからだ。

 サテュロスの蹄にかかれば、垂直にそそり立って見える崖も、ちょっとした坂道にすぎない。割れた蹄でほんのちょっとの出っ張りを掴み、ほんの少しのくぼみに足をかけ、軽々と登る。強い足腰は、生まれた時からの山暮らしの賜物だ。

 同じ蹄を持つ者でも、ケンタウロスではこうはいかない。彼らの四つ足は平地を駆けるのには適していたが、山登りには向いていなかった。それでも星空を身近に感じるために、あの標高の高さまでわざわざ赴いていたというのだから、彼らの精神性には頭が下がる。


「兄貴、あいつら追ってきてる」


 先ほどに比べれば、ジャイルズの声に焦りはない。

 登りかけの崖の上から、地平を見下ろす。下の方に集まった黒い影もこちらを見上げていた。視線が合ったかどうかは、この距離では定かではない。


「放っておけ。どうせ弓も当たらない。ここを登ってくるだけの根性があるなら、堂々と上で迎え討ってやればいいさ」


 道具でも使わない限り、人間の足でこの崖を登るのは無理だ。山を登るだけなら回り道もあるが、こちらから目を離して、もう一度オレ達を見つけ出すのは至難のわざだろう。入り組んだ山は、狙った場所に出るのも難しい。


「なあ、石落としたら、あいつらに当たると思うか?」

「はっ、いいね。競争するかい? それとも賭ける?」


 数人が、小石を掴んで弄び始める。

 そんな、それこそ博打のような攻撃が当たるとは思えなかった。攻撃ではなく嫌がらせのつもりなら、多少効果があるかもしれないが。

 いや、決して石の威力をなめているわけではない。投石は立派な狩猟手段の一つだ。城攻めならば投石機は必須になる。現状、オレ達には地の利がある。この高低差がそのまま威力になる。ただ落とすだけで殺傷能力が増す武器だ。馬鹿にできない。

 当たれば、の話だが。

 命中の精度を上げるなら、岩でも用意したほうがいい。幸い、この山は脆く削れやすい。そういった岩がごろごろしている。

 そこまで考えて、背にじっとりと汗をかいた。


「おい、馬鹿ども。ぐずぐずしてないで、さっさと上がってこい——」


 少し離れた場所で、石の吟味をしている連中に声をかける。直後、彼らは顔を上げた。

 オレに対してではない。急に暗くなった頭上を訝しんで、だ。

 彼らの目が見開く。蹄でわずかな振動を感じ取る。地響きに似た音の正体は、確かめるまでもなかった。

 反射的に崖にしがみつく。


「そんなところで固まるな! 逃げろ!」


 叫んだ声も、滑り落ちてきた巨石によってむなしくかき消される。己のすぐ横を岩の砲丸が、通り過ぎていく。岩肌を削り取り、生まれた小石を引き連れながら。勢いそのままに、仲間達が弾き飛ばされた。地獄の底への道連れに。

 宙に放られ、地に吸い込まれていく幾人かの体。その後を、岩と石が追う。

 その光景を最後まで見届けることなく、崖の上へと目を向ける。

 あるはずのない、人間の姿がそこにあった。


「あいつらか」


 岩を落としたのは。

 人影は目が合ったと感じたのか、そそくさと、こちらから見えない位置に引っ込もうとする。また岩を転がしてくるつもりなのかもしれない。

 背負っていた大鎌に手が伸びる。奴らの姿が見えなくなった瞬間、オレは崖を強く蹴り上げていた。

 ああ一つ、人間が軽んじていたものがあったとするなら、それはサテュロスの飛躍力だ。たとえ姿を見られても、もう一発ぐらい落とす余裕はあるだろうと思ってしまった慢心。

 こいつはいけない。驕りは弱者の天敵だ。

 弱き者は相手を見下す暇があったら、用心に用心を重ねるべきなのだ。その方が、結果的に良い方向に転がる。先ほど内心で人間を侮ってしまった分の自戒も込めて、思う。

 人間共が立つ地面を悠に飛び越えて、宙で身をひねる。渾身の一撃を振り下ろしてやるために。

 気配に気付いて人間が振り返る。その鼻面に、錆びた大鎌の先端がめり込んだ。衝撃で目玉が飛び出す。大きな痙攣を一つだけすると、体がだらりと垂れ下がる。刃を引き抜こうとすると、どこかの骨に引っかかったのか、うまく抜けなかった。


「さ、サテュロスが上がってきたぞ! 応戦しろ!」


 遅れて気付いた人間達が悲鳴のような声を上げる。

 大鎌を持ち上げれば、そのまま人間の体がぶら下がってきた。力任せに一振りすると、遠心力にまかせて人体がすっぽ抜ける。そして勢いのまま、崖の下に消えていった。

 ちょうどその時、追いついた『バフォメット』の仲間達が、オレの隣に着地した。ジャイルズは目を丸くして後方を気にする。


「なんか、死体が飛んでったんすけど」

「ああ、おまえらもやってみろよ。レッツ崖下にダストシュート」


 人間達がたどたどしく武器を構え始める。

 オレ達が通ってきた場所よりは安定しているが、ここも崖路であることに変わりない。怖気付いて数歩でも下がれば、底の見えない闇が待ち構えている。

 『バフォメット』も各々、得物を手にする。不安定な足場でも、彼らの姿勢は揺らがなかった。


「おい、なんでここに人間がいるんだ。話がちげぇじゃねえか」

「悪い。相手を見くびった。別働隊を待機させておくほどには、用心深かったらしい」

「は? 俺たちがここに逃げ込むことがバレてたってことかよ」


 人間の顔は緊張で強張っている。もう後には引けない。転落するか、『バフォメット』の刃にかかるか、選択を迫られているようなものだ。

 そして彼らは、むざむざ背を向けて殺されるよりも、立ち向かうことを選んだ。

 剣を手に人間が走ってくる。なかば転がるようにして、『バフォメット』の射程内に入り込む。いや、実際に足が滑ったらしい。体の軸がぶれる。なんとか振り上げた剣は明後日の方向を向いていた。

 話にならない。

 一歩も動くことなく、大鎌を振るう。心臓部に先端をえぐり込ませ、内臓を耕してやれば、肉の破片が飛び散った。

 『バフォメット』から失笑がもれる。先鋒の滑稽な負け様に、後に続く人間が尻込みする。

 その隙に、今度はこちらから飛び出した。


「逃げるな! 応戦しろ!」


 この場の指揮官らしき男が声を張り上げる。

 だが、慌てふためく人間達の耳にその声は届かない。逃げ出そうとして崖から転落する者、転んで滑り落ちていくところを『バフォメット』に刈り取られる者。まともに戦おうとした人間だって、『バフォメット』よりも自分の足元を相手に悪戦苦闘している。

 地形は人間の味方ではなかった。

 悪路を跳ね、『バフォメット』は人間に飛びかかる。人間の体を裂きながらの着地だってお手の物だ。……血に濡れた岩に足を取られ、すっ転んだアホもいるにはいたが。おおむね、好調と言えるだろう。


「この……っ、畜生共が。奈落の底に落ちて死ね。落石に潰されて死ね。岩に頭ぶつけて死ね。内臓垂れ流して死ね。——僕に殺されて死ねッ!!」


 唐突に、呪詛そのものの咆哮が耳に入り、背筋が凍る。どうやら、洒落にならないものまで紛れ込んでいるらしい。

 大鎌の柄を握り直して振り返れば、襲いかかる『バフォメット』を返り討ちにする人間がいた。先ほどの、指揮官と思しき男だった。

 鬼気迫る顔で、長剣を振るっている。数人の『バフォメット』を一度に相手し、まったく後れを取っていない。一撃一撃に籠められた殺意に、離れていても身震いした。

 仲間を助けるために、足を動かさないといけない。分かっている。だが、どうしても。それができなかった。その異様な男に近付くことを、全身が拒否した。

 そうしている間にも、一人、一人、と仲間が刈り取られていく。男は一撃で殺せなかった相手には、なにかに憑かれたように、執拗に、剣を体にもぐり込ませていた。まだ息のある『バフォメット』がのたうつ。動くたび、何度となく刺された体から血があふれ出る。


「惨殺された男の痛みを知れ。蹂躙された女の苦しみを知れ。未来を奪われた子の無念を知れ。どうしたって、『悪魔』に分かるわけがないだろうけどな」


 やっと事切れた『バフォメット』を蹴り飛ばして、谷底へと落とす。狂気を孕んだ男が、こちらを向いた。

 男の顔には影が落ちている。暗い目元から、ギラついた眼光だけが存在を主張していた。

 その目に射すくめられ、オレは悟る。

 こいつは、オレが生み出してしまったものだ。『バフォメット』を殺すためだけに生きている屍のようなものだ。どこかの村で仕留め損ねた、死に損ないの男だ。

 そう考えれば、男の怨恨も理解できる。申し訳なさに身がすくむ。

 ——その時に、きっちりと殺してやればよかった。

 そうすれば、復讐なんて苦しい行為を彼に強いることもなかったのに。仲の良い幼馴染達と一緒に、今頃安らかに眠れていたはずなのに。

 自身の不手際を、心中で詫びる。贖罪は……行動で示せばいいだろう。


「おまえが首領だな?」


 男が断定的な口調で問いを投げてくる。


「そうだ。そういうあんたは、ここの指揮官ってことでいいんだよな?」


 答えは返ってこない。疑うことしか知らなさそうな目が、こちらの全身をひと舐めした。

 一瞬の後。

 男が予備動作なく、前に飛び出た。水平に流れる剣筋。その軌道を、曲線状の刃で受け止める。錆がごりごりと削り落ちていった。

 間を置かず、次の一手が打たれる。一度飛びのくと、男はその場で地面を蹴り上げた。脆い岩が崩され、破片が飛んでくる。むやみに後ろに下がることはできない。腕を上げて顔をかばうほかなかった。

 チャンスを得たりとばかりに、男が突進してくる。前しか見ていない様は、さながらイノシシのようだ。オレの背後では、渓谷が口を開いて、獲物が落ちてくるのを待ち受けているというのに。

 男と心中する趣味はない。ぎりぎりまで引きつけてから、地面を蹴る。勢いを殺す様子もなく突っ込んできた男の、頭上を飛び越える。この調子なら、余裕の宙返りをして着地をした時にはもう、男は身を投げている。駄目押しに背中を蹴ってやる必要もない。

 そのはずだった。


「無謀なことはするなとあれほど言ったのに!」


 きつく叱りつける声に、振り返る。いくらか青ざめた顔で息を切らす『英雄』が、そこにいた。相当急ぎ、焦ったであろうことは乱れた身なりを見れば分かる。

 一方、男は『英雄』の足元で咳き込んでいた。落ちる直前、マントの裾を掴まれて地面に引き倒されたのだろう。首元を押さえて、涙目になっている。男は地面に倒れ込んだまま、『英雄』を見上げた。

 その目に、涙だけではない、奇妙な光を見た。


「か、……カリム様。お手を煩わせてしまい申し訳ありません」

「“様”はやめろと何度も——いや、今はどうでもいいか。よく持ちこたえてくれた」


 表情を和らげ、仲間の無事を心の底から喜ぶ『英雄』。彼の差し伸べた手を強く掴み、立ち上がる男。

 一連の光景が、胸騒ぎを起こした。

 知らず知らず、彼らから距離をとるように移動している。人間と『バフォメット』の戦闘の喧騒が、どこか遠くで行われる物音に思えた。


「あり得ない」


 ここに『英雄』の姿があるはずがない。どんなに急いでも、人間の足ではサテュロスに追いつけない。


「あんた、転移の魔法でも使えるのか」

「転移か、いや。私はそんな貴重な魔法を使えないよ」


 『英雄』が自嘲するように笑う。


「からくりも何もない、簡単な話さ。途中まで馬を走らせた」

「馬……」

「昔からの、人間の友だ。先回りするのを助けてもらった」


 そうか。人間にとって、馬は乗り物なのか。

 荷物を運んだもらったり、畑を耕すのを手伝ってもらったり、そういう用途で接することはあっても、馬そのものに乗るという認識は。そもそも抜け落ちていた。

 こちらがよほど間抜けな面をしていたのだろう。『英雄』は気が緩んだような、誇らしげな顔を見せた。


「単純なことこそ見落とすものだね。馬に乗る人種は人間くらいだからかな」

「い、いや、それにしたって、どうやってこの場所を——」

「うん。それについては、そうだな。“よく見ていた”だけだ。きみたちがどこを通り、逃げ、帰るのか。かなり前から、ずっと。目の良い狩人がいるんだ、こっちには」


 『英雄』は男と目を合わせた。彼がその狩人というやつなのだろう。

 単純な視力だけではない、観察力も含めて言っているのは違いない。何日間か、何週間か、下調べをしていたということだ。最初から、予測されていた。いや、誘導されていたのかもしれない。ここへ逃走してくるように。

 呆然としている間にも、人間がもう一人駆け込んでくる。髪の長い女だ。『英雄』を追ってきたらしい、彼の姿を見つけると顔に安堵の色を浮かべた。それから、オレの方に目を向けると、気弱そうな表情が一変して、きりりと勇ましい空気をまとった。

 人間が三人並び立つ。眩しい光景だった。


「英雄カリム様のご到着だ! 勝利は我らが手にしたも同然。皆、今一度、力を振り絞れ!」


 女が声を張り上げ、檄を飛ばす。

 『バフォメット』に押され気味だった人間が、それを耳にした途端、一斉に鬨の声を上げた。その勢いに『バフォメット』がたじろぐ。


「うおー!」

「英雄! 英雄!」

「行け、進めぇ! 負けるわけがねえ!」


 女に続いて、人間が仲間同士で鼓舞する。地が割れんばかりの歓声が巻き起こる。

 そんなに大勢で声を響かせちゃ、本当に地滑りが起きちまう。この一帯はただでさえ脆い地盤だっていうのに。人間だって忘れたわけじゃあるまい。

 火がついたような人間の猛攻に、『バフォメット』は対応できずにいた。

 助けを求めるように、仲間達がオレを見る。

 責めるような、すがるような視線に、オレは自分の立場を思い出した。人間の『英雄』のように颯爽にとはいかない。だが、オレには仲間の命を守る義務がある。この危機を脱する判断を下さなければならない。

 撤退戦をするならば、早いうちに。


「退却する! 足が残っているうちに逃げるぞ!」

「逃げるったってどこに!」

「オレ達には守るべき砦も城もないんだ。身一つあれば、どこへ行ったっていい!」


 もともと集団の規模は小さい。一時、身を隠せるぐらいの拠点はいくらでも見つかる。

 来た道を駆け下りては、また岩を落とされる可能性がある。下に残った人間達が当然のよう待ち構えているのも、容易に想像できた。

 しばらくは追撃を受けても、崖道を行った方がいいだろう。

 仲間を山の方へ追い立て、自身は殿で大鎌を一振りする。


「逃がすか! 皆、追え!」

「生きて帰すな!」


 威勢はいいが、この悪路に人間が太刀打ちできるとは思えない。先頭の人間が大鎌に怯んだところで、仲間から数歩遅れて、オレも退散を開始する。時折、追いついてきた人間を大鎌で叩き落としながら、崖道を駆け去る。

 敗走しているとはいえ、『バフォメット』には気持ちの余裕があった。人間はしつこく追ってくるが、勝手に足を滑らせて転落していく。

 追走する人間との距離は次第に開き、大鎌を振るう頻度も少なくなる。

 後方ばかりを気にかけていた視線を、前方に戻す。一際狭い道を通った、その時だった。男達の悲鳴が上がった。地響きの音が同時に聞こえる。細かな地面の振動に足が止まる。

 首を伸ばして見た先には、押し寄せる岩に、なすすべなく呑まれる『バフォメット』達の姿があった。腕だけを突き出してもがく者がいる。その上にも岩が降ってきて、曲がってはいけない方向に腕は折れた。立ちのぼる土煙によって、そんな光景すら、すぐに押し流されていく。

 オレの足元にも、小さな石が転がり込んでくる。こつんと蹄に当たったそれを見て、オレはその場から飛びのいた。

 急な斜面を滑り落ちてくる岩のくず。細かなそれらは、すぐ後にくる親玉——崖崩れの前兆だった。さっきまでオレが立っていた場所に、岩が崖を崩し、仲間を増やしながら流れ込んでくる。道もろとも呑み込んで、そこに新たな崖を作る。

 足をつける場所に迷い、左の蹄が浮く。両足を地につけたら、自分が今いる場所さえも崩れ落ちてしまう気がした。


「一人逃したな」

「もうここには崩せるところがないぞ。どうする?」


 頭上から聞こえてきた会話に、背筋が凍る思いがした。

 待ち伏せされているだろうとは考えた。だが、それは地上の部隊のことで、山中にまだ潜伏している人間がいるとは思いもしていなかった。

 新興勢力だというから少人数を予想していたが、見誤ったかもしれない。

 しかも奴ら、“ここには”とのたまった。他にも、崩落の準備をしている場所があるということだ。

 斜面の付近は危ない。いつ岩の雨が降ってくるか分かったものではない。

 平らな地面を行けばその分、人間も足を動かしやすくなる。追撃もされやすくなる。それでも、岩に押し潰されるよりはマシだ。

 仲間の断末魔の叫びも、呻きも、もう聞こえない。土砂崩れが収まった山はゾッとするほどの静寂をたたえていた。

 土埃が収まりきる前に、見えない向こう側に釘付けだった視線を、無理やり切り離す。後ろめたさに引っ張られながらも、切り立った崖から離れるようにオレは方向転換した。




 はめられた。

 幾度となく進路を変更して、行き着いた先。それが、奈落の上へと伸びる崖っぷちだったとは。

 ためしに先端から下を覗いてみるが、下りられそうな場所はない。体を乗り出すとそのまま強風に押されそうになり、慌てて後ろへ下がる。

 山中の様子を思い出し、ほぞを噛む。

 人間に誘導されたのだ。行こうと思った道はことごとく、崩落していたり、巨石に塞がれていたりした。あれらもすべて、人為的なものだったのだろう。


「よくもまあ、こんな大掛かりなことを……。いったいいつから準備していたのやら」


 惨敗だ。『バフォメット』の生き残りは、もはやオレ一人。ここから逃げ切れたとして、活動を続けることなんてできやしない。

 なら、今できる最善を探るしかあるまい。

 来た道を戻ろうとして、人間の姿が目に入った。


「あの三人か」


 飛び出した崖の付け根の辺りに、『英雄』と、先ほども一緒にいた男女が立っている。他の人間は引き連れていない。この狭い場所では、三人で相手するのが限度だと判断したのだろう。大勢で来たところで、余分な者があぶれて落ちていくだけだ。

 さらに『英雄』と女はその場にとどまり、男だけが抜き身の剣を手に歩いてくる。

 一人一人を丁寧に対処してやればいいなら、むしろやりやすい。近付いてくる男を見ながら、オレも大鎌を両手で持ち直す。


「ようやく真正面から戦うつもりになったか?」


 嘲るように言う。


「今さら一騎打ちなんて、名誉だなんだと煩い騎士どもの真似事か? オレも、あんたらも、正々堂々なんて柄じゃないだろう」

「僕の妹は『バフォメット』に穢された」


 風が男の重たそうな前髪をさらう。顔に落ちた影はそれでも消えない。白刃と目だけを光らせて、男は低く言う。


「だから、きさまは僕が殺す。それで妹の無念が晴れるわけでも、僕の気分が良くなるわけでもない。ただ、世のクズが一人消える。それだけで充分だ」


 ……まあ、そんなことだろうとは思ったさ。怨まれるに足る理由だ。


「謝りはしないぜ。こっちにだって理念がある。それより、そんな妹さんを放ってこんなところにいてもいいのかよ。身重か、乳飲み子を抱えてるか、分からんがそんな頃だろう」

「きさまらが殺したくせに、何を言う!」


 男がカッと目を見開く。男の吼え声に、不本意ながら怯んだ。

 後ろの方で、『英雄』と女が心配そうに様子をうかがっている。男から漏れ出る怨念に、彼のお仲間も、少なからず怯えているようだった。


「……オレ達は女は殺さない」

「きさまらに殺されたようなものだろうが! 妹は自殺したんだ!! そんなことも想像できないのか。何が理念だ。あんな低俗で最悪な行為に、理念なんてあってたまるものか! 何を思って、きさまらはあんなことを……! ……っ、いや聞きたくない。聞いたところで、胸糞が悪くなるだけなのは分かりきってる」

「——いいや、聞かせてやる。未来の平和を作るためさ。くだらない争いを終わらせ、安泰の世へと繋がる布石を打つためだ。オレも、あんたの妹も、そのための犠牲でしかない。妹さんのことは残念に思うよ。生きていれば、立派な母親になれただろうに」

「……っ!! この……っ、殺す。殺す殺す殺す。きさまがいなくなることが、一番世のためになる」

「ああ、最後には死ぬつもりだったさ! でも、それは今じゃない」


 まだ成し遂げられていない。今の時代にどれだけの不幸者を生もうと、オレはやらなければならない。そんな不幸を、オレ達の世代で打ち止めにするためにも!


「人間がこの戦乱に飛び込んでこなければ、オレ達に目をつけられることもなかったろうに! 怨むんなら、そこの『英雄』様を怨みな。他者の血に濡れることを人間に覚えさせておきながら、“正義”を気取る男を!」


 鎌の刃で指し示すと、『英雄』は体を強張らせた。顔まで硬直してしまったのか、浮かぶ表情は皆無だ。激昂する男と対照的に、『英雄』の瞳は輝きが薄い。隣の女は軽蔑の色を浮かべているというのに、それすらない。

 『英雄』が苦々しげに呟く。


「ただの無法者だと思っていたが……過激思想の集団だったか。よりタチが悪い」

「オレは人間のことけっこう好きだったんだぜ? だって、すっごく弱そうだからさ」


 男が歯をむき出し、威嚇してくる。

 馬鹿にしたと思われたなら、残念だ。意図を汲み取ってもらえていない。


「アラクネは、あんたらを脚も目も二つしかない劣等種と呼んだか? 有翼人も言うだろうな、翼をもぎ取られた罪人ってな。連中には、人間がなんの取り柄もない人種に見えるんだ。だけど、オレはそうは思わない。あんたらは、平和を体現した“カタチ”をしている」


 女がきょとんとし、『英雄』に確認するように尋ねる。


「ほ、褒めているんでしょうか。あれ」

「もちろんだとも! だって、他者を傷付けるための爪も牙も、最初から備わっちゃいない。最っ高の姿だ」


 だからこそ、わざわざ剣を持ってオレに立ち向かう男の姿が悲しい。

 オレも、人殺しの道具じゃなくて農具だと誤魔化して大鎌を持っているが、本当はこんなものに頼らなくていい。この身一つあれば、蹄で人を蹴り殺せる。蹄は十分、爪と牙に並ぶ凶器になり得る。

 翼がある連中は、自分が高みにいる錯覚に陥りやすいのか、高慢ちきな奴が多い。人間にはそれもない。

 外見も中身も、完璧だ。

 ……ああ、これは盲点だった。


「なあ、あんたら。オレの意志を継いで、他人種との間に子供を作ってくれよ」

「な、なっ、なんですか! この破廉恥な男は!」

「我ながら妙案だ。考えてみれば、サテュロスより人間の方がよっぽどふさわしい。きっと尖った爪は丸くなるし、牙は抜けてなくなる。足だって、石を踏んだら切れちゃうような柔らかい皮膚に覆われる。翼が退化すれば、あの上から目線も失せる。良いことずくめじゃないか」


 女が顔を引きつらせる。男の方は引きつるなんてものじゃなかった。眉間にしわが寄りすぎて、くぼみができてしまったかのようだった。


「カリム様! これは悪魔の誘いです! 決して耳を傾けぬよう!」

「ああ、分かっている。過激を通り越して、もはやカルトだな」


 『英雄』は侮蔑の視線も憎悪の感情も向けてこない。なのに、目が合うと、脚の毛から尻尾の毛までがぞわりと逆立った。

 穴だ。奴の瞳は、眼球にぽっかり空いた穴のようだった。底なしの闇を覗き込んでいる錯覚に陥り、変な汗が背ににじむ。


「混血児が増えて、種の姿が変わってゆけば、争いもなくなると考えたのか? おまえは人間を褒めそやしたが、私たちはこうして剣を持っている。鋭い牙や爪がなければ、代わりとなる刃を手にするだけだ。争いになんの関係もない」

「姿や性質が変わるのは結果的な話さ。重要なのは、二種——あるいはそれ以上の、血を引いてるってことだ。混血の子供達が、人種間を結びつける絆になる」

「それは、まず最初に愛がある前提の話じゃないか。自分と違う姿をした者を愛せる男女がそこら中にいるというのなら……まあ、そういう平和の作り方もありだろうね。もっとも、そんなことが実現している時点で、すでに泰平の世といえるかもしれないけど」

「……何を言っているんだ? 愛は後から生まれてくるだろう」


 そこで一度、問答が途切れた。

 分かりにくかったが、『英雄』の暗い目にわずかな感情の変化があった。


「愛のない行為の先に生まれたものが、平和への礎になるとは思えない」


 『英雄』の語調がいくらか荒くなった。

 オレにはその理由が分からない。決定的な隔たりが、それこそ人種間のすれ違いが、『英雄』との間に横たわっている気がしてならない。もしかしたらそれは、サテュロスと人間ではなく、サテュロスとそれ以外の人種、と言いかえることができるほど、大きなものかもしれない。


「行為に愛がなくても、後から、確かな形を持って生まれてくるじゃないか」


 じんわりと焦りが出てくる。先ほど、山中を逃げ回っていた時だって、心臓はこんな早鐘を打っていなかった。

 よく言うではないか。子供は愛の結晶だと。子供こそが、愛の形そのものなのだ。サテュロスの間では、そういうことになっている。人間は違うのか。だから、そんなに怒っているのか。

 混乱のままに口走る。考えをまとめる前に、疑問をそのまま『英雄』にぶつけていた。


「それは、愛し合う男女の間に生まれたものをそう呼ぶのであって……。押し付けられたものを愛の形と呼ぶのは苦しいな。形は違えど、それはまごうことなき暴力だ」


 『英雄』は冷ややかに答えた。ばっさりと切り捨てられ、オレは動揺する。

 こっちだって、ひどいことをしている自覚はあるんだ。だけど、それは子供ができるまでの過程の話であって。子の誕生は誰であれ、祝福するものだろう。生まれてきた子供は、平等に愛すものだろう。そうじゃなければ、おかしい。

 だって、母親は子を愛すものだから。

 どんな経緯で生まれたものであれ、子を愛すのが母親だ。少なくとも、サテュロスの女はそうだった。時に、実子でなくとも、実子同様に愛を注いで育てる。オレは、そうやって育てられた。


「世の女は皆、母になる力を秘めているんだ。そして、その母性こそが世界を救うんだ」


 母性は暴力よりも強く、勝るのだと。そう信じてきたオレが間違っているというのか。そもそもの前提として、正しくなかった、と。そう言うのか。

 オレの思考は、口を通じてすべて筒抜けだった。

 女がそれまでの軽蔑をよそに、哀れみさえこもった目でオレを見た。


「あなたは……、恵まれた環境で育ったのでしょうね」


 言うわりに、羨ましそうではない。皮肉にも聞こえた。物分かりが悪い者に話しかけるように、女は重々しく口を開く。


「すべての女性が、そのように強いわけではありません。母である前に女なのです。女である前に人なのです。あなたは人の尊厳を踏みにじる行為をしているのだと、自覚するべきです」

「もういい。充分だ、ヴァージニア。こいつがとんだ母性崇拝をしているのは分かった。元より結末は決まってるのに、こんなどこまでいっても平行線な話をしても仕方ない」


 しぼりだすように男が言う。それに対し、『英雄』がすまなさそうに眉を下げた。


「やっぱり、こんなカルト思想を聞くべきじゃなかった。ダニエル、不快な思いをさせてすまない」


 男は首を横に振って、今度こそオレと対峙する。


「不快なのはこいつの存在そのものです」


 目を細め、男は吐き捨てる。


「きさまが残そうとしたものだって、なんの意味もない。悪魔の子を孕んだ女は、全部、僕が斬り捨ててやったからな」

「斬り捨てた……?」


 男の言葉に、思考が停止する。男は得意げになるわけでもなく、ただ淡々と、己が為してきたことを告白した。


「人間だろうが、そうでなかろうが、お腹の子ともども僕が殺してやった。その方が彼女達のためになる。彼女達の救いになる。だって、そうだろ。悪魔に穢された体を清めることなんて、できやしないんだ。傷付けられた心を癒やすことなんて、できやしないんだ。彼女達には、死という逃げ道しか用意されていなかった」

「そ、そんな、馬鹿な話があるか。『英雄』様はそれを見て見ぬふりしたのかよ! あんたが、身籠った女を殺してまわるのを!」

「見て見ぬふりじゃない。ちゃんと見ていたとも」


 『英雄』が静かに言う。


「女性の方から懇願してきたことだって、少なくなかったんだ。生まれない方がいい命もある、って。私も、その通りだと思うよ。こんな時代に生まれた混血が、己が身に流れる血の半分を怨む以外に、何ができる? どっちつかずの半端者として虐げられ、どちらからも疎まれる。そんな子に愛情を注ぐのは、余裕のある時代じゃないと無理だ」


 それが人間の結論らしかった。萎えていた殺気がふつふつとよみがえる。

 『英雄』と男は、オレが、刺し違えてでも殺す。こいつらを生かしておいたら、この先どれだけの血が流れるか分かったものではない。

 こちらの殺気を感じ取ったのか、男がじり、と足を前に出す。

 オレも足に力を入れる。奴が飛び出してきたら、前のように、また頭上を飛び越えてやるつもりだった。そして、今度こそ絶対に、崖下へ落とす。背中を蹴り飛ばして、追い打ちだってかけてやる。

 大鎌を振るうように見せかけると、男が剣を振りかぶって地を蹴った。こちらは地を蹴る瞬間を見極める。できるだけ、引きつけて。ぎりぎりまで。ぎりぎりに——

 しかし、男はオレの身に刃を届けず、かなり手前の地点で、何事かを大きな声で叫んで、振りかぶった剣を地面に叩きつけた。ぴしりと、地面に亀裂が入る。

 男が飛びのいた次の瞬間、小さな爆発が起こった。オレを吹き飛ばすような威力はない。だが、オレと男の間の、脆い足場が崩れる。ぐらりと、足元が傾く。


「な——、はぁ!?」


 徐々に斜めになっていく地面が、オレを滑り落とそうとする。

 これも人間が事前に仕込んだものか。いったい、どこまで奴らの策に乗ってしまったのか。考える余裕はない。とにかく、切り離されようとしている岩場から逃げるのが先だ。今なら、まだ間に合う。

 高跳びの準備をしていたのが幸いした。足場が宙に浮いた瞬間、オレは地を蹴り捨てた。しかしやはり、不安定な足場で込めた力では足りなかった。脚が届きそうにない。

 大鎌を捨て、とっさに腕を伸ばす。なんとか崖の端を掴むことができ、安堵したのもつかの間、自身の体重にずり落ちそうになる。浮いたままの足をさまよわせて、蹄で掴める場所を探る。過重に耐える指が、軋んだ音を立てる。

 必死になるあまり、敵対者が近くにいることが頭から抜けていた。頭上に影が落ち、さあっと血の気が引く。


「落ちないように手伝ってやろうか」

「ぐっ、ああぁ——!」


 与えられた痛みに、崖を掴んでいた指が離れた。

 だが、体は宙ぶらりんになるだけで落ちない。全身から汗がふき出す。手汗だって尋常ではない量のはずなのに。この手汗で滑っていてもおかしくないくらい——ああ、これは汗じゃなくて血か。

 腕まで垂れ流れてきた赤い液体に、口の端がひくりと痙攣した。

 影の主を見上げる。男が、オレの手の甲に剣を突き立てているらしかった。これでは、投身に逃げることすらできない。自身の重みで手が裂けるまでは。


「なんだろうな。まったくもって満足できない。なにも満たされない。無様に死にかけているきさまを見ても、なんの感情もわいてこない。この状態でいたぶっても、それは変わらないだろう。でも、このまま殺すのはちょっともったいない気がするんだ」

「こ……この、イカレ野郎が……っ!」

「お互いさまだろ」


 このまま這いあがれないなら、せめてこいつだけでも道連れにしてやろうか。空いている方の手を、上に伸ばそうとしたところで。男が言った。


「でも、僕は『悪魔』にはなりたくないから。さっさときさまの息の根を止めることにするよ」


 あっさりと。突き立てていた剣が、引き抜かれた。

 当然、手に力を込めることなんてできるはずもなく。今度こそ、身が投げ出される。腕を伸ばしたところでなんの意味もないのに。なにかを掴もうと、穴の空いた手を広げていた。

 空が、遠のく。

 故郷の空と同じ、爽やかな青だった。里での暮らしが、走馬灯のように思い出される。羊と葡萄酒と友。それだけがオレの世界だった。あの狭い世界で、平和に馬鹿をやって暮らしていければ、それでよかったのに。

 柄にもなく世の中のことなんかを考えたもんだから、このザマだ。あんなにも軽蔑した連中と同じところまで来ちまった。オレも大馬鹿野郎の仲間入りだ。

 どの記憶にも当たり前のようにハンナがいて。なんで最期の瞬間まで、あんなブスの顔を思い浮かべなくちゃならないんだ、と強がってみるが、より胸を締め付けられるだけだった。オレがもっと素直になっていれば、彼女と生きる未来もあったかもしれないのに。

 なにもかも、手遅れだ。

 なんだ、この青天にふさわしくない水滴は。『悪魔』に涙は不要だ。どんな権利があって、こんなものを流す。

 風が頭蓋骨の仮面を外していこうとする。それに抗って、仮面を額の上から強く抑える。

 『悪魔』は『悪魔』として死ぬさ。オレはサテュロスではなく、バフォメットなのだから。この仮面こそが、オレの素顔だ。

 ああ、空が遠い。陽が細い。

 オレにふさわしい奈落へと、体が沈んでいく。いよいよ地面が近付いてきて、オレは目を閉じた。この腐った脳髄が飛び散るのは何秒後か。きっと形も残らない。


 ——ほらみろ、聞くに堪えない。醜い音だ。



 *****



 髪に挿していた野花はとっくの昔に枯れてしまった。あの野花が咲いていた場所はもうない。あの野花を渡してくれた彼はもういない。

 野を歩くサテュロスの女は、髪を巻き上げた一陣の風に足を止める。

 風の声に耳を傾けた後、女は顔を上げて再び歩き出した。

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