69、狐、煽られる
各々が傷の手当てや荷の整理に追われる中、グルーと数人の隊長格が、崩れた橋を背に馬車の影へと集まっていた。
輪の中心、腕を組んだグルーが、低く、短く言葉を落とす。
「……どうする」
問いが宙に放られたが、誰もが返す言葉を探すだけだった。選択肢が、あまりにも乏しい。
遅れていた傭兵たちが一人、また一人と合流してくる中、見えぬ森の向こうでも、仲間たちが懸命に歩を進めているはずだった。
「強行突破は無理だ。今の体制じゃな。敵は、数で来るぞ」
「食料と水で、持って三日……五十名の命が、五十通りに散る」
交わされる短い言葉の間に――突如、鋭い悲鳴。
矢が、一閃を裂いた。
張り詰めていた空気が一気に弾け、全員の視線が音の先――セリアへと集まる。
その腕には、うっすらと血が滲み、地に落ちた矢羽の切れ端が風に転がった。
「セリア!」
咄嗟に駆け寄ったのは、父であるグルーだった。彼はそのまま娘の身体を抱き留め、傷を確かめる。
「浅い……だが、色が悪い。毒だ」
その一言に、場の空気が確かに変わった。
近くにいた者が水袋を差し出し、ココは膝をつき、セリアの傍へと顔を寄せる。
「しっかりするんよ、セリア……っ」
震える声で言いながら、淡く紅い瞳で顔色を読む。
水で傷を洗う手元が揺れていたのは、ココ自身が平静ではない証だった。
だが、問題はそこではない。肝心の解毒薬が、今ここには存在しない。
「ワイアットなら……あやつが居れば、何とかなったかもしれんが……」
クエストの呟きに悔しげにキックスが頷く。既に森の縁を見つめていた。
「薬草を探してきます。ガライア隊長」
促され、木陰に佇んでいた“梟”が静かに頷き、枝から舞い降りる。
字を持つ者――名を偽る者としてのガライアに、無駄な説明は不要だった。
「俺も行くぜぇ……毒矢でチマチマとよぉ……虫唾が走らぁ」
肩を回しながら歩き出すウォルターの顔は、明確な苛立ちを滲ませていた。
歩幅が早く、唇の端は笑っていない。
肩を回しながら歩き出すウォルターの顔は、明確な苛立ちを滲ませていた。
歩幅が早く、唇の端は笑っていない。
クエストは周囲に目を配りながら残留を決め、ジャンクも傍に控えて守りを固める。
――その時だった。
鋭い風音が、再び空を裂く。
誰もが動いたが、間に合わない。狙いは、再びセリアだった。
「……ッ!」
矢が、肩をかすめた瞬間。
空気が、凍った。
直後――押し寄せるような、重圧。
風が止み、音が消えた。
殺気が、澱のように、辺り一帯へと満ちていく。
「……のう、誰がやったんかの?」
ゆっくりと立ち上がったココの声は、静かで、凍てつくように冷たかった。
白銀の髪と、揺れるスカート。風もないのに、衣がふわりと舞う。
普段は焦げ茶に見えるその瞳が、怒りに灼かれて本来の色――深紅を帯びていた。
その場にいた全員が、動けなくなる。
敵だけではない。味方すらも、背筋を這うそれに縫いとめられる。
膝を折り、肩を震わせる者すらいた。
そして――
ふと、ココの視線が落ちる。
セリア。
その目に宿っていたのは、命を救われた安堵でも、畏敬でもなかった。
ただの、“恐怖”。
人ならざるものに触れてしまった、ただの“人間”が浮かべる、純粋な――恐怖だった。
「…………」
何も言わず、ココは静かに目を伏せる。
そのまま、瞳を閉じ、深く、息をついた。
次に目を開ける時。
いつもの調子に戻っていることを、誰よりもココ自身が願っていた。
「……なあぁ、お嬢よぉ」
どこか間延びした声が、空気を割った。
振り返るより先に、ココの耳に入ったのは、ウォルターの気の抜けたような口調だった。
「さっきよぉ……妙な気配、出してたなァ」
無遠慮な言葉とは裏腹に、彼の目は笑っていなかった。
まるで獲物の反応を探る狩人のように、ココの反応をじっと見ていた。
「……なんよ?」
ココが視線だけを向けて、つぶやくように返す。
その一人称に、わずかにキックスの眉が動いた。
「へへ……なら、話が早ぇや」
ウォルターがニィッと笑い、軽くココの肩を叩いた。
「――ちいとばかしぃ、暴れてみるかぁ?」
「…………は?」
目を細めたココに構わず、ウォルターは飄々と続ける。
「お嬢のあの妙な殺気、ビビった奴ぁ大抵逃げ出すさァ。何も真ん中に突っ込めって話じゃねぇさぁ、そのついででこのオレが暴れてやりゃあ、向こうもタジタジってもんよぉ」
「………………」
にやりと笑い、どうだぁ? と呟くウォルターに、ココは一瞬視線を落とし、静かに息を吐いた。
その顔に影を落とすように前髪が揺れる。
「ふむ、仕方ないの……」
小さくつぶやいた、その直後――
「だ、だめですっ!!」
刺すような声が飛び込んだ。
キックスだった。
青ざめた顔で駆け寄り、ココの前に立ちはだかる。
「ココさん、そんなことをなさったら……っ! グラン=エクシブにこの場を頼まれたのでしょう? それに、あの姿になれば、間違いなく――」
「分かっとるよ」
未だにこちらを見るセリアと視線が合わせられない。
ココの声は静かで、しかしキックスにだけ向けたものだった。
「もう、この周辺にバカな真似をする者もおらんよ。それに、先程とは違う。早く動かねばセリアの症状もどうなるかわからんしよ」
精一杯の苦笑いを浮かべ、ココはセリアに向いていった。
「ウチにはその方が辛いんよ」
「っ!? コ、ココさーー」
「……でもっ!」
その方が何かを察したセリアが呼び掛けるよりも強く、なおも何かを言おうとするキックスの横で、ジャンクが笑った。
「へへっ、姐さんが行くなら、オレもついてくぜ! グラン=エクシブの連れ回しは終わってないしな」
にひひと笑い先程の殺気を浴びた者とは思えぬ態度に、ウォルターも肩をすくめて笑った。
「ま、抑えきれねェ性分ってのはぁ、どこも一緒だなぁ」
「ふむ、ぬしと一緒にされてはたまらんよ」
ココが小さく息をついて、肩をすくめる。
それでも、どこか嬉しそうな色が、その横顔には滲んでいた。
遠くでグルーがココに手を伸ばし何か言いかけて、それを飲み込んだ。
もう、止まらない。
「すまんな、グラン=エクシブ、オレじゃ抑えられない」
伸ばしきれなかった手は未だ震えている。
「お父さん」
弱々しくも父の膝元に崩れて座るセリアの声に頭を撫で、見送ることしか出来なかった。
そんな彼らを背にエクシブの向かった道を行く。
ふと、彼が残した言葉が脳裏をよぎる――《支えがあるだけ、動きやすくなる》。
「……ぬしの憂い、ウチが払うからよ」
ココが静かに言い、踵を返す。
キックスは唇を噛み、しかし何も言わずその後ろを追った。
ジャンクもニヤニヤとついていく。
誰もが、それぞれにできる最善を胸に――歩き出す。




