6 狐、船旅に出る
静かな波の上。
エクシブはつい最近まで漕ぎ手として乗っていた船にまた乗っていた。
前回と違うのは、客として乗っていること、そして──。
「おおーっ!」
横で驚きの声をあげている娘を連れていることだ。
獣の耳と、尾を持つ人外の者だが、ローブを被った姿は二十にも満たない小娘。
連れの名前はココ。
港から船を見たココの姿は、ローブの上から見てもわかるほど耳と尻尾がぴんっと立ち、
「……ウチが来た頃はこんなでかい船はなかった。人はもの凄い物を造るの」
と、驚愕の顔をしていたが、今では無邪気な子供のように船の上を走り回っている。
「島の中は自由に動けたんだろ。それなら見た事ぐらいあるんじゃないのか?」
「今までのウチの行動範囲は、依り代の根が伸びた場所まで。確かに遠くからは見た事もあるがよ、近くで見たのは初めてよ。それにしても、こんな巨大なものが浮くとはよ。世の中不思議なことだらけだの」
思わず「一番不思議な存在が何を」と、エクシブは呟いてしまう。ふと、ココのローブの後ろ側が風とは違う動きをしていることに気が付いた。
余程楽しいのか、物凄く尻尾が動いているのだろう。
それを見てくすりと笑う、まるで散歩に連れられた犬のようだ。
エクシブは、遠く小さくなっていくリハンを見つめ、昨夜のことを思い出す。
森で白狐のココと契約を結んだエクシブはその後が大変だった。
轟音と共に倒れた御神木の振動が激しく、森がざわめき始めたのだ。
「……いかんの」
ココが言うには、真夜中にも関わらず島の住人たちが一斉に森へと向かって来ていたらしい。
ただの飾りとはいえ、御神木なんて大層なものを斬り倒したのだから捕まればどうなるか解らない。
依り代であった御神木は、切られたことにより効力を無くしたらしい。
ココは新たな依り代となる種の付いた枝を探し、エクシブはその間に荷物を片付け、お互い準備が整ったところで森を逃げだした。
ココの誘導のもと森を走り抜けていったが、正体が狐なだけあって耳や目、鼻などの感覚が素晴らしく、まさに獣のそれである。故に誰一人にも会うことなく森を出ることができた。
真っ先に向かった宿屋も、皆森に向かっていた為誰も居らず、難なく部屋に入ることができた二人。おかげでその夜はなんとかベッドの上で過ごすことができた。
しかしエクシブは次の日の朝、宿屋の主人に怪訝な目で見られてしまった。
「昨夜は一体、何をされていたのでしょうか」
聞かれて回答に困るエクシブだったが、後から降りてきたココが一言。
「ウチ、昨日の夜はこの人と忙しくて……」
顔を赤らめながらココが言うので、
「あっ……それは失礼を」
と、にやけた顔でエクシブを見る。
ココの言っていることに間違いは無い。
何を想像したかは店主の自由だ。
エクシブはさっさと支払いを済ませると、何くわぬ顔で宿を出た。
外へ出ると倒された御神木の話題で持ちきり。
ふと、耳を澄ませば皆が一様にその話をしているのだから、事の重大さにエクシブは顔を青ざめさせてしまうのだが、久しく自分のことが話題になっているココは少しにやけ、忙しなく耳を動かしているのが被ったフード越しの不自然な動きでわかる。
「ぬう、惜しいの。ウチは狐で狼ではないんよ。……うんうん、ふむふむ、クフフ」
既にこの島にはココの正確な情報はないに等しい。
申し訳程度に狐が出てくるくらいであり、それが神なのか、その使いなのか、はたまた実な関係無いなど……。
それでも喜ぶ様な反応を示すので、エクシブは訝しげに問う。
「間違ったことばかりが話題になっているように聞こえるのだが?……あっ、いや、すまない」
言っておきながら、あまりに繊細さに欠けた問いをしたことに気付き片手で顔を覆い謝罪するが、ココは気にした様子もなく相変わらずの表情で応えた。
「無だと思っていたがよ、欠片くらいは拾えんよ。この場を去る前にそれがわかっただけでも僥倖よ」
「そうか」
計り知れない時を孤独に生きていたココの心情はエクシブに理解はしきれない。だが、下手な同情をするくらいならその喜びを否定せずにいた方が良いと判断した。
そんなことを考えながら港に向かい歩き続けていたエクシブだが、ふと、見知った顔が目に入る。
酒場の看板娘ナターシャだ。
彼女は店の前で何かを探している様子であったが、エクシブを見つけると、ぱあっと顔を綻ばし手招きで呼び寄せる。
知らぬ間柄でも無い。エクシブはご機嫌で歩くココに小さく声をかけてナターシャの元に向かった。
嬉しそうに迎えたナターシャは、回りの様子を窺いつつ、片手を口元に添えてエクシブだけに聞こえるよう小声で話す。
「傭兵さん、傭兵さん。昨日の夜、森にいったんですよね?」
喜色満面で問う娘にエクシブは少し困った顔を浮かべた後、小さく頷き肯定した。娘の様子にエクシブを通報するつもりも、罰するつもりも無いようなのでこたえたが、胸を張って言えることでも無いので小さく返すのが関の山だ。
だが、ナターシャからすれば重要なのはそこではない。エクシブの耳元まで顔を近付けると、やはり小声で問うた。
「神様には会えましたか?」
ナターシャとて昨夜の御神木の話は聞いている。とは言えあれは人の力とその辺の刃物でどうにかなるものではないことは小さい頃から知っているのだ。ならば、その犯人は目の前の傭兵ではなく、傭兵が出会った何かと推察したのだ。斬れぬ筈の御神木斬り倒した人の領域を越えた者、それはつまり──。
実のところ犯人はエクシブなのだが、瞳を輝かせてこたえを待つ娘に苦笑いをしつつ、ココの肩に手を置いて頷いた。
最初は理解出来ずに怪訝な表情を浮かべたナターシャだったが。
「……えっ? あの、まさか、その人」
ナターシャの問いにこたえようとしたエクシブだったが、不意にココが動きだし、ナターシャへ顔を近付けて鼻をスンスンと鳴らしだした。
「ふむ、ふんふん……、うん。 スンスン」
「えと、あの、その」
身体中を嗅がれて羞恥に身体を両腕で庇うように抱き、顔を赤らめるナターシャ。流石に不味いとエクシブが止めようとした瞬間──、ココは満面の笑顔で言った。
「やはり良いの、カラナギの酒の匂い。 ウチの好きな匂いよ」
「カラナギ?」
「な、なんで? カラナギの名前を──」
知らぬ名前に首を傾げるエクシブと、今はもう身内しか知らない初代の通り名を聞いて驚愕するナターシャ。ココは少しばかり寂しげにだが穏やかな笑顔のまま続ける。
「旨い酒を作るから、家を建てる木をくれ、と頼み込まれたからの。それ以来酒はここのしか飲んどらんよ? それに──」
ココの口から零れていくかつての島の話。石と岩、気持ち程度の雑草しかなかったこの場所を開拓してきた者たちと、その1人に頼まれ、森を創ることになった人外。
国を追われたり、滅ぼされた生き残りたちは、名を変えてこの場に集い──。
「気付けば人は増え、森も育ち、家が建ち……」
自分は忘れ去られた、そうエクシブは聞いている。だが、ココはしっかりと覚えていた。誰もが忘れたことすらも忘れたなかでその時を、それからの今を──。
ちゃんと見守ってはいたのだ。この島を。
「それなら、今度神様のところに御神酒持っていっても良いですか!」
だから、何も知らないナターシャからすれば、こんな言葉が出てもおかしくはないし、今までのことを鑑みれば良いことなのかもしれない。
ココは驚きエクシブを一瞥した後に困ったような苦笑いを浮かべてこたえる。
「すまんの、ウチは今日限りでこの島を出るんよ」
「えっ! 何でですか!」
続いて驚くナターシャはココとエクシブの顔を交互に見つめて
焦り問う。自分の住んでいた島から神が出ていくというのだ。焦りもするし、驚かない訳がない。
そんなナターシャにココは飛び掛かるように抱き付いた。
「嬉しい。凄く嬉しい。──だが、すまんの。そろそろウチも広い世界を見てみたいんよ。居るなら仲間にも会いたい。ウチが出来るのは、森を育てること、畑の作れる土壌を授けること──。もう、充分。ぬしらがやり遂げ続けることを見てきた。ウチは安心して去れる」
「そんな……」
抱き付かれたまま、力無く呟くナターシャ。ココはナターシャから離れ言う。
「ウチは何処に行っても、世界一旨い酒はカラナギの酒と言うからよ。ぬしはウチが嘘つきにならないよう頼むの」
「──っ! はい! わかりました! きっと神様のお耳に入るよう切磋琢磨します」
こうして、ナターシャと別れ船を目指した二人だったか、周辺の者たちが集まって来たのだ。流石に困り果て、船に向かってひた走る。
後は知らぬ存ぜぬで船へと向かい今に至る訳だ。
「リン! リン!! ……何をぼーっとしとるかよ?」
「えっ? ああ、悪い。考え事をしていた」
聞きなれない名前を呼ばれ、たまに反応ができないエクシブ。
てっきりエクシブと呼ばれるものだと思っていたが、ココはリンという響きが気に入ったらしく、早速連呼されていた。
ふと、ココはエクシブに言う。
「ぬしに客のようだがよ?」
「客?」
周りを見るが、それらしい姿はどこにもない。
いったい何のことを言っているのかと視線を戻すと、ココは客船室と甲板を繋ぐ扉を指し「もうちょいだの」と、言うと同時に勢いよく扉を開け船長が現れた。
「おおっ! ここにいたか。…………ふむ、朝から美女と逢い引きとは似合わぬなぁ? グラン=エクシブ」
「契約者の傍にいるのは傭兵の仕事です」
それを聞くと、船長は大袈裟に肩を竦めて言う。
「それは役得だな。船員は船の傍に居なくてはならない。同じ報酬なら割りに合わん」
挨拶に来たわけでは無いだろう。話の切り出しに困ってたようでエクシブは船長に問う。
「何かご要望でも?」
「おっ! 話が早くて助かる。実は折り入って頼みがあってなぁ……」
と、嬉々として話だした。