大家
「なんて、女だ」
彦四郎は井戸の水で顔を洗いながらつぶやいた。
今朝は水がずいぶん冷たく感じる。
「おれがいったい何をしたというのだ。ただ、笑ってやっただけなのに、あの仕打ちはなんだ」
ばしゃりと勢いよく顔に水をかける。
立ち話しをしていたおかみさんたちが、それを見て笑った。
「お侍様」
そこは声をかけてきたのは大家だ。
「どうですかな。この部屋の住みごこちは?」
上目づかいに大家が問うた。
彦四郎は手ぬぐいで顔をふきながら、
「出たぞ」
と、ためらわずに言った。
「やはり・・・」
大家は小さな声で言って口ごもった。
そして、世間話しをしているおかみさんたちの方をちらりとみてから、
「で、どうされます?」
そうきくのが当たり前のように開き直って言った。
「どうもこうもしない」
彦四郎が言うと、
「えっ? では、このままここに住まわれるのですか?」
「そうだ」
大家の顔がぱっと明るくなった。
「家賃はこのままでいいのだろう?」
「もちろんでございますとも。さすがお侍様は肝が据わっておられます。お侍様がここに居てくだされば助かります。はい・・・」
大家は笑って、浪人の気がかわらぬ内にとでも思ったのか、そそくさと去って行った。
彦四郎は、あの女のことを大家にきいてみたかった。でも、余計な詮索をして大家に疎まれてもつまらない。
せっかく家賃は半分でいいと言うのだから、誰にも何も言わないで、黙っていよう。それがお互いうまくいくというものだ。
大家は振り返り、小さく頭を下げて路地の木戸をくぐって帰って行った。
だが夜だ。彦四郎は眉間に皺を寄せた。
今夜もあの女は来るつもりなのだろう。女は忠正とかいう男に会うために、ここへ来ることはわかっている。
しかし、おれがここに居て、会いたい男がここに居ないとわかっていても、あんな風に毎夜、おれの顔を覗きにくるのは何のためだ?
おれを怖がらせて、ここから追い出すつもりだろうか?
それは困る。
たとえ、いわく付きの部屋でも安く借りられるこの部屋を、おれは出て行きたくないのだ。
それに・・・。
腕組みをして考え込む彦四郎の回りを子供たちが、無邪気に走り回る。
「お侍さん、痩せているけど、ちゃんとごはんを食べているのかい?」
離れた所からおかみさんが言うと、別のおかみさんたちが笑った。
「ええ・・、まあ・・・」
彦四郎は不意を衝かれ、うろたえて答えた。
「何か困ったことがあったら、何でも言っておくれよ。少しくらい力になるからさ」
おかみさんが微笑んで言った。
彦四郎はぺこりと頭を下げて、部屋の中に入って行った。
あの人たちは、幽霊のことを知らないのだろうか? 知っていて知らないふりをしているのだろうか?
彦四郎は小さなため息をついて、ささくれた畳の上に大の字に寝転がった。