また夜
夜である。
月も出ていない、暗い深い闇夜である。
みんな眠ってしまった時刻。
眠れない彦四郎は、自分だけ取り残されたような気分で、何度も寝返りを打った。
辺りはしんと静まり返り、誰の声も聞こえない。
こんな時、今まではうるさいと思っていた赤ん坊の泣き声さえ恋しい。
もやっとした空気は生温かく、湿気を含んでいる。
今夜みたいな夜はきっと、泥棒たちでさえ仕事をやめて、家で休んでいるだろう。
犬や猫だって安心できる所で、じっとしているにちがいない。
もし、さまよい歩く者がいるとすれば・・・。
彦四郎は恐ろしくなった。
今にも昨夜の女がやってきて、表戸を叩くような気がする。
時を知らせる鐘がなりだした。
数を数える。一、二、三、四、五、六、七、八・・・・。
夜八つだ。
彦四郎はじっとしていらなくなって、布団を跳ね除け飛び起きた。
手探りで火鉢をさがし、灰の中に埋めておいた火のついた炭を取り出して、行灯に灯りをつける。
ぼんやり明るくなった部屋で、傍らにある刀の鞘を握り締めると、気持ちも幾分か落ち着いた。
今夜はこうして起きておこう。
無理に寝ようとすることもあるまい。
乱れた着物の裾を直し、布団を畳む。
深く息を吸い込んで、ゆっくりと息を吐き呼吸を整えた。
目を閉じて、口の中で念仏を唱える。
怖いことなどあるものか。たかが女の幽霊。たかが・・・。
とその時、
とん、とん、とん。
表戸を叩く音がした。
彦四郎の肩がぎくりと揺れ、鞘を持つ手に力が入る。
(来たかっ!)
右手で柄を握り、すぐに刀が抜けるように身構えた。
「ごめんくださいまし・・・」
昨夜の女の声だ。
彦四郎が黙っていると、やはり昨夜と同じように表戸の障子が開いた。そして、行灯の灯りも消えた。
月もない暗闇のはずなのに、女の姿だけはっきりと見える。
女は彦四郎の顔を見ても「忠正様」とは言わなかった。だが、昨夜とおなじように部屋に入って来て、彦四郎の顔を覗き込んだ。
女は昨夜のように笑ってはいなかったし、目に涙も溜めていなかった。
ただ、彦四郎の顔をじっと見つめるだけだった。
彦四郎は刀を抜こうとしたが、昨夜同様に体はうごかなかった。
「ちがう」
女がまた同じことを言うと、また強い風がおこった。
傘は畳んであったので、飛ばされることはなかった。
女はまたため息をついて、戸口から出て行った。
戸が閉まると、彦四郎はまた、ばったりとその場に倒れ込んでしまった。