青空
彦四郎の風邪は、みつが持ってきた薬のおかげで、早く治り、すぐにでも働けそうな具合だった。
でも、見舞いに来た大工の親方は「まだ、無理をしないほうがいい。それにせっかくみつさんが来てくれているのだから、もう少し休めばいい」と、言ってくれた。
江戸の街を見物に行こうとみつを誘ったが、みつは病み上がりの彦四郎の体を気遣って辞退した。
朝の明るい日差しの中で、のんびりとした時間が流れる。
みつには明るい日差しがよく似合う。夜にしか会えなかったおようは、どうであっただろう。彦四郎は思う。
「あの、彦四郎様」
みつが小さな声で言った。
「おようさんって、どういうお方?」
突然の問いに彦四郎は驚いて、湯飲みを落としそうになった。
「熱でうなされている間中、およう、およう、と言われていました」
「ああ・・・、おようは・・・」
どう説明すればいいのだろう。おようは幽霊だなんて言ったら、みつはどう思うだろう。
みつに何もかも正直に話そうか。
・・・いや、やはり言えない・・・。
「お、おようは、おれが困っている時にいろいろ世話になった人で・・・」
彦四郎はしどろもどろになった。
みつは真剣なまなざしで、彦四郎をじっと見つめている。
「それで、そうだ・・、あの、お茶をもう一杯頂こう」
彦四郎が湯飲みを差し出すと、みつはそれにお茶を注いだ。
ちょっと首をかしげたみつは、ゆっくりとまばたきをして、
「彦四郎様の恩人ってことですね」
と、自分を納得させるようにうなずきながら言った。
「ああ、そうだ」
そうなのだ。おようはおれの恩人だ。彦四郎は思った。
その日、彦四郎とみつは、近くのそば屋に行ったり、茶屋でだんごをたべたりして、楽しく過ごした。
夕方になり薄暗くなったころ、みつのお供の者が旅籠から迎えに来た。
「もう少し待っていてくださいな」
みつはそう言って、お供の者を茶屋で待たせた。
「彦四郎様、私は明朝、郷里に帰ります」
寂しげな顔つきでみつが言った。
「えっ、もう?」
「はい。彦四郎様がお元気でおられることを、ご両親に伝えます。私が大げさに騒いで家を出たものですから、きっと心配されているはずですので」
「そうか・・」
彦四郎はとても残念な気分になって、ため息をついた。
「私は帰りますが、彦四郎様は・・」
みつの目にみるみる涙があふれ出した。
「いつ、お帰りになるのですか? ずっと待っているのです。私はもう待つのはいやです」
そう言ってみつは泣いた。
涙をぬぐうみつの姿がおようの姿とだぶって見えた。
「みつどの・・・」
いい言葉が見つからず、彦四郎はみつのふるえる肩を抱き寄せることしかできなかった。
*
必ず帰ると彦四郎に約束させて、みつは帰っていった。
彦四郎はみつをこれ以上悲しませたくないと思う。
しかし、自分が帰れば両親や兄たちはどうおもうだろう。どんな顔をして帰ればいいのか。
だが、みつに会ってから郷里のことが懐かしく、皆にも会いたい気持ちになっていた。。
帰ると決めたのだから、くよくよ考えずに帰ってみようと彦四郎は思った。
仕事場では、
「すごくきれいな女が来たらしいな。見てみたかったよ」
留吉が笑って言った。
「お前、里に帰るのか?」
「ああ、この仕事が終わったら」
「そうか」
「いろいろ世話になったな。留吉のおかげで、がんばれた。ありがとう」
「なんでえ、あらたまって。照れるじゃねえか」
二人ははははと笑い合った。
*
さて、それから日が過ぎ、建築中の家もできあがり、彦四郎が長屋を去る日がきた。
大家が朝早くから見送りにきてくれた。
「いやあ、お侍様にはもう少し長く、ここに居てもらいたかったのですが、お侍様にも事情がおありになるだろうから、仕方ありませんな」
と、残念そうな口ぶりで大家が言った。
「たくさん世話になりもうした。おれももう少しここに居られるとよかったのだが」
彦四郎は手に持ったかんざしに目を落として言った。
このかんざしをどうしたものだろう。持って帰るのもなんだし、ここへ置いて帰るのもどうかとおもうし。おように相談などできるはずもなく、それをずっと考えていた。
「心残りがおありなようで」
大家がにこにこして言った。
「えっ」
大家が自分の気持ちを見通しているように思えて、彦四郎はどきりとした。
「大丈夫ですよ。お侍様」
大家はそう言うと、持っていた桐箱の蓋を開けて、彦四郎に中身を見せた。
中にはかんざしが四本入っていた。
「これらは、ここに居られた方々が置いていったかんざしです。四人の方たちは皆、あなた様のような心の優しいお侍様でしたよ」
大家の言っていることが飲み込めず、彦四郎はぽかんとしていた。
「おようさんは、しばらくはこの世にとどまっておいででしょうが、きっといつか成仏されてあの世にいかれる日がくると、私は信じております」
大家がにっこりして言った。
ああ・・・、そうだったのか。そうだったのだ。
大家は知っていたのだ。おようのこともなにもかも。知っていて黙っていたのだ。
そして、おようにかんざしを贈ったのは、おれだけじゃなかったということだ。
彦四郎は何度もうなずきながら、声をたてずに笑った。
おようのいたずらをした後の、子供みたいな笑顔が目に浮かんだ。
「早く成仏できるといいな」
彦四郎は持っていたかんざしを箱の中に入れた。
「どうか、お元気で」
「ああ、大家さんも」
長屋を後にして、温かい日差しの中を歩く、彦四郎の頬を、冷たい風が優しく撫でた。
彦四郎は微笑んで空を見上げた。
青く澄みきった広い空に、薄いおおきな雲がゆっくりと流れていた。
完




