女
草ひばりが鳴き始め、吹く風が冷たくなってきた。
静かな夜はずっと続くと思えた。
そんな、ある満月の夜。
彦四郎はめずらしく夜中まで起きていて、内職の唐傘の地髪貼りをしていた時のこと。
とん、とん、とん、と誰かが戸を叩くような音がする。
(風の音かな?)
彦四郎は仕事の手をとめ、耳をすました。
とん、とん、とん・・・。
戸を叩く調子は風の仕業ではない。やはり、誰かが表戸をたたいている。
(まさか、こんな時刻に)
ついさっき、夜八つ(午前二時)の鐘の音が聞こえたばかり。
彦四郎が刀がすぐ近くにあるのを確かめて押し黙っていると、
「ごめんくださいまし・・・」
と消え入るような若い女のか細い声がした。
戸口の障子に、月明かりを背にした女の人影が、立っているのが映っている。
「ど、どなたですか?」
と、言いながら彦四郎が刀に手を伸ばそうとした。その時、いつもならがたぴしでなかなか開かない障子戸がするすると、いとも簡単に開いた。
すると同時に行灯の明かりが、ちらちらと消え始めた。
油が切れたのだ!
(こんな時に)
彦四郎は焦った。だがどうしようもない。
暗闇になった部屋から、戸口に立つ女の影法師だけが妙にはっきり見える。
「忠正様」
女が言った。
女は何の音も立てずに部屋に入ってきた。
ゆっくりと揺らめくように歩いて、彦四郎の方へ近づいてくる。
灯りもないのに女の着ている白い着物と、女の蝋のように白い顔が浮かび上がった。
女の結っていない長い黒髪が揺れる。
彦四郎は驚いて立ち上がろうとした。だがどうしたことか体がびくとも動かない。
女は彦四郎のすぐそばまでやってきた。そして、かがんで彦四郎の顔を覗き込んだ。
女は笑っていた。目に涙をいっぱい溜めて嬉しそうに笑っていた。
(ぎゃあーっ!)
こんな真夜中に尋常じゃない女の姿を見て。彦四郎は叫んだ。
でも、それは声にはならなかった。叫んだつもりでも実際に声は出なかったのだ。
体もやはり動かない。
「う、う、うう・・・」
脂汗が額に滲む。
彦四郎はうめいた。
息が詰まって、今にも呼吸が止まりそうだ。
それは少しの時間だったのだろうか。彦四郎には長い時間のように思えた。
女の笑顔が消えた。
「ちがう・・・」
女がぽつりと言うと、急に強い風が起こった。
女の髪が逆立ち、彦四郎が作り終えて乾かしていた唐傘が、ばたばたと壁の隅に飛ばされた。
彦四郎は動かない体をなんとか動かそうともがいていた。
風が止んだ。
女が目を閉じて、ため息をついた。身も心も凍るような冷たいため息だった。
女は立ち上がり、彦四郎の顔をいちべつすると、戸口から外に出ていった。
ピシャリと障子戸が閉まる。
途端に彦四郎の体がぐにゃりと畳に崩れ落ちた。
精も根も尽き果てたように、彦四郎はそのまま気を失った。