忘れよう
おようが長屋に来なくなってから幾日か過ぎた。
彦四郎はおようのことを忘れようと、朝早くから夜遅くまで無心になって働いた。
「どうしたんだ? いかにもがんばり過ぎだろう。また、なんだ、女か?」
留吉がからかうように言う。
「まあ、そんなもんだ・・」
彦四郎は目を伏せて、鼻から大きく息をもらした。
留吉に何もかも話してみようか。そんな考えが一瞬浮かんだ。
留吉なら何も言わずに、おれの話しを聞いてくれるかもしれないと思った。
だが、すぐに考え直した。
もし、自分が留吉の立場であったら、きっと信じないだろう。こんなこと信じろと言うほうが無理なのだ。
「そう、気を落とすな。女は他にいくらでもいる。なんなら誰か会わせようか?」
「いや、今はいい」
「そうだろうな。でも、早く忘れちまいな。そんな女のこと」
留吉が彦四郎の肩を叩きながら言った。
「ああ・・、忘れるさ」
本当に忘れられるだろうか。あんな別れ方をして。
しかし、いずれにしても、あの長屋にももう長くは居られまい。おれが居たのではおようが忠正を待つことができないのだから。
今、建てている、もうじき出来上がるこの家が完成したら、おれはあの長屋を出よう。
そうすれば、おようのことを忘れられる。きっと忘れることができる。
「さあ、仕事だ」
たちあがって伸びをしながら、彦四郎が元気よく言った。
「おう!」
それに答えて、留吉も腰を上げた。




