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時代小説 彦四郎と幽霊およう  作者: カワラヒワ
15/20

消えた およう

「痛みますか?」

 しんと静まり返った部屋からおようの澄んだ声が小さく響いた。

「ああ、今は少し。でも、じきによくなる」

 布団に入ったまま彦四郎は言った。

「私は何もできませんが・・」

「いいのだ、何もしてくれなくても。ただ、こうやって毎晩会いに来てくれるだけで」

 なんと平和なひとときだろうと、彦四郎は思った。

 今までは、夜におようと話していても、体が疲れていたり、明日の仕事の心配もあったりで、ゆっくりとした気分にはなれなかった。

 しかし、今は傷が少々痛んでも、体は疲れてもいないし、明日の心配もしなくていいのだ。

 怪我が治るまで、しばらくはこんな幸せな日が続くと思うと、彦四郎はうれしくなって、くすりと笑わずにはいられない。

「なあに、彦四郎様」

 おようも笑いながら言った。

「いや、なんでもない」

 だらしのない笑い顔を隠すため、彦四郎は着ている布団を口元まで引き上げた。


           *


 食事の支度などは、立ち代わり長屋のおかみさんたちが世話をしてくれた。

 刀を杖代わりにすれば、どうにか歩くこともできるし、納豆売りや、豆腐売りが家の前まで売りにくるので、一人でもなんとかやっていけそうだった。

 しかし、不自由なこともいろいろあるし、おかみさんたちの親切も嬉しく、喜んでその好意に甘えることにした。

「いっぱい食べて、早く怪我を治さなきゃ」

「かたじけないでござる」

「堅苦しいあいさつは抜きだよ」

「はい・・・、ありがとう・・・」

「ふふふ、そうそう」

 おかみさんたちのそんなやり取りも楽しかった」


話し好きのおようは、毎晩話し続けても話しがつきることはない。


時々、団子や寿司を手土産に持って見舞いに来る留吉は、

「今日は女は来ていないのか?」

 と、いつも訊ねるのだった。


 そんな日々を暮らすうち、彦四郎の怪我もずいぶんよくなって、普通に歩けるくらいに回復した。

「もうそろそろ仕事に戻らなければいけないな」

 おようを前にして彦四郎が言った。

 早く仕事をした方がいいと思った。こんなに楽で楽しい生活ばかり続けていると、自分がだめになりそうでちゃんと元に戻れるか心配になってくる。

 貯めた金子も少なくなって、心細くなってきた。だが、

「仕事をするとなると、またお前に会えなくなる」

 彦四郎にとってそれが一番寂しい。

「私は毎夜、彦四郎様の元へまいります」

 おようが笑って言った。

「しかし」

 彦四郎は、夜に眠らずにおようが来るのを待つのはもうやめようと決めていた。

 ぼんやりとした寝不足の頭で仕事をして、また皆に迷惑をかけたくない。きちんと睡眠を取ってしっかり仕事をしようと決めたのだ。

 だから、おようが訪ねてきても眠っているのがほとんどだろう。

(眠っているのでは会えないのと同じだ)

 そう言おうとしたが、何だか情けない気がして彦四郎は言うのをやめた。


「もし、おれがあの時、梯子から落ちて死んでいたら・・・」

 怪我をした時からずっとそのことについて、彦四郎は考えていた。

「あの世で、お前と一緒になれたのかな」

「えっ・・・?」

 おようが驚いた声を出した。

 急にからのとっくりが転がって、部屋の中を小さな風が舞った。

「おれはお前といつも一緒にいたいのだ」

 自分の本心を女に明かすなど、今までの彦四郎には考えられないことだった。だが、今に彦四郎には何のためらいもなく言うことができた。

 彦四郎はありのままの自分の気持ちを、おように言えたことが嬉しかった。

 おようもきっと自分の気持ちに答えてくれると思ったからだ。

 しかし、おようは悲しそうに微笑んで首を横に振った。

「いいえ、あなたには・・・」

 姿勢を正しておようが言った。

「あなたには、まだ寿命があります」

 静かに、でも、きっぱりとした言い方だった。おようの幼い顔つきが、いつもより大人びて見えて、彦四郎はおように突き放されたような衝撃をうけた。

(そんな言い訳をして。おれではだめだと言いたいのか)

彦四郎はかっとなった。

「そんなことなぜわかる? なぜそういいきれるのだ。おれの命だ。この命はおれの自由になる命なのだ」

 と、子供が駄々をこねるみたいに言った。

「彦四郎さま・・・」

 おようは彦四郎の顔をじっと見た。

「でも、彦四郎様にはあなたを信じて待っている方たちがいます」

「誰が待っているというのだ」

「それは・・、あなたのご両親や兄上様たち、それに・・・」

「いいやっ! 誰もおれのことなど待ってやしない」

 ちらっと両親や兄たちの顔が浮かんだ。彦四郎自身、本当にそう思っているのかよくわからなかった。

「あなたを思っている人がいます。私にはわかるのです。私は幽霊ですからなんでも・・・」

「では、お前はなぜ、ここでやつを待ち続ける? なんでもわかるのなら、今、やつがどこでどうしているかもわかるはず。この長屋に毎夜通う必要などないはず」

「・・・・」

おようは黙ってしまった。だが、彦四郎は続けた。

「幽霊とて、なんでもわかるわけがない。おれの気持ちも・・・。わかるなら教えてくれ。なぜ、おれとお前が出会ったのかを」

 力が抜けたように、彦四郎の言葉が小さくなっていった。

 沈黙の後行灯の灯りがふっと消えた。

 それと同時におようの姿も見えなくなった。


 


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