おいたち
今夜、彦四郎はおようを前にして、傘の髪貼りの内職をしていた。
本来なら行灯の油がもったいないので、夜に内職をすることはあまりないのだが、今夜はおようが来る時刻に合わせて、行灯の火を入れ仕事を始めた。
仕事をしながらだったら、昨夜のように話すことがなくなっても、気詰まりにならなくて済むと思ったからだ。
おようは傘を貼る彦四郎の手元をじっと見ていた。
彦四郎はどきまぎして、ぎこちない手つきで傘に紙を貼っている。
「大分、寒くなってきたね」
彦四郎が声をかけると、
「はい」
と、おようの小さな声が返ってきた。
ついいましがた結ったようなきれいなまげ。びんつけ油の香りがほのかに香っている。
行灯に照らされた、白い餅のように柔らかそうな頬。思わず見とれてしまいそうになる。
表戸ががたがたと音を立てる。外は風が強いらしい。
隙間だらけの戸口から冷たい風が入って来る。彦四郎は思わず大きなくしゃみをして、体をぶるっと震わせた。
それを見ておようがくすりと笑った。口元に小さなえくぼができていた。
彦四郎もおかしくなってつられて笑った。
江戸で暮らすようになって、初めて笑った気がした。
「江戸に来てからずいぶん時がたった」
小さな声で独り言を言うように彦四郎が言った。
「江戸に来れば再仕官できるかもしれないなんて、そんないい話しがあるはずもないのに、おれの考えが甘かった」
暗い行灯の灯りが一瞬、ぽっとあかるくなった。
「おれを雇ってくれた旗本の藩主が、もう少しりっぱの人であったら、藩がお取り潰しになることもなかったはずだが・・・」
彦四郎を雇った藩主は、人当たりのいい優しい人物であったが、酒色に溺れ、藩政はみな家臣に任せきりだった。そのせいで、家臣内部でいざこざや争いがおこり、とうとう藩はお取り潰しになってしまったのだ。
それは自分にはどうしようもないことだったと彦四郎は思っている。
「しかし、藩が潰れたからといって、実家に帰ることはできない。家計の厳しい旗本の四男に生まれたおれには、どこにも居場所がないのだ。家督を継ぐ長男や母はおれを気づかって、帰ってくればいいと言ってくれる。だが、実家に戻っても体裁がつかないし、父や養子に出た二人の兄にも心配や迷惑をかけたくないのだ」
傘の骨にのりを塗りながら、
「つまらない話しをしてしまったな」
彦四郎は、神妙な顔つきで話しをきいているおようにつぶやいた。
誰にも話したことのない話まで話してしまった。どうしてだろう。おようがこの世のものではないからか。
彦四郎は苦笑した。
「いいえっ!」
おようが強い口調で言った。
「彦四郎様は立派です。ご両親やお兄様のことを大事に思っていらっしゃる、思いやりのある優しいお方です」
真剣なまなざしでおようが言った。
「彦四郎様に比べて、私は、私は・・・」
おようが膝の上に乗せた手を握りしめた。
「親不孝者です。親を悲しませたひどい娘です」
おようの目から涙がこぼれた。
「後先の事も考えず、男の人と駆け落ちなんかして、江戸に逃げてきたのです。そして、親より先に死にました。これほど親不孝などありません。それでもなお、私はあの方に未練があってまちつづけている。親を裏切りつづけているのです」
震える肩、うつむいた細い首の襟足に、おくれ髪が揺れていた。
それからおようは話し出した。
「私は水戸の呉服屋の一人娘として生まれました・・・」
蝶よ花よと大事に育てられたおようであったが、十七になった時、浪人の忠正と知り合って恋仲になった。
親や回りの者たちは猛反対した。かわいい娘を浪人なんかにやれるはずもない。それに、おようにはおようにお似合いの若者との縁談も決まっていたのだから。
それで、ふたりは駆け落ちをした。
「忠正様は悪くはありません。私が無理に連れて逃げてくださいとお願いしたのです。そうしてくださらないと私は死にますと言ったのです」
江戸に来てしばらく二人は。幸せに暮らした。
おようは一膳飯屋で働いて家計を支えた。
だが、慣れない環境で仕事の無理がたたったのか、おようは病気になった。
心配した忠正はおようの実家にこのことを知らせ、おようは迎えに来た人たちと一緒に実家に帰って行った。
家に帰ったおようだったが、病気は良くならず、おようは死んでしまった。
「私は幽霊になって、この長屋に戻ってきました。忠正様はどこに行かれたのか、ここにはおられませんでした。私は忠正様が二人で暮らしたこの思いでの場所に、いつか戻ってこられると信じて、毎夜ここへ通っていたのでございます」
おようは目をふせて小さなため息をついた。
「でも、あなた様がこの長屋に来られた時は驚きました。とても、忠正様に似ていらしたので。しばらくは様子を見ていましたが、そのうちにあなた様が忠正様に見えてきて・・・」
おようが言った言葉を否定するように、頭を振った。
すると、強い風が吹いて行灯の灯りが消えた。彦四郎が髪を貼っていた傘もとばされ、彦四郎はあっと声を上げた。
すぐに風はやんだ。
「すみません」
と、おようが言うと行灯の灯りがともった。
「失礼しました。つい」
おようが言った。
のりを入れておいた桶がひっくり返って、畳が濡れた。
「申し訳ありません」
おろおろするおように、
「いや、いいのだよ」
雑巾で畳を拭きながら、彦四郎が優しく言った。
あわれなことだ。いつからこの娘はこの長屋に通っているのだろう。親に申し訳ないと思いながら、帰ってこない相手を待ち続けているのだろう。
彦四郎は同情した。
雀が鳴き始めた。夜が明けたのだ。
おようはお辞儀をして帰って行った。
彦四郎は明るくなっていく表の障子戸を見ながらぼんやり考えていた。
おれに似ている忠正という浪人は、まったくどんな奴なのだろう。この江戸にいうのだろうか。おようが死んでもなお会いたいと思う相手だ。おようがよっぽど惚れた男なのだろう。もし、万が一、そいつがここへ戻ってきたならば、おようは・・・」
彦四郎は固く目を閉じた。
もう、考えるのはよそう。
けれど、頭に浮かんでくるのはおようのことばかりだった。




