3rd
高校を卒業して看護学校に行き就職した、いわゆる現役組の綾春は看護師として5年目の春を迎えていた。毎年3月は複数の離職者が発生するため、4月は特に人手不足である。そこに新人加入による業務負担の増加ときて、病棟の殺伐とした空気ももはや恒例行事だ。整形外科病棟に男性の新人看護師が配属されるという一報を先輩の宮川から受け、希望を見出す。
「次来る奴には残ってほしいですね、ここ整形なのに男2人って少なくないですか。」
「そうだな、去年の新人君はすぐ辞めちゃったからな。今度来る新人は、お前と同い年らしいぞ。」
「まじですか。社会人出身なら、期待したいところですね。」
新人看護師の離職率は低くはなく、綾春が勤務する病院も例外ではなかった。整形外科病棟は力仕事も多いため、比較的男性看護師が多めに配属されるものだという認識がある。
「あー新人が病棟に上がってくる日、夜勤です。」
「おっそうか。まぁ顔合わせる時間くらいあるだろう。」
あのときその新人の名前を聞いていたら、僅かな記憶を手繰り寄せて裕也のことを思い出しただろうか。綾春はそんなことをぼんやりと考えながらカフェの外を眺め、彼女の真美がトイレから戻ってくるのを待っていた。
久しぶりに再会したのに、裕也からは全く嬉しそうな様子が伺えない。昔はいつも自分にくっついてきていたので、再会した日を含めて、反応の悪さに納得がいかなかった。目が合えばそらされ、休憩中も距離をとられる。綾春が思い当たることは、昔のあの行為だ。
そしてあんなことをしていた相手に再会などしたくなかったのだろう、という結論にいきつく。あの行為のことは気にせず昔みたいに仲良くやろうという話をしたかったのに、裕也から覚えていないと言われてしまった。
「話題に出すのも嫌ってことなのか……。」
「何が?」
トイレから戻った真美は、綾春の向かいに座った。
「わっ、ごめん独り言だよ。」
「それよりあの話考えてくれた?」
「うん、考えたけどやっぱり今は結婚については考えられないんだよね。いつになったらいいとか期限決めるのも、ちょっと本当に難しい。ごめん。」
「じゃあ別れるって言ったら?」
「それならそれで、仕方ないと思ってる。」
「何それ、その程度ってことなの。もういいよ、帰る。」
そう言い残し、真美は立ち上がってカフェから出て行ってしまった。しかし綾春は追いかけることもせず、ため息をつく。付き合って8カ月になる真美は24歳で、最近やたらと結婚を迫ってきていた。もちろん好きという感情はあるが、かわいい女の子と一緒に過ごすのは楽しいという程度の感覚だ。結婚したいと思えるほどではないし、今まで付き合ってきた相手にも同じような気持ちを持っていた。
真美が出て行ってすぐLINEで「また話そう。」と送り、綾春もカフェを後にした。
綾春が勤務する病院では、休憩を11時半からの前半と12時半からの後半にわけてとることになっている。ある日後半の休憩だった綾春が患者の食事を運んでいると、ナースコールを受け取る相沢由美の姿が目に入った。扉の開いた個室からトイレを知らせる患者の声が聞こえてきたので、トイレ介助のナースコールだとわかる。
綾春がサイドテーブルに食事を置いて病室を出ると、由美が自分と同じように配膳しているので、声をかけた。
「あれ相沢さん、トイレ介助大丈夫でしたか。」
「ああ、葉山君に頼んだから。」
「えっ。あいつの休憩、前半ですよ。」
「そうなの?なにも言ってなかったわよ。担当だし、すぐすむでしょう。」
自分がいたら助けてやれたかもしれないと思ったところで、おそらく拒否されるだろう。由美に頼まれていたこともまだできていないことを知っていたので、手伝えることがあればと声をかけにいこうとしたが思い直した。どうせ断られるだろうし、自分の担当するプリセプティ(新人)でもないのに、ここまで気をかけるのは少々おかしい気もする。
綾春は配膳作業に戻り、12時半から後半組のスタッフとともに休憩に入った。
「平井って本当に葉山君と友だちだったのか?」
昼食をとっていると、宮川が綾春に話しかけてきた。
「はい、小学生のころの話ですけどね。何でですか?」
「だってお前、全然仲良さそうじゃないからさ。葉山君が関わることを避けているように
すら見えるぞ。」
「……それは嫌われてるってことですかね。」
「うーん、同い年なのに先輩後輩っていうのが微妙なのかもしれないな。それか、お前昔なんかしたとか。仲良かったとか言って、虐めてたんじゃないのか~?」
「いやいやいや何もしてないですよ、ましてや虐めるなんて。本当に仲良かったんです、学校でも家でも毎日ずっと一緒にいたし。」
「そんな?何するんだよ(笑)。」
「まあゲームとか、いろいろですけど。」
周囲の人間にもわかるほどだということがわかり、邪険にするなよという想いが込み上げてくる。本当に毎日一緒にいたし、キスしたり裸で抱き合ったりしたこともなにも強要したことではなかったのにと綾春は少し苛立ちを覚えた。
午後になって、由美が体交枕が降ろされていないと裕也に迫る場面を目にする。綾春は裕也が他の業務で手一杯なことを知っていたので声をかけていたところに、あの事故が起きた(2nd参照)。
脚立から落ちた裕也を受け止め、ほっとした瞬間と同時に壁に激突していた。薄れゆく意識のなか、「綾春!」と叫ぶ裕也の声が聞こえる。
処置室に運ばれた綾春は、ほどなくして意識を取り戻した。左手は打撲していたが、頭部は特に異常ないとのことだ。安静にして様子を見るよう医師に言われ、病棟の空いている部屋を使わせてもらうことになった。
しばらく横になってうとうとしていた綾春の視界に裕也が入り、思わず手首を掴んだ。そのまま勝手に手が動いて、裕也をベッドに引きずり込んでしまう。ただ問い詰めても覚えていないと繰り返すばかりなので、「思い出させてやる」などと口走ってしまった。本気でどうこうするつもりもなく、ちょっとからかってやろうという程度のものである。
しかし上から裕也を見下ろした途端、どんなもんかと一種の好奇心にかられて手を出してしまった。裕也がそれに反応しているとわかり、過去の行為と照らしあわせて今どうなっているのかという疑問が頭に浮かぶ。男が好きなのかという質問に裕也は答えなかった。
「のけって!!」
「わっ、いって。」
勢いよく押し返され、患部に痛みが走る。裕也はそのまま部屋を出て行き、綾春はベッドに倒れこんで、目を瞑った。
「俺なにやってるんだろう。」
裕也の反応からして、おそらく同性愛者だ。子どもの頃、男同士でいやらしい行為をしていた自分はどうなのか、と綾春は初めて疑問を持ち始めた。綾春が思っていた以上に、裕也の肌やその感触が脳裏に焼き付いている。好奇心からではなく、単に欲情しただけなのかもしれなかった。
翌日綾春が出勤すると、その日のリーダーである宮川が話しかけてきた。
「おはよう、腕どうだ?患者担当するの難しいか。」
「おはようございます。使えないこともないんですけど、細かい作業とか力仕事は厳しいですね。」
「だよなあ。誰かと組むか……って新人と組めばいいんじゃないか。そしたら予定通りの患者の人数割り当てられる。」
「ああ、そうですね。」
「えーと、じゃあ誰しよう。葉山君にするか、当事者だしな。俺から言っとくわ。」
リーダーには誰にどの患者を割り当てるか、誰と新人をペアにするかなどといった業務がある。宮川は、裕也にプリセプターではなく綾春とペアで行動するよう言いに行った。
「平井さん。あの、昨日は、迷惑かけてすいませんでした。よろしくお願いします。」
すぐに裕也がやってきて、声をかけられる。しかし綾春と目を合わせようとはしなかった。
「いや、俺が勝手にぶつかって怪我しただけだから。それより俺のほうがごめん、悪かった。」
「っ……!だ、大丈夫です。ちょっとびっくりしただけで、気にしてないので。」
「あのさ、もう1つ聞きたいことあったんだよ。昨日お前、俺のこと綾春って名前で呼んだよな?」
「……さあ、よく覚えてません。」
「絶対言ったって!記憶力どうなんだ。よく国試受かったな?」
「国家試験は大事なことなんで。」
「ええ?友だちも大事にしろよ(笑)。」
裕也は何も言わなかったが、固かった表情が少し和らいだ。
「よっし、じゃあ今日から俺の左腕としてよろしく。CVポートのヒューバー針交換する患者さんいるから、必要なもん持ってきて。俺が横で見てるから、実践な。」
「はい。」
2人がペアを組むようになって1週間がすぎ、このころには以前より2人の距離は縮まっていた。仕事以外の話もするようになり、同じバンドが好きということなどプライベートについてもお互いを知るようになる。いつしか裕也の話し方も、二人っきりのときは敬語ではなくなっていた。
ある日、更衣室で裕也が話しかける。
「明日RGPの対バンがあるんだけど、仕事早めに終われたら行く?」
「明日?うわ行きたい、けど明日は約束が。」
「……彼女?」
「あーうん。いや、彼女っていっても、そんなあの結婚とかするような感じではないし。そんな深い関係じゃないっていうか。」
「はぁ?付き合ってるんだろ、何でそんな必死なんだよ(笑)。ライブはよくやってるから、別にいいよ。」
そのときふと、裕也に男が好きかどうか聞いたときのことを思い出した。目の前にいる友だちを押し倒したという事実だけでも赤面ものだが、まるで好きな相手に誤解されたくないような態度をとってしまったことに気がついて恥ずかしくなる。裕也がゲイなのか知りたかったが、それを口にするとせっかく築けた関係が崩れるのではないかと思い、聞くことができなかった。
彼女の真美と会っているときも、裕也のことを考えていた。今ライブハウスにいるのか、誰か別の人間と行ったのか、など気になってしかたない。真美が夜家に来るときはだいたいセックスして泊まるのがお決まりのパターンで、この日もその流れだった。
「どうしたの?」
彼氏が勃たないという初めての光景を目にして、真美が驚いている。
「ごめん、ちょっと疲れてるのかもしれない。」
「そっかー、じゃ今日は帰るね。」
「送るよ。」
「タクシー呼ぶから大丈夫だよ。休んでて。」
真美が帰ったあと、ベッドに突っ伏して目を閉じた。彼女の裸を目の前にしても勃たなかった状況に、真美よりも綾春自身が驚いている。だがその理由を、綾春はわかっていた。目を閉じて浮かんでくるのは裕也の身体で、色白な肌に触れた感触を思い出す。昔みたいにキスしたらどんな感触なのか、あの行為の続きをしたらどうなるのか。幼いころに感じたぬくもりを、忘れられないでいた。
この時期になると新人の夜勤がスタートするが、独り立ちするまでは先輩と組みながら入る。綾春と裕也にも、夜勤がまわってきた。
「おはようございます。」
「おはよう。ってあれ、眼鏡?どうした。」
「長時間コンタクトになると、目によくないかなと思って。」
「へぇ、眼鏡も新鮮でいいんじゃない。そんなことする奴、初めて見たけど(笑)。」
「ちょっと、笑いすぎだよ先輩。」
そう言いながら、裕也が綾春を肘でつつく。その様子をみていた宮川が話しかけてきた。
「ずいぶん仲良くなったな。」
「え、そんなことないですよ……。」
裕也はサッと離れて背を向け、担当患者の点滴を確認し始めた。
「てか平井!お前、真美ちゃんと別れたってマジか?何でだよ。」
「奥さんから聞いたんですか?会社の先輩でしたもんね。他に好きな人ができたんです。」
「ええ……お前そういうタイプだったの、意外だね。まあ頑張れよ。」
「!!」
綾春の言葉を聞いて、裕也が振り向いた。宮川が去ったあと、綾春が話しかける。
「何、気になる?」
「別に、先輩なら誰でも付き合ってもらえるんじゃないですか?」
「そっかな、告白しようか迷ってるんだけど。」
「……絶対うまくいくよ。」
そう言って、裕也もその場を離れた。