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始まりのぬくもり  作者: いとすく
2/5

2nd

裕也が就職して、1か月が過ぎた。

覚悟はしていたものの、看護師の業務は想像以上に大変で日勤の帰宅が深夜になることもあった。記録や処置、検査など基本的に翌日に持ち越すということができず、先輩のチェックを受けるため定時を大幅に過ぎることも珍しいことではない。

新人は1人で行動できるようになるまで先輩とペアを組むというのがこの病院の方針で、基本的にはプリセプターとペアになるが、出勤していないときは別の先輩が担当することになっている。

ある日裕也が出勤すると、ボードの自分の名前の上に「平井」という文字が見えた。あれから綾春と勤務が重なったり他の同僚と共に食堂に行ったりすることはあったが、2人で何か話すような機会はほとんどない。最初のころこそ意識していたものの、今はそんなことを考える余裕もないほど業務に追われているので特に動揺もしなかった。

裕也が担当患者の薬を準備していると、綾春が出勤してきた。

「おはようございます。平井さん、今日よろしくお願いします。」

「おはよう。あ、今日ペアなんだな。よろしく。」

「あの、薬のダブルチェックお願いします。」

「お、もう用意できてんの……うんOK。じゃサインな。」

裕也は服薬管理の書類にサインしながら、普通に接することができたと安堵する。

2人で担当患者の部屋をまわり淡々と業務をこなしていたが、定時の17時を前にして救急患者の受け入れ要請があった。

「今日の当番は、葉山だな。」

「あー最後にきちゃったな。しゃあない、準備するぞ。」

リーダーの指示を聞いた綾春は裕也に声をかける。

「はい。」

裕也は返事をして、自分の業務を中断した。

日勤帯に入院してきた患者は日勤に勤務する者がまず受け入れ、カルテの準備や家族対応など入院にかかわる全ての業務をしなければならない。またそれが最優先で、その日の記録などは後回しにしてとりかかるため、このような日も帰宅時間は遅くなることが多い。

裕也が当番と言っても、実際には綾春主導で指示をもらいながら入院対応の業務を学ぶという感じだ。

入院患者に関する情報を夜勤帯へ引き継いだとき、時計の針は20時前をさしていた。

「おっし終わり!」

「すいません平井さん、今日の記録がまだできてないんですけど。」

「おお、看護計画もだよな。じゃ物品置いてある部屋のPCでするぞ、当直の見回りに見つかったら早く帰れってうるせーから。」

「はい。」


裕也は物品が置いてある部屋に行き、急いで記録の入力を開始した。そのすぐ横で綾春が待っている。このように先輩を待たせるのは非常に心苦しいことで、裕也も例外ではない。一度完成させてチェックを受けてやり直し、全て終えたときは22時をまわっていた。

「平井さん、遅くまですいません。ありがとうございました。」

「うん、お疲れさん。」

そう言われ、裕也がPCを片付けていると、綾春が声をかけてきた。

「裕也。」

「……は?えっあの、はい。」

下の名前で呼ばれ、一瞬動きが止まる。少々驚きながらも、裕也は返事をした。

「って昔は呼んでたよな。」

「……そう、でしたっけ。昔のことは、あんまり覚えてなくて。」

「本当に?俺のこと呼び捨てで綾春って言ってたことも?」

「そうですね。」

「一緒に遊んだことも?」

裕也は、すぐに言葉が出てこなかった。何と答えるのがベストなのか、綾春の意図は何なのかそもそも意味などないのか。彼女がいるのだからノーマルに決まってる、そんな相手に、自分がゲイであることを知られたくないと思った。

「そうですね、俺記憶力あんまり良くないんで。子どもの頃のこととか、全然覚えてないんですよね。」

「そっか。ならいいんだけど、覚えてるかなと思ってさ。今日このあと少しだけ飲みに行かないか?」

「……すいません、今日はやめときます。」

「そっか、じゃまた今度な。お疲れ。」

「お疲れさまでした。失礼します。」

裕也は足早に更衣室へ向かい、急いで着替えて病院を出た。そして何となく帰りたくない気持ちになり、同性愛者が集まるBarに一人で向かった。


裕也がカウンターで一人飲んでいると、このBarで知り合ったアキラが声をかけてきた。

「よお、久しぶりじゃん。最近どうしてんの。」

「あー実は新しい職場に就職してさ、ちょっと忙しくて。」

「ふーん。隣いい?」

「どうぞ。」

裕也とアキラは、このBarでしか会わない。連絡先は知っているものの、普段連絡を取り合うことはほとんどなかった。お互いの素性も詳しくは明かしていなかったが、貴重な話し相手である。

アキラが話題にするのは恋愛やゲイ事情などの話ばかりで、普段裕也は聞き役に徹することが多かったが、この日は思い切って綾春のことを話してみた。子どものころの出来事や関係性、再会したらノンケの彼女もちだったことまで全部伝えた。

「なるほど、向こうは同性愛者にはならなかったわけか。それでショック受けたんだ?」

「いや別にショック受けたわけじゃない、ただ自分だけなのがなんかモヤモヤするっていうか……。あんなことしたせいで同性愛者になったのかもしれないのにって思ったら、何で俺だけって。」

「それはどうだろうな、実際向こうはノンケなんだから。あんまり関係なかったんじゃね?それより相変わらず卑屈っていうか、自分がゲイだっていう事実を受け止めろよ。同性愛者を見下してるようにも聞こえるぞ。」

「ごめん、そういうつもりじゃなくて。」

同性愛のジャンルに身を置く自分が後ろめたく、何とか正当化するために過去の出来事に責任をおしつけてきた。そうすることでバランスを保っていたのだと、綾春に再会して思い知らされていた。

「話聞いてくれてありがとう、明日も仕事あるから帰るわ。」

裕也はグラスに残っていたカクテルを飲みほして、席を立った。


翌日の午前中、ナースステーションでベテランの女性看護師の相沢由香が新人について同僚に愚痴っている場面に出くわした。新人とペアになると遅くまで残らなければならない、業務負担が増えるなどといったもので、否応なしに耳に入ってくる。

裕也は素早く必要物品を手にしその場を離れると、廊下で綾春に声をかけられた。

「あ、裕也。ちょっといい?頼みたいことがあるんだけど。」

前日まで名字で呼んでいたのに何の迷いもなく呼ばれ、一瞬とまどったが極めて平然を装って対応する。

「はい。入浴介助終わってからでも大丈夫ですか?」

「もちろんいいよ。倉庫の体交枕あるだろ、あれ棚の上にあるやつ全部降ろしといてって。相沢さんからの指示。」

「わかりました。」

入浴介助を終えると11時半を過ぎており、そのまま休憩に入って昼食をとった。休憩を早めに切り上げ倉庫に向かう途中、先ほどナースステーションで愚痴を言っていた由香に呼びとめられてしまう。

「葉山君、502の患者さんナースコール。トイレ。」

「えっ。あ、はい。」

裕也はまだ休憩中ですという言葉を飲み込んで、502へと向かった。トイレ介助などは担当看護師でなくても対応可能だが、新人はむしろ経験を積むために買ってでる。本来休憩中であれば、担当患者であろうとなかろうと対応しない。しかし、こういうときは反論せず言われた通りにするのが常である。

裕也は患者のもとを訪れ、車いすをベッド横にセットした。患者をベッドから移乗させトイレへと連れて行く。さらに一緒に入り便座への移乗、下着の着脱とベッドへ戻るまでを介助した。

申し訳なさそうにお礼を言う患者に、裕也は「また呼んでくださいね。」と声をかける。

幸いなことにまだ休憩時間内だと思った矢先、隣の病室からガシャンと大きな音がした。急いで駆け付けると、食器がひっくり返っている。担当患者ではないが、新人の裕也には対応する以外の選択肢はなくすぐに看護助手に応援を頼んだ。2人で汚れたシーツを交換し終えたころ、休憩時間はとっくに終わっていた。

ひとまずナースステーションに戻ったところで、裕也の担当患者の手術が終わったと連絡が入る。裕也はプリセプターの涼子とともに手術室へ迎えに行き、検査を終えて病棟へ戻った。手術を終えたあとの患者は、まさに目が離せないといったところで、採血や点滴をしたり時間ごとに症状の有無を確認したりする。医師との連携や家族対応などもこなしながら記録を入力していると、「ちょっと、体交枕降ろしてないじゃん。」という声が背後から聞こえてきた。

「葉山君、平井君から頼まれたでしょう?」

振り返ると、由香の姿が目に入った。

「すいません、すぐやります。」

裕也は手を止めて、倉庫へ向かった。その様子を見ていた綾春が、また裕也に声をかける。

「おい、いいよ俺時間あるからやっとく。」

「いえ、大丈夫です。すいません。」

倉庫で棚の上を確認すると、結構な量の体交枕とさらにその上に荷物が置いてある。裕也は脚立を使って荷物を降ろし始めた。

「裕也、俺やっとくから戻れよ。術後の患者みてるだろ。」

苛立ちと焦りでもはや返事をする気にもならず、黙々と作業する。

あまりにも整理されていない状態に嫌気がさし、つい下から体交枕を抜いてしまった。その瞬間大量の荷物の山が崩れ、裕也は脚立の上でバランスを失い落下した。やばい、そう思ったとき、自分の身体を受け止めた綾春の顔が視界に入る。そのまま勢いよく壁にぶつかり、ゴッという鈍い音がして裕也の下敷きになった。

「綾春!!」

裕也は、無意識に叫んでいた。

凄まじい音を聞いて職員が駆け付ける。騒然とするなか、何かわめいている声も耳に入らず、担架で運ばれる綾春をただ呆然と立ちつくして見ていた。

それから師長に事情を聞かれたが、自身の不注意が招いたものだとして謝罪し、始末書を書くことになった。涼子や同期に助けられながら通常業務と倉庫の片付けと並行して行い、何とか一日の仕事を終える。その日のことはあまり記憶に残っていないほど、頭の中がぐちゃぐちゃだった。なんとも言い表せない感情に押しつぶされそうになるが、それを吐き出せる相手もいない。綾春が頭を打ったときの鈍い音が頭から離れず、受け止められたときの感覚も忘れられなかった。


綾春は緊急処置を受けて、空いている病室に運ばれていた。裕也が医師に容体を確認すると、左腕を打撲頭しているが強打した頭部は異常なしとのことだ。意識も取り戻したが、今は眠っているという。

裕也が病室に入ると、聞いていた通りベッドの上で眠っている綾春がいた。左腕に包帯を巻いているものの、すやすや寝息をたてている。

「なんだよ、普通に寝てる……。」思わず呟き、その姿を見てホッとした。

裕也はベッドサイドに軽く腰をかけて綾春の寝顔を見つめていたが、直視できなくなり窓の方をぼんやりと眺める。外はもう真っ暗だが、カーテンが閉まっていないのが目に入り、閉めに行くために立ち上がろうとしたとき手首をぐっと掴まれた。

「どこ行くんだ。」

裕也は、驚いて振り返った。

「なっ、なに。起きてたのか?カーテン閉めようと思ったんだよ。」

「あ、そう。そんなことより、お前大丈夫か?怪我しなかったか。」

「お、俺は大丈夫だよ。俺より、自分の心配しろよ。」

「ん?ああ、腕が痛いな。大したことねーけど、まあ業務に支障はきたすな。」

「あの、ごめん。すいませんでした。俺のせいで怪我して、あとかばってくれて。」

「いいよ、怪我がなくてよかった。」

「ありがとう、ございます。で、あの、手離してくださ…」

言い終わる前にグイっと引っ張りこまれ、気づけば綾春が上からまたがって見下ろしている。

「な、に、すんだよ。やめろよ。」

綾春は何も答えない。10秒ほど間があいてから、口を開いた。

「もっかい聞くけど、本当に昔のこと覚えてないのか。」

「だから、覚えてないって言ってんだろ。のけよ。」

「あーじゃあ、思い出させてやるよ。口で言うより、実践したほうが早い。」

そう言って、綾春は白衣の中に左手を入れてきた。右手は依然として裕也を押さえつけている。

「やめろよ!」

「大きい声出すなよ、人来るぞ。」

「ちょっ、なに……。」

服がまくりあげられて、白い肌が露わになっていた。綾春は唇でやさしく触れ、そのまま舌を這あわせる。

裕也は何も言えず、目を手で覆った。抵抗したい気持ちがあるのに、体が熱くなっていくのを感じていた。

「こういうことしてたんだよ、思い出したろ。……って、え。」

綾春は膝のあたりに硬いものがあたることに気がついた。裕也は目を手で覆ったまま、唇をきゅっと噛んだ。

「聞きたかったんだけど、もしかして男が好きとか?」

その一言で、自分でもわかるほど裕也は赤面する。

「……のけよ。」

「え?」

「のけって!!」

「わっ、いって。」

裕也は勢いよく綾春を押し返し、病室から飛び出した。包帯を巻いている左手に当たった気もしたが、もうどうでもよかった。

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