同居人との決別
私は懐かしい最寄り駅に降りる。
乾かしたはいいが皺くちゃになってしまった便箋。そこに書いた文字は、私の決意だ。その手紙を握りしめていたものだから、余計に折れ曲がる。それでも、力を緩めることが出来なかった。
「どうしよう……」
電車が走り去った後も、私は動けずにいた。不思議な顔をする駅員を困らせるのは良くないと、とにかく改札を出る。
しかし、私は急に震え出す。また、殴られたら今度はどうなるかわからない。久しぶりに会うから、何を話せばいいかわからない。
いや、大丈夫だ。この手紙を、この決別の手紙を渡すだけでいい。母に会い、事情を話してから手紙を置いて帰ってしまえば終わるのだ。
一度、落ち着こうとベンチに座る。そよそよと流れて来る風は湿気を含んでいる。雨はやんだようだが、足元は濡れている。やんで間もないようだ。
田舎の駅。そっと外を眺めてみれば濃い雲が広がっていた。
私は手に持っていた決別の手紙を開く。書き殴ったような酷い文字が並んでいる。
『あなたのことが嫌いです』
彼が嫌い。彼が憎い。彼が怖い。彼を殺したい。彼のために人生めちゃくちゃにされるのは嫌だ。彼のせいで自分が壊れてしまいそうだ。
彼は同居人。いつの間にかいた同居人。同居人だから全て知っている。同居人なのにわかってもらえない。同居人なのに認めてはくれない。
同居人なんて、いなくなればいいのに――。
――――
懐かしい道を歩く度に、足が進むことを拒否する。
予定では午後三時には着くはずだったのに、もう五時を過ぎていた。あっという間に空は晴れて夕焼けになろうとしていた。明日は晴れるみたいだ。
最後の曲がり角に差しかかる。緩いカーブの先に、見覚えのある電信柱。よく、そこで絵を描いていた。その根元には相変わらず、小さな名前もわからない花が咲いている。
私の実家。ハナミズキはいつの間にか姿を消し、キンモクセイは手入れしたばかりなのか切りそろえられている。
そして、塀沿いにあるのは花ばかりだ。丁寧に等間隔に植えられている。
塀の左。姉の好きなレインリリーと薔薇。塀の右には、私の好きなヒマワリが、太陽に向かって咲いている。もう終わりそうではあるが、私の好きな花が実家の敷地で咲いていた。
こんな花、私の記憶にはない。私がいなくなった後に植えたのだろうか。
考えていると、塀の向こうに麦わら帽子が見えた。その帽子は当たり前のように、ヒマワリの手入れを始める。
だいぶ老けて、痩せてしまった彼の背中がどこか淋しそうに見えた。その優しい手つきは、まるで違う。私の記憶の中にある同居人ではない。
「あの……っ」
私は思わず声をかけてしまった。酷いことをした同居人に、声をかけてしまったのだ。馬鹿みたいに優しい声で、彼を振り向かせていた。
「なんだ。帰ってきたのか」
ぶっきらぼうに言う同居人は、やっぱり何も変わらない。だけど――。
「おかえり」
いつの間に、そんなふうに笑うようになったのだろう。いつから、彼は私の目を見て話すようになったのだろう。
「ただ、いま……」
私は持っていた手紙をぎゅっと丸める。落としてしまったパンの袋に押し込む。それを隠すように持つ自分が恥ずかしくなる。
私は間違っているのだろうか。彼の目は、あの頃と全く違う。彼の声に優しさを感じる。
彼の顔を見ると思い出す。嫌な思い出の中に、彼が遊んでくれたこと。楽しかったこと。何よりも私を養ってくれたのだ。
「おい、さっさと家に入ったらどうだ」
「……うん」
誘われるままに、敷地内に足を踏み入れる。彼は荷物を自ら持ってくれた。が、突然立ち止まって私はぶつかってしまう。
転びそうになるが、彼は振り向きもしないで呟くように言う。
「……すまない」
私は驚いていた。
それは何に対しての謝罪だったのか。聞く前に家に入ってしまった。
荷物を置いて出てきた彼は、泣きそうな顔をしていた。私はよくわからなくて、困ってしまう。
決別なんてとても出来ない。
私は彼が嫌いだ。同居人の彼が嫌いだ。それでも、消えない繋がりがある。
もう一度、同じ事件が起こる可能性だってある。それでも思うことがある。
あの日に止まったままの、凍結してしまった感情を取り戻す方法はここにしかないのだ。
「おかえり」
「ただいま」
再びのやり取りに、私は笑うしかなくなってしまった。
「お母さん、いる?」
「ああ」
「お姉ちゃんにも連絡した。もうすぐ来ると思うよ、多分ね」
普通に話せている。普通に、彼と会話をしている。あの日に止まったままだった何かを取り戻すように、私は笑っている。
あんなことがあって許せるはずがない。だけど、許せなくてもいつかは、なんて期待してしまうのはおかしいのだろうか。私は馬鹿なのだろうか。でも彼は――。
「ただいま、お父さん」
そう、彼は同居人だった。
私の父親だ。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
以前に短編「彼はただの同居人」として書いたものを加筆修正して、大幅に話を盛り込みました。
1ページに纏めると、混乱しそうな作りになっていますので、ページを分けました。文字数としてはそんなにありませんが、短編として読んでいただけたら嬉しいです。
作品を通して家族のあり方だとか人間的な感情など、心に何か残ったなら幸いです。
本当に読んでいただきありがとうございました。