同居人と母親
バサリと音がして、私は我に返る。半分ほど食べたパンを落としていた。もったいないことをしてしまったと、それを拾い上げて袋に入れる。
ペットボトルのコーヒーを一口飲んで落ち着く。どのくらい時間が経ったのか、温くなっている。
さっきまで晴れていたはずだが、いつの間にか曇り空になっている。
そういえば午後から天気が崩れると、天気予報で言っていた気がする。傘を持っていないので、出来れば予報が外れることを祈りたい。
「雨、降り出しちゃった」
願いは虚しく、霧のように吹き付ける雨が窓に当たる。私はそこにある景色と、自分の顔を見ていた。まるで泣いているような、つまらない不細工な女に見えてしまう。
顔は元通りになったのだ。前髪を上げれば、何かにぶつかった傷痕があるくらい。気にすることはない。
いや、本当の傷は身体の中にある。深く抉れて、治すことは難しい。
あの事件がきっかけとなって、家族の同居人に対する気持ちが変わったように思う。
――――
事件後の精神は、本当に壊れる寸前だったように思う。入院中、私のそばにいた母は、泣き声に気づくとすぐに駆け寄ってくれる。そして謝り続けたのだ。
自分の見ていない所で被害に遭った娘に、謝るしか出来なかったのだと思う。そして、気づいてしまったのだ。同居人の怖さに。
後日、幾らか落ち着いた私に、母と姉は全て話してくれた。
最初に殴られた後、私はテレビの置かれたサイドボードの角に頭を打った。そのままの勢いで後頭部を床に打ち付けて気を失ったという。それでも彼は殴り続けて、私は全治三ヶ月の傷を負ったのだ。
警察沙汰にならずに済んだのは、私が何を聞かれても転んだと言い張ったこと。私が頼んだこともあり、母や姉もそれに同意したことで、しぶしぶながら病院側も納得した。
悔しいが、同居人は世間から見ると立派な男性だ。それで病院側は納得したのかもしれない。
真実を隠すしかない。もし、本当のことを言えばどんな仕打ちが待っているかわからない。大好きな母や姉も攻撃されるかもしれない。
私はそれが怖かった。
でも、真実を隠すことで逆に母や姉に罪悪感を植え付けてしまい、私は自分のしたことを後悔したのだ。
母たちを傷つけてしまった。何て罪深いことをしてしまったのだろう、と。
幸運なことに怪我が治ると元通りの顔になって、整形などに頼る必要はなかった。でも私はしばらく笑うことが出来なくなり、人を信じることも少なくなったのだ。
私が殴られた事件は、家族にとって大きな転換期となる。
事件が起こるまで気づかなかった。同居人が異常な存在であること。そして、素直で優しかった母が、いつからか同居人に操られていたこと。
母はとても立派で、真面目で、非の打ち所がないような完璧な人という認識があるが、彼が家にいるという事実はそれを捻じ曲げてしまう。同居人と暮らしていることは、母の失敗だ。いや、母は最後まで信じていたかったのだと思う。人を疑うことの出来ない、とても優しい人だから。
そして、その優しさにつけこんで、逆らえないように仕向けたのは彼だ。
最近になって初めてモラルハラスメントという言葉を知る。そう、まさにそれだ。彼は母の人格を認めない。当たり前だが、子である私の人格など認めるわけがないのだ。
話を聞けば、自分の思い通りにならないことがあると母を責め続けたと言う。文句を言えば逆ギレして、母を責め、殴ることはなかったが物を壊すことはあった。
それが繰り返されれば、彼の言う通りにするようになる。彼が怒るようなことがあると、母は自分を責めた。
大事にされてきた姉も、彼の異常さに気づいていた。ただ要領がよかった姉は、逆らわずに勉学にだけ打ち込んで逃げていたのだと後で聞いた。
私を守れなかったことを悔やんでくれた。それだけで救われた気持ちになったことを覚えている。
家の中で起こった事件から、私たちは彼、同居人のことを考えるようになる。
ついに、彼の企みが明るみに出たような感じだ。しかし、もうどうすることも出来ないほどに一緒に暮らしてきた。
私たちは何もせず、ただ彼を遠くから眺めるように過ごすしかなかったのだ。