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水中アパート

作者: 桜i 裕樹

「この条件だと、こういった感じの部屋になりますが…」


 男は、春から専門学校へ通うために一人暮らしをはじめた。平均家賃の相場が6万円のところを、不動産屋に家賃4万円で探してもらった安いアパートは、駅からバスで15分ほどかかる場所にあった。


 男が住むアパートの周辺は、団地や他のアパートも多く、スーパーやコンビニもあり、駅までのアクセスを除けば不便は感じないところだが、男の住む部屋の間取りというと、洗濯機は室内に置けるが、日当たりが悪いのにベランダがなく、開閉が出来ない小窓があるだけのシンプルな1ルームであった。


 そして今、部屋の中は隙間無く水で満たされており、ピクリとも動かない男とギターピック、教科書とサンバイザー、トランクスにスマホまでが質量を無視して透明な水の中を漂っていた。


 男はヘッドフォンをしており、逃げ場の無い低音と気泡が男の穴から出ては、天井へと浮かんでいった。


「人生に必要なものは賢さじゃない。人生に一番必要なものは酸素だ」


 感情までもが浮かび上がる世界。酸素が無ければ何も語れない。酸素が無ければ小説も始まらない。酸素が無ければ生きることが苦しい世界。


 地球は酸素で覆われている。しかし、105号室は四方を水で覆われていた。


 ゆっくりと時間を巻き戻してみよう。人間が最後の最後に望むものとは、どんな事なのかを見てみよう。


【水中アパート】


 最近はファーストフード店に行けば、コーヒーと一緒に酸素を注文することができる。彼は、都会の空気は少し濁っているとは思うが、酸素を買ってまで吸うことはしなかった。


『ブレンドコーヒーとブルーベリースコーンですね。ご一緒に酸素はいかがですか?こちらは吸い口のデザインがオシャレなった試供品です!』

「はあ…」


 帰宅した男は、早速、2本貰った酸素缶の1缶を試してみたが『味?もそうだけど、デザインの良し悪しも分からないし、買うほどでもないだろう』と途中で吸うのを止めた。


 夕方。テレビを見るたびに報道される未成年の悲しいニュース。それを女子アナが世論側に立ってしゃべっている。男の大好きな女子アナが、教養も躾のよさも感じさせぬ、綺麗とも言えない声で、無機質にニュースを読み上げていた。


 「彼女に悲しい顔をさせるなよ」


 一昔前、飲み水は水道水だった。飲み水はコンビニで売られるようなものじゃなかった。それが軟水、硬水と呼ばれるようになると、水はお店で買うものとして、たちまち売れ行きを伸ばした。


 そして企業は狙ったからのように『酸素』を売り始めたのだ。


 ニュースでは毎日新鮮な悲しい出来事が放送されている。そして、ある日から、健康食品や通販商品と対比するかのように「ひと味違う酸素」のCMが流され始めた。自己管理の域を遙にこえていた。


「……。」


 男は、考え事をしながらタバコに火を付けようとした。


 ライターを使用した瞬間、吸いかけの酸素缶からもれていた酸素が反応してしまい、部屋の中の酸素も一気に燃焼され、台所の蛇口がボッコリとひっぱり出された。


 鈍い破裂音の後に、ドドドド…という音が聞こえてきた。


 「水が噴き出してきた!」と、そこから男と水との格闘が始まった。


 いや、一方的な水の攻撃であった。強烈な放水に部屋の中から逃げようとしてもドアは内側に凹んでいて開けることが出来ず、水は止まることなく真横に噴出していた。


 彼の酸素不足の脳は頭も通れないような小窓から逃げる事を提案した。「ダメだ、高すぎる」と変な理由でそもそも開かない小窓からの脱出を諦めた。水道の元栓を閉めようと閃くも、男はあふれる水に押し戻されて後ろへと吹き飛ばされてしまった。そして、横に転がった男の顔にものすごい勢いで水がぶつかってくる。男は呼吸が出来ないと、慌てて部屋の隅に避難した。


 部屋の中の水は、肩で呼吸をする男の膝下まで溜まっていた。


 けたたましい水の音であった。水は男の腰まで溜まっていた。浮かび上がってきたスマートフォンに気が付いた男は、急いで手に取り操作をしたが壊れていて動かなかった。


「くっそ!」


ドドドドドドドドドドドドドド


 水は男の胸元まで迫っていた。それでも男は動かずにじっと壁を見ていた。


ドドドドドド


 壊れた蛇口の高さまで水位が到達すると音が変わった。少し静かに水が溜まるようになると、男はおもむろに立ち上がり、浮かんでいたヘッドフォンを拾って耳にあててみた。ヘッドフォンの先はコンパクトCDプレイヤーに接続されている。男は音楽を流した。奇跡的にプレイヤーは生きていた。


 すると男は水の音よりも、少しの時間でも自分の好きな音楽を聴いていようと腹を据えた。


 男の体が浮かび上がる。顔を真上に向けなければ呼吸が出来なくなっていた。今更、あがく男ではない。ヘッドフォンから、途切れ途切れに聞こえてくる大好きな音楽を聴きながら、男は死ぬ前にと一言呟いた。


「明日、ニュースで俺の名前をよんでくれるかな」


 その言葉を最後に、男は水で満たされた部屋の中でそっと目を閉じた。



 今、部屋の中は隙間無く水で満たされており、ピクリとも動かない男とギターピック、教科書とサンバイザー、トランクスにスマホに試供品の酸素缶までが質量を無視して透明な水の中を漂っていた。


『……。』

『……!?』

『……酸素だ!』


 男は漂ってきた酸素缶を掴むと、口元に寄せ、酸素を吸った。はじめは水も一緒に吸い込んでしまったが、なるほどこうしてみると吸いやすいデザインだと実感した。酸素は男の心も満たした。


 その時、水中でヘッドホンをしながらでも聞こえるぐらいの、ドアを叩く音がした。


 ライターの火に酸素缶の酸素が引火して鈍い破裂音がしてから数十分後。通報から駆けつけた消防隊及びレスキュー隊や救急隊員の決死の活動により、ドアは壊され、壊されたドアから大量の水と一緒に男が押し流された。


 「大丈夫か!おい、生きてるか!」


 「い、いぎでまず…うっ、ゴホッ!ゴホッ!」


 この出来事は深夜のニュース番組から翌日の新聞にまで、不良物件や酸素缶回収といった世間を揺るがすニュースとして取り上げられ、男の部屋と大好きな女子アナのポスターが全国に放送されると、その映像を見た女子アナはいつもと違って、感情的にニュースを読み上げていた。


水中アパート 終わり

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