表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

湖上の霧

作者: 流山 青衣
掲載日:2026/03/31

 もう五十年以上前になる。子どものころ、湖を見下ろす高台にある実家で、鶏を飼っていた。黄褐色の羽毛に覆われて、鉛色の直線的な脚が伸縮すると、赤いとさかが、明滅するように揺れる。瞳が豆粒のようでも、栗色の虹彩に、私と異なる意志が、見えるようだった。

 二羽、三羽と庭に下り立つスズメを、放し飼いにしている彼らが、ちょこまかしながら追いかけようとしても、鶏は、羽ばたくスズメの跡を追えない。地面に残ったスズメの余韻を、なぞるように蹴り上げたら、離れた縁側に座っている私の鼻を、ぬかの青臭い匂いと土の混ざった匂いが、かすめていく。

 喉の奥でいがいがと、土ぼこりが舞うものだから、せき払いをすれば鶏たちは、羽をばたつかせる。彼らが青ざめて、のたうち回りそうなほど体を小刻みに揺らす姿は、半狂乱で踊っているようだった。

 鶏は、子どもの私に懐くこともなかったが、いつも遠目に私を観察していた。一羽の鶏が視線を落とすと、別の鶏の視線が私に向いて、順番に見張りを立てるように、と彼らが相談しているようだった。


「臆病なんだ」

 父が、目を細めている。不意に死が間近に迫れば、私も逃げ惑い、布団をかぶって、びくびくと体を揺らすに違いなかった。

 親近感を覚えた私の目には、彼らの栗色の虹彩が、光を捉えて、琥珀のようなまばゆい色を放っているのが、映っていた。

 鶏を、一羽、二羽と数えることが私の日課になり、声を出しているあいだ、彼らは彫像のように動かず、私の指先の、ただ一点を見つめていた。


「しばらく、ごちそうよ」

 母が白い歯を見せて、光のような、まぶしい顔をしている。小躍りする弟が手のひらを高く上げると、母は笑いながら手のひらを合わせて、真紅のエプロンをひらりと揺らした。

 じゅわっ、という音が台所にとどろくと、柱の陰からのぞき見ていた私の耳にも届いて、山びこのようになった音が離れない。

 消え入るような声が、私の体を柱にくくりつけたら、羽をばたつかせて踊り狂っている姿が目に浮かび上がり、私の体をがたがたと震わせる。

「おいしそうな、匂いだね」

 三歳下の弟が、あどけない顔をしている。私は、鼻をつまんだら体を叩いて、柱ごと動かそうとばかりに、全身に力を入れる。

 私を逃すまいと、ぱちぱち、という音が畳みかけても、私は、あー、と声を出して耳をふさいだら、台所からはうようにして、縁側に向かった。

 

 何度数えても、数を間違えることはなかった。


 原液が薄くなってしまうと、元の匂いを嗅ぎ分けられず、鼻の奥によみがえるのは記憶が再現している匂いであり、目の前から漂う、動いている匂いではなかった。

 指を鼻に突っこんでも、匂いが垂れることはなく、旺盛な雑草からあふれ出る匂いと、風に舞う砂ぼこりの匂いが、記憶の匂いを薄めていった。


 目も当てられないものが目に入ると、好きな食べ物さえも、かすんでくるような食卓だった。

 かろうじて、白飯が盛られた茶碗に手が伸びる。なすのぬか漬けを口にしても、ゴムをかんでいるようで、みそ汁の具材を箸でかき回したら、いないことに胸をなでおろした。

「貞義、命を粗末にするな」

 父が腕を組み、目を閉じている。そうよ、とつぶやいた母の目が沈んでいる。

「兄ちゃん、おいしいよ」

 弟の口から、言葉と一緒に食べこぼしが放たれ、食卓を転がった。私の手から箸がこぼれ落ちて、汁のしずくが頬に跳ねる。

「こわかったよね」

 言葉を吐き出したら、首が、岩石のようになった頭の重みに耐えきれず、前に垂れる。食卓は、湖面に朝もやが立っているような、静寂に包まれていた。

 波音が聞こえないと、目の前に湖があることも忘れ、食卓からも、私を見つめていたような目が、消えていった。

「だから、大切にしろ」

 父が目を閉じたまま、命は、と言葉に力をこめて、つながっている、と口にした。

 父の瞳をうかがうことはないのに、表情を読まれているようで、視線を合わせることができずに、顔を伏せた。

 うつむいても、刺すような威圧が私を離さず、体を金縛りのようにさせていく。

「兄ちゃん、鶏は使命を果たしたんだよ」

 間抜けな顔をした弟が、朝もやをはじくような風を吹きこみ、静寂を破る。私の顔がこわばり、熱水が全身を巡って、毛穴から湯気が立つようだったけれど、弟の声が朝日のように差しこみ、私の体を溶かしていった。

「ごちそうさま」

 食卓に弟の声が響いたら、野菜も食べなさい、という母の声が耳に入る。

 吊り橋が揺れ動くのは、私が歩いているからなのに、箸からこぼれ落ちそうになる唐揚げも、声を発しているかのように、ふらふらとする。口に入れた瞬間を目にすることもなく、たいしてかみもせず、急いでコップ一杯の水を流しこんだ。

「生きることに、感謝だ」

 父の口元が、仏像のような笑みを作り、柔和なまなざしを、私に向けている。

 味のしない油が、ねっとりと口の中でまとわりついて、唾液と混ざることなく、舌先の届かない頬の内側に、住み着いてしまったように、とどまっていた。


 鶏は、数を減らしても、元通りになったり、増えたりもする。いつからか、初めて数えたときの数を忘れてしまい、日課の指さしも、曖昧に揺れ動いていた。

 湖面に群れる水鳥が一斉に飛び立つと、乱れた水紋が湖岸まで、襲いかかるように押し寄せてくるのだけれど、鶏が、飛び立とうと言わんばかりに地面を蹴り上げても、風紋ができずに、土が小さく踊るだけだった。意識をしていないと、放たれた匂いも、立ち上る土砂も、壁があるかのように、伝わらない。

 

 母の声が、壁を突き抜け、私の体を揺すっている。

「貞義、なにしてんの」

 血相を変えて飛んできた母が、不動明王のような姿で、つるぎを振りかざしているかと見まがい、思わず目を閉じたら、頭に痛みが走った。理由のわからない痛みは、全身を駆け巡り、いつまでも余韻が残る。

 母は、私が縁側に放り投げたランドセルをにらみつけ、固く結んだ口に、人さし指を立てていた。

 壁の向こうで鶏が、おしくらまんじゅうを始めたかと思えば、我先にと、棒倒しのてっぺんを目指すように塔を作るも、なかなかそびえることができずに、崩れ落ちていく。

 母が何度も、大丈夫よ、と鶏に穏やかな声で呼びかけても、彼らは塔を作ることをやめなかったけれど、土台が勢いを失うと、上部の鶏が転げ落ち、庭に土煙を巻き上げた。うごめいていた塔の土台は、ぱたりと動かず、夕闇に落ちたように、沈黙が訪れようとしていた。

 壁が薄くなると、栗色の虹彩が目に映り、私の目よりも小さな真ん丸には、私を捉えるような目力があり、離そうとしない。

「どうせ、いつかは」

 投げやりな言葉を放ち、目を背けても、悪寒戦慄を覚えた体を抑えることができずに、呆然とする。

 時が止まったかのように、微動だにしていない母は、哀れむような目を私に向けて、血の気が引いた表情を浮かべていた。亡霊のような顔をして、かすかに口を開けたと思ったら、もう動くこともなく、言葉が漏れることもなかった。声を失う母を見たのは、あとにも先にもこのときだけだった。

 

 夜の食卓に落ちた陰影に、あぐらをかいた父の姿が、浮かんでいる。

「大事にしろ」

 父の声に反応したように、裸電球の明かりがちかちかとし始めて、不明瞭な影を私に落とす。

 母はうつむき、もぐもぐ、というぼんやりとした音を出していて、弟は顔を上げ、笑みをたたえている。

 背筋を伸ばした父が、腹の上に親指と人さし指で輪を作り、黙って目を閉じていたから、射ぬくように私を見ている気がして、口から心臓が飛び出してしまいそうで、喉から動悸が吐き出されるようだった。

「生を、まっとうする。途中で奪うことは、許されない」

 目を見開いた父の顔は、よこしまな考えを追い払おうとする、寺の門番のようだった。

 汗が頬を伝うも、熱気を帯びず、体が震えるようでも、顔をこわばらせ、踊るような心臓なのに、私は、虫の息をしている。

「後悔はするな。最期まで生かせなかったことを、忘れるな」

 父の言葉が、お腹をえぐり、胃を締め上げたら、酸っぱいものが食道を通り越して、口の中まで込み上げてくる。私は、唇をかんでこらえたら、ぐっと力を入れて、握りこぶしを作った。

「食べられなかった鶏が、かわいそう」

 弟が、ちゃかすようにべそをかく。

 私の脳裏に、舞踏している鶏が浮かんでも、タンチョウのような優雅に舞う姿とは違い、彼らは青白い顔をして、突如として襲う無になることが耐えきれず、踊り狂っているようだった。

「笑うな」

 制御の効かなくなった手が、弟の頭に伸びていく。弟が、ブレーキのきしんだような声を出したら、顔をくしゃくしゃにさせる。

「絶対に許さない」

 私の声が全身に響いたら、体が、夕闇の迫った湖面のようになり、誰にも止めることのできない日没が、湖面を染め上げるように、私の体も熱を帯びていく。

 貞義、やめなさい、と言う母のもごもごとした声と、オナガのように鳴く弟の声が反響して、許さない、と暗唱しているかのように、何度も繰り返し唱える私の声が、入り交じる。

 父が、燃えつきて青黒くなったかなたの空のような姿で、禅僧が瞑想しているのかと見まがうたたずまいをしていた。



 夕日に染まる宍道湖が、悲鳴を上げるかのように、波を立てている。

「兄ちゃん、聞いてる」

 肌をなでるような風でも、塩の匂いが混じった湖風が、記憶を連れてくる。食卓で無邪気に笑う弟の姿が、湖に重なる。

「しじみ漁は、順調か」

 話が脱線したようで、弟は苦笑している。

「暇だから、見回りもできるんだよ」

 弟の顔がすぐに和らぎ、笑いから苦味が消えていく。

「義夫はえらい」

 私はつぶやいた。

「兄ちゃんが、適任なのにな」

 弟は首をかしげている。私は、もう一度、義夫はえらい、とつぶやいていた。

「湖を、悲しい場所にしたくないんだ」

 弟は、目を細めながら、沈んだ線路の先を見ている。廃線跡は、透きとおった湖底で根を張るように伸びていて、さざ波が立てば、湖面を浮かぶように漂っている。異国にまで続いているような線路の先に、吸いこまれていくような感覚が私の身に起きる。

「急に、帰るなんて言うから」

 てっきり、加勢してくれるのかと思った、と弟は言って、表情を緩めた。

「娘がいるからな」

 私の言葉が詰まり、視線を線路の先に落とす。湖面が赤く染まると、おぼろげになった線路が、途切れたように消えていく。

「万理ちゃんの治療費があるから、六十になっても、再雇用を選んだんでしょ。兄ちゃんのほうがえらいよ」

 私が口を真一文字に結んでいるものだから、口元が緩んでいた弟も、襟を正して湖面と向き合っていた。夕日が、宍道湖を炎症させているかのようで、湖は、赤い熱を宿している。

「きれいだな」

 弟が、言葉を漏らす。私が横目で見ると、弟は照れるように、手で顔を覆った。

「この前もさ、最期くらい自分で決めさせてよ、って叫ばれちゃって」

 あまりの剣幕にひるんで、またあそこまで行っちゃった、と弟は言って、ため息をついた。指をさした湖面が、赤く腫れあがって、線路が目に映ることはなかった。

「命を大事にしろ」

 顔をしかめた弟が、父の真似をしながら喉をうならせていた。兄ちゃんなら、そう言うよね、と言って、弟は無邪気に笑っていた。

 宍道湖に触れたら、やけどをしてしまいそうなほど、熱にさらされたように赤く膨張している。

 湖の訴えるような姿を、もう目に入れることはしないで、私は黙ってうしろを向いた。松の木が、順光になっても赤々として、遠吠えのような木の声が、目を背けていた私の耳にも否応なく入ってくるようだった。

 まぶたを閉じても、宍道湖の残像が映ることもなく、口から現実が語られることもないまま、私は、湖をあとにしていた。

 


 満面の笑みでいる娘と、肩を震わせている岩池さんの二人が、春の日だまりのような、柔らかい光を帯びている。

「岩池さんね、お母さんと同じ生まれ年なんだよ」

 口を手で押さえた彼女は、苦笑いを浮かべているようだった。千手観音の手かと見まがうほど、てきぱきと動いている岩池さんが、私より一つ年下だったことに内心、ざわめいたような波が立ち、病床に伏せていた妻の姿と重なる。私は、口角を少し上げて、会釈する。

「今まで知らなかった」

 娘が、言葉とともに、大きく息を吐き出す。

 私は、陽光の中に入ることをためらわれて、光と影を右往左往している。

「岩池さんがいるから、大丈夫よ」

 娘は、一点の雲もない空のような、清々しい顔をしている。

「すぐに、帰るからな」

 弱々しい声を出す。娘の顔が澄み渡るほど、私の体は、波間を漂う舟のように揺れ動く。


 冷蔵庫を開けて、食材を確認する。彩りの鮮やかな野菜と果物が、所狭しと並んでいる。冷凍された白米やうどんが、隙間なく詰められて、冷蔵室の中では、こんにゃくに、豆腐やがんもどきが、競い合うように塔を作り、食べ物たちが、そわそわとした様子で出番を待っている。ドアポケットには、番人のように、ペットボトルの飲料が立ち並んでいる。

 二人暮らしにしては、いっぱいね、と言う岩池さんの言葉が脳裏に浮かぶ。心配で、と私は答え、頭をかいていた。

「わたし、もう三十五よ。子どもじゃないんだから」

 娘の甲高い声がキッチンにまで届く。草葉を柔らかく揺らしたような笑いが、室内を舞っている。

 すぐに葉を折らせるような音が響いたら、慌てて娘の部屋に向かう。

「花川さん。大丈夫ですよ」

 岩池さんの声を、耳では捉えていたが、体が反応できない。コップのホルダーで固定されたストローに手を伸ばすも、水はいらない、と娘が、か細い声を出す。

「笑ったら、痛い」

 娘は、苦渋に満ちた顔をしている。娘の手に触れると、磁器に触れたような冷感が、私の手から熱を吸収していく。

「動かないくせに、痛みだけは主張するの」                    

 娘は、こんなのわたしの体じゃない、とぼそりと言うと、目を閉じた。体の電源が切れたように、頭からつま先まで微動だにせず、胸からお腹は平坦で、丘のように盛り上がることもなく、窪地のように沈むこともない。

「万理」

 口から娘の名前がこぼれ出る。言葉に反応した娘がえずいている。

「身勝手な体。息が止まっても、わたしはちっとも苦しくないのに」

 不満げな顔を私に向ける。娘の体に電気が通るように、何度も娘の頭をさする。雪代水にさらしたような感覚が手に伝わり、私も負けじと力を込める。

 娘の頭が、力に抗うように揺れ動き、私は、唇をかんだ。

「お父さん、そんな顔しないで。もうすぐ、大丈夫になるから」

 娘の額には、湧水のように汗がにじみ出て、頬には夕日が差したような色が染まっていく。汗は、真珠のように丸くなり、頬を一筋に流れて、あごから落ちていった。燃えるような夕日に、汗がきらめき、光が顔に満ちている。

 私は、タオルを手にしていたが、しばらく光景を眺めていた。

「苦しい」

 娘の声で、条件反射した私が汗を拭うと、日没したように顔から光が消えていった。

 部屋を出て、誘蛾灯に吸い寄せられるように窓辺に立つ。そんな顔、と言われたから、ガラスに映った自らの顔を見つめる。

 しわが、目尻から目の下まで地層のように重なり、頬まで伸びているのは断層みたいで、緩んだ口元が言いたげでも、言葉が音になって出ることはなかった。

 口角を上げてみた。

「娘と一緒だと、楽しくて」

 私のぎこちない笑みを見た岩池さんが、胸を張って言った。

「花川さん。心配しないで。わたしに任せてくださいね」

 太陽のようなまぶしさに目を細めたら、深々とおじぎをして、顔を隠していた。

 

 化石のようになった食べ物を、冷凍室から取り出して、ゴミ袋に入れる。変わり果てた青果も、酸味を臭わす豆腐も、役目を果たして、目の前から消えていく。

 雪の平原を目にしているような、がらんどうになった冷蔵庫の中で、妻の姿が立ち上る。

「明日が、来ない」

 独り言をつぶやきながら、両手をふさいだ買い物袋を、ダンベルのように持ち上げた。

 冷蔵庫に命を吹きこむように、野菜と果物を満員電車さながらに押しこみ、冷凍室にはパズルのように白米やうどんを、はめていく。

「お父さん、やっと認められたよ」

 部屋で声を上げた娘の言葉が、庫内から隙間風のように流れてくるから、焼きのりを詰めこみ、穴をふさいだ。

「明日を、逃すまい」

 呼応するかのように、冷蔵庫がうなり声を上げる。まだ、足りないのかもしれない。

 部屋では娘が、子どものようにはしゃいでいた。

 


 空港から寄り道もしないで、宍道湖を見下ろす石段に座り、行き交う観光客を眺めながら、待っている。そぞろ歩きのような彼らが、ゆっくりではあるけれど、四肢を動かし、石畳を踏みしめていく音が、揺れるような音程で私の耳にとまる。

 湖から、体当たりするような風を、等間隔に植えられた松の木が受け止めて、湖畔にはそよ風が舞っている。

「兄ちゃん。久しぶり」

 弟が、無邪気に笑っている。薄くなった頭髪が白髪交じりで、顔にはしわが目立っても、笑う顔は、裸電球に照らされていたころと、なに一つ変わらない。

 にわかにさざ波が湖面を揺らし始めると、海のごとく白波が立ち、湖水は、なみなみとつがれた器からこぼれ落ちていき、石畳に影を落としたような色をつけていく。

 廃線跡が近づくにつれて、言葉少なになった私と弟のあいだを、観光客のざわめきが風のように通る。眼光の鋭くなった弟の目元が、鶏を仕留める父の目と重なり、私の胃を締め上げていく。込み上げる胃液を抑えるように、言葉を出した。

「昼間にも、いるのか」

 弟の目が、緩んでいく。

「いや、観光客が多いから」

 言葉が、続かなかった。人が波のように寄せられ、また引いていく。長居する者も、水中に足を踏み入れる者も、見当たらなかった。

「鶏を喜んで食べてた義夫が。驚いたな」

 弟が目を丸くして、そんな昔のこと、とつぶやいたら、それと見回りは別でしょ、とそっけなく言った。

「命には、限りがあるよね」

 湖風に交じった弟の言葉が、私の手先に触れる。血の巡りを滞らせたこわばりが、末端から広がり、全身をかじかみ、息までも奪われてしまいそうで、水中をあがくように体を動かしたかった。

 

 石畳に目を落としたら、小さな黒い粒が行列をなして伸びていて、波にさらわれてしまうかもしれない石の下に、巣でもあるのか、隙間の奥に消えていく。

 昔、義夫は、と言いかけて、口をつぐみ、弟から目をそらす。まばたきをしない弟の目が、ぎろりと光り、雲龍図から飛び出してきたような、人波ににらみを利かしている姿は、生を諦めることを許さない番人のようだった。

 行列が、いつのまにか弟の足元を沿うように伸びていて、弟からひるむように離れた私と、距離を取るように、遠ざかっていく。

 目で追ったのに、はい出た隙間を見失い、どこに向かっているのか、行列の奥に視線を移したら、たゆたう湖水がさらうように、石畳を濡らしていた。

 


 家の庭に、蛇が地面をはったような跡が草陰まで伸び、点々と落ちている水滴が、乾いた土を湿らせている。

 草むらから顔を出したのは弟で、私と目を合わせることなく、すぐに顔を引っこめる。水の勢いよく流れる音が耳に入ると、からになったバケツを持った弟が、拙い口笛を吹きながら、横切った。

「手伝おうか」

 私の言葉に、体を震わせた弟が、その場に立ち尽くし、まな板の鯉のようになり、口をぱくぱくとさせている。弟のバケツは、いとも簡単に私の手に移った。

「兄ちゃん。早いか、遅いかだけだよ。鶏と同じなんだ」

 早口でまくしたてた弟は、引き潮のように母屋へと引いていく。

 跡が途切れたところに行き着くと、折られたネコジャラシの根元に、土をえぐったような穴が、水をたたえている。

 黒い米粒のようなものが浮いていて、水面をアメンボみたいに漂ったかと思えば、やがて水底に沈んでいった。水たまりの周りには、乱れた足跡がいくつもあり、跡に重なるように黒い粒が、くしゃくしゃになって濡れていた。

 粒は、足が折れ曲がっていても、かすかに揺らした触覚で、私の靴先を確かめるように、触れた。

 私の足が、硬い石ころのようになると、触覚が離れ、しおれていく。靴の周りでは、突然の水難から逃げ惑うごま粒が列をなし始め、先頭の粒が、靴にすがるようにして、上ろうとしていた。

「義夫。最期まで見ろ」

 弟が、全身の毛を逆立てたようにして、忍び足で私の視界に入ってきた。

 弟は、言葉にならない声を上げている。

「生を、まっとうしていない」

 黒い粒が、切り立つ崖に、へばりつくようにしていたけれど、力を失い、頭から落ちるようにして地面に転がり、弧を描いていた脚が、空をつかむばかりで、諦めるように描くことをやめた。

「命を奪うな」

 地面を割るほどの叫び声を上げても、私の靴を上るものは、もういなかった。



 入口のポールから、身を乗り出すようにしている弟のまなざしが、捨てられた子猫でも見ているようで、雑踏の中に浮かび上がる。

「兄ちゃん、地獄にも底があるからさ」

 言葉までベルトコンベアに乗せられて、保安検査場の中まで届くようだった。苦笑を浮かべ、弟に目配せしたら、人目を避けるように搭乗口へ向かった。



 光が水面を照らすと、沈んだ線路は、やせ細った体が揺らめいたようで、今にも消えてしまいそうな姿を見せ、光を失うと、空の色を映したような湖面から、姿を消してしまう。

「観光名所になったのは、最近でさ」

 自分で撮ったから映えないけど、と弟は言って写真を見つめている。線路が、水面を走るように伸びていて、先端のきらめきが入口のようで、空に溶けこむ。

「天国に続いているようだな」

 湖から水が消滅したとしても、入口は目に見えるようだった。

「兄ちゃん、いたかも」

 急に深くなるから、だめだよ、と弟の口調が強くなり、私の体は、弟に押さえつけられていた。

「娘がいるから」

 私の言葉が宙を舞い、力に反発するように、弟の手を振り離そうとしたけれど、私の力が空を切り、駆ける弟の背中が目に飛びこんだ。

 波音が不協和音を奏でて、水面にざわめきを起こし、屈折した光が視界をゆがませる。湖面を滑るような姿の弟がアメンボのようで、私がまばたきした瞬間、波間で揺れる弟の手が、湖水に沈みゆく体にしがみついていた。

「死ぬほど、生きたのか」

 弟の声が、湖面をうねるように跳ね上がる。銅像のようになっていた私の体も砕くように、足先まで響く。

 猛獣たちのわめくような声が、私の足にからまり四つんばいにさせたら、浅瀬でもがいて、湖水を浴びる。

 二人が、かげろうのように揺らめいて、高低の声が入り交じり、私の耳に響くも、届かない場所にいるようで、砂地に足を取られると、足取りがもたもたとして、湖水が絡みつく。

 防波堤のように仁王立ちする弟にあらがい、湖水に沈もうとする人の顔が、波間に現れ、消えていく。人の胸まで湖水が覆い、波が立つほどに顔を隠して、表情をさらう。

 金剛力士像のような顔をする弟を、見たことがあった。目の前に、父がいるようだった。光が、人の影のように黒ずむ湖水を照らし、目をしばたたかせたけれど、すでに鏡のようになった水面は、空の色を映して、波一つない穏やかな水をたたえていた。

「命は、もらえないからな」

 弟が人を抱きかかえ、浅瀬まで引っ張るのを、暴れることのない湖水が力を貸しているようだった。

「もう、やめてくれ。刺激するのは、だめだろ」

 弟が脱力すると、人の体が崩れ落ち、波紋が沖に延びていく。二人は浅瀬で、魂が抜けたような表情を浮かべている。

「兄ちゃん。どうしたの」

 口を開いたまま、空を仰ぐ私の耳に、サイレンの音がこだましていた。



 夜のしじまにいる湖は、灰だけを残して燃えつきてしまったようで、鼓動も打たずに、応答がない。

 目を見開いても、真っ暗なままで、手繰り寄せた参考書の手触りが現実だと意識させたら、内容をそらんじる。化学式が、止めどなく口からあふれて、湖面を揺らす波のように、連なっていく。

「兄ちゃん、学者みたい」

 弟が声を張る。松江城は、夜も真っ黒だね、と弟は言って、観光客のようにはしゃいでいる。

「薬が、命を救う」

 ふっと、息を吐くように口にしたのだけれど、弟は暗がりの松江城に目を凝らしていて、言葉は波間を漂っていく。

 静黙する湖に我慢ができなくて、口を開けば、またお経のように唱える。弟が私の真似をしようと、次亜塩素酸、とだけつぶやいたら、口ごもる。

「義夫。兄ちゃんは、東京の大学に行くからな」

 弟のまぶたが重そうで、もう宍道湖を見られないかもしれない、と私が言い継ぐも、うんうん、と弟の返事は、ぼんやりとしていた。

「朝までいたら、見られるよ」

 あくびをした弟が、白い歯をこぼしている。


 私は、ただひたすらに暗唱を、吐息を漏らすことのない湖に、こだまを求めるように投げかける。足元まで寄せてくる波が、うっすらと目に飛びこんできても、沖に浮かぶ嫁ヶ島までは、姿を現さない。

 巨岩が転がり、私の体を押しつぶしてしまいそうで、倒れまいと全身の力をふくらはぎに集中したら、足が砂地にのめりこむ。体を投げ出した弟が、意思のなくした体重を、私に預けてまどろんでいた。

「義夫。朝まで待たないのか」

 起きたら来てるよ、と弟は寝言のような返事をする。

 沈黙が体にまとわりついたら、生をはぎ取るようにして、離れない。私は身震いしながら胸をつかみ、口から漏れる化学式が沈黙を迎えないようにと、無限の連なりで無言の湖に流していく。

 踊り疲れてしまった鶏が、声を枯らしたように、私の言葉も弱々しくなり、湖まで届かないで砂地に転がった。

 寝ても覚めても、朝は来る。夜のしじまを抱えた湖に、夜明けを知らせる合図がなくても、しじまは離れていく。


 東の空が白々とし、地上に光を連れてきたとしても、鶏が黙した家には朝が来ない。

「義夫。生は、生きているんだ」

 砂地で仰向けになる弟の口から、音階のような寝息が漏れる。

「兄ちゃん。もう帰るの」

 弟は起き上がると、寝ぼけまなこであくびをしている。私は、弟の背中についた砂を払ったら、弟を背負い、家まで続く坂道を駆け上がっていった。

 布団に入っても、体の奥から湧き上がる振動が、私を奮い立たせているように音を刻んで、真夜中の寝床に、いつまでも響いているようだった。



 デスクの横で直立不動している荻沢さんが、寝ぼけまなこに浮かび上がる。

「花川さん、大丈夫ですか」

 夢心地になっていた私の頭を、叩くような声だった。

「ああ、問題ないよ」

 口から言葉が出ても、首から下は、まだまどろむようにしている。

「バルビツール酸系薬物の件なのですが」

 荻沢さんは、おどおどした表情を見せ、申し訳ございません、と震えた声を出して、深く頭を下げる。

 二日酔いの目覚めを通り越して、頭からすべての血が引いていき、顔が石膏のように白く硬直していくのを、私は、恵比寿の面をかぶり、隠している。

 福々しい顔に、荻沢さんの表情が和らいでいく。

「私が、するよ」

 席を立ち、実験室に向かう。背中に気配がして振り返る。

「しっかりと見届けます」

 唇をかみ、眉間にしわを寄せた荻沢さんの目が、湿りを帯びている。


 ガラスで隔てられた箱の中には、白い毛をまとった生物が、互いに体を寄せ合い、ぐったりとしている。遠い異国が、ガラスの向こうにあり、密集している姿が銀世界のように浮かび上がり、雪化粧を点々と、赤い光が染めている。

 しんしんと降った雪のような静けさが広がっていても、彼らは、まだ踏ん張る力があり、砂粒のような足でガラスの床をかいている音が、虫の息になっても呼吸を続けている音が、耳に入ってくる。

 私は、音を破るように声を出していた。

「荻沢さん、データは」

「有効性と安全性を、確認済みです」

 私は、注射器の内筒に満たされた薬液を、じっと見ている。彼女は、確認するようにのぞきこみ、黙ってうなずいた。

「目を伏せても、いいからね」

 私は、言葉を、穏やかに投げかける。一匹、二匹、三匹と、数を数える。ガラスの向こうに手を入れると、手先から腕までが、ふわふわと宙を舞い、宇宙空間に入ってしまったような、別の時間が、ガラスの中には流れていた。

 注射器を握っている感覚が失われて、手先を見やるも、こぼれ落ちることなく、針は迷わず生物に触れている。

 白い毛が逆立つように伸び、呼吸に合わせて、体が小刻みに揺れている。

「最期まで」

 父の声だけが頭の中に響いて、表情も姿も脳裏に浮かばないが、私の肩には手肌のようなぬるい感触が伝わり、無骨な父の手を思い出す。肩に添えられた手が、私をねぎらっているのか、制しているのか、わからない。


 内筒から、薬液が減っているのを目で追う。生物は、動きを止めて、ガラスの床に寝入ったように転がっている。白い闇の中を、小さな赤い炎が人魂のように浮遊していて、私は、彼らのまぶたに手を添えて、そっと閉じた。

 降り積もった雪が溶けると、枯野が現れ、寝静まった草木から、生をかいま見ることはできないけれど、こうこうと輝く室内灯が、ガラスの中まで光を目がけて、スポットライトのように照らした先に、確かに雪があったことを伝えているようだった。

「大変勉強になりました」

 荻沢さんの震えた声が、全身を駆け巡るように流れ、かじかんだ手足に熱を吹きこみ、私に終わりを告げる。

「データをまとめたら、報告書を忘れないようにね」

 棒立ちしている荻沢さんをほぐすように、言葉を、静かに置いていく。

「あの、マウスの命は、わたしの中で生き続けていると思うんです」

 荻沢さんの首が縦に揺れ動き、目をしばたたかせている。

 不意に、ぎこちない笑みが私の顔に現れたが、彼女の目は、室内灯の光を取りこみ、星がまたたいているようだった。

 私は、水に浸したような手袋を外したら、少しばかりの暖かさにも敏感になったようで、白衣を脱ぎ捨てる。実験室の扉を閉めたら、恵比寿の面も、置いてきた。がらんどうになったガラスの向こう側に、春が訪れることはない。



 朝ぼらけの光に包まれると、湖と空の境目が明瞭になり、きらめく湖面が姿を現す。朝日のような湖が、手に届きそうなほど近くて、高台から見下ろしていることを忘れ、触れようと伸ばした手を、ためらいながら引いた。

 まだ暗影に包まれている高台で、鶏が朝を求めるようにおたけびを上げたら、庭には細い筋の光が差しこみ、やがて薄い光が一面を染めたら、湖面の光は蒸発したように、姿を消す。

 鶏は、待ち望んでいた朝を迎えたはずなのに、羽を小刻みに震わせ、湖に向かって断末魔のような声を投げていた。

 朝焼けを映し、周りから飛び出していたような湖も、白い光に押し出され、周囲の風景とともに埋没していく。

「兄ちゃん。顔が真っ白だ」

 弟が心配そうな顔している。私の顔よりも白くなる湖に、胸が締めつけられた。

「鶏は、あんな鳴き声だったか」

 弟は一瞬、戸惑う表情を浮かべたが、すぐに相好を崩す。

「子どものころから、変わらないよ」

 私は耳をそばだてたが、鶏は首を揺らしながら庭の土をつついては、円を描くように歩むだけで、もう鳴かない。

「湖は、あんなに遠かったか」

 曖昧な光が白い渦に飲みこまれ、湖はどこかにいってしまう。

 口を半開きにしている私を見て、浦島太郎のようだ、と弟が言葉を返して笑う。

「放射霧だよ」

 弟の言葉を聞いても、湖をさらった白いかたまりが、たなびく薄雲のようには見えないで、風が吹いても湖を返してくれないようだった。

「漁に行かないと」

 弟は湖を指さして、霧だから、とつぶやいた。

「こんな日も行くのか」

 弟の視線の先よりも、血の気が引いた色をしていた私の顔を、弟はいちもくすることもなく、家の中まで駆けていった。



 公衆電話を探して、暮れの雑踏する商店街をすり抜けながら歩いている。

 日が急ぐように落ち、空を夕刻に染めたら憂える声が聞こえるようで、灰色の高層雲がさびしそうに地上を見ていた。

 赤い霧が立ちこめたような街の端に、たばこ屋の軒先が赤みを帯びるのが遠目に映り、私は、霧の中に飛びこむように走った。

 父は、そうか、と言った。弾むような声だった。

 私は、言葉の先を待っていたけれど、父は、耐えきれなくて笑っているようだった。電話口から息づかいが漏れて、福笑いのような顔の父が目に浮かんだ。

「薬で、命を救うから」

 私が、言葉のないざわめきを破ったら、私の耳に届いたのは、母の声だった。

「継がなくて、いいからね」

 力の抜けた声の奥から、はしゃいだ声が飛びこんでくる。

「兄ちゃん。任せてよ」

 街を漂う人波の熱気が、私の言葉にもこもり、大船に乗ったつもりで、と口走っていた。

 電話を切ったら、私はコートの襟を引き寄せぐっと握り、夕日の照らすざわめきを背負って、商店街を抜けた。街の余韻が、私のあとをついてきているようだった。



 食卓を漂う湯気から、海の匂いが立ち上り、もやの中に顔を突っこむと、かすかに泥の匂いも混ざり合う。

「兄ちゃん。しじみは食べられたよね」

 私が言葉を返すまもなく、もう作っちゃったけど、と弟は言った。

 汁椀の中で、光沢のある殻が、黒く光る。

「義夫が取ったのは、大きいな」

 言葉が棒読みになり、箸が小刻みに震えて汁椀の中で泳ぐ。

「宍道湖のは、みんな大きいよ」

 いただきます、と弟が続けて言ったら、汁椀をすする音が耳に触れる。

 汁椀を持ち、箸でしじみを押さえながら口元まで運んだら、目を閉じて、汁を少しずつ口の中に流しこむ。

 息を止めていたら、水を飲んでいるようで、弟に合わせるように動作を繰り返しても、もう汁が喉を通ることはなかった。

 弟が、汁椀の中でうずくまっている殻を、器用に指で挟みながら、箸で中身を取り出しているのを、私は、ぼんやりと眺めている。


 汁椀を持って立ち上がり、台所の流し台に体を向けたら、弟の声が背中に響いた。

「貞義。まだ生きてるんだぞ」

 弟は仏頂面になり、父の真似をしているようだった。振り返った私が、棒立ちになって黙るものだから、弟は焦ったような声を出す。

「兄ちゃん。ごめんって」

 私は、あんぐりと口を開け、固まった瞳で弟を見ている。

「殻は砕いてさ、鶏の飼料にしてるんだ」

 弟が頭をかいて、箸でつぶすようなしぐさをしたら、汁椀の中から、じゃりじゃり、と音が鳴る。

「そうだな。命を粗末にしているのは、私だ」

 天を仰いで、観念したように汁椀を差し出した。

「兄ちゃん、冗談だから」

 弟は、朗らかな笑みで受けとると、汁椀を一瞥もしないで、粉砕機の中に入れた。

 機械の奏でる金属音が、しじみの金切り声のように聞こえて、私は耳を塞いでいた。

 


 純白の壁に囲まれた研究室には、窓がない。流れることのない秒針の音と、漏れることのない人の吐息の中を、ゆらぎのない人工光の明かりが、氷のように白く光っていた。

 季節が移ろうとも、室内は洞窟のように温度が一定で、白衣に身を包んだ私から、一日を奪うこともなく、歳を重ねていく感覚も与えなかった。

 息苦しい、という声が口々に、出入り口の奥で渦を巻いても、船上から眺めているような気分で、動じることもなく、深呼吸をしてみれば、混じり気のない空気が、肺を満たしていく。

 研ぎ澄まされた感覚は、昼の休憩や定時を知らせる鐘を、耳に入れない。朝食の名残がいつまでも、うっすらとお腹にあるうちは、顕微鏡から離れることはなかった。

「毒性が強いな」

 遠くで発せられた声が、耳元でささやかれたようで、体の奥までぞくぞくとさせ、私の手を硬直させる。泳いだ視線が倉水課長を認めると、干からびている私の体が鏡に映ったように見えて、思わずのけ反り、席から飛び上がった。

 倉水課長が、首を横に振り、手元の資料に目を落としていた。私は、横目に見ながら、足早に研究室の外に出ていった。

 窓から夕闇が紛れこみ、照明が明かりを落として、ほの暗い室外にひんやりとした風が通り過ぎ、白衣だけでは心もとなく、鼻から吸った息がつんとして、吸うのをやめたら石を詰めたように胸が重くなり、もがいていた。


 私は、水分を口につけた。脱力した体が、宇宙から帰還したようで、押し寄せる疲労が、時間を取り戻していく。お腹からうなる声が、山びこのように、何度も耳に響いている。

 窓外には、暗闇に溶けた曖昧な風景がぼんやりと広がり、私の姿形がはっきりと窓に映るから、どんな顔をしているのか目を細めたら、渋面した父のような顔を見つける。

「貞義。やりたいことを、やりなさい」

 父は、言い終わると、戸惑う私の顔に目をやることもなく、目を閉じたまま、押し黙る。

 滑り落ちるように、紙が手元から離れていった。

 種を見つけて、土に埋め、水をやり、剪定し、やがて花が咲きほこり、待ち望んだ果実には、種がなかった。

 紙は、うっすらと逆立つ毛をなでていくような風に乗せられて、宙を踊るように舞ったら、床を滑るように落ちていく。

 視線を外せば、紙が消えてしまったように床と同化して、誰かの足に踏まれようとも、気づかれないかもしれない。

 拾い上げたら、紙は踊り疲れたようで、くしゃくしゃになっていた。

 私は、薄っぺらい紙を咀嚼するように、何度も握りしめていた。

「顔が、般若みたいですよ」

 受託会社から送られたデータと、にらめっこをしていた私の耳に、森のささやきのような声が触れても、我に返ることはなかった。

「臨床試験には進めない」

 倉水課長は、まくしたてるように早口だったけれど、私の顔を一瞥したら、よくあることじゃないか、とひるんだように、ゆっくりと言った。

「確かに毒性が強いです。しかし、薬効は限りなく高いです」

 私がデータを指し示そうとしたら、いびつな形をした紙からインクがにじみ出ていて、数字を黒塗りしたようだった。

「受託会社に追加の実験を依頼します」

 私の言葉は、岩に投げかけたように消えていく。倉水課長は、目を閉じて、首を縦に振ることはなく、ただ黙ったまま、腕を組んでいた。

「人の場合では、毒性が弱くなる可能性があります」

 わらにもすがる思いだったような言葉が吐き出され、額から垂れる汗が、しばたたかせた目に落ちていき、への字になった口が揺れる。般若の面影などとうになく、倉水課長が面をしているようだった。

 花は、夜明けのようなまぶしさをまとい、荒地に咲いて、あでやかな姿を見せていた。今まで見たことのない花の色が脳裏に刻まれ、記憶にしがみついたら、どこにでも現れるようになり、野に咲く花の色が、凡庸として目に映る。

 ひどく興奮している私を、冷たい視線が襲う。言葉を発しているかのようで、見下ろしている目の瞳孔が、開いていった。



 家の庭には、首を伸ばし、赤いとさかをきらめかせ、こがねのような羽毛をなびかせて立つ、鶏たちがいる。

 死んだ子ゾウを埋葬する、というゾウの話を知ったのは、いつだったか。

「病気しちゃった」

 母が、ため息をついた。一羽の鶏を両手で抱え、隔離された鶏舎に運んでいる。鶏は、わらを敷きつめた地面に横たわり、閉じようとしているまぶたに抗うように、目を半開きに保っていた。

「薬とか」

 私が言い終わらないうちに、ないわよ、と母が言った。

 体に杭を打たれたように呆然としている私に、弟の体がこすれて、空気が緩む。弟は、風に揺れるすすきの穂のようで、ゆらゆらとしながら立っていた。

「死なせるもんか」

 私が声を上げたら、弟は背筋を伸ばして、風がぴたりとやんだ。

 庭の隅では、朝の迎えがしんとしている。

「もう鳴かないね」

 寝ぼけまなこの弟が、つぶやいた。朝焼けに、鶏の震えたくちばしが浮かんでいる。知らせてくれないね、と弟があくびをしながら言った。

 

 鶏は、目を眠っているように閉じていても、夜が明けたことを自覚していて、日が高くなっても暮れても、くちばしを動かすことはしなかった。

「朝は、来ている」

 私は、横たわっている鶏のお腹を、そっとなでる。湧き水に手を浸したような冷たさが、私の手から熱を奪う。煮えたぎるほどに高ぶった感情までもが冷やされても、抵抗するように意志が生まれ、手を離したら拳を握った。

「兄ちゃん、宍道湖の水を飲ませよう」

 鼻をこすり、きらめかせた目が迫ると、私の目が泥水のように濁り、体の中から、すべての空気を出しきろうとした。

「かわいそうだからね」

 弟がぽつりとつぶやくから、私は息を吐くのを止めた。

「父ちゃんが言ってた。しじみがおいしいのは宍道湖の水がいいからだ、って」

 弟が背伸びをして、私の肩を軽く叩く。水を飲ませたら、元気になるかもな、と私が答えると、夕日の水がいいよ、と弟は言って、満面の笑みをたたえていた。

 

 夕日に熱せられて、赤く染まる湖面を騒がしている波が、煮え立つ泡のようで、手を触れるのがためらわれた。握りしめていた水色のバケツにまで燃え移り、赤い炎を上げたように色が変わる。目を落とせば、私の靴にも着火していて、すでに下半身が熱に包まれ、感覚を失い、硬直していくようだった。

「兄ちゃん。熱いや」

 額の汗を拭った弟が笑う。つられて、私の顔も綻ぶ。体を石のようにされても、あふれた血が頭に上って感情が解放され、口を閉めることができなかった。

「ロボットみたいだ」

 弟が、手をぎこちなく動かしている。

 私と弟は、地獄の釜のような湖を目にしても、苦悶の表情を浮かべることなく、顔を真っ赤にしながら、はしゃぐように笑い合う。

「治るかもしれない」

 私の感情が、再び煮えたぎる。

 バケツは、透明な水をたたえていたが、盛んな湯気を立てているようだった。

 

 なぎ倒されたわらには、わずかな湿り気が帯びていて、ほのかな蒸気が、鶏の残像を映している。

「兄ちゃん、あそこだ」

 弟が指さす先は、庭の奥まったところで、母が立っていた。私の目が、時計のように狂いなく動く母を捉えると、耳には、土のこすれる音に混ざって金属音が響き、私の体を震わせる。

 黒いシートが墳丘のように盛り上がり、私たちに気づいた母は、動きを止めた。

 私は、声を出すことを、むせるようなせきにはばまれて、視線を、目の前の光景から遠ざけるように、天に向けた。

「母ちゃん、鶏は」

 弟が、息を切らしている。

「苦しみながら死ぬのは、かわいそうだからね」

 母は、淡々と答えたら、額の汗を拭った。黒いシートに手をかけたら、幕があいたように舞台があらわになる。

 夕焼けの引いた空が震え上がり、青ざめているような色を浮かべている。夕方のかすかな余韻が、黄褐色の羽を光らせたのは一瞬で、すべてが暗幕に覆われたように隠れてしまい、私は、夕闇の中に、足を踏み入れることができなかった。

「かわいそうだ」

 私の吐き出した言葉が、行くあてもなくさまよい、天に向かってつばを吐いたように、口に戻ってきた。

 地面を蹴り上げた弟の口が、への字に曲がっている。

「義夫も、かわいそうだ、と言ったよな」

 弟が、石と化したようになり、噴き出す汗が黒く、昼と夜のはざまに浮かび上がる。

「兄ちゃん」

 弟の言葉が濁る。

「だって、食べられないほうが、かわいそうだよ」

 私は、言葉よりも先に手が出て、弟の肩をつかんでいた。ぐちゃぐちゃになった弟の顔が、すぐに私から離れていく。

「死ぬことをなんとも思わないなんて、絶対に許さない」

 悲鳴のような私の声が、空に響き渡る。

 ぎゃあ、ぎゃあ、と共鳴するように、一羽のアオサギが宵闇の空を駆けていく。

「兄ちゃん、痛いって。ごめんよ」

 私の手が、弟の肩を激しく揺らしている。

 バケツから、こぼれた水を避けるように、蟻が弧線を描いて進んでいた。

 


 研究室には、不純物を含まない、真っさらな空気が循環している。時間の侵入さえ許さないような硬い殻の中にいるのに、わりにもろくて、ひびが入る。

「花川くん、まだいたのか」

 肩をすくめた倉水課長が、照明のスイッチに手を触れている。日が出ようが出まいが、月があろうとなかろうと、目に見える光景は変わらないのだから、私は顕微鏡から目を外さない。

「熱心なのは、感心だが」

 肩に腫れ物があるようだけど、炎症は冷めている。私が立ち上がると、しこりは消える。

「薬は、命を救います」

 直立不動の姿勢で、一語一句をはっきりと発音し、敬礼でもするような勢いの、私がいる。

 倉水課長は、手のひらを下に向け、ひらひらとさせながら、盛り上がった私のいかり肩を、押さえつけるように整地していく。

「命を、救わないこともある」

 倉水課長が言い終わり、出入り口に向かったら、夜が訪れる。

「帰るぞ」

 上も下もわからない暗黒に包まれて、光を望むことがない深海の、中にいるようだった。

 


 優しい毛並みに、クリームを塗ったような体が滑らかで、私の手から、ドジョウのごとく抜けていく。

「焦ると、伝わるよ」

 城木さんの落ち着いた声も、私の耳を素通りして答えに窮したら、手汗まみれの湿り気が、じたばたともがく体を逃す。



「重大な不適合があった。併用禁止薬の問題だから、花川くんが悪いんじゃない」

 倉水課長が、申し訳なさそうな顔をしていた。

 鶏が、朝に声を上げないなら、本当の朝になったのか、わからない。私がもがいているのが、朝なのか夜なのか、知りたかった。

「受託会社に異動してほしい。花川くんは、まじめだからな」

 倉水課長は、にこやかにしていた。待遇は変わらない。だから、安心してほしい、と言って、私の肩に手を触れた。



 柔和な表情を浮かべる城木さんが、体のうしろで手を組みながら、逃げ惑う私に糸を垂らしているようで、姿がまぶしく、後光が差している。

 手も足も、消えてしまったように反応がなく、まな板の鯉となった私は、口をぱくぱくとさせるだけで、言葉を話さない。体をびくつかせて、ぎょろりと黒目を、城木さんに向ける。

「有効性が、確認できたからね」

 目を細めた城木さんが一息ついて、まっとうしたんだよ、と言葉を投げかけた。

 

 ガラス越しに、氷上を滑るように動き回る姿が目に映り、頭をぶつけてしまいそうなほど透きとおったガラスに、息も絶え絶えだった姿が投影される。

 赤い光が揺れ動き、光跡のようになった残像が、ガラスを赤く染め上げていく。

 もう一度、箱の中に手を伸ばす。手袋をしていても、草木の芽吹いたような風が手肌をとおして、体をぬるくさせる。

 頭の上でうごめく私の手に構うことなく、彼は、ガラスの箱を満たす、すべての空気を小さな体に取りこもうと、お腹をへこましている。

 指先から伝わる忙しい鼓動に乗せられて、胸を飛び出してしまいそうなほどに、加速していく私の鼓動を抑えようと手に力を込めたら、じたばたとしていた彼が、観念したようにうずくまった。

 

 赤くただれたような光から逃れるように目を閉じても、暗がりの松江城がまぶたに浮かび、前景にいる青年の私が、命を救う、と言葉を発している。声を消そうと目を開けたら、宍道湖が赤く染まった水をたたえて横たわり、あふれた血の気が私の手にまで色をつけ、叫び声を上げているかのような色だった。

 音が聞こえるほどのまばたきを、繰り返す。箱の中は、波音が一つもしない静けさに、包まれている。

 実験室に降り注ぐ光を浴びて、白銀のようにきらめく白衣が揺れ動き、雪をまとっているように体は凍りついている。

 私の、冷えきった手に懐炉のようなぬくもりが伝わり、慌てて手を離したら、箱からあとずさりして虚空を見上げる。吸いついたような手袋が脱げずに白衣を乱して、マスクに手をかけようとしたら、よくやったね、という声が耳に届いた。

 城木さんが、不敵な笑みを浮かべて、私に問いかける。

「花川くん。わたしには、いくつの命があると思う」

 私は、観念したように、こうべを垂れて黙っていた。

「数えきれないよ。彼らの命を、たくさん持っているからね」

 城木さんは、自問自答したように、胸に手を当てている。

「命は、つながるんだ」

 山びこのような城木さんの声が谷底から聞こえて、実験室の空に反響したら、どこかに消えていった。

 


 厚くなった雲のはざまで、光がもがくようにしていて、灰色の混じった明かりが地上に漏れている。こらえきれなくなった雲を、破ったように光があふれてくると、湖が立ち上がったように背を伸ばす。

「もらえたら、いいのに」

 弟が、ぽつりと言葉を漏らした。陰りのある表情は瞬間で、みるみるうちに、般若のような顔に変わる。

「だから、許さない」

 コハクチョウが、湖岸の砂地で羽を休め、降り注ぐ光を反射したら、新雪がきらめいたようで、目をふさぐ。

「なにも、できなかったよ」

 私の言葉が、南風に乗る。辺りを見渡すと、他にコハクチョウはいなかった。目が慣れたら春の湖に、残雪のようないびつな姿で浮かび上がり、私が近づいても飛び立つことなく、待ち人のようにたたずんでいる。

「薬では、救えなかった」

 コハクチョウに、ため息交じりの声をかける。白い体が揺れることはなく、そわそわとしていた弟の体が、止まっていた。



 体を、押しつぶすほどの厚い毛布で覆い、冬眠をしているかのように身を潜めている。

 岩池さんの声が、啓蟄を知らせる合図のようでも、春の訪れを望むことがないから、ずっと冬を離さないでいた。

「春が駆けてる。わたしも」

 窓ガラス越しに入る、桜色のような淡い光を見ながら娘がつぶやいたら、私は弟に電話をかけていた。

「妻が、息を引き取った」

 自動音声のような声が、弟に告げる。静けさに包まれると、睡魔に襲われ、まぶたが落ちるのに逆らえない。

「兄ちゃん。帰ってきなよ」

 夢を見ていたような心地だったから、現実との区別ができないまま、反射的に、ああ、と答えていた。

 

 私は、弟と並んで、湖畔に立っている。焼きつくしたあとの、灰だけを残したような色が湖面を漂い、くすんだ湖水が波を打つ。

 上を見上げても、湖面を映したような色の雲ばかりで、光も色もなく、目を覆うような空だった。

「明日の空を見たい」

 妻の言葉が、足元に目を落とした私に降りかかる。明日を迎えて今日になると、妻はまた、明日の空を見たい、と言っていた。ぽかんと口を開けながら、顔を上げていた私に、妻が言う。

「貞義さんも、明日の湖が見たいでしょ」

 私の口が、また少し広がった気がした。

 湖に目を向ける。ああ、と曖昧に答えた私の言葉が、濁った湖面に溶けこんでいるようで、自ら光ることのない湖が、色を失くしている。

 食い入るように見つめると、波間に砂金のようなきらめきが浮いていて、色を裂き、湖面に広がっていくようだった。

 私は湖を、穴の開くほど見ていた。

「皆も、そうだったのか」

 怪訝な顔をした弟が、指をさす。

「兄ちゃん。あそこが線路跡だけど」

 光を浴びた人影がちらちらと舞い、目を細めたら、姿を消したように影だけが残っていた。

 


 サイレンの余韻さえ、許さないほどの静寂に包まれ、精も根も尽き果てた私と弟が、足元に打ち寄せる波をまとわりつかせながら、砂地に転がっている。

「よくあることなのか」

 弟が目を閉じて、唇をかんだ。

 あかね色の空が、降り注ぐように落ちていき、宍道湖が煮えたぎるような熱湯をたたえているようで、足元が熱くなる。

「兄ちゃん。たまにだよ。たまに」

 熱にさらされても、体の芯までが侵されることはなく、主張するかのように規則的な脈を打つ心臓がはっきりと聞こえる。

「命を、持ちすぎた」

 私の言葉に、弟が振り向いて目を開けた。私は、赤く泡立つ湯の釜に入れられているけれど、顔色ひとつ変えていない。

「地獄にいるようだ」

 弟が、再び目を閉じた。

 燃え盛る火の手を、切り裂くように飛んでいくアオサギが、叫んだように鳴いている。火を吹いて、空を業火で覆いつくし、湖面に立つ炎の勢いが増していく。

 目を閉じようが閉じまいが、熱を帯びた宍道湖から吹きつける熱風が、目の奥を焼きつくしてしまいそうだった。



 玉坂さんが、眉間にしわを寄せながら、私が席に着くのを待っている。

「花川課長。このデータでは、人の安全性を担保できない可能性があります」

 デスクに散らばる資料が蛇のようにうねり、目をこわばらせる。

 海のごとくしける宍道湖が、いくつもの白波を立てて襲いかかってくるようで、目をふさいでいた。

「毒性試験で異常が見られるのは、特定の条件下です」

 聞き耳を立てていた加屋くんが、玉坂さんとデスクの間に割って入る。

「死亡率が上昇する傾向があったのよ」

「よくあることさ。毒をもって毒を制するだと思うけどね」

 彼女と彼の声が、水平線の奥から遠雷のように聞こえてくる。

 霞が湖上に舞い降りて、後景の島根半島がおぼろげになると、湖上には水平線が現れて、湖が鳴いているようなうめき声が、乳白色の闇から聞こえてきた。

「花川課長。命を救う可能性がある薬です」

 加屋くんは、私を直視して、疑いのない目をしている。

「薬を使う人が、誰でも健康だとは限らないの」

 玉坂さんは、資料を指さしながら、努めて冷静でいる。

「追加で、試験を行います。疾患を持つモデルを使わせてください」

 加屋くんの言葉に、玉坂さんが両手を上げて放り投げた資料が、デスクに散らばった。

 

 落陽が湖を傷つけ、傷口から夕日がにじみ出るように湖面も染め上げ、揺れ動く湖水が助けを求めて、金切り声を上げている。私は、耳をふさいでも、なお入りこむ声に、声を重ねる。

「死んだら、どうするんだ。命は、二度と戻らないからな」

 私の叫んだ声が室内に響いて、二人の体が麻痺したように固まると、血の気のない顔をさらして、おびえたような目を向ける。

「命を奪うことは、絶対に許さない」

 声が、資料を震え上がるように揺らめかせ、二人をさびつかせてしまって、二人は口をぱくぱくとさせながら、金属のきしんだ音を立てて、油がさされることを求めているようだった。

 あの日、ランドセルを放り投げたときに見せた鶏の顔が、二人の顔と重なる。私が発した言葉の残響が、いつまでも室内に残っていた。

 

 

 満面の笑みをたたえている娘は、大好きなのり弁当を、頬張っているような顔をしていたが、上の空でいる私を見て、表情を曇らせていく。

「お父さん、聞いてるの」

 娘は、リスのような顔をしている。

「もちろんだ。よかったな」

「うそ。認められて、いやでしょ」

 目を閉じたら、黙って首を横に振る。薄目を開けると、まだ頬を膨らませたままの娘が、かすんで見える。

「ちっとも、こわくないからな」

 娘は、返事をしなかった。瞳が夜に包まれて、耳から音が途絶えると、私は、地蔵のように固まり、夜道で笑みを浮かべている。細目に映る娘の表情が、澄み渡る空のようだった。

 


 弟の乗った和船が、放射霧の中に迷うことなく飛びこみ、跡形もなく消えてしまう。霧が、船の立てる波紋を隠すようにして、弟のいたあかしまで奪おうとする、得体の知れない魔物に見えて、足がすくんだ私は、砂地に襲われ、べったりと座りこんでしまった。引き波が、生気のないような冷水で、しつこく私の足にからみついていた。

 仰向けになった私の腹に、空から古い扉のきしむような音が降ってきて、なじみのあるアオサギの鳴き声で、白濁した空を駆けているようだった。

「こわくないのか」

 呆然とした言葉を吐き出した私に、目を丸くした弟の視線が突き刺さる。弟が湖岸に戻ってきたら、夜が明けたように、霧が晴れていく。

「兄ちゃん。だから、乗ろうと言ったのに」

 私が押し黙ると、弟は、中にいるとこわくないよ、と笑って言った。

 弟が手に持つ竿を動かすと、湖水がかごの中から勢いよく抜けて、しじみがじゃらじゃらと音を立てている。

「霧のおかげだね」

 頬を赤らめて、弾んだ声を出している。

 寄せ波が、靴先をなでるようにしてまた湖に戻り、湖は霧に取りつかれたことも忘れ、湖面には天の川のようなきらめきが現れる。私は、仮面をかぶったような湖と、一歩、二歩とあとずさりをして距離を取る。

「変わらないよ。だから、こわくない」

 水におびえている猫のような私を、優しいまなざしで見ている弟の口元が、緩んだ。

「湖が消えてもか」

 私は、食い下がるように言葉を投げかけ、眉間にしわを寄せる。

「兄ちゃん」

 弟が、哀れむように、つぶやいた。

「それでも、こわくないよ。変わらないんだ。変わらないから、こわくない」

 弟は、瞑想にふけっているようだった。

「しじみが食べられなくなるのは、残念だけど」

 目を開けたら、静かにはにかんだ。

「こわくないのか」

 誰に向けているのかわからないまま、私の言葉が、まだ霧の中をさまよっている。

 泳いだ目をして、霧でも隠しきれないほどのよどんだ顔が弟の目を引きつけると、弟は一つ、しじみを手に取り、私の手に握らせた。

「大きいよね」

 粘液が、手にまとわりついて離れない。粘ついた手を広げると、十円玉ほどの大きさのかたまりが、黒い宝石のごとく浮かび上がった。

「しじみ汁にするから」

 弟の声を目で追うと、霧の中から湧いたようで、霧を探すも湖上には一点の曇りもなく、空を映した青い湖水が、波打っていた。



 玉坂さんの高い声が、耳にこだましている。

「こんなことも、できないの」

 荻沢さんが身を縮め、糸で引かれるように玉坂さんから離れていく。あてもなく、魂を抜かれたように職場をさまよっている。

「荻沢さん」

 声に出したら、彼女が肩を震わせ、その場に立ち尽くす。

「花川課長。荻沢さんには、無理です」

 加屋くんが、私の耳にひそひそと告げている。

「もう課長じゃないよ」

 私は、やんわりと否定した。加屋くんが、頭をかいて、うつむいている。私は、彼の肩に手を添えるように置いて、白衣を身にまとった。

「わたしがやりますから」

 視界に、玉坂さんのまっすぐに伸びた白い腕が入る。彼女は眉をひそめて、岩壁のような険しい顔をして、荻沢さんを威嚇しているようだった。

「わたしを悪魔だと思ってるでしょ」

 火をまとっているかと思うほど、玉坂さんの体から熱気が沸いている。

「玉坂さん、落ち着いて。荻沢さんも、そんな目しないで」

 燃え盛る炎に飛びこんだ加屋くんの頬に、一筋の汗が伝う。

「つらいまま生きながらえるのも、苦しむことになるからさ」

 加屋くんが、なだめるように、荻沢さんに近づいていく。

「荻沢さん。あなたも、誰かの自己犠牲で存在してるの」

 玉坂さんが、加屋くんを制するように声を張り上げる。

「薬は、多くの命を救ってる。恨まないで、感謝しなさい」

 体を赤く染め上げるようにして、叫んでいる。室内灯の光が、振り乱した髪に乱反射して、光と髪が、波のようにうねる。

 夕日に染まり、悲鳴を上げている湖を目にしているようで、荻沢さんと加屋くんが体に光を浴びながら、一歩も動くことなく、目を捕まえられたような光景を前にして、棒立ちしている。


 夜の帳が下りたら、もう悲しんで鳴くこともない。私は、手袋をつけたら、襟を正して、実験室に足を向ける。白い世界は、雪のようでも霧のようでも、どちらでもないのかもしれない。

「最期まで、見届けないと」

 私は、目を閉じてこうべを垂れた。花川課長、という呼び声が聞こえるまで、不動のままでいた。

 


 私は、まどろんでいたのかもしれない。

「お父さん、聞いてるの」

 娘が、穏やかな口調で眠りを誘う。私が、もちろんだ、と答えたら、箸が転んでもおかしいようで、娘の笑いが弾ける。

「でね。チューリッヒには、三日月の形をした湖があるの」

 娘は喜々として、薄い画面に映る、湖の画像に見入っている。口元を器用に動かすと画像が切り替わり、後景の山容がかすみ、海のように水をたたえた湖があらわになる。

「宍道湖と似てるわよ。大きさがね」

 私は、画面をのぞきこむ。湖面を埋めつくすばかりのハクチョウが、スワンボートのように居並び、雪のように白い。湖畔には洋館が立ち並び、湖岸の近い場所に噴水が、海よりも青い色の湖水を空高く噴き上げている。湖底まで透きとおる陽光が、湖をさらけだすように見せる。目の近くにあっても、向こうのような世界で、口をもぞもぞとさせたら、押し黙った。

「しじみは取れないけど」

 娘がはにかむと、反応した画面から画像が消える。もうやだ、と言って、娘は目を閉じた。

「義夫おじさん、しじみ漁してるの」

 一度だけ、首を大きく縦に振る。

「見回りも」

 娘が、声を落として尋ねる。

「してるよ」

 波紋を起こさないように、静かに答える。

「助けてるんだね」

 秒針の音が、心臓の鼓動のように響く。

「わたしは、助からなくてよかったのに。意識が戻ったら、体は動かないし痛いし」

 私が、二度三度、首を横に振る。お母さんはな、と言いかけたら、娘に言葉を遮られた。

「明日の空は、悲鳴を上げているの。そんな空なんて、見たくない」

 私は、顔を伏せて、目を落とす。娘が私を励ますように声を弾ませる。

「でも、もうそんなことない。明日がどんな天気でも、喜びにあふれた空よ」

 薄雲から漏れた光が肌に触れ、顔を上げて空に目をやると、光が雲を突き破り、私の体を刺すようで、目を伏せたら光を反射した湖面が、私の目を射るように銀色にきらめいている。娘の顔を、まっすぐに見つめることができなかった。

 

 

 私は、まどろむように目を閉じる。

「お父さんには、わからないでしょ」

 魂が抜けたような呆然とした私に、娘が声を荒らげている。

「体に意志がないんだよ。もう、治らないんだから」

「協会は、スイスにあるの。スイスのチューリッヒ」

「もう申請したよ」

 ジグソーパズルのピースが合わさることなく、ばらばらになって散らばり、悪夢にうなされたように目を見開いたら、光の花が咲き誇った湖面のような顔を娘がしていて、まぶしさから逃れるように、湖面を跳ねる魚がいた。

 目を閉じてしまうと、明日がべったりと体についてしまうから、天井の暗い夜空を眺めて、空が割れたような壁紙の裂け目に、目を凝らしている。水があふれているようで、視界の奥に光一つなくても、水をたたえた湖がはっきりと目に浮かんだ。 

「薬が、命を救う」

 私の言葉だった。暗闇から、寄せる波に乗った言葉が、頭に落ちてくる。

 返事をしようと口を開いても、空気をかんでいるだけで、喉につかえたままの言葉が息を詰まらせる。

 湖面をにぎわす波が闇夜に浮かんでは消えてを繰り返し、お経のように唱えた言葉が返ってきては、浜に寄せる。

 ぐわっ、とアオサギの鳴いた声が耳をかすめても空耳のようだけれど、夜が白んでいて、湖が着飾ったように姿を現す。

 夜と言葉が連綿としているようでも、スズメが窓の外で声を上げ、夜が明けたことを知った。

 


 事務所は、家から十分ほど歩いた場所にあり、車が通れない細い路地に面した、こぢんまりとした平屋だった。路地に入ると、人影が星のようにちらついて、目を細長くした。

「花川さん。今日は、どうされましたか」

 岩池さんは、ないだ湖面に光が浮いているようなたたずまいをして、私を出迎える。

 切れた息のせいにして、うつむいて黙ったままの私を、木漏れ日のような光が包みこむ。

「最近の万理ちゃん、明るくなりましたよね。吹っ切れたというか」

 私は顔を上げて、小刻みに頭を上下させる。

「お母さんが亡くなってから、心配したんだけど」

 口元にのみ微笑を浮かべた岩池さんが、清らかな仏像に見えて、あらゆる告白も聞き入れてくれるようだった。

「岩池さんのおかげです」

 深々と頭を下げる。

「今まで、本当にありがとうございました」

 短い言葉につかえ、ずっと任せっきりで、と継ぎ足した言葉が、あふれたように宙に浮く。

「生きてたら、つらいことや苦しいことが、あるわよ。助け合わないと」

 闇のような霧に包まれた湖に、飛びこむ覚悟ができていても、舟に足をかけたら体ががたがたと震え上がる。

「こわくない。いなくなっても、変わらない」

 独り言が口から漏れたら、私は、白い闇の中に溶けて、消えていく。中にいると、もうこわくなかった。

 霧の向こうに、顔を曇らせている岩池さんが、ほのめいている。白濁に染まった私が、揺らめく人魂に見えたらしく、彼女は目玉をむいて、だらりと口を開けたまま、青白い顔を硬直させていく。

「そういうことになりました」

 娘のことを伝えた。私は、晴れやかに澄んだ空気をまとう湖の中にいるようで、岩池さんは、白い闇をまとって砂浜で立ち尽くし、がくりと肩を落としながら、私を見つめていた。


「どうだった」

 玄関の扉を開けたら、娘の声がなだれるようにして耳に飛びこんだ。

 テーブルの上に置いてあった、コップ一杯の冷水を一気に飲みほすと、染み出たような汗が引いていく。

「心配いらないよ」

 ばつが悪い顔をしていた娘が、ほっとしたように息をつき、胸をなでおろす。朝霧が立ち上り、清々しいまでの空が顔を出し、陽光に満ちあふれているようだった。


 口元が緩み天井を仰ぐと、白い壁紙の裂け目から、霧があふれて瞬く間に視界が覆われる。波間を漂う和船が、雲の中を浮遊しているようで、長い竿を持った弟の黒い影が、ありありと現れる。

 和船が揺れても微動だにしない影の、持つ手の竿が錫杖に見えて、胸の奥にまで響く金属音が、波紋のように広がった。


 話なら湖畔で聞くよ、と弟に言われて、池のほとりを歩いている。近くに湖はない、と答えたからで、残念そうな顔をしていた。

 池に垂れる桜の葉よりも、水面を覆う色が濃くて、緑の霧が立ちこめたような水中を、私と弟は、口をつぐみ、見つめている。

「東京は迷路だね」

 弟の声が、水面の藻に絡まったようで、沈黙を破らせるように、シジュウカラが甲高く鳴く。

「万理と、スイスに行ってくる」

 はっきりとした声を出したが、弟は、耳に手を当てて、頭をかいている。

「ヘルパーさんと、一緒にか」

 弟が納得したように、頭を細かく上下に揺らす。

「いや、二人でだ」

 相好を崩した弟の顔から、乾いた笑いが漏れる。兄ちゃんが資格取ったからか、と笑いに交じって声を出す。

 視界の奥に、沈黙したように滑るカルガモが入り、水面を伝う波紋が静かに藻を揺らし、鼻をすすると、草葉の蒸れる臭いが広がり、藻の吐いた息のようだった。

 臭いが、鼻からあふれた。

「兄ちゃん。そんなこと言うために、東京に呼んだの」

 弟の目が、私の横顔を刺して、池には一瞥もくれない。

「いつ戻るの」

 怒気のにじむ声が水面に投げられても、反射することなく水中に沈み、緑の霧が包み隠す。

「万理は、もう戻らない」

 弟を直視する。ランドセルを投げたときの光景がよみがえり、母の顔が弟に重なっていく。弟は、哀れむ目をして、私をけだもののように見ている。

「兄ちゃん。まさかと思うけど」

 弟の顔から血の気が引いて、水面が鮮やかすぎるほどの色になる。目の焦点がさまよい、揺れる瞳孔に、藻が映る。いやいや、と弟は独り言をつぶやきながら、笑いをかみ殺しているように、唇を締めていた。

「命の大切さを教えたのは、兄ちゃんだよ」

 私は、仏像のような柔和な表情を浮かべて、身じろぎもしない。

「命は、もろいよ。だから、守らないといけない」

 弟が、穴の開くほど見るように、池を見渡している。弟の目が、生気を取り戻して鋭くとがる。桜の葉が、かすかに揺らめいたのも、捉えて離さなかった。


 弟の品定めをするような視線がまとわりついても、私は払うことなく、笑みをこぼす。弟が、藻の吐いた息を、すべて吸いこむように、息を吸った。

「いつでも、死ねるよ。けど、今じゃない」

 シジュウカラが、じゃあじゃあ、と聞き慣れない声を出す。胸元にある模様の黒いネクタイが、緑葉に映えている。

「楽しそうだよ。万理は、いつも笑ってるんだ。ずっと、待ってたからね」

 娘のまねをして、満面の笑みを弟に見せたら、私と目を合わすことなく、亀のように首を引っこめた。

「義夫。兄ちゃんを見ろ」

 首を少しずつ動かす弟が、からくり人形に見える。

「見たことあるか、義夫。心から笑う万理の顔を」

 緑の霧が、弟から酸素を奪い、弟はあえぐようにしている。

「ないんだ。兄ちゃんは、見たことがない」

 私の言葉が、霧の中に消えていく。緑の霧が立ち上り、水面を隠すと、ざわめく緑葉も霧に紛れ、シジュウカラの姿も、カルガモの姿も、霧の中だった。

 私と弟は、口をつぐみ、放射霧に包まれたような池を、見つめていた。

 


 一つ一つの石を確かめるように、ゆっくりと湖畔を歩いている。電動車いすの石畳を鳴らす音が、うぐいす張りのように聞こえた。

「三日月の形には、見えないのね」

 遠望の山並みに沿って、弧を描くような湖の線を、私は、なぞるように指をさす。細くない、半月よ、と娘がけらけら笑う。私は、地図を広げて、形を指で追う。こんな月、見たことない、と娘は言って、涙が出るほど笑っていた。

 厚い雲から赤い光が漏れないで、曖昧に夕方が過ぎていく。湖面をのぞきこめば、透きとおるような色をたたえても、遠目には夜が落ち始めて、くすんだ湖水が漂っている。

 

 湖をにらみつけているような二人が、薄暮に紛れてたたずんでいるのが目に入る。

「呪文のようだな」

 モルゲン、サンセット、と交じった言葉が、途切れ途切れに耳に届いた。

「同じ、言葉よ」

 娘が顔を揺らす。

「英語しかわからないけど、たぶん賭けごと」

 私も顔を揺らして、口元を緩める。

「明日は、夕日が見られるか、だって」

 娘がつぶやいたら、すぐに高らかな声を上げた。

「湖は、明日燃えるわ。トマトみたいに赤く染まるんだから」

 耳から呪文が遠ざかる。石畳に、鳥のさえずりが響いて、輪唱のように重なっていた。

「お父さん。おなか、すいたでしょ」

 鳴き声をかき消した、娘の声が響く。

「でも、チューリッヒの有名な料理って、お肉のクリーム煮でね」

 娘は、決まりが悪そうに、表情を崩す。

 湖岸があやふやに、境をなくして夕闇に溶けこみ、しじまに包まれると、湖が押し黙る。

「お父さん。お肉、食べないよね」

 夕刻の影が、二人を飲みこむように伸びていく。

「顔が、浮かぶんだ」

 言葉を、湖面に吐き出しても、波間をふらついている。

「鶏の、でしょ。知らない動物の顔も、浮かぶの」

 不思議そうな顔をして、娘が尋ねる。

「皆の顔が、浮かぶんだ」

 湖上が夜になろうとも、水をたたえて、揺らす波間に湖が浮かんでいる。答えてくれそうだけれど、黙ったままで、見えないのに、見えるようだった。

「もう見えないね」

 娘がつぶやくから、私は、波立つ湖面を見つめて、捕まえたら、ぬるりと手から滑り落ちそうなうねりを、指さした。

「お父さん。湖があるのは、わかるよ」

 こんなにおかしいの、初めてかも、と娘が笑う。

 ねぐらに帰る鳥の合図のように、石畳の奏でる音が、静かな日没にこだましたけれど、私は、山びこを捉えて離さなかった。

「万理は、のり弁が好きだよな」

 影が伸びて、止まったかのような宵になる。

 娘は目を閉じて、小首をかしげたら、思い出し笑いをしている。

「それ、高校のときでしょ。お母さん、毎日のり弁作ってね」

 湖の対岸まで届きそうなほどの、娘の笑い声が湖面を響かせる。隠れる夕日を捕まえるような声に、私も笑い声を重ねる。

「今も好きなのは、お父さんでしょ」

 肌に触れたのは引き締まった風で、耳をかすめたのは湖上のざわめきで、目にしたのは地面に溶けていく影だった。

 私は、山びこから手を離す。石畳から生まれる音が空を走ると、夕方の姿がどこにもなかった。

 青ざめた顔をしながら体を小刻みに揺らして、背中に羽があれば、ばたつかせ、踊っているはずが、未熟な踊りで、糸が数本切れたあやつり人形になる。

 

 

 真っ白な部屋の中に外光が差しこむと、壁や天井が浮かび上がり、霧の海を見ているようだった。

 霧の中で言葉が交わされても、白い闇に溶けるように消えていく。ぼんやりと浮かぶ、娘の顔をのぞきこむ。

「お父さん。一緒に来るのかって」

 霧の中に、笑みがこぼれた。毛穴が逆立つほどの冷たい霧が体に触れて、あとずさりをする。

「最期まで、見ろ」

 色あせた声が、でも形のある声が、頭に響いて顔を上げたら、重みに任せて頭が落ちた。

 娘の鼻が、点滴のストッパーに触れる。万理が、生まれてすぐに見せる笑顔を向けたら、まぶたが薄く閉じられて、物音一つで目を覚ましてしまいそうな、眠りについた。


 波立つ湖上をヨットが折れ曲がりながら、風上に向かうのを、何度も見ている。光を受けた帆が視界を駆けぬけて、流星群のように落ちていく。

 私は、湖畔にたたずむカエデの木のように、ぴくりともしないで、石畳に立っている。

 湖岸に雪を降らしたようにハクチョウが群れたら、対岸の山並みにも白く映り、山容がぼやけてくる。

 湖面が、宝石をちりばめたような輝きを放つと、揺らめく光が白い霧のように、視界の奥から広がるように迫ってきた。

「宍道湖も」

 葉がそよぐように、口から独り言がこぼれる。口を半開きにしたまま、チューリッヒ湖の光を瞳に浴びたら、眼球を叩いた衝撃が走り、光が牙を向いたように広がり、視界の一部にまとわりついて、湖上が光の霧に包まれていく。

 瞳孔が閉じていくようだった。私は、反り返って、石畳に崩れ落ちる。

 日の光が、雪を溶かすこともなく、霧を晴らすこともなく、ガラスの向こうで横たわる白い生物の目を溶かしている。

 かすんだ視界に、ゆがんだ湖が、笑うように揺れていた。湖は、日の光をあどけなく反射させながら、きらきらと、笑顔を振りまいている。


 私は、チューリッヒをあとにした。その日、湖が赤く染まったのか、私は知らない。


 

 まだ寝床でまどろんでいたら、放射霧がでるよ、と弟の声がして飛び起き、かっさらうようにコートをつかんで、坂道を下っている。

 すたすたと歩く弟の背中が、霧の中で明滅するように揺れて、私は、おぼつかない足取りで、目先にちらつく灰色の石畳から離れないよう、歩を進めていた。

 弟の背中が、はっきりと目に映ると、白い闇から、羽をばたつかせる音が浮かび上がる。

「コハクチョウだ」

 弟の声が、羽音と重なる。視線を湖面に向けても、よどみのない霧が湖を包み隠して影も形もないけれど、ばたつかせた余韻が耳元に響いている。

「兄ちゃん。もう、こわくないでしょ」

 目の前にある弟の背中を、霧が遠くに追いやるようだった。

「いや、こわいな」

 弟は返事をしないで、息の漏れない湖とともに黙している。もう耳元の余韻もない。足元の石畳がかすみ、手のひらがおぼろげに消えていき、体をも奪う霧に、為すすべがなくその場に座りこんでしまう。

「変わらないよね」

 霧の向こうから、安堵の声がにじみ出て、弟の背中が、山のようにそびえ立つ。

「義夫は」

 呼びかけると、山びこのように言葉が返る。

「変わらないよ。こわくない」

 霧を裂いたように、弟が立っている。

「行くのか」

 私は、ぽつりと言葉を漏らす。

「漁も出るし、見回りもする」

 弟が、振り向いた。

「霧が出たから、大きいしじみが取れるよ」

 私は、弟と視線を合わす。霧をまとった弟から、しずくがこぼれたように笑みが浮かんでいた。

 


 捨てられた猫が、体を震わせおびえた目をして、私を見ている。まなざしを、荻沢さんの霧がかった目に向けると、彼女は周囲を気にするようにうかがった。

「花川さん。無理でした」

 細々とした声を出す。

 身につけた白衣を見やると、視界が白く包まれていき、手袋をつけた手が、消えたように白くなる。

「早く慣れないと」

 荻沢さんが、頭を下げる。私は、資料に目を通す。

「臨床試験に進めそうです」

 拾われた猫が、夜が明けたような顔をする。

「慣れるのは、いけないよ」

 私は、ふくよかな笑みを、たたえた。和船が私を乗せ、放射霧をまとう湖の、立つ波に吸い寄せられて、ためらうことなく霧の奥に向かう。

 実験室の扉に手をかける。荻沢さんが、カルガモの雛のように、私のあとを、小走りでついてきた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
老齢に差し掛かった主人公が、子どもの頃の思い出を皮切りに人生のいろんな場面の記憶を拾い集めるような描写が印象的でした。 時系列が過去と未来を生き戻りするので少しわかりにくい部分もあるのですが、主人公の…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ