第九章:揺らぐ影、交錯する想いー前編ー
夜の社は、いつになく重い気配に包まれていた。
桜依は、静かに夜桜を見上げていた。
隣にいる蒼蓮も、どこか落ち着かない様子だった。
春だというのに、ひやりと肌寒い空気が首筋をかすめる。
ふと――
暗い森の奥から、ひとつの影がゆらりと現れた。
「……茉莉?」
呟いた瞬間、桜依の心はざわめいた。
胸の奥が、冷たいもので掴まれるような感覚。
(……まさか、こんなところで……)
思い出す。
これまで茉莉から浴びせられてきた数々の言葉。
孤独、蔑み、痛み――
けれど、今目の前にいる茉莉の姿は、それとはまた違うものを纏っていた。
「出来損ないのお姉様。そうよ、お姉様はいつだって出来損ない。私の影。」
茉莉の声は、まるで鈴の音のように冷たく響く。
「なのに、その才はなに? 許さない……それは私のものよ。」
茉莉の瞳は、紅い光を宿していた。
まるで、あやかしのように――
桜依は、一歩だけ後ずさった。
けれど、逃げるつもりはなかった。
蒼蓮が、そっと桜依の肩に手をかけた。
その手の温かさに、桜依はようやく我に返る。
同じ頃。
社の奥座敷。
柚羽は静かに手を組み、目を閉じていた。
その前に――芙蓉が音もなく現れる。
「やはり来たのね。」
柚羽は目を開き、目の前の芙蓉を見つめた。
芙蓉の瞳は狂気を宿し、だが足取りは確かだった。
「お前さえ現れなければ、私は長の隣にいられたのに……」
「今からでも遅くはない、お前さえ消えていなくなれば、きっと長は私を、私だけを見てくれる。」
その言葉に、柚羽は目を伏せた。
諦めたような、けれど静かな呼吸で言葉を返す。
「長に許嫁がいたことは知っていたわ。
あなたの立場を突然奪ってしまったこと、それは本当に申し訳なく思っている。」
「けれど――あなたが今まで、さよにしてきたこと。私は、許せない。」
静かな声だった。
その裏にある強い意志を、芙蓉も感じ取ったのか、唇をかみしめた。
「私はずっと……奪われたものを取り戻すため、復讐の機会を狙っていたわ。
そのために、好きでもないあの男との子供だって産んだ。
私は茉莉にそんな感情……母親らしい感情なんて、なかったのよ。」
その瞬間――
社の外から、強烈な気配が走った。
「茉莉……!」
「さよ!」
ふたりの声が重なり、一瞬の間。
そのままふたりは駆け出した。
芙蓉の表情からは、もう復讐の色は消えていた。
ただ――娘たちのもとへ向かって。
――第九章前半、了。