第十一章:静かな春のはじまり
社の庭先には、静かに春の風が吹いていた。
桜依は、縁側に座り、舞い落ちる桜の花びらをただ見つめていた。
その隣には、柚羽が穏やかに座している。
「……春、だね。」
桜依がぽつりと呟く。
「ええ。」
柚羽は優しく頷いた。
「ようやく、静かな春が戻ってきたわ。」
桜依は、そっと手を伸ばし、花びらを掴もうとする。
けれど、その指先に触れる前に、ひらりと風に乗ってさらわれた。
(――茉莉。)
ふと、桜依はその名を胸の奥で呼んだ。
あの夜、最後に見た茉莉の姿が、今もはっきりと心に残っている。
「母様……茉莉は、どうしているのかな。」
その問いに、柚羽はほんの少し目を伏せた。
「わからないわ。でも――」
「きっと、大丈夫。」
桜依は静かに微笑んだ。
「うん……きっと。」
ふいに、縁側の向こうから足音が響いた。
顔を上げると、そこには蒼蓮が立っていた。
「……起きたんだな。」
その声は、どこかぎこちなかった。
けれど――確かに優しさが込められていた。
桜依は、ほんの少しだけ微笑み返した。
「……うん。」
そっと立ち上がり、蒼蓮のもとへ歩み寄る。
その一歩一歩は、もう以前のようなおどおどしたものではなかった。
「……ありがとう、蒼蓮。」
その言葉に、蒼蓮はわずかに目を見開き――だがすぐに静かな表情へと戻した。
「別に……俺は、何も……」
そう言いかけ、ふと目を伏せる。
「いや――違うな。」
桜依はその言葉を静かに聞きながら、そっと蒼蓮の袖を掴んだ。
「……大丈夫。」
その声は、もう迷いなどなかった。
「これからは、ふたりで……歩いていけるよ。」
蒼蓮は、桜依の手元をじっと見つめた。
その手は、もう震えていなかった。
「……ああ。」
ふたりは、静かに見つめ合った。
その後ろで、柚羽は静かに目を細め、そっと微笑んでいた。
(これで、本当に――)
長く続いた因縁も、痛みも、すべてが静かに春の光の中へと溶けていくようだった。
――第十一章、了。




