第十章:目覚めの刻(とき)
静寂が訪れていた。
あれほど激しく揺れ動いていた社も、今はただ春の風が吹くだけ。
篠原家とあやかしの世界を巡る因縁――それは、静かに幕を閉じようとしていた。
桜依は、深い眠りの中にいた。
社の奥座敷、桜色の光に包まれた静かな空間。
その手は、誰かを求めるように微かに動いていた。
一方――
社の外、井戸のほとり。
蒼蓮は、ひとりそこに立っていた。
目を閉じたまま、両手を組んで祈るように。
(……桜依。)
胸の奥で、何度もその名を呼んでいた。
「俺は……あの時、お前を……」
小さく呟き、唇をかみしめる。
まだ自分は足りない。
力も、覚悟も――桜依の隣に並ぶには、まだ遠い。
けれど。
あの日、ふたりが手を重ねた瞬間のことは、決して忘れられなかった。
魂が震えるような――あの感覚。
蒼蓮は、そっと空を見上げた。
夜明け前の淡い桜色が、空の端を染め始めていた。
「……もう一度、会いたい。」
その呟きだけが、静かに井戸の水面に落ちていった。
◆
社の奥。
桜依は静かに目を開けた。
その瞳は、以前よりも穏やかで、どこか強さを宿していた。
隣には、柚羽が静かに寄り添っている。
「……目覚めたのね。」
柚羽の声に、桜依はゆっくりと頷いた。
「母様……私、夢を見たの。」
その言葉に、柚羽は微笑んだ。
「きっと……祖母様や、あなた自身の記憶。」
桜依は静かに手を伸ばし、ひらひらと舞い落ちる桜の花びらを掴もうとした。
けれど、その指先にふわりと触れる前に、花びらは風にさらわれていった。
「……私は、あやかしの世界で生きていく。」
その言葉は、誰に向けたわけでもなく――
けれど確かに、社中に静かに響いた。
その声は、社の外で静かに目を閉じていた蒼蓮にも届いていた。
蒼蓮はほんのわずかに口元を緩めた。
「――おかえり、桜依。」
その声も、桜依に届いていた。
――第十章、了。




