~君がいた、始まりの季節~
久しぶりに投稿してみました。
文章に関してはAIの力を借りています。
設定や物語構成は自分で考えています。
高校に入学するまで、俺の世界は色褪せていた。
白と黒と、その間にある無限の灰色。それが俺、相葉湊の世界の全てだった。少し長めの黒髪は、いつも無気力に目の上にかかっている。その奥にある瞳は、特に鋭いわけではないが、物事をじっと観察するような、妙に静かな色をしていると人から言われたことがある。体格は運動部とは無縁な細身で、猫背気味のせいで実際の身長より小さく見られがちだ。制服をきっちり着こなしているせいもあって、良くも悪くも目立たない。その他大勢に埋もれてしまう、そんな存在。
スキルが人の価値を左右するこの世界で、俺自身のスキルは中学を卒業するまで発現すらせず、何者にもなれないという諦めだけが募っていた。もはや、ごく普通の私服でさえ、不意のスキル暴発に備えて、微弱なダメージ軽減効果を持つのが常識となっている。そんな世界で、俺は無防備な丸腰に等しかった。中学時代、親友だと思っていた奴が【硬質化】のスキルに目覚め、バスケ部のエースになった。彼はあっという間に人気者になり、いつしか俺と話すこともなくなった。世界から、一人だけ取り残されていく感覚。あの時の無力感が、今も俺の心の奥底に澱のように溜まっている。
俺が入学する私立・翠明学園高等学校は、全国でも有数のスキル教育に特化したエリート校だ。入学式の壇上で、学園長は朗々と語った。「諸君は選ばれし才能の持ち主だ。この学園でそのスキルを磨き上げ、チーム競技『ヴォイド』の頂点に立ち、ライバル校である赫陽学院、銀狼学園を打ち破り、我が校に栄光をもたらす覇者となることを期待する」。新入生たちの間に走る、興奮と緊張。誰もが、これから始まる競争社会に胸を高鳴らせている。そんな中で、スキル未発現の俺は、ただ場違いな疎外感に苛まれていた。
運命の日、高校一年生の四月。
満開の桜が風に舞う中、式の看板の前で、友達とはしゃぐ一人の女子生徒がいた。陽の光を浴びてキラキラと輝く、明るい茶色のセミロング。快活そうな大きな瞳。彼女が笑うたびに、その場の空気がぱっと華やぐ。まるで、彼女自身が太陽のようだった。
その時、強い風が吹き、彼女の手から真新しい生徒手帳が攫われた。くるくると舞い落ちるそれを、気づけば俺は駆け出して掴み取っていた。
「あ、ありがとう!」
手帳を受け取った彼女――月島陽葵は、眩しい笑顔を俺に向けた。
「……どうも」
俺はぶっきらぼうにそう返し、柄にもないことをしてしまったと少し居心地の悪さを感じながら、その場をそそくさと立ち去った。印象的な出会い。だが、それだけのはずだった。
入学式が終わり、指定された「1年B組」の教室へ向かう。真新しい教室には、期待と自信に満ちた空気が充満していた。席に着くと、周りの会話が自然と耳に入ってくる。
「俺のスキル【ファイアショット】、アタッカーとしてなら絶対活躍できるぜ。あとは優秀なヒーラーさえいればな!」
そう話していたのは、赤みがかった短髪で、日に焼けた肌の活発そうな男子生徒だった。
「まじで? 私の【アイスウォール】も、ディフェンダーとしてなら誰にも負けないよ。ヴォイドの対抗戦、早く始まんないかな」
隣で応じていたのは、肩まで伸びた黒髪を一つにまとめ、知的な印象を与える眼鏡の女子生徒だ。誰もが、ヴォイドにおける自分の役割と、輝かしい未来を語っている。それが、この学園での名刺代わりなのだ。俺は、持っていない名刺のことを考え、ポケットの中で固く拳を握りしめた。
ふと視線を上げると、教室の真ん中で、月島陽葵が人の輪に囲まれていた。彼女はスキルを自慢するでもなく、ただ楽しそうに皆の話を聞いている。そして、俺の視線に気づくと、小さく首を傾げて、にこっと笑いかけてきた。俺は慌てて目を逸らし、窓の外に広がる空へと意識を逃がした。住む世界が違う、と改めて思った。
最初のホームルーム。教室のドアがガラガラと乱暴に開き、一人の男が入ってきた。よれた白衣、無精髭、気だるそうな半眼。エリート校の教師というイメージとはかけ離れたその姿に、教室がざわめく。
「はい、どーも」
男は教壇に立つと、持っていたチョークを投げるように置いた。
「担任の月詠朔だ。担当はスキル理論学。ま、一年よろしく。最初に言っとくが、この学園の方針は知ってると思うけど、ここは仲良しクラブじゃない。スキルが全てだ。ヴォイドで勝てない奴は淘汰される。……じゃ、名前とスキル、前の奴から順に自己紹介」
あまりに無気力な進行に、生徒たちは戸惑いながらも、一人、また一人と立ち上がっていく。
「佐藤健太ッス! スキルは【パーシャル・ハードニング】! ロールはタンク希望! 攻めより守りで貢献するタイプなんで、そこんとこよろしく!」
後ろの席の男が、やけに元気よくそう言った。短く刈り込んだ黒髪に、いつも明るい笑顔がよく似合う、クラスのムードメーカー的な存在だ。
何人かが続き、やがて俺の番が来た。クラス中の視線が、値踏みするように俺に突き刺さる。
「……相葉湊です。スキルは……未発現です」
俺がそう言った瞬間、教室の空気が凍りついた。好奇、同情、そして侮蔑。様々な感情の視線が、無防備な俺の心を抉る。その重苦しい沈黙を破ったのは、健太の茶化すような声だった。
「まあまあ! これからすげーのが目覚めるかもしんねーじゃん、な! 『大器晩成』って言うだろ? こいつ、とんでもないジョーカーになるかもしれねえぜ!」
その言葉に、数人がくすくすと笑い、教室の空気は少しだけ和らいだ。俺は、礼を言う代わりに、ただ静かに席に着いた。
次に立ち上がったのは、陽葵だった。
「月島陽葵です。スキルは【ソウル・アンセム】です。ロールはヒーラーです。よろしくお願いします!」
彼女がそう言った途端、教室は先ほどとは全く違うどよめきに包まれた。
「マジかよ、超回復スキル……最高のヒーラーじゃん!」
「Sランクの希少スキルだ…! 月島さんがいるチーム、絶対負けないだろ!」
羨望と称賛の声。しかし、最前列に座る、いかにも戦闘系といった風貌の男子生徒が「……でも、所詮は後衛の支援ロールか。直接キルは取れないな」と小さく呟いたのを、俺の耳は聞き逃さなかった。その生徒は、短い黒髪を逆立て、鋭い眼光が特徴的だった。この学園では、どれほど戦略的価値が高くても、最前線で戦うアタッカーこそが花形だと考える風潮があった。
ホームルームが終わり、教室が昼前の喧騒に包まれる中、俺は一人、窓の外に目を向けながら考えていた。
(それにしても、なぜ俺がこの学園に……?)
自己紹介で味わった屈辱と、陽葵のような本物の才能を目の当たりにして、その疑問はより切実なものになっていた。陽葵のようなSランクのスキルホルダーや、強力な戦闘スキルを持つエリートたちが集うこの場所に、スキルもない、何の取り柄もない俺がいる。それは、豪華なフルコースのディナーの席に、道端の石ころが一つだけ紛れ込んでいるような、強烈な違和感だ。合格通知が届いた日、何かの間違いだと思ったのは俺だけじゃない。両親も首を傾げていた。もちろん特待生などではなく、安くはない入学金も授業料も、我が家にとっては大きな負担だ。まるで、何か見えない力が働いて、俺という異物をこのエリートの箱庭に無理やりねじ込んだような、そんな気味の悪さがあった。
「よぉ相葉、また世界の終わりでも考えてる系?」
思考を中断したのは、またしても佐藤健太だった。彼の丸い顔にはいつも笑顔が張り付いており、その明るさが、今は少しだけありがたかった。
同時刻、学園の最上階にある理事長室。磨き上げられた黒曜石の床が、床から天井まで続く一枚ガラスの窓に映る空を吸い込んでいた。眼下には、豆粒のような生徒たちが行き交う広大なキャンパスが、まるで精巧な箱庭のように広がっている。
「理事長。ご報告いたします」
学園長が、手にしたタブレット端末のデータを表示させながら、恭しく頭を下げた。
「例の"特例入学者"、相葉湊ですが、入学時のデータ通り、スキルは未発現のままです。担任の月詠からも、初日の様子としては特に目立った点はないとの報告が上がっております」
革張りの椅子に深く腰掛けた男――この学園の絶対君主、蒼葉宗一郎理事長は、指先で年代物のグラスを弄びながら、その報告を聞いていた。彼は、学園長の焦燥が滲む声にも表情一つ変えず、ただ目を細める。
「学園長。君は、数字しか見えん男だな」
その声は、穏やかでありながら、底知れない冷たさを帯びていた。
「鳥かごの中の鳥は、いつまでもさえずっているだけだ。猛禽の雛は、荒野に放り込んでこそ、その爪牙を覚醒させる。今の彼は、まだ自分が猛禽であることすら知らん雛鳥に過ぎんよ」
理事長は立ち上がると、壁一面を覆う本棚の一角に触れた。隠し扉が静かに開き、古びた書物が収められた書庫が現れる。彼はその中から、和紙で装丁された一冊の古文書を取り出した。
「我が蒼葉家に代々伝わる『異能血脈録』だ。ここには、歴史の裏で暗躍し、あるいは埋もれていった数多のスキルが記録されている。その中に、極めて稀有な一族についての記述がある。『相葉』の一族だ」
彼はページをめくり、ある箇所を指し示した。そこには、「収集者」とも「器」ともとれる、判読の難しい古い文字が記されている。
「彼らの一族は、数世代に一度、あらゆるスキルをその身に写し取り、溜め込むという特異体質の持ち主を輩出する。それは、自ら光を放つ恒星ではない。周囲の星々の光を喰らって輝く、ブラックホールのような存在だ。そして、その力は、平穏な環境では決して目覚めることはない。所有者が極度のストレス下に置かれ、かつ、多種多様な強力なスキルに晒され続けた時、初めてその"収集"の本能が目覚めるのだ」
理事長は、満足げに古文書を閉じた。
「無論、ただの古い言い伝えだ。私も半信半疑だった。……そう、三年前まではな」
彼は学園長に端末を操作させ、ある機密ファイルを表示させた。それは、湊が中学一年生の頃に起きた、小さなスキル暴発事故の調査報告書だった。
「公式記録では、町の工場での『ガス漏れ事故』として処理されている。だが、我々の調査では、複数の生徒によるスキルの暴発、連鎖的な暴走が起きていたことが分かっている。そして、その中心にいたのが、当時スキル未発現だった、相葉湊だ」
報告書には、現場に居合わせながらも奇跡的に無傷だった湊の写真と、事故後、暴走した生徒たちのスキルが、原因不明の出力低下を起こしたというデータが添付されていた。
「偶然か? 私はそうは思わん。あれは、彼の"器"が、無意識に、そしてごく微量に、周囲のスキルを"喰らった"最初の兆候なのだ。飢えた獣が、初めて獲物の味を知った瞬間だよ。故に、私は彼をこの学園に入れた。日本中から優秀なスキルホルダーが集う、最高の"餌場"にな」
学園長は、ごくりと喉を鳴らした。
「しかし、あの月詠を担任にしたのは…。彼は学園の方針に批判的です。何か、余計なことに気づくのでは?」
「彼だからいいのだよ」
理事長は、再び窓辺に立った。
「月詠は、石ころの中からでもダイヤの原石を見つけ出す目を持っている。そして、その最高の磨き方を心得ている。我々はただ、最高の"砥石"――つまり、優秀なスキルホルダーたちと、彼が守りたくなるような存在、そして適度な困難を用意してやるだけでいい」
その視線の先には、友人たちと笑い合う月島陽葵の姿があった。
「月島陽葵…【ソウル・アンセム】か。体を癒し、戦線に復帰させる希少な回復スキル。だが、精神的なダメージは癒せない。なんと素晴らしい"餌"ではないか。彼女がいる限り、相葉湊は何度傷ついても立ち上がるだろう。そして、彼女を守るため、より多くの、より強い力を渇望するようになる。我々が望むまでもなく、自らスキルを"収集"し、成長してくれる」
理事長の唇に、全てを見通したかのような、愉悦の笑みが浮かんだ。
「さあ、相葉湊。いつ、その血に眠る本性を現すのかね。あの忌々しい赫陽学院を喰らい尽くす、我々の究極のジョーカーとして……」
彼の計画の全貌を知る者は、この部屋には誰もいない。ただ、箱庭の中の駒たちが、主人の思惑通りに動き始めるのを、絶対君主は静かに待っているだけだった。
昼休み、健太に引きずられて食堂へ向かっていると、陽葵とその友人グループに出くわした。陽葵の隣には、短い髪が似合う、勝ち気そうな眼差しの高橋沙織がいる。彼女はいつも冷静で、分析的な雰囲気を漂わせている。
「あ、相葉くんに佐藤くん! お昼?」
「おう! 俺はこいつを唐揚げ定食の道へ……」
「ちょっと健太、相葉くん困ってるじゃん。ねぇ、よかったらさ、あたしたちと中庭で食べない? みんなで食べた方が美味しいよ!」
陽葵の太陽のような誘いに、健太は「マジで!? 行く行く!」と即答する。俺には拒否権などなかった。
中庭のベンチで、賑やかな輪が広がる。俺は隅の方で小さくなって弁当を広げた。
「……なんで相葉まで誘ったのよ、陽葵」沙織が、ひそひそと陽葵に話しかけるのが聞こえた。「本気で言ってるの? 私たちの目標はヴォイドのレギュラーになって、推薦枠を勝ち取ることよ。そのためには、有力なスキルホルダーとの連携が不可欠。ロールレスと時間を過ごす戦略的メリットはゼロよ」
「沙織。そういうこと言うの、やめなって言ってるでしょ。友達作るのに、戦略的メリットとか考えたくないな。それに、湊くんは優しいよ。この前だって、私が当番で失敗して花瓶を割りそうになった時、一番に駆けつけてくれたんだから」
「……それは、そうだけど」
「それに、いつも一人で本を読んでるじゃない? 何考えてるか、ちょっと気にならない?」
陽葵の言葉に、沙織はちらりと俺を見て、小さくため息をついた。
月詠先生のスキル実習の授業は、巨大なドーム型施設「ゼニス・アリーナ」で行われた。その授業は「ヴォイド基礎戦術」と呼ばれ、生徒たちは仮想空間で模擬戦を行い、ポイントを競い合う。スキル未発現の俺は、いつも見学か基礎トレーニングのみだ。
アリーナでは、燃えるような赤いオーラを纏ったアタッカーや、空気を凍らせて一瞬で巨大な氷壁を作り出すディフェンダーたちが、互いの力を誇示し合っている。健太も、屈強な体躯にさらに硬化スキルを重ね、重い衝撃にも耐える盾役として必死にポイントを稼いでいた。誰もが、少しでも上のランクへ行くために、そして他校との対抗戦で活躍するために、必死だった。俺は、その光景をただ眺めることしかできなかった。
そんな俺と陽葵の距離が縮まったのは、放課後の図書室だった。数学を教える、という名目だったが、いつしか俺が貸したミステリー小説の感想を語り合うのが、二人の日課になっていた。
「相葉くんって、こういう渋い小説読むんだね。意外」
「……月島さんには、つまらないかもな」
「ううん、そんなことない! この探偵の最後のセリフ、『君が犯した唯一の間違いは、人間の善性を信じなかったことだ』ってところ! あそこ、鳥肌が立ったよ!」
陽葵は、身振り手振りを交えて、興奮気味に感想を話してくれた。
「……あそこは、この小説のテーマそのものだからな。作者は、どんな人間にも救いがあると信じたいんだと思う」
俺がそう言うと、陽葵は目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「湊くんって、そういう風に本を読むんだね。なんだか、湊くん自身が、この探偵みたい。静かだけど、誰も気づかない大事なことを見つけてる人って感じ」
自分の好きなものを、こんなにも真っ直ぐに受け止めてくれる。そのことが、今まで感じたことのない種類の喜びとなって、俺の胸を満たした。この時初めて、俺は彼女を「気になる存在」として意識し始めたのかもしれない。
六月。梅雨の晴れ間、ライバル校との交流戦に向けた選手選抜も兼ねた、球技大会が開催された。これはヴォイドの基礎となる身体能力を測るための、重要なイベントだった。運動音痴の俺はもちろん不参加を決めていたが、健太が勝手に俺をドッジボールのメンバーに登録していた。
試合が始まると、俺はコートの隅でひたすらボールから逃げ回っていた。だが、クラスの応援団の中心で、メガホンを手に声を張り上げる陽葵の姿が目に入る。彼女の明るい笑顔は、遠くからでもよく分かった。
「湊くん、がんばれー!」
彼女が、初めて俺を下の名前で呼んだ。
クラスメイトの誰でもない、俺個人に向けられた、真っ直ぐな声援。その声が耳に届いた瞬間、敵チームから放たれた剛速球が、俺の目の前にいた、茶色のポニーテールを揺らしている女子生徒に迫っていた。
まずい――!
気づいた時には、体が勝手に動いていた。自分でも信じられないほどの瞬発力。ボールが手に当たった衝撃は凄まじかったが、なぜか俺は、そのボールを地面に落とさず、がっちりと掴み込んでいた。
体育館が、どよめきと歓声に包まれる。
「ナイスキャッチ、湊!」
陽葵が、短い距離を駆け寄ってきて、満面の笑みで俺の肩を叩いた。近い。彼女の甘い匂いと体温を感じて、俺の心臓は大きく跳ねた。顔が熱くなるのを感じ、俺は何も言えずに俯くことしかできなかった。
その数日後の、スキル実習の授業だった。
球技大会で活躍した、明るい茶髪のスポーツマン風の男子生徒が、調子に乗って力を制御しきれなかった。暴発した岩石のスキルが、軌道を逸れて陽葵の頭上へと迫った。ここはアリーナではなく、ただのグラウンド。生徒たちが着ているのは、多少の衝撃なら吸収する体操服だが、ヴォイド・ギアのようなダメージ変換機能はない。あの岩石スキルが直撃すれば、ただでは済まない。
「危ない!」
まただ。この感覚。体が勝手に動く。
陽葵を突き飛ばし、俺の左腕に鈍い衝撃が走る。骨が軋むような、強烈な痛み。
「湊くん!」
保健室のベッドの上で、陽葵は大きな瞳を涙で濡らしながら、俺の腕を握っていた。彼女の華奢な肩が、少し震えている。
「私のせいで……ごめんね……ごめんね……。湊くん、いつも私のために無茶して……」
「……お前のせいじゃない。俺が、勝手にやったことだ。それに、君が無事でよかった」
本心から、そう思った。この涙を止めたい。もう二度と、こんな顔をさせたくない。その想いが、胸の奥で強く脈打つ。
すると、彼女が握る俺の手から、温かい光が溢れ出した。陽葵のスキル、【ソウル・アンセム】。
優しい光が腕に触れた瞬間、体の痛みが和らぐと同時に、心の奥深くにまで染み渡るような、穏やかな歌声が聞こえた気がした。その音色は、ささくれだった俺の心を、優しく撫でるようだった。
「すごいスキルだな……」
俺が感心して言うと、陽葵はふと、寂しそうな顔で呟いた。彼女の瞳の奥には、拭いきれない不安が宿っているようだった。
「……でも、この力は、体を癒せても、魂を守ることはできないから」
その言葉の真意を、当時の俺はまだ知る由もなかった。
その日の放課後、俺は月詠先生に呼び出された。
「相葉。今日の事故のことだが」
「……はい」
「単刀直入に聞く。あの時、君は自分のスキルを使ったのか?」
「いいえ。火事場の馬鹿力です」
月詠先生は、俺の目をじっと見つめると、やれやれと首を振った。彼の長い指が、無意識に煙草を探すような動きをした。
「君、自分のことを過小評価しすぎているか、あるいは、何も分かっていないか、どっちかだな。忠告しておく。この学園で無自覚で強力な力は、嫉妬を買い、身を滅ぼすぞ」
先生は続けた。「月島の【ソウル・アンセム】は、どんな強力なアタッカーよりもチームの勝敗を左右する、まさに戦略の核だ。それ故に、敵も味方も、誰もが彼女を自チームに引き入れたがる。多くの厄介事を引き寄せる。彼女を守りたいなら、その正体不明の力に呑まれるな、相葉」
先生の言葉が、俺の中に初めて、自分自身の力に対する「疑問」の種を植え付けた。
この日を境に、俺と陽葵の関係は、クラスの誰もが知る特別なものになった。健太は「やるじゃねーか!」と俺の肩を叩き、沙織も「……陽葵のこと、あんたなら任せられるかもね」と、ぶっきらぼうに言った。彼女の冷たい表情の奥には、わずかながらも認めるような色が垣間見えた気がした。
一緒に下校し、他愛もない話で笑い合うのが、俺たちの日常になった。色褪せていた俺の世界は、陽葵という太陽が隣にいるだけで、信じられないほど鮮やかに色づいていった。
ある雨の日、傘を持っていなかった陽葵に、俺は自分の傘を差し出した。「大丈夫だよ、湊くんは風邪ひかない?」と心配する陽葵に、「俺は平気だから」とだけ答えた。一つの傘の下、肩が触れ合うか触れ合わないかの距離を歩く。彼女の洗髪料の微かな香りが、雨の匂いに混じって俺の鼻をくすぐった。隣で、陽葵が楽しそうに水たまりを跳ねる。その光景が、なぜかとても愛おしく思えた。
だが、そんなささやかな平穏を脅かす影は、予期せぬ形で現れた。
下校途中、駅前の広場に出たときだった。見慣れない燃えるような深紅の上着。宿敵、赫陽学院の生徒たちが、数人でたむろしているのが目に入った。彼らは、翠明の生徒を見つけると、いつもからかったり、挑発的な言葉を投げかけたりすることで有名だった。今日はたまたま、いつもより攻撃的な雰囲気だった。
「へぇ、君が翠明の至宝、【ソウル・アンセム】の月島陽葵さん? こんな雨の日に、ご苦労さん」
リーダー格の男は、短い逆立てた髪で、顔には幾つか新しい傷跡があった。その目は、獲物を定める肉食獣のように、陽葵をじろじろと見ている。
「俺たちのチームに来なよ。こんな雨の中、異能もねぇダッセェ男と相合傘なんて、お前の価値が下がるってもんだぜ?」
男の言葉に、陽葵は顔をしかめた。「結構です。私は今のチームで満足しています」
「強がり言ってんじゃないよ。お前の異能があれば、うちのチームは全国制覇も夢じゃないんだ。なぁ、どうだ? 俺たちのチームに来いよ。最高の舞台を用意してやる。お前をただの回復役じゃなく、チームの『女神』として崇めてやる」
男の言葉は、次第に露骨さを増していく。俺の全身から、血の気が引いていく。月詠先生の警告が、現実となって目の前に現れた。俺が何かを言う前に、健太が俺と陽葵の前に仁王立ちになった。彼の広い肩と、固い眼差しは、見た目にも頼もしい盾のように見えた。
「てめえら! 他校の生徒に何の用だ! 通りすがりの人の邪魔すんな!」
「あ? 誰だてめえは。そのツラ、確か翠明の盾役崩れか? いいぜ、ここでへし折ってやろうか?」
リーダー格の男の背後にいた、腕組みをした別の男が、不快そうにこちらを睨みつけた。彼の長く、細い目には、冷たい炎が宿っているようだった。その瞬間、彼の指先が赤く発光した。【ファイアショット】の異能だ。ヴォイドの試合中なら当然の光景だが、一般の広場での異能の使用は、本来禁止されている。
まずい、と感じた瞬間、健太が咄嗟に【パーシャル・ハードニング】を発動させ、腕を鋼のように硬化させた。赫陽学院の男が放った炎の玉が、健太の腕に激突する。小さな爆発と焦げ臭い匂いが広場に立ち込めたが、健太はびくともしない。彼の固い表情には、わずかな苦痛の色も浮かんでいない。
「異能をこんなとこで使いやがって……! てめえら、規則を破るつもりか!」健太の怒声が響く。その声には、抑えきれない怒りが込められていた。
「ハッ、弱そうな奴らがいるから、少し試してやっただけだよ」リーダー格の男は、せせら笑った。彼の薄い唇が、意地の悪い笑みの形を作る。「お前らみたいな雑魚にかまってる時間はないんだよ。月島さん、今日はこれで勘弁してやる。だがな、近いうちに、必ず迎えに来るからな」
男は、嘲るような視線を陽葵に向け、仲間たちと街の喧騒の中へと消えていった。深紅の上着の一団は、雨の街の風景の中で、脅威的な染みのように見えた。
「大丈夫か、陽葵、湊?」
健太が、硬化を解いた腕をさすりながら、心配そうに振り返った。腕はわずかに焦げ付いている。その顔には、不安の色が見えた。
「うん、ありがとう、健太くん」陽葵は、まだ少し震えている声でそう言った。彼女の大きな瞳には、不安の色が隠しきれない。
俺は、何もできなかった自分の無力さに、奥歯を噛み締めるしかなかった。相手が異能を使ったのに対し、俺はただ突っ立っているだけだった。強くなければ、彼女を守れない。その思いが、今日まで以上に強く、重く、俺の胸にのしかかってきた。
「――お前ら、何騒いでるんだ」
背後から聞こえたのは、聞き慣れた気だるげな声だった。いつの間にか、月詠先生がすぐ後ろに立っていた。いつものよれた白衣姿で、雨に少し濡れている。彼の目は、いつもより鋭く、周囲を観察しているようだった。
「……月詠先生」
「一部の赫陽学院の生徒が、通りすがりの人に迷惑をかけていました」健太が、事態を説明する。彼の声には、まだ怒りの残滓が感じられた。
「異能を公の場で使うとは、教育がなってないな、赫陽学院は。お前らもだ。他校の連中の挑発に乗るなといつも言っているだろう。特に月島、お前は今日、直接的に狙われた。もっと危機感を持て」
先生の言葉は厳しかった。俺は、何もできなかった自分を、ただただ情けなく思うしかなかった。強くなければ、彼女を守れない。その思いが、焦りとなって俺の心を焼いた。
この平穏な毎日が、永遠に続けばいい、と、心から願っていた。
だが、その平穏は、今日、あまりにも簡単に打ち砕かれることを思い知らされた。異能の応酬、他校生の嘲るような言葉、そして何もできない自分の無力さ。
まさか、この幸福な時間が、未来で迎える絶望的な悲劇の、ほんの序章に過ぎないとも知らずに。