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雨の中の約束

作者: 茶ヤマ
掲載日:2025/06/12


その日は朝からしとしとと雨が降っていた。

傘を持たずに家を出てきてしまった若旦那は、町の一膳飯屋の軒先で雨宿りをしていた。


「へい、兄さん。濡れて風邪でもひいたら大変だよ、中であったかい味噌汁でもどうだい?」


声をかけたのは、その一膳飯屋の店主だった。

若旦那はぬれた着物を気にしながらも、誘われるまま店の中へ。



店内には客が一人。口をへの字に曲げた初老の男が、一言も発せず黙々と焼き魚をつついていた。


「うちの常連でな。名前も言わねえ、注文も口に出さねえ。

でも、来るたびに同じものを頼むんだ。不思議な人さね」

と店主。


若旦那はその男の様子が気になった。

どこか哀しげで、しかし怒っているようにも見える。

つい店主に尋ねる。


「なんであの人、口をきかねぇんですか?」


店主はふと真顔になり、言った。


「……それがな、理由がわからねぇんだよ。

ある日突然、何も言わなくなった。

でも、それでもしょっちゅうここに来る。

……あんたならどう思う?」


そう問われても、若旦那にもわからない……。


その夜も雨はやまず、若旦那は一膳飯屋に立ち寄り、酒を少し飲んでいた。

湯気の立つ味噌汁の香りが、まだ微かに漂っていた。

男が静かに立ち上がったとき、店の空気が少しだけ揺れた。

店の入口まで歩いて、雨の中をじっと見つめていた。


そしてぽつりと、口を開いた。


「……あの日も、ここで待ってた。雨の中、彼女あいつが戻ると信じてな」


驚く店主と若旦那。

男は続けた。


「声にすれば、嘘になる気がした。ただ、それだけだった……。

でも、もうしまいだな……」


それきり男は静かに笑い、何も言わずに店を出ていった。

雨の中、傘もささずに。

若旦那はその背中を見送りながら、ふとつぶやいた。


「口に出せば消えてしまう想いもあるんですね……」


雨は、静かに降り続いていた。


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