雨の中の約束
その日は朝からしとしとと雨が降っていた。
傘を持たずに家を出てきてしまった若旦那は、町の一膳飯屋の軒先で雨宿りをしていた。
「へい、兄さん。濡れて風邪でもひいたら大変だよ、中であったかい味噌汁でもどうだい?」
声をかけたのは、その一膳飯屋の店主だった。
若旦那はぬれた着物を気にしながらも、誘われるまま店の中へ。
店内には客が一人。口をへの字に曲げた初老の男が、一言も発せず黙々と焼き魚をつついていた。
「うちの常連でな。名前も言わねえ、注文も口に出さねえ。
でも、来るたびに同じものを頼むんだ。不思議な人さね」
と店主。
若旦那はその男の様子が気になった。
どこか哀しげで、しかし怒っているようにも見える。
つい店主に尋ねる。
「なんであの人、口をきかねぇんですか?」
店主はふと真顔になり、言った。
「……それがな、理由がわからねぇんだよ。
ある日突然、何も言わなくなった。
でも、それでもしょっちゅうここに来る。
……あんたならどう思う?」
そう問われても、若旦那にもわからない……。
その夜も雨はやまず、若旦那は一膳飯屋に立ち寄り、酒を少し飲んでいた。
湯気の立つ味噌汁の香りが、まだ微かに漂っていた。
男が静かに立ち上がったとき、店の空気が少しだけ揺れた。
店の入口まで歩いて、雨の中をじっと見つめていた。
そしてぽつりと、口を開いた。
「……あの日も、ここで待ってた。雨の中、彼女が戻ると信じてな」
驚く店主と若旦那。
男は続けた。
「声にすれば、嘘になる気がした。ただ、それだけだった……。
でも、もうしまいだな……」
それきり男は静かに笑い、何も言わずに店を出ていった。
雨の中、傘もささずに。
若旦那はその背中を見送りながら、ふとつぶやいた。
「口に出せば消えてしまう想いもあるんですね……」
雨は、静かに降り続いていた。