桜に捧げる、歌の奇跡
この作品は、本羽香那様の『一足先の春の詩歌企画』、武頼庵様の『さいかい物語企画』の参加作品です。
「う……い……とき……」
声が聞こえた。
誰かが歌う声。
意識の遠くで聞こえた声。はっきりとは聞こえない。けれどその歌声が『僕』の意識を呼び覚ました。
***
『僕』の目の前に、女の子がいる。『人間』の女の子だと、なぜか分かる。その子は『僕』の前で楽しそうに歌っていた。
「花の季節は 過ぎ去って
現れたのは 若い青
まだ小さくて 幼くて
精一杯に 背伸びする
待ってるからね 成長を」
短い歌。歌い終わったら、また同じ歌を繰り返す。二回繰り返したら、満足したのかその子は歌うのを止めた。そして、笑顔で『僕』を見る。
「また来るね」
そう言って去っていく。『僕』の方を見ても、視線は合わない。その子に『僕』の姿は見えないから。それが寂しいと思いつつ、「また来る」の言葉に、その日が来るのが待ち遠しかった。
***
その子が再び『俺』の前に来たのは、さらに季節が進んだ、夏。『俺』の最盛期だ。
「若葉の頃は 過ぎていった
新緑から深緑へ
幼い子から大人へと
強く大きく 葉を広げ
涼しい木陰 生み出している」
前と同じように、短い歌。そして二回繰り返して歌い終わって笑顔を見せる。そこまでは同じ。違うのは、その子が一人じゃなかったことだ。
「なんだよその歌」
「うるさい。文句あるなら、ここまで来ないでよ」
連れらしい男に、その子は『俺』に見せた笑顔とは全く違う、怒った顔を見せる。『俺』ならそれで怯んでしまいそうだが、男はヘラヘラしている。
「こんな原っぱに何の用だって思うだろ?」
「そんなの、聞かなくたって分かるでしょ」
「いや、分からん」
「もーっ!」
男の言葉に、その子はさらに怒る。だが、男は全く気にした様子を見せていない。
「あんたの弟が、『姉は変人だけど』って付き合うのを心配してきた意味が分かった気がした」
「だ・れ・が! 変人だってっ!?」
「言ったのは弟だって。桜を見て感動して歌を作って、わざわざその桜の前まで歌いに行く変人だって」
「あんのバカ弟がー!」
いきり立つその子を、なぜか楽しそうに見た男は、そのまま『俺』に視線を向ける。
「……まあでも、感動は分かるかもな。確かにこの桜、すげぇもん」
「でしょでしょっ! そう思うでしょ!」
「でも歌は作らんし、それを桜に聞かせようとかは、ワケ分からん」
「フンッ」
その子はむくれて顔を背ける。そんな女の子に男は笑って、口を開いた。
「でも、面白い。やっぱり付き合ってみたい」
男の笑みにその子が赤い顔をしたのが、何となく腹立たしい。
その後も二人で話をしながら、やがて『俺』に背を向けた。その子が『俺』に大きく手を振る。
「桜さーん! うるさくしちゃってゴメンね! また来るからね!」
その子が去っていく。やはり『俺』を見はしても目は合わない。「桜」と呼ばれたのは初めてだが、それが『俺』の名前だと、なぜか分かる。初めて聞いたはずなのに、初めてじゃない、不思議な感覚。
広い場所に『俺』はいる。地面と呼ばれる場所に根を張り、空へ向けて大きく枝を伸ばして葉で覆われている「木」が『俺』だ。周囲にあるのは、地面を這うように生えている、雑草と呼ばれるものだけ。
その場所に、落ちてオレンジ色に染まった日の光が降り注ぐ。そう、「夕方」だ。その光とは反対方向、『俺』の体から伸びるように地面に映る黒いものは、「影」と呼ばれるものだ。
誰かに聞いたわけでもないのに、それらの知識は当たり前のように『俺』の中にある。一体なぜなんだろうか。
最大の疑問は、あの女の子のことだ。『俺』の前に現れる人間は、他にもたくさんいる。それなのに、どうしてあの子だけがこうも気になるんだろうか。
***
それからさらに季節は進んだ。最盛期が過ぎて、『俺』の葉の色が変わって、年を取ったと感じた頃、またその子が来てくれた。またあの時と同じ男を連れてきている。
「季節は移る 青から赤へ
秋の夕日に 映える赤い葉
地面の赤も 色混じり合い
見る人々を 魅了する」
二度繰り返して、歌い終わる。満足そうなその子に、男がボソッと言った。
「なんか、本家本元の紅葉からクレームきそうな歌だな。赤っていってもくすんでるし。魅了するなら、やっぱりアッチって気が」
「あのね、これは茜色っていうの! これだってキレイじゃないっ!」
「そうだけど、比べちゃうとなぁ」
楽しそうだ。そう思って、気付く。その子は怒っているように見える。でも楽しそうだ。楽しそうに、男と二人で話をしている。『俺』の方を見ない。
「じゃあ、またねー」
その子が『俺』を見たのは、男と二人でいなくなる、その時だけ。視線が合わないのは仕方ないけれど、もっと見て欲しかった。いつものように。
――いつも?
いつも、とは何だろうか。自分で思ったことに疑問が沸く。いつもと言えるほど、あの子がここに来ているわけじゃない。
それなのに、その思いが消えない。いつものように、『俺』を見て欲しいのだ。
***
その子がまた姿を見せたのは、『儂』の葉が、その子の言う茜色の葉がすべて落ちて、枝だけになったときだった。今回は一人だ。
「葉はすべて落ち 迎えた冬は
弱い光を そのまままっすぐ
優しくあなたは 通してくれる
春に向けての準備期間
ゆっくり休んでね
待っているよ」
その子の歌声が、ウトウトしている『儂』の耳にボンヤリと聞こえてくる。「待っている」の言葉に、何を待っているんだろうと思ったが、半分眠っているせいか思考もそれ以上は進まない。
年を取ったと思う。今の『儂』は休眠中。この子が来たのを感じて、意識が浮上したけれど、眠気には勝てない。
「ねーねー聞いてよ。アイツったらさ、桜のとこに行くよって言ったら、寒いからヤダって言うの。私たちが寒いのと桜を愛でることの、どっちが大事なのって話だよねー」
その子が『儂』を見ている。それが嬉しくて、意識が朦朧としながらも、話を聞いていた。
……とは言っても、気付けばその子はいなくなっていたから、途中から完全に眠ってしまったようだ。もったいなかったなと思った。
***
温かくなってきた。
それと同時に、『私』は違和感が続いていた。
体の内側から、何かが生み出される。枝から出た何かが徐々に大きく膨らんで、色づいていく。自分が自分じゃなくなる感覚。『私』じゃない誰かが、『私』を乗っ取ろうとしている感覚。
未知の感覚が怖い。それでいて、「やっとだ」と安堵と喜びも感じている。これは一体何なのか、複数の相反する感情を抱いたまま過ごす。
そして、その日。『私』は、内側から何かが外に弾けそうになる感覚に襲われた。同時に感じる、『私』じゃない『私』の存在。
『――ああ、そうか』
ようやく『私』は悟った。違うのだ、異分子は『私』なのだ。本来、桜に宿るのは女神。この桜の花が開く季節に、降り立つ女神。『私』はただ、この女神が降り立つ花の時期に向けて、その力を蓄えて強くしていく、ただそれだけの役目。
それが分かってしまえば、後は難しくもなかった。そう、覚えていないだけで、何度も何度もこの瞬間を繰り返しているのだから。
だから、何も恐れることはない。未知のことなど何もなかった。ただその弾けそうな感覚に、委ねればいいだけ。――そして、色づいた蕾が、花開く。
『ああ……』
女神が、見える。『私』の役目はここまでだ。本来宿るべき桜の女神が、ここに降り立ったのだから、異分子の存在はここまでで……。
『…………っ……!』
あの子だ。あの子が、来た。
ずっと『私』のために、歌を歌ってくれていたあの子。願う。せめて最期に、あの子の歌を聞きたいと……。
「ついに迎えた この時を
女神の降りる その時が
ピンクに開いた 花びらが
どこかで咲いてる 音がした
開け開いた 満開に
桜の女神 花開く」
慈悲なのか、薄れそうな意識はかろうじて保った。けれど、その聞こえた歌は。
いや、分かりきっていたことだ。何を期待していたのだろうか。この子も待っていたのだ、『女神』が降り立つ時を。それなのになぜ、この子は『私』を待ってくれていると、思ってしまったんだろう。
何も嘆くことはない。それは当たり前のこと。だから、薄れるままに眠りにつけばいいだけ。
――そう思った時。再び、歌が聞こえた。
「そして今まで ありがとう
花を支えた 桜の神
若葉の頃に 会いましょう
生まれて出でる その時に」
意識が、覚醒した。これが『私』に向けられた歌だと、分からないはずもなく。
すぐまた意識は薄れていく。しかし、『私』はようやく今までのことを思い出した。
何度も繰り返していたのだ。毎年毎年、あの子は『私』の元に来て、歌を歌ってくれた。あの子が何度も「ありがとう」「また会いましょう」と歌ってくれるから、『私』が生まれた。あの子の歌に対する、女神の置き土産。それが『私』なのだ。
意識が薄れる。消えてゆく。花の季節が終われば、『私』はまた戻るのだろう。その時には何も覚えていない。それでも。
『ありがとう』
その言葉に、何も返事などないと分かっていても。『私』の姿がその目にうつらなくても。それでも、想いを伝える。
『ありがとう。また、会おう』
「――え?」
その子は『私』の方を向いた。まるで言葉に反応したかのように。そして、目が合った。間違いなく。『私』を見て、その目がまん丸に見開かれる。
ただの偶然だろうか。それとも『女神』の計らいだろうか。――何でもいい。こんな幸せな最期を、迎えられたのだか……ら…………。
*****
「今の、って……?」
「どうしたんだ?」
桜の木に、何か、いや誰かの姿が見えた気がして、私はつぶやいた。その声に、付き合い始めてあと少しで一年になろうかという彼氏が、聞いてきた。
「……ううん、何でもない」
どうしたと聞かれても、答えられる答えはない。私だって、よく分からないんだから。
「ふーん」
そいつはどう思ったのか、それ以上突っ込んではこない。言ったのは、違うこと。
「なあ、なんでこんな時に来るんだよ。花なんてまだチョロッと咲いただけじゃん。見るなら、満開を狙うべきだろうが」
普通ならそうなんだろう。大多数の人がそう思うんだろうなということは、私だって分かる。それでも、と思う。
「満開の桜もキレイだけど、今じゃないとダメなこともあるの」
そう思う理由なんて分からないけど、それでもこの時期は絶対に外せない。桜を見る。さっき何かが見えたように思えた場所は、当然だけどただ桜の木があるだけ。なぜか、それが寂しい。
「んじゃあ、もういいな。帰ろうぜ」
肩に手を置かれた。ふり返って見たソイツは、優しい顔で私を見ていた。
「今度は満開の時に来ようぜ。でもって、また歌うんだろ?」
「歌わない」
「そうなのか?」
「だって、満開のときなんて、たくさん人がいるもん。群衆の中で歌う勇気はさすがにない」
「なるほど。まあ詞も歌も下手だし、その方がいいかもな」
「誰が下手よっ!?」
さっきの優しい顔は見間違いだったのか、なんて思ってしまうくらいの豹変ぶり。口が減らないのは、今に始まったことじゃないけど。私が文句を言っても、薄く笑うだけでさっさと先に行ってしまっている。
でも、ずっと私一人で来ていたこの場所に、一緒に来てくれた初めての人だ。
すぐ追いかけるべきかもしれないけど、私は桜を見た。広い野原にある、一本の大きな桜。いつ見ても圧倒される、大きな桜だ。
「歌は、夏にね」
桜の花が嫌いだった。苦手だった。色が薄くて儚くて、今すぐにも消えてしまいそうに見えたから。
私が最初に好きになった桜は、葉桜だった。大きく広がって、力強い葉桜。同じ桜なのに、受けるイメージが全く違うことに驚いた。
それから、見続けていた。季節が進むごとに姿を変えていく桜を。そうして見続けていくうちに、桜の花に感じていた儚さは感じなくなった。葉桜に感じた力強さを、感じるようになっていた。
今は花の季節も好きだ。でも歌わない。私が歌わなくたって、多くの人が歌って祝っているのだから。
「おおーい、早く来いよ!」
「今行くー!」
私がついて行っていなかったことに気付いたらしい男の声に、大きく返事をする。そしてまた桜を見た。
「また来るね」
いつもの言葉を残して、私は待ってくれている彼の元へ走り出したのだった。