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一歩踏み出すと、途端にさっきまでの違和感は消えた。
私は店主の少し後ろを、店へ向かって歩く。
近くで見てみると、古いは古いがよく手入れされている雰囲気のお店だった。
店の顔たる扉は木製、窓枠も今時珍しい木製で、どちらも丁寧に磨かれ、飴色に輝いている。
窓にはまっているガラスは微妙にゆがみのある、味のある古い時代のガラス。
おそらく骨董品クラスの窓ガラスだろうが、こちらもきちんと磨かれているのだろう、汚れや曇りはなさそう。
窓の向こうのレースのカーテンは、閉じた窓越しにもそれとわかるほど真っ白だ。
そういえば、店主が身に着けている赤いバンダナや黒いエプロンも、洗濯後にきちんとアイロンをかけているらしく、それぞれ隅までパリッとしている。
足元は素っ気ない黒のデッキシューズだが、新品ではないがヨレヨレでもない、いい感じに使用感がありつつ清潔だ。
この人、すごくきれい好きで、丁寧で誠実な仕事をするんだろうなと私は思った。
自分のよれた格好が、急に恥ずかしくなってくる。
窓の下にはイーゼルが立てかけられていて
『welcome! 喫茶・のしてんてん』
と、墨汁と思しきもので踊るような筆致で書かれたキャンバスが、横長に置かれていた。
(……喫茶・のしてんてん?)
それがこのお店の名前だくらいはわかるが、『のしてんてん』の意味がよくわからない。
外国語かな?
ガン・ゴロゴロ~ン
のん気なドアベルの音が再び響く。
「どうぞ!」
扉を押さえ、中へ入るよう私に促す店主のウキウキした口調につられるように笑みを返し、私は、軽く会釈して店へ入った。
店の中に入った途端、私は大きく息をついた。
涼しい。それになんだか気持ちが安らぐ。
もちろん冷房が適切に効いているからだろうが、なんとなく、大樹の茂る豊かな森の中へ入ったような、知らない筈なのに懐かしい、不思議な心地よさがある。
「お好きな席に座ってください。すぐにソーダの実でクリームソーダを作りますから」
そう言いつつ彼は、さっき渡した緑色のソーダの実を持って、楽しそうに店の奥へと向かう。
私は入り口近くの四人掛けの席に座り、なんとなく店内を見渡した。
入り口を入ってすぐ正面に、上の方がステンドグラス風になっている大きな出窓があり、昼はそれが明かり取りになっている雰囲気だ。
その下には骨董品めいたレジスター。
入って左手奥側は、年季の入った木のカウンターで、カウンターの奥が簡単な厨房になっている。
その小さな厨房で、店主はこちらへ背を向け、何やら作業していた。
『ソーダの実でクリームソーダ』を作っているのだろう。
彼の手許はよく見えないが、その動きに迷いはない。
手前寄りの通りに面した窓側(つまり私が座った席がある方)は、これも年季の入った木の椅子とテーブルの席が三セットほど。
中途半端な時間だからか、あるいはこの店はいつもこんな感じなのか、私以外にお客はいない。
カウンターの上には、さっき彼が抱えていた籐の籠が無造作に置かれている。
ちょっと伸びあがって覗いてみると、私が拾ったものと似た感じの、鮮やかな赤や青や紫のものがちらっと見えた。
シュッパーッ!
突然、カウンターの奥ですごい音がした。と同時に、店内に強い甘いにおいが広がる。
いっそ人工甘味料や香料で作られた『甘いにおい』だといわれた方が納得するが……、こちらから見える彼の肩の動きなんかから考え、『ソーダの実を二等分』したのだろう。
「急げ急げ」
独り言を言いつつ彼は、両手に持った緑色を何かに(おそらくスクイーザー)セットし、持ち手らしい木の棒をつかみ、体重をかけるような感じで押さえ込んだ。
グジュン、というような鈍い音がかすかにした。
「……ようし、OK」
ふう、とひとつ息をついた後、彼は満足そうにそう呟き、今度は落ち着いた動作で細かい作業をし始めた。
「お待たせいたしました。ソーダの実の果汁で作ったクリームソーダです」
銀色のトレーに乗せて運ばれてきたのは、足つきのグラスに満たされた透き通った緑色の飲み物の上に、ディッシャーで丸くすくわれたアイスクリームが乗っているという、絵に描いたようなクリームソーダだった。
お約束の真っ赤なチェリーも、もちろんちょこんとアイスの横に添えられている。
「……懐かしい」
思わずつぶやいた私へ、店主はニコッと笑った。
「懐かしいですか? そう言っていただけると嬉しいですね。実はウチでは普段、クリームソーダは出さないんですけど、ソーダの実をわけてもらえるこの時期だけ、常連さん中心に裏メニューで出しているんです。ウチの常連さんたちはどっちかと言うと年齢層の高い、こだわりのある人が多くて。どうせクリームソーダを出すのなら、いかにも昭和の頃の喫茶店で出していた由緒正しいクリームソーダにしてくれって言うんです」
クリームソーダに由緒正しいとか、正直、困るんですけどね、各個人で由緒正しいのイメージも違いますし。
店主はそんな風に軽くぼやき、おどけたように目をくるんとさせると
「どうぞごゆっくり」
と言い、カウンターの奥へと戻った。
私は改めて、テーブルの上を見た。
白い紙のコースターに乗っているのは、透き通った緑色のソーダの上に丸いアイスクリームが乗り、赤いチェリーが添えられたクリームソーダ。
緑色のグラスの中で、小さな泡がいくつか、シュワシュワと上へ昇っているのも確認できる。
いっそ気が抜けるほど変わったところのない、私の感覚として実に実に『由緒正しい』クリームソーダだった。
もっとはっきり言うなら、私が小さい頃、よく親に連れていってもらったファミレスで飲んでいたクリームソーダそのもの、というビジュアルなのだ。
何だか、クリームソーダだけあの頃からタイムスリップしてきたような、不思議な感覚だ。
私はそろそろとストローを取り上げ、アイスクリームのすぐ横へ差し込んだ。
そして、ちょっとくずれたアイスクリームと混ざった緑色のソーダを、そっと吸いこんだ。