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緑のボール状のナニかを持って、角を曲がった刹那。
突然空気が変わったような気がして、私は思わず足を止めた。
道なりに少し進んだ先には、古い、木造建ての一軒の店がある。
風に乗って、かすかに漂ってくるのはコーヒーの香り。
雰囲気的に、もう何十年も営業し続けている昔ながらの喫茶店……、という感じの店だ。
ただ、その周辺は不自然なくらい何もない空き地だった。
こんな寂しい環境の中、正面にあるお店だけが現役で営業しているのに、軽い違和感があった。
何故か、異界、などという単語が一瞬頭に浮かび、慌てて打ち消した。
(いやいや、単純にこの辺りが、シャッター商店街みたいなものなんじゃないの?)
強いて私は思う。
きっとこの辺りの区画は、二、三十年前まではお店だったり小さな工場だったりが幾つもあったのだろう。
でも、たとえば後継ぎがいないとかの事情で、撤退したり廃業したりして……だんだん建物も壊され、更地だらけになったしまったのだ、とか。
うんうん、きっとそう。
大体、晩夏の重苦しい夕暮れ時であるのは角を曲がる前と同じだし、なんならツクツクボウシの声もさっきと全く同じ。
急にひと気がなくなったから、空気感まで違って感じられるんだよ、きっと。
ガン・ゴロゴロ~ン。
ちょっとこもったようなのどかな音が不意に、どことなく緊張感のある静寂を破る。
ギクッと音のした方を向くと、道の先にある店の扉が開いていて、さっきのおじさんの赤いバンダナが見えた。
店の扉に、いい感じに煤けた雰囲気のドアベルが取付けられているのが見える。
さっきの音は、このドアベルの音らしい。
「やあ」
おじさんは嬉しそうに目を細めた。
「拾って下さったんですねお嬢さん、ありがとうございます。ああ、それはもうお嬢さんの実ですね。お礼代わりに私が搾りますから、この機会にぜひ飲んでいってください」
(ん? んんん? はいい? 搾る? 飲め?)
コレを渡せばそれで終わり、と思っていた私にとって、彼の言葉は思いがけないというか予想の斜め上というか、はっきり言って意味不明、というか。
目をパチパチさせてぼうっとしている私のそばへ、バンダナのおじさんはにこにこしながら寄ってきた。
「実はこれ、ソーダの実と言いましてね。搾るとソーダ水として楽しめる果汁がとれるんですよ、まあ、あんまり世に知られていない希少種ですけど。希少種だけに扱いがちょっとばかり気難しくて。栽培そのものも難しいですし、せっかくうまく熟した実でも、不用意に搾ったら苦みが強くなったり旨味が抜けたりと色々不具合が出ましてね。それもあって、ごく一部でしか知られていないんです」
「……はあ。そうなんですか」
にこにこしながらそんなことを言う彼の顔を眺めながら、私は気の抜けた返事をした。
まったく聞いたことのない話だが、単に私が知らないだけで、世の中にはそういう不思議なものもあるのかもしれない。
そういえば、マシュマロだって元々はゼラチンではなく、ナントカというややこしい名前の植物のエキスを使ってふわふわにさせていたらしい、という話を聞きかじった覚えがある。
この辺は、知る人ぞ知る話なのかもしれない。
(私、ソーダって単純に、炭酸水のことだと思ってたんだけど……ってか、さっきコレ、落としたよね? 扱いが気難しいんなら、あんなに思い切り道へ落としたりして、大丈夫なのかな?)
まさか、弁償しろとか言われる?
急に心配になり、そっと彼の顔色を窺うが、おじさんはにこにこ顔のままで、別に他意はなさそうだ。
「ソーダの実の果汁を楽しむには、特別製のスクイーザーで優しく、それでいて素早く搾らにゃなりません。その点、少なくとも私は専用のスクイーザーを持ってますし、アチラで搾り方も教わってきました。そりゃアチラのソーダ絞りの名人には負けるでしょうけど、普通に美味しく、搾れますよ」
彼は、『えへん』とでも言いたそうに薄い胸板をそらせた。
「まだまだ残暑も厳しいですし。ソーダの実の果汁にアイスクリームを添えて、クリームソーダなんていかがです?」
(クリームソーダ……)
思わずごくりと唾を飲んだ。
いいえ、お気持ちは嬉しいですけど、先を急いでいるので結構です。
九割以上はそう言って、さっさと踵を返すつもりだったのに。
クリームソーダ、という単語を聞いた途端、私の心はとらわれた。
私は小さい頃から、クリームソーダが大好きだった。
透き通ったグラスに注がれた緑色の甘いソーダ、ディッシャーで丸くすくわれたアイスクリーム、添えられた真っ赤なチェリー。
やわらかな炭酸が舌で弾ける感触、細かい氷とソーダが混ざったアイスクリームの味、最初に食べるか最後に食べるか中間で食べるか、いつも楽しく悩んだ真っ赤なチェリー。
とにかく全部、好きだった。
小学校卒業間近まで、外食時には必ずと言っていいほど注文してもらっていた。
そう言えば、いつの間にかどういう訳か、私はクリームソーダを頼まなくなっていた。
ある時から急に、クリームソーダで簡単に喜ぶ自分が子供っぽいような気がして、嫌になったのだ。
誰かに笑われたような馬鹿にされたような記憶が、ぼんやりある気もするが、実際にはそんな事実などなかったような気もする。
もしかすると、私の脳内に住む架空の誰かに、指差して笑われたのかもしれない。
「ささ、どうぞどうぞ。あそこにあるのは私の店でして。拾っていただいたお礼もそうですけど、この暑い中、駅からせっせと歩いてきたのでしょう? 5分でも10分でも、座って休憩していってくださいな」
人のいい笑顔で勧められると、嫌だとも言いにくい。
私が今、疲れてのどが渇いてもいるのも本当だ。
どうやらこの見習いサンタさん、無意識で人たらしなのかも……照れ隠しのようにそんな言葉を胸でつぶやきながら、私は彼に導かれるまま、一歩、足を踏み出した。