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蒸し暑い晩夏の夕暮れ。
今にも死にそうなツクツクボウシの、とぎれとぎれの鳴き声が、面接後の疲労感を重くする。
私は湿った大息を吐きながら、汗で額に張り付いた前髪を右手の人差し指で払った。
紺のスーツはよれているし、スーツの下の白いブラウスはじっとり汗を吸って重くなっている。
ストッキングに包まれた脚は蒸れ、さすがに履き慣れてきた中ヒールのパンプスは、ソールが斜めに減ってきているからか、時々すべる。
(あー……ヨレヨレだァ。参ったねー)
肩に食い込む、トートバッグ風の合皮の鞄の持ち手を、持て余すように揺すり上げながら私は、他人事じみた言葉を胸でつぶやいた。
私は、いわゆる就活生。
現在、一流ではないものの地元では知られている大学に通う、四年生だ。
これでも一応、三年生の、少なくとも他の人に遅れることのない時期に就活を始めている。
しかし無情にも時間は瞬くうちに進み……、暦はもはや四年生の秋へと移ろうとしているのに、私は未だ内定ひとつ、もらえていなかった。
同期の多くは十月一日に、それぞれの会社で行われる内定式へ出る予定だ。
我々落ちこぼれ組の中には、いっそ割り切って大学に残る覚悟を決める者も出始めている。
(……大学に残るとか。そんな余裕ないよ~)
半泣きでそう思う。
大学に残るのなら――留年するにせよ院へ進学するにせよ――、当然お金がかかる。
そんなお金、ない。
親からの援助も、大学入学から四年分だと言われている。
大学に残り、自力で学費を稼ぎながら尚且つ就職活動を続行する体力や精神力など、少なくとも私にはない。
だから卒業までになんとか、自分の行く先を決めなくては。
仮に就職できなかったら、非正規で働くフリーターになるしかないだろう。
フリーターをしながら職を探すことも、仕事の合間に何らかの資格を取る勉強をすることも、可能といえば可能だ。
が、大学生と並行した就活生活でさえヨレヨレに疲れ切っている私にとって、それは絶望の道にしか見えなかった。
大学生と就活を両立するだけでも死にそうなのに、仕事をしながらその合間に就活するなんて、不可能だとしか思えない。
(別に私って、そう悪くない人材だと思うんだけどなア)
エントリーシートに書いてきた自分のプロフィールを思い出し、ため息を吐く。
成績だって(メチャクチャ良くはないにせよ)悪くないし、クラブ活動はしていないけど、大学生になってから地域の子ども食堂の手伝いを、友人たちと続けてきた実績もある。
どうしようもないぼんくらでは(多分)ないし、それなりにそつなくというか、過不足なく社会で活動できている。
少なくとも、社会人として最低限通用する人材だと自分では思う。
私が就職希望を出した会社だって、別に超有名企業だとか超人気企業だとかではない。
地元のそこそこ大学の学生が就職するのに相応しい、手堅そうな中堅企業を中心に就活している。
少なくとも己れの実力を勘違いした、身の程知らずな高望みなんかしていない、筈……多分。
それなのに、送付されてくるのは『不採用通知』ばかりなのは何故だろう?
これまで私は、失敗を反省し、時々キャリアセンターの職員さんに相談して対策を立て、真面目に就活してきたつもりだ。
自分の何が悪いのか、もう私にはわからない。
強いて言うならば。
これという目立った特徴がない、つまりユニークさに乏しい……という弱みが見えてくるけれど。
そこも逆に言えば、あらゆる仕事に無理なくなじめるという、長所でもあり得る、筈。
(……筈、だけど)
そう思っているのは私だけなのかもしれない。
鬱々と考える。
しかし、ならばどうすればいい?
今からいきなりユニークになんかなれないし、そんな付け焼刃のユニーク、見る人が見ればバレバレで、むしろキモチワルイだろう……。
「うわ! ごめんなさい!」
考え事をしながらやや早足で、うつむいて歩いていたせいだろう。
私は、ちょっと前を歩いていた人と思い切りぶつかってしまった。
「わわわわ!」
私がぶつかってしまった人も、焦った声を上げた。
「あー! あ、あの、す、スミマセン。落としたソーダの実がひとつ、お嬢さんの方へ転がってしまいました!」
悲鳴じみた声を上げながらこちらを向いたその人は、腕に、底の浅い、でもそこそこ大きい籐の籠を抱えていた。
籠の中には三つ四つ、やたら鮮やかな色合いの、小ぶりなプリンスメロンほどの丸いものが入っていた。
籠を抱えているのは頭に赤いバンダナを三角巾風に巻き、黒いエプロンをキリリと身に着けた、細くて小柄なおじさんだった。
多分、この辺りで飲食店でも経営しているんじゃないかと思うたたずまいだ。
口許に、きちんと整えられた白い方が多い髭を蓄えた、ちょっと貧相な見習いサンタクロース……、みたいな印象の人だった。
「ああっ、あんなところへ! あの、スミマセン、私は他の落ちた実を拾わなきゃならないんで、アレだけはお嬢さん、お願いします!」
焦った口調でそう言うと彼は、籐の籠を腕に抱えたままサッと素早く、すぐ先の角を曲がった。
私は訳が分からないまま、彼が目顔で示した方を見た。
電柱の陰に緑色の、ちょうどソフトボールのボールくらいの大きさの、丸いものが転がっていた。
「えっと……、これ、だよね?」
拾い上げてみる。
不思議な感触だ。
見ようによっては毒々しい、水彩絵の具のチューブからひねり出したかのような、いやにはっきりとした緑色のそれ。
つるんとざらざらの中間くらいの手触りという感じで、ハッとするほど冷たい。
(え? 冷たっ! ひょっとして今まで冷蔵されてた、とか?)
ほんのり甘いにおいはするが、食べ物というよりも消しゴムのような感じではある、においも触感も。
首を傾げながらも私は、とりあえずこれを、さっきのおじさんに渡さなきゃなと思う。
別に放っておいてもかまわないかもしれないが、私がぶつかったせいであの人は、持ち物を道に落とす羽目に陥った。
拾って渡すくらいの罪滅ぼしはしたい、無視して放置も寝覚めが悪いし。
ぼんやりそう思いつつ私は、ヘンテコリンな緑色のボール状のナニカを手に、彼が曲がった角へ向かい……。
そして。
『喫茶・のしてんてん』の客になった。