ゼッテリア
パニックになりやすいタチだ。
新商品や新発売は好きだが、急に仕事のシステムを変えられたり、指示がコロコロとあっちこっちするのにはストレス値がギューンと急上昇して、そう何度もは耐えられない。
だからというわけではないが、初めてその店名を見たとき、困惑し、二度見した。
ロじゃなくて、ゼ? え、これって大丈夫なやつ?
そんな気持ちが抑えきれず、すぐさまスマホの画面を叩いてしまったくらいには衝撃を受けた。
冷静なスマホの画面が、件のブランドから派生した公式のスピンオフブランドと知らせてくれ、そうかと一息。騒ついた心は密やかに安寧を取り戻した。
そういえば、もう随分長い間あの店には行っていなかった。
別に何という理由もないのだが、いつの間にか最寄りの店舗は閉店してしまっていて、気付けばもう何年も食べていないと思い当たる。スピンオフか。
オープンは3ヶ月後。ロッテリアとは少し違うみたいだけど、実際どうなんだろう。この場所ならお昼に来れるな。絶対行く。久々に浮き足立った良い気分でその場を後にした。
それからオープンまで、私は指折り数えてその日を楽しみに待った。
毎日スマホの画面でメニュー表を開き、実際何回かはまだ白い壁にポスターしか貼っていないその場所に足を運び、窓ができて目隠しのシールが剥がされると、真新しい椅子やテーブルが並ぶ人気のない店内を見てワクワクした。
こんなに軽やかなのは、本当に久しぶりのことだ。実に三、四年ぶりくらいだった。
些細なきっかけから、8年近く勤めた会社を辞めた。
定年まで、あと20年近く。たまの休日にも何もする気が起きない日々を我慢して定年まで勤めたとき、自分のその後を考えたら、何もないのに気付いてしまった。退職金で老後が賄えるわけではない。ドル建だって元本を割るかも。そう思ったらゾッとして、もう居ても立っても居られなかった。
手に職をつけなければ!
そんな決意だったが、端的に言って、転職には成功したと言えるが、就職には失敗したと言える。
研修は楽しかった。新しい技術がどんどん自分のものとして身に付いて行く日々にワクワクした。いよいよ初日。これも悪くなかった。異業種にドキドキしながら職についてみれば、どうやら向いていそうだと思える手答えがあった。
今思えば、あれは祭りだったのだろう。
祭りのようなその一瞬が過ぎて見えてきたのは、素人目にもはかばかしくない経営状況と毎年上がるはずが据え置きのままの給料と技術力以上にマーケティング力やマネジメント力が求められる現実だった。
私は、押しも押されもせぬ技術者になりたかったのだが、数字のことしか気にされず、技術研修もほとんどない。
通帳を見るたびに青くならない日がない毎日に、最初に感じたはずの手答えさえ霞んだ。不安が高まるほどに不満が口をついて出るのが止められなかった。
結婚しておけば良かったなあ。何回かチャンスはあったのに。
絶対結婚しない。自由に生きるんだと息巻いていたのに、ついにそんなことすら考え始めた自分が信じられなかったし、元いた会社の給料がかなり上がっただなんて話を聞いては気道が狭まって酸素が薄くなるような胸苦しさを感じる自分も嫌だった。
実家の助けがなくて、猫を飼っていなかったら、もしかしたらもうこの世にいなかったかもしれない。
ゼッテリアオープンの知らせは、そんな閉塞的な日々に吹き込んだ久しぶりの明るいニュースだった。
外食するのが好きだ。中華以外なら大体なんでも頷くが、ハンバーガーは特に好きだ。
コッペパンサンドなんかにも目がないが、こと元気になりたい時やむしゃくしゃとしている時には無性にポテトとハンバーガーが食べたい。丸いバンズに肉や野菜が挟んであって、付け合わせにポテトがついているアレが良いと半ば渇望してしまったりするのには、我が事ながらきっとよほど好きなのだろうと不思議な気分になる。
ああ、何を頼もうか。
帰路や寝る前にメニューを眺め、想像するだけで、ぐったりとした世界に少し色が戻り、華やぎ、目覚めも幾分爽やかになったように感じられたのは、きっと錯覚ではない。
いざ当日。今日は絶対と決めているから、足取りはすこぶる軽い。
ただし、私はその日、バーガーにはありつけなかった。
ワクワクしながら店の前まで来て、私は並ぶ人々の列が2つになっているのに気づいて足を止めた。
注文はこちら。手書きと思しき素朴な紙が指した先には、大きなタッチパネルがあった。
今思えばなんてことはない。やってみれば簡単で、今では普通に注文している。馬鹿みたいな話だが、初めて見る大きなスマホみたいなその無機質な立ち姿に、私は見事に怖気付いた。
だって、注文は口頭で一対一だと何の根拠もなく、頭から信じていたのだ。
怖気付いたが、あんなに楽しみにしていたんだからと思えばそのまま立ち去るのも気が引けて、意地でパネルの前に立った。
立ったは良いが、頭は既に軽いパニック状態になっていて、とてもではないが冷静ではない。
気持ちはあるから冷や汗をかきながら、もたもたとあちこち押したりしてみるのだが、欲しいメニューを出すにはどうしたら良いのかすら分からないまま、背後の人の気配に勝手に急き立てられ、ついに会計まで行き着けないで、スゴスゴと店を去るしかなかった。
そういうわけで、私が念願のバーガーにありつけたのは2度目以降のことになった。
1度目の気まずさが胸にあるから躊躇はあったが、それでも私はどうしてもあのゼッテリアで、バーガーを注文し、食べたかった。
2回目。店に入るまでに少し勇気がいったが、初日から幾日か過ぎていたのと、たまたま昼時から外れたのとでそれほど人気がなかったのが幸いして、なんとか件のパネルの前に立った。
もう一つ幸いだったのは、隣に人がいることに気づいたことだ。パネルは横並びに二台設置されていた。
まごつく私の横で、いかにも若い娘さんらしい白い指先はパッパッと画像を選び、そうしてあっという間に注文を終えて、傍の小さな機械から何やらレシートを取り上げた。
なんだ。そうか。なーんだ。
別に難しいことなんて最初から何もない。回転寿司のパネルが縦になってただ大きいだけなのだ。
それで、兎にも角にも念願のバーガーセットが買えた。
ロッテリアとゼッテリア。記憶と今とどう違うのか。少しドキドキしながら包み紙を開ける。
噛み付いて、まず、バンズのふわふわとした歯ざわりに驚いた。パンの表面が優しい卵色をしている。
肉の上のチーズからゴルゴンゾーラみたいな味がして、濃い。肉は昔ーーー10年近く前にロッテリアで食べたのより薄く感じたが、その分前食べた時よりチーズのコクが深くなったように思われた。小さいが、むしろそれで良い。美味しい。そう思える贅沢な美味しさはスピンオフされる前と同じ。記憶通りだ。
半分ほど食べて、ポテトをつまむ。
昔ロッテリアで食べたのより、随分と細い。頼りない細さに少しガッカリしたが、食べ出したら今度は手が止まらない。美味しい。これは、むしろ好きな感じだ。サクサクした小気味好い歯ざわりと塩とは違う濃いめの味付け。サイズアップしなかったことを後悔するほど美味しかった。
コーヒーがフェアトレードというのも良い。苦すぎず濃すぎない丁度いい味と相まって、何も自分が良いことをしたわけでもないのだが、このコーヒーを作った人とゼッテリアの間にはウィンウィンの取引が成されたのだと何となくそう思うだけで、何だかんだ気分が上向く。
お腹が満ちてくると、店内が目に入った。
ふと視線を落としたテーブルの表面が照明に照らされた拭き跡でキラキラとしている。そう思ってふと見れば、床もピカピカで、一つも食べカスが落ちていなかった。
それから何度も足を運んで、今ではパネル式の注文も難なくこなせるようになった。何なら人に教えられるくらいである。
今日はどうしようかなとタッチパネルの前に立つ時、最初の緊張感が嘘のようにリラックスして楽しんでいる私がいる。