1章6話 球技大会 後編
日差しに恵まれた球技大会の午後は暖かったが、日が沈みかけるころには気温がぐっと下がった。暖められた地面は急に冷たい顔を見せ、秋の終わりを告げている気がする。
同じ二年の柿沼、戸ヶ崎、須賀の四人でジャージのまま遊びの練習をして、あっという間に時間が過ぎていった。すっかり球技大会を忘れかけたところに同学年の部員、蓮見が嬉しそうに駆け寄ってきた。
「俺のところ、ソフト優勝したぜ。いぇ~~い」
「マジかよ。お前、どんだけ打ったんだよ」
「へへん、決勝でホームラン二本。どやっ!」
「何がどやっ、だよ。お前スイッチヒッターなんだから、打てて当然だろうが」
「ルール決めたのは俺じゃないので~」
うちの野球部で唯一のスイッチヒッターである蓮見は、普段は一番で長打よりは何とか塁に出てかき回すタイプ。上背もなく、チーム一の俊足と二塁の守備がアピールポイント。それでも普通に打席に立てば、遅いソフトボールをホームランするくらいの実力は当然ある。
「あのルールってことはだ。監督は蓮見の存在を忘れてたか、打てないだろって思われてたんじゃないのか」
俺は意地悪く言った。
「それだ」「だな」と他のやつらも悪乗りする。
「えっ、待って?・・俺ってもしかして存在感薄い?・・最近監督、俺になんも言わないし、めっちゃ気にしてたんだけど」
俺たちはニヤニヤ笑って頷く。
「ってそんなわけあるかぁ‼」
「はは、乗りの良さは一番打者向きだな。俺が保証する」
ははは、と落ちが付いたところで、軽く決勝の試合展開を教えてもらった。
「そういえば、女子の決勝、ちょい遅れて始まったけど。矢上のクラスだよな、藍川さんいたんで」
「えっ、マジで。決勝に残ってる⁉」
応援に来てねという言葉を忘れていたわけではないが、決勝まで勝ち進んでいるとは思わなかった。俺は「行ってくるわ」と仲間に伝え、少しスピードを上げてグラウンドに走った。
今日一日、グラウンドを照らしていた陽光はようやく役目を終え、校舎裏に隠れ始めていた。球技大会の終わりを暗に示すように薄暗くなってきている。
俺がグラウンドに到着したときには、女子の決勝はすでに最終回を迎え、試合の大勢が決まっていた。
移動式の簡易スコアボードを真っ先に見た。先攻の二年三組は6点。後攻の三年二組・・・・は2点と書き込まれている。序盤に3点取って先制し、その後追加点で突き放している。相手の三年二組は四回に2点と反撃を見せたようだが。
うちの男子が集まっている一塁側に駆け寄った。
「おう、矢上、おせーよ。藍川さん、めっちゃ大活躍だぜ」
午後の試合でのダイジェストを片岡は手短に教えてくれた。藍川さんは午前を含めてホームラン四本、決勝でもスリーランを打って、全て出塁。守りは打たせて取るを徹底していて、決勝まで逃げ切ってきた。
そして、決勝、最終回もランナーなしで・・・今、目の前で最後のアウトを取ろうとしている。
赤ジャージのバッターはジャストミートしたが、ピッチャー正面のゴロ、藍川さんはキャッチして一塁送球。スリーアウトで勝利となった。
MVPなんてものがあるのか知らんが、もしあったら、間違いなく藍川さんが選ばれるだろう。女子でホームランって経験者でないとまず無理だ。当初の俺の予想に反してうちの二年三組が女子ソフト優勝。文句なしで有終の美を飾った・・・かに思われた。
グラウンドで抱き合って喜ぶ女子たちを傍目に、一人の赤ジャージの女子生徒が球審の野本と話している。三年二組の・・。
その女子生徒は女子バスケ部の元主将、斎藤先輩。きりっとした目に黒の短髪ストレート、身長は藍川さんと変わらず170ぐらい、凛とした雰囲気はいかにも主将っぽい。
その様子に三年側のチームやその応援、野次馬の生徒も含めて、ざわざわと騒ぎ出した。藍川さんたちもそれに気付き、野本と斎藤先輩のいるホームベース付近に集まっていく。俺と片岡も、示し合わせたわけでもないが、駆け寄った。
「うちが負けたのは認めます。だけど、一つ良いですか?」
強めの口調でうちの女子たちに向かって斎藤先輩は続けた。
「藍川さんが打席で使っていた手袋みたいのはフェアじゃないと思うの」
「えっ」と皆が驚くが、誰も続く言葉を発せられなかった。
「男子のソフトボールでは、野球部で付けてる人いなかったはずよ」
そりゃ、ガチで参加するのは、カッコ悪いっていうか、平等じゃなくなる。それに右打ち用と左打ち用がある。だから、蓮見以外は持ってすらいない。
「これ、ですよね」
ジャージのポケットからバッティンググローブを取り出し、小声で確認を取る。さっきまでの笑顔が消え去り、その表情は不安に満ちている。
「そう、それ。さっき、スマホで調べてもらったら、強く握れるからか知らないけど、飛距離が伸びるって書いてあったの」
「でも、バスケ部はバッシュ履いてやってましたよ」
片岡が横から茶々を入れた。
「球技大会のルールには、バスケでのバッシュはOKと記載がある」と野本が即答した。
おいおい。相手の肩もってんじゃねぇよ。野本は陸上部女子の顧問だ。バスケ部は関係ねぇが陸上部と野球部は犬猿の仲。くそっ、もしかして俺がいるからか?
「まじか~~、細かいルールなんて見てねぇよ」
大袈裟にリアクションするが、場の空気は変わらなかった。
「ソフトのルールにはバッティンググローブの記載はあるんですか?」
俺は野本に訊いた。
「記載はない。ソフトは今年からバレーボールの代わりに始めたもので、細かいルールは年々固めていくことになっている」
続けて俺たちを追い詰めていく。
「もし、飛距離が伸びるのであれば、今後ルールには記載必要だろうな」
それって、『今回、有利になったこと』を認める流れじゃねぇか。んだよ、それ。
遅れてグラウンドに来たことを俺はいまさらながら後悔した。バッティンググローブで伸びる飛距離はせいぜい数メートル。藍川さんが決勝で打ったというホームランがどれだけ飛んだか・・・・。
もし、ギリギリ入ったホームランだとしたら、こちらが不利か。バッティンググローブが無かったら入ってねぇじゃんって事になりかねない。
ほんの十秒ほどだが、長く重たい沈黙が流れた。野球道具って事でまともに議論できるのは藍川さんか俺しかいない。
俺は一度、ごくりと唾を飲み、意を決して口を開いた。
「確かに、バッティンググローブを使うと数メートル飛距離が伸びます」
ざわつきが俺のクラスから起こる。
「だけど、それはバッティンググローブを嵌めて、何百、何千とバットを振って、それで初めて飛距離が伸びます。何もしてこなかった人が、急に付けたからって、飛距離が伸びるものではないです」
斎藤先輩と野本は口を挟まず、俺の話に耳を傾けている。
「それに、普段バッティンググローブを付けている人が、急に外すとスイングや感覚が微妙にズレるっていうか。飛距離どころか、振り遅れたり、芯を外したり」
藍川さんの手を見ながら続ける。
「・・使い込んだそれを見たら、俺が何を言いたいのか分かってくれるかと」
斎藤先輩は薄暗くなる中、じっとバッティンググローブを見つめて、小さくうんとうなずいた。
「逆に本来の力を発揮できないってのは分かる。バスケでマイバッシュが無かったら、動き辛いもの」
しばらくの沈黙があったが、先輩自ら口を開けた。
「やめやめ。なんか私が後輩いじめてるみたいになっちゃったじゃない」
俺は安堵で胸をなでおろす。が、まだ納得いってないってのは明白だ。
「先生。整列とゲームセット、お願いします」
斎藤先輩はもう終わりにしようと野本に声をかけた。
「選手は一列に並ぶように」
先輩の要望に野本がやれやれと言った表情で両クラスの選手たちを並ばせた。
礼!と野本の合図に、「ありがとうございました!」と続く。
最後はお互いの健闘を称えた握手。恒例の儀式は毎試合必ず行われていた。
どんなにがんばっても負けるときはある。誰でも知っている残酷な事実。そんなとき、悔しくて負けを認めたくないって言えるのは、努力してきた者に与えられた最後の特権。斎藤先輩はそれを言っていい。
この二週間、三年二組は毎日野球部から道具を借りて練習していた。そして、どこよりも遅くまで練習をしていた。俺が言えた立場じゃないが、勝つべきチームだったと今でも思う。部活を引退したとは言え、なぜ、受験勉強の時間を削ってまでそこまでするのか不思議に思っていた。
そして、敗北した三年二組の姿は、まるで鏡が映し出す野球部の姿かもしれない。平日も土日も遅くまで練習している俺たち。そして、斎藤先輩の女子バスケ部も同じように。
部活で最後まで残り、部室の戸締りが終わると、帰宅するために真っ暗な自転車置き場に行く。二十二時ごろの自転車置き場は決まってガラガラ。自転車は数台しかない。そこで、先輩と何度かすれ違ったことがある。ちゃんと話すことはなかったが、軽く頭を下げたり、お疲れっすと挨拶だけするようになった。
そんな女子バスケ部は、例年通り大会で結果を出せず、三年生は静かに引退していった。未来の俺たちを見ているようで、やるせない気持ちになる。
俺はどちらかというと、そっち側にいる。だけど、それでも・・・・キラキラと眩しい活躍の裏で、藍川さんの今日のがんばり、今日までの努力は決して負けてはいない。
列の先頭に立つ藍川さんと斎藤先輩の両名が握手を交わした。
間違ってはいない。才能に負けたわけじゃないんだ。気持ちが分かるからこそ、それに気付いて欲しい。俺自身に言い聞かせるようだった。
「えっ!」
小さい声が斎藤先輩の口から漏れた。何かに愕然とする。先輩の視線はすぐに、握手している右手の一点に向けられた。耳に引っ掻けていた短い髪がハラリと落ちる。
横に並んでいた面々も何事かと目を向けた。先輩は呆然としている。まるで、この世のものではない何かを見てしまったような。先輩はゆっくりと左手を伸ばすと、藍川さんの白く細い右手首を優しく持ち、ゆっくりと自分の右手を、まるで閉じた宝石箱を開けるように震えながら離した。
先輩だけじゃない。俺も、近くの面々も、明るみに出た藍川さんの手の平に視線を向けた。
開かれたその手・・・・それは痛々しい手だった。
指の付け根の位置、人差し指から小指までの四箇所は遠目でも分かるほどに固くなり、少し黄色く変色している。中指の付け根部分に至っては皮が擦れて紫色が滲んでいる。小指の付け根から手首のラインにかけて内出血による薄紫の線ができていた。親指の第二関節付近には目立たない透明色の絆創膏が貼られている。
表は透き通るような青白い甲と細く長い指。しかし、裏は目を背けたくなるほど彼女に全く似つかわしくないマメだらけの手。
「ちょっと、ナツキ!その手、どうしたのよ‼」
「このぐらい、平気平気。ただの素振りしすぎだって」
斎藤先輩は目を大きく見開き、呆然としていたが、左手をそっと離すと逃げるように三塁側に踵を返す。が、三歩ほどですぐに立ち止まり、こちらに背中を向けている。
俯いて、その場でじっと立ち尽くし、その背中・・いや、全身が震えていた。
何も言わずに帰ってくれることを期待していた。マメのことは知っていた。だが、言わなかった。先輩に恥をかかせる必要はない。
だが、失敗したか?ふざけんなってブチギレられるか?
なぜ、すぐ反論しなかったのかって。手を見せれば一発で何も言えなくなるのにって。
逆効果になったのではないかと、後悔が次第に大きくなっていく。
「おいおい」と何も事情を知らない片岡が藍川さんと先輩の間に割って立つ。すまん片岡、何かあったら俺も。
そして、先輩はゆっくりとこちらに振り向いた。俯いたたままだが、口元は何かに耐えるように歯を食いしばっている。
「ご・・・・」
先輩から声が漏れる。片岡含め緊張感が走る。
先輩・・・・。
「っ、ごめんなさい‼‼」
静寂の中、声が響いた。誰もいない外野にまで届いたんじゃないかと。
状況を呑み込めていない奴らも一斉に声の主に注目した。
「私たちの努力が・・足りなかった。負けて当たり前だった」
改心した彼女の言葉が俺の心を打った。
「それに、三年だからって私・・・・私・・酷いこと言ってた!・・ごめんなさい‼」
深々と頭を下げ続けた。
さっきまでの言動があった後で、その素直な行動を俺だったら取れただろうか。
「ええっ、どういうこと⁉」
大多数がこの片岡と同じことを思っただろう。
「先輩!わたしなら気にしてません!だから謝らないでください!」
「・・・・藍川さん」
ゆっくりと上げた顔は申し訳ないという気持ちで一杯なのが分かった。
「試合、楽しかったです。またやりたいです」
「許してくれるの。・・・・ありがとう」
そして、二人は歩み寄り、二度目の握手をした。二人とも両手でお互いの努力を讃えるように優しく包み込んでいる。
一言二言、二人は何かを話し、斎藤先輩は三塁側に戻っていった。その途中、俺たち一塁側にぱっと振り返った。
気のせいかもしれないが、俺のことを見ている気がした。
「がんばれーー‼」
右手を大きく振って叫ぶ。その声はさっきの悲痛な声とは真逆で暖かさがあった。
そして、勢いよくまた振り返り歩き出した。力強く前に踏み出される足取りを俺はじっと眺めていた。
翌日、俺たちの教室の後壁に「球技大会 女子ソフトボール優勝 二年三組」の小さな賞状が張り出された。
ど真ん中に張り出されたそれは、俺たちを見下ろすように堂々と輝いていた。
♪♪♪
閉会式が終わり、教室に戻るとクラスのやつらはゾロゾロと一斉に帰宅を始めていた。
「藍川さん、ちょっと両手見せて」
「あはは、ちょっとがんばりすぎたかも」
恥ずかしそうに両手を差し出す。
「ん~~。ちと酷いな。テーピング巻いた方がいい」
手持ちのテーピングをバッグから取り出すと、彼女の手をとり、指の付け根部分をぐるっと巻いた。
「うん。ありがとう」
「これじゃ、どっちがサポーターなんだか」
「はい、精進します」
「ああ、いや、冗談なんだけど。仕事でこんなことやらないでしょ」
「あはは、矢上君でも冗談言うんだ」
「ん~~、まぁ片岡いないときはな」
残ってる生徒は少ない。もうみんな帰ったか部活に行ったか。
静かに感じる教室でしばしの沈黙が流れる。その中心で彼女の左手、右手にテーピングを巻いていく。
「ねぇ、もしかして、気付いてた?」
彼女が沈黙を破った。
「・・何日か前なんだけどさ。休み時間に寝てたとき、チラッと見えて・・」
「そっか。心配かけるから見られないようにしてたんだけどなぁ。それに・・」
「それに?」
「秘密特訓」
薄い笑顔で答えた。
「もしかして、真似した?」
その答えとして彼女は小さく微笑んだ。
そんな話をしてるうちにテーピングでの応急処置が終わった。
「そういえば、矢上君はマメできてる?」
グルグルと巻かれた両手をグーパーしながら、聞いてきた。
「ああ、こんな感じ」
引き手の左手を開けて見せた。
「ええっ⁉、ちょっとしかできてない!固いあとはあるけど・・」
がしっと両手で掴まれ、指の付け根あたりをぷにぷに押された。
「えっとね、マメってスイングが悪いとできるんだよ。変なところに力入ってたり、うまくグリップ握れてなくて、隙間があったり。って聞いてる?」
「つまり、わたしのスイングが・・ヘタだと」
憮然とした表情。それに藍い瞳が灰色に濁っていく。
「あっ、いや、誰でも通る道だから」
「ひど~、全然フォローになってない‼それが女子に言うセリフ?応援にも来なかったくせに~」
オーバーアクション気味に指をさされた。
「やべ、気付いてた。んじゃ、俺、部活なんで」
「こらぁ~~~~」
そそくさと教室から脱出を試みる俺に向け、彼女の声が廊下まで響いた。
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