2章4話 埼玉ドーム 前編
埼玉ドームは埼玉県所沢にある埼玉レオネスの本拠地球場である。交通の弁は良くなく、とにかく移動に時間がかかる。俺たち県北に住む県民は埼玉から一度、池袋に出て西武池袋線で向かうことになる。
俺や藍川さんなら電車だけで二時間。気軽に観戦に行けないのが残念なところだ。良いところを挙げるとするなら、ドームと駅がほぼ直結しているため、それほど歩かなくて良いぐらいか。
五月後半の土曜日、藍川さんと二人でデーゲームの東北クリムゾンレッズ戦を観戦することになった。せっかくの現地なので、先発や一軍登録選手、相手チームのことが真っ先に気になるところだが、藍川さんと二人っきりということで気が気でない。
――――「お願いがあるの・・・・野球、一緒に観に行きたい」
あの言葉が頭の片隅にずっといる。部活で集中しているときは良いが、何もしない時間ができると、はたと思い出す。
あの後、学校ではやや避けられてる気がした。昼飯食べているときもなんとなく視線を逸らされてる。野球の会話は変わらずちょくちょくするんだけどな。
そもそも藍川さんはなぜ俺を誘った?
単純に野球を観に行きたいから?それはないな。何度も仕事やプライベートで現地観戦に行ってることは普段から聞いている。
俺である理由あるのか?俺のことを好きになった?・・とか。ゼロではないんだろうが。
――――「気持ち!伝わってるに決まってる‼」
涙で潤んだ瞳に、真剣な眼差し。そして力強い声に圧倒された。
だけど、あの日はなんていうか特別だったと思う。
もし、あの日がきっかけだとしたら、それは・・・・気の迷いじゃないか。俺もちょっと感傷的なっちまったし・・。
それに、あの日じゃなかったら・・教室で野球観戦に誘われるイメージが沸かない。今まで散々野球話をしてきたが、観に行こうなんてのは一度もない。
レオネスの公式サポーターとして世間に定着している藍川さん。彼女の日々の努力もあり、仕事はうまくいっていそうだ。
そんな藍川さんは好きな人や彼氏はいるのだろうか?今まで考えたことなんてないって言ったらウソになる。睡眠削ってがんばってるぐらいだから、彼氏作る余裕なんてないはず。いやいや、それはただの願望。確信的な情報は何一つない。
それに、仕事で出会いがあるだろう・・。それこそ藍川さんだったら、レオネスの選手なんか理想的じゃないのか。球団関係者として自然と選手に近づける。
藍川さんの彼氏か。
彼女が楽しそうに野球の話をしているのが瞬時に目に浮かぶ。綺麗な濃藍の瞳を彼に向け、笑顔でやや興奮気味にプレーを熱弁している。男はうんうんって相槌を打ちながら、笑って聴いてあげて・・。
ってなんか想像できるな。彼氏役はもちろん、俺ではないんだけど。
――――「ねぇ、矢上君って身長いくつ?」
――――ん?・・・もしかしたら理想の身長差的な話だったりするのか?
そういや、彼女と話すようになった去年の二学期、そのときの俺は彼女を色んな意味で意識していた。才能への嫉妬も大きいが、美人でそれでいて野球の話をしてるときの笑顔が輝いていて。だけど、すぐに野球友達的な目で見られていると分かって、意識をしなくなっていった。
いや、意識しなくなったのではないな。自分の意思を無にしていた。
俺はいつも野球中心に生きていて、そこから外れたコトは極力関わらないようにしている。
外れたコトの定義は変わりうるが、それでも『好きな人』や『彼女』は不要なコト。
自分の欲望すら外に追いやっている俺からすれば当然の対応。
野球に全てかけるために、俺はそんな生活を何年も続けている。
俺は待ち合わせ場所である湘南新宿ラインのホームに到着した。俺たちの最寄り駅が一駅違うので、乗換えに使う久喜駅で待ち合わせしようとなった。
土曜だが、まだ昼前というのもあり、人はちらほらとしかいなかった。
「矢上君、おはよ」
と後ろから声をかけられた。
「おは・・よ」
振り返ると名前が出てこないがおしゃれな紺の帽子にマスク、黒のロングスカートに動きやすそうな黒のサンダル、白のTシャツにカーディガン。それに大きめのバッグ。
「ん、変かな」
と藍川さんは自身のコーデを見渡した。
「ごめんごめん、一瞬誰か分かんなかった」
「あっ、そっか。マスクしてたの忘れてた」
並んで歩き、誰もいない五番のりばで荷物を降ろす。
『ほらっ』と帽子を取り、次にマスクを外して俺に向けて笑顔を作る。
その動作にドキッとしてしまう。俺を見上げるその顔は良く見慣れたはずだし、意識しないようにしてきたわけだが。
「あれ、反応いまいち」
「目元・・」
「あ、ちょっとだけメイクしてるよ。矢上君でも気付くよね~」
照れて顔を赤くしているが、正直俺の方が赤いんだろう。
「ああ、そっか、学校じゃなきゃ、OKなのか」
俺は恥ずかしさで視線を地面に落とした。
照れすぎ・・・。こんな調子で野球なんて間が持たない・・。片岡か滝沢さんがいれば・・。
「でもわたしだって、矢上君が私服だから分からなかったよ」
「・・そう?」
「身長で分かった。でもピンクのシャツは意外で。あれっ、違うかもってなった」
「はは、イメージと違うか。とりあえず、藍川さんと色が被らなくて良かったよ」
「あはは、お揃いは恥ずかしいね。でもそれはねぇ、大丈夫」
大きめのバッグを開け、なにやら探している。束になった選手タオルがチラッと見える。さすがガチ勢。
「レプリカのユニフォーム持ってきてるよ」
タオルの奥から引っ張り出したそれを俺にジャーンと見せる。ホーム用の白基調ユニフォーム、背番号1。
「ああ、藍川さんが着れば、被らないわけか」
「えっ、違うよ。これは矢上君の。わたしは武中選手のあるから」
「おお。ん?」
「しかも、わたしのは特注のビジター用だから並んで座っても恥ずかしくないと思うよ。あと、矢上君のはちゃんと大きめサイズ」
「さすが・・準備良すぎ」
相変わらずのレオネス愛で押され気味になる。
「矢上君は何か持ってきた?」
俺の小さ目のバッグを見つめて言った。
「フラッグだけ」
「なるほど。じゃあ、選手タオル持つの手伝ってね」
「はいはい、りょーかい」
構内アナウンスがあり、湘南新宿ライン逗子行きが到着する。
一時はどうなるかと思ったが、野球話になっていつもの調子になり、俺は安堵した。
「座れてよかったぁ」
「だね。そういえば、今日はマスクなんだ」
「一応、変装」
俺はラジオぐらいしか聴かないのだが、雑誌や記事で当然のように顔も出している。この間、滝沢さんが藍川さんがテレビに出てたことを興奮して話していたっけ。
「そか。バレたりするもんなの?」
「この前、埼玉ドームで見つかっちゃって。三十分ぐらい写真撮ってた。次から次に人が集まっちゃって」
「そりゃ、災難。ホーム球場って一番ファンが集まるからなぁ」
「そうなの、交流するのも仕事だから断りたくないし。だから、プライベートではこっそり観戦したいの」
マスクを両手で抑える恰好をする。
「そういえばさ、そのマスク、藍染?」
「あっ!うん、そうなの。びっくりしたぁ!良く分かったね!」
珍しく野球以外でハイテンションな反応をした。
「濃い紺色だけど、ちょっとだけ白っぽいムラがあるから」
「そうなの。それにしても、矢上君が藍染を知ってるの驚いちゃった。何で知ってるの?」
「ああ、前に片岡から服装にこだわりをひとつ持てって言われてさ。それで海外のローカルファッションとか検索してたら、巡り巡って地元の藍染に辿り着いた」
「何それ、面白い!」
「ただ、買おうとしたらめっちゃ高くてさ、一度諦めたんだよね。だけど、ふるさと納税っていうやつで親に買ってもらえたんだ」
「ええっ!!そんな裏技があるんだ。・・んん?それで何を買ったの?」
「ああ、これっ」
藍川さんから預かってた大きなバッグ。膝に乗せていたが持ち上げて胸に抱えた。
「ジーンズかぁ。気付かなかったぁ」
「オーダーメイドで気に入ってる」
「へぇーー、キレイ!」
彼女の左膝が俺の右膝にこつんとぶつかる。バッグで膝元が見えないが、彼女の手が俺の右太ももに置かれる。
生暖かい感触とくすぐったい感触。変な意識に染められそうだ。藍染なだけに・・って俺は片岡か。
「・・くすぐったい」
「あっ、ごめんね。・・わたし、藍染けっこう好きなんだ」
触ったのは無意識だな、絶対。
「わたしたちの住んでるあたりの藍染って武州藍染っていうんだけど、何百年も続いている伝統工芸なんだって。わたしの近所でも作ってるところがあって、小学校のころ職場見学で行ったことあるんだ」
「へぇ~」
「実はね、8月にレオネスと藍染のコラボイベントやるんだ。わたしと涼羽さんは藍染浴衣を着てファンミするんだ」
「ファンミ?」
「ファンとの交流ね。あと、企画のアイデア出したの実はわたしだったりして。藍染のグッズも販売するから地域活性化?にも貢献できそうなんだ」
「おおっ、企画?なんかすごいね」
藍川さんの頑張りっぷりには驚かされる。
「えへへ。公式サポーターは野球ファン増やすために、地元を盛り上げるの期待されてるからね」
野球ファンを増やすためか。なんとなく野球人気に貢献しているとは思っていたが、そう言われるとなるほどと腑に落ちた。
「そういえば、セ・リーグで四国とか北陸の公式戦増えたけど、それも関係してる?」
「うん、さすが矢上君。セ・リーグのファーム担当のサポーターさんたちがかなりがんばったんよ。熱心にイベントやって観客数が見込めそうってことで開催に漕ぎつけたみたい」
「ファーム担当なのにすごいね」
「どちらかというとファーム担当のほうが地域密着でがんばってるよ」
「へぇ~、そうなんだ。負けてらんないね」
「もちろん!藍染のファンミは成功させないと!」
「そか、ファン増えるといいね」
「うん、がんばる!」
野球ファンを作るために各球団の公式サポーターががんばっているのか。藍川さんのように野球愛のある人ばかりなんだろうなと想像した。
「そうだ、矢上君は、藍色って何種類あるか知ってる?」
「藍色?・・1種類じゃないの?」
「ハズレ~。実は48種類もあるんだよ。紺色も藍色の一つ」
「そうなんだ。紺色って良く使うし」
「ふふん、わたしの苗字にもあるから藍色は大好き!」
「レオネスも濃い紺色で綺麗だし、俺も藍色は好きかも」
ふと見た彼女の藍眼を見て言ってしまった。まるで、彼女の瞳に好きと告白してしまったような。
「レオネスは色んな青を使うよね。・・ん、どうかした?」
「いや、なんでも」
照れた俺に意識するなと本能は警告していた。
試合開始の13時ちょっと前に到着した。俺たちは寄り道せず、頂き物のチケットがあるからというのでそれで入場した。
昼飯も彼女が『軽食を作ってきたよ』ということで、ご馳走になることになり、おんぶに抱っこと男としてやや情けない。
良いとこ見せたいとかは思わないけど、気を遣わせっぱなしはさすがに悪い気がした。
チケットで入場すると、すぐに独特の熱気が感じられ、気持ち良い。
ここ埼玉ドームの夏は蒸し暑い。かといって、春先やシーズン終盤では寒さで息が白くなるほどだ。屋根がある野外球場と誰かが言っていたのは的を得ている。そんな埼玉ドームで快適に観戦できるのはまさに今頃。周りの観客も同じことを思ってるかは分からないが、子供連れの家族が多かった。
「そこの階段降りて、真ん中より下ぐらい。先行ってて~」
バックスクリーン裏側にある入場口からドーム内に入り、三塁側メインコンコースを進み内野席まで来たところで彼女と別行動。とりあえず席の確保と荷物を置いて、入れ替わりでレプリカユニフォームに着替えようと示し合わせていた。
頂き物だというチケットの席は三塁側ホームの内野席だった。ちょうど三塁ベースが目の前にあり、かなり良い席。しかも、通路階段から右に一つ目二つ目と移動も楽。ネット予約だと真っ先に無くなる位置だろう。
試合はちょうど始まったところで三塁側はレオネスファンで埋まりつつある。俺たちの一つ前の席でも小学校に上がったぐらいの男の子とその母親が既に観戦に集中していた。
しばらくして、藍川さんと入れ替わりでレプリカユニフォームに着替え、ようやく並んで着席。
「今日は投手戦かもね。成橋投手と広本投手、どっちも調子良さそう」
彼女は大きなバッグから小さなバスケットを取り出し、昼食の準備をしはじめた。
「だね。どちらも一回をノーヒットピッチングか」
「応援の前に軽く食べよう。サンドイッチ作ったんだけど、矢上君の栄養を考えて・・・」
二段になっているバスケットの一つをぱかっと開ける。
「じゃーーん。たっぷり野菜のアボカドチキンサンド~」
「おお~~、すげぇ。かなり本格的」
名前が出てこないが堅めのパンに、アボカドやレタスといった緑色、トマトの赤色、それにチキンの白色が挟みこまれていて彩りが鮮やかに食欲をそそる。
「こっちは、ブロッコリーとエビが入ったみんな大好き卵サンド~」
もう一つのバスケットには、ブロッコリーの緑、卵の黄色の二色を並べて挟んだサンドイッチ。美味しそうなのはもちろん、見た目も鮮やかでかつ上品。
「めっちゃ美味しそう!こっちは芸術点高いし」
「ほんと?良かったぁ。食べてみて~」
「じゃあ、アボカドいただくよ」
一口食べると、アボカドのとろっとした食感と対照的に、食べ応えのあるチキンにパリッと気持ち良いレタスが相まって食感が楽しい。味は主張の強い甘辛なチキンをアボカドのクリーミィさが包み込むことでパンやレタスの味を邪魔せず、噛む度に多彩な味の変化を生み出している。
「めっちゃ、うまい!」
軽食と言っていたが十分な主食に俺は満足した。
「全部わたし一人で作ったんだよ」
「おお~。料理できるというか、得意なんじゃない?」
「お店でお母さん忙しいときはけっこう料理してるからね。あっ!矢上君に太鼓判押されて、自信が確信に変わりました」
「はは、ネタがちょっと古くない?」
「生まれる前だよね。でも矢上君、知ってるんだ~、さすがレオネスファン」
彼女が言う通りサンドイッチは栄養を意識した具材を使っている。チキン、ブロッコリー、エビはタンパク質が多い。アボカドは良く知らないが、女性が好むイメージなのできっとこれも栄養価が高いんだろう。俺はかなり栄養意識した弁当を作ってもらっている。普段一緒に昼飯を食べているし、前に栄養気にしてるは言ったことがある。知ってくれていたとしても、彼女の気持ちは嬉しい。
今日、何を作るか、けっこう悩んだんじゃないかな。
周囲には球場グルメを買って食べているファンが多い。
美味しそうに見えはするが、球場グルメは俺にはいらないなと思った。
「ねぇ、矢上君。後でスイーツ、一緒に買いに行こう。スイーツコンプあと少しなんだ」
「・・・・りょーかい。・・甘いものはノーカン」
「ん?」
彼女は不思議そうに首を傾げた。
試合は0対0でヒリヒリする展開だった。今年は東北復興をスローガンにしているクリムゾンレッズが開幕から強く、2位ファルコンズに4ゲーム差つけて首位を独走中。選手だけでなく監督、コーチ陣やファンから気迫のようなものを感じる。
一方、レオネスは開幕カードこそ三連勝を飾ったが、その後はカード負け越しが多く現在は4位と冴えない。
今日は首位クリムゾンレッズを迎えての試合だが、両チームとも早打ちが目立ちゲーム進行が早かった。
応援のほうはというと、俺がもっぱら選手タオルを掲げ、藍川さんが手拍子や小さいメガホンを手に選手の応援歌を歌っている。
俺はチャンテの歌詞はうる覚え、選手応援歌は所々分かる程度。そんな俺に比べ、完璧に歌える彼女はやはり凄い。本人は『応援する気持ちがあれば十分』、『内野席でじっくり観るのが好き』っていつも言ってるが熱狂的なファンが集まるレフトスタンドでの応援も全く問題ないだろう。
そして、試合中の彼女は応援に集中していて言葉数が少ない。俺もどちらかというと特定の選手のプレーに注目したいので、観戦スタイルが似ている。俺がショートなのもあるが、自然と内野のプレーに目が行く。
特にレオネスのショート壮田選手は大胆なポジショニングをしていて目が離せない。捕手のサインはもちろんのこと、ピッチャーの出来、相手バッターの打球傾向や今日の結果、ランナー、カウント、点差あたりを考慮していそうだ。それが、どんずばで当たることが多く、三遊間を抜けるヒット性の打球を深い位置で捕りセカンドにジャンピングスローでアウトにしたり、センター前に抜けるゴロをセカンドベース後方で追いつき、絶妙なトスでセカンドフォースアウトにする。どれも超ファインプレーだが、打球反応だけでは追いつけない。ポジショニングとセットでギリギリアウトにしている。
生で見るポジショニングや追い方はめちゃくちゃ勉強になる。といっても、簡単に真似できる代物ではないのは言うまでもない。
試合は四回裏に入り、二番から始まる好打順。先に先制点を挙げたいところ。だが、二番三番と簡単に打ち取られ、三塁側からはため息が漏れた。広本投手相手になかなかランナーを出せない。
「お願い、打ってーー」
両手で拝み、彼女の祈るような声が聞こえた。彼女の祈りを受けて背番号60のユニフォームを来た四番の武中が登場曲と共にゆっくりと打席に入った。
武中はベテラン選手で、俺が生まれる前からレオネスでプレーをしている。レオネス一筋二十年の生え抜きで六度の本塁打王に輝いたレジェンド。年齢的な衰えはあるが、それでも打席に立ち続けられるのはレジェンドゆえ。その独特な力感のない打撃フォームに目が釘付けになる。
第一打席は三振だった。150キロ台のストレートでカウントを取られ、二-二から変化球で三振。決め球の球種はこっからでは判断付かないが、広本投手ならフォークかスライダーあたりか。
第二打席はどうくるか。俺は選手タオルを左右に広げながら投球の組み立てに注目した。
初球はストレートが外れてボール。150キロ台の球速で勢いが衰える兆しはない。
レオネスの早打ちで球数が少ないのもあり、ここまで真っすぐでどんどんカウントを取ってくる。ここもまっすぐ続けてくるか。
二球目が投じられるとカーンと快音が響いた。木製バット特有の濁りのない甲高い打球音が球場に響いた。
「行ったぁーー」「いけぇーーー」
俺たちは同時に立ち上がり、声を上げる。打球は高々と舞い上がり、長い滞空時間を経て、ファンの待つレフトスタンド中段に入った。
「やった!すごい!すごい‼」
飛び跳ねながら俺の左腕をぐっと掴んで藍川さんは喜ぶ。
「マジ、すげぇよ。武中」
彼女も俺もすぐにダイヤモンドに目を向けた。打った本人は表情一つ変えずにゆっくりとベースを周る。あまり感情を表に出さない武中らしい。
球速は140キロ。まっすぐじゃなかったのか。変化球が甘く入った?抜けたか?
ホームインしてレオネスの得点テーマが流れる。俺たちは着席して、タオルとメガホンからフラッグに持ち替えると左右に振った。フラッグを振るファンたちが一つになりレオネスを祝福する、この瞬間はいつも胸にぐっとくるものがある。そして、やっぱり俺はレオネスが好きなんだなって再認識する。
ふと、藍川さんを見るとハンカチを目に当てていた。
「ごめんね、いつも泣いてるわけじゃないんだよ」
俺は彼女の言葉を待った。得点テーマが終わり、ゲームは再開したが、しばし応援の手を止めた。
「わたしね、小学校三年生の時、初めて球場に来たの。お父さんに連れられて」
俺は黙って彼女の話を聞いた。
「そのときにね、初めて見たホームランが武中選手だったの。そのときもね、レフトへの大飛球。打球を目で追いながら、『わぁ~!すっごーい!』ってはしゃいでたの今でも覚えてる。その時のわたしには、武中選手がヒーローだった。優しそうで、サードの守備は気だるそうなんだけど、それが可愛くて、でもすっごいホームラン打っちゃうの。だけど・・・」
彼女の目からまた涙が溢れ出る。
「最近思うの。・・大好きな武中選手。そのホームランをいつまで見られるんだろうって。・・いつかは」
「藍川さん・・」
ずっとって訳にはいかない。いつかは引退する時が来る。俺は世代交代賛成派ではあるが、武中含めずっと観ていたい選手はいる。
「目に焼き付けておこう。案外、忘れないもんだと思うよ」
瞳を大きく開け俺を見つめた。
マスクをしているのであまり表情は分からないが、そしてまた一粒の大きな涙が頬を流れていった。
彼女の思うところは分からない。だけど、小さいころの気持ちを大切にしている彼女のことを俺は好きだと思った。
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