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桜よ散れ、椿よ落ちろ  作者: 樋口進作
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おかあさん。

 土砂降りの雨で烟った視界で、赤色灯が脈打つように辺りを照らしている。

 雨の音を徐々に徐々に、通行人のざわめきが食い破ってくる。

 おかあさん。

 俺は何度も呼んだ。

 俺の足下へ、母が手を伸ばしているように流れてくる昏い赫に、何度も呼んだ。

 傘が飛んでいっちゃったんだ。

 雨が冷たい。寒いよ。

 おかあさん。

 生まれたばっかの妹の泣き声が聞こえた。

 りんが泣いてる。

 おかあさん。


 ——飲酒運転ですって。

 誠司はハッと目を開いた。

 いつの間にか雨は止んで、むせ返るような線香の匂いの中にいた。

 目の前で、黒縁に囲まれた母親が笑っている。

 今にも声が聞こえてきそうで、しかし何を言ってるんだかさっぱり解らない低い読経の声と、細波のような嗚咽が母の声を遠ざけていた。

 声だけじゃない。白と黒で埋め尽くされたこの空間が、目の前の母親の色も吸い取ってしまっているように感じられて、誠司は無性に腹が立った。

 息継ぎをするように隣を見ると、父が唇を噛みしめ、身体を震わせ泣いていた。

 誠司の手を固く握りしめて、音もなく泣いていた。

 ストン、と誠司の中に現実が降りてくる。

 ああもう、もう、もう、もうもうもうもう

 母はいないのだと。

 頬を涙が伝う。

 一筋、滴が道を作ると、そこを何度も、何度も、何度も伝う。

 心臓から血が滴っているようだった。

 口を開けば、切り裂かれた心臓から吹き出した血がゴボゴボと溢れて俺は死ぬのだと誠司は思った。


 ——飲酒運転ですって。

 ——信号無視で突っ込まれて。

 ——奥さん、そのまま?

 ——かわいそうに。


 無遠慮な外野の声が、嗚咽の隙間を縫って誠司の鼓膜を擦る。

 胸の奥が燃えるように熱くなっていった。

 頬を伝うそれがガソリンとなって、一滴一滴溢れる度、引火して誠司を荼毘の炎で燃やし尽くさんとしているかのようだった。

 獣のような咆哮が喉を食い破らんとしているのを、グッと抑える。

 赦さない。

 赦さない。

 俺たちが何をした。

 父が、一斗が、潤が、凛が、——母が。

 何故俺たちが、奪われなきゃいけない。

 俺たちが何をしたってんだ。

 俺は絶対に、赦さない。


 そこでハッと、目が醒めた。

 視界に飛び込んできた天井は見慣れた自室の物で、誠司は胸の中に凝っていた息をゆっくりと吐き出す。

 マラソンでもしてきたかと思うほど、鼓動がガンガンと脈打っていた。やおら身体を起こすと、シーツが自分の汗でべっちょりと湿気っていて、気持ちの悪さにすぐさま掛けていた布団を剥いだ。ベッドの縁で、背中にのしかかってきた疲労感に辟易する。

 五年経った今でも、同じような夢に魘され目を醒ます。

 大概、母親が死んだ時の夢。時折父親の死顔も夢に見るが、圧倒的に母の事故のシーンが多い。それほど、目の前で命が掻っ攫われた瞬間は、鮮烈だった。

 最悪な夢見で目醒めた後は、寝たとは思えないほどの疲労感と強烈な吐き気に襲われる。最近は日が昇るのがめっきり遅くなり、部屋はまだ暗い。誠司は枕元のスマートフォンを手に取って時間を確認した。——午前四時。アラームが鳴るより一時間も早い。うんざりした。帰宅して気絶するかのように床に就いたはずなのに、三時間ほどしか経っていない。吐き気が一層濃くなって、誠司はスマートフォンを布団に放りよろよろと立ち上がった。

 もう寝られる気がしない。とりあえず白湯でも飲んで、吐き気を鎮めてから朝飯をゆっくり作り始めよう。

 そう思い自室を出て、斜向かいにある一斗の部屋の扉が僅かに開いていることに気がついた。あんな夢の後だから、一番歳の近い一斗の顔を見てひと心地つきたかったのかもしれない。起こさないように慎重に扉を開けて——、目を見開いた。

 一斗がいなかった。

「——ッ」

 ゾッとその場に立ち尽くす。せっかく引いたはずの汗が、また全身を覆った。

 ひんやりとした誰もいない部屋に飛び込んで、意味もなく部屋中を見渡した。阿呆でも解るくらい、空っぽだった。

 こびりついた瘡蓋が剥がれるように、会長の頼りなげな声で町に起こっている不可解な事件が脳内で再生される。まさか。まさか、

 夢で見たばかりの母親の虚な目が、ギュウと誠司の心臓を握り潰した。

 まろぶように、部屋を出る。冷たい廊下を足音も気にせず駆け、階段をほぼ転げるようにして降りる。自分が寝巻きのままだということすら気にも止めず、誠司は玄関のノブに手を掛けた。

「うわっ、誠司⁉︎ ビックリした、どうしたの」

 誠司が回すより早くノブが回り、扉が向こう側に開く。ノブに手を引かれつんのめった誠司は、扉が開いた先の薄い胸板に顔面からぶつかった。

 己の懐に飛び込んできた兄を、一斗が条件反射で抱きとめる。誠司の鼻に一気に夜の匂いがなだれ込んできて、弟の胸に顔を埋めたまま、くぐもった声をあげた。

「……テメェ……」

突然行き場を失った心臓の早鐘が、治らずに声に籠る。ふつふつと温度を上げていく腹の底を止めるように、香水臭い弟のトレーナーの裾を力一杯握り込んだ。

「あっ、いや、ごめん誠司、ちょっと帰るの遅くなっちゃって」

「ちょっとだァ⁉︎」

 堪えていた怒りが噴火の如くドカンと爆発した。耳を劈いた怒声に一斗が飛び上がる。

「お前今、ここら辺がどんだけ危険か知ってンだろうがァッ! 俺が、どんだけ心配したと……ッ」誠司が思っていたより自分の怒りは上限を遥かに超えていたらしい。

 ボロリ、と水いっぱいのビーカーの縁から溢れるように、誠司の釣り上がった目から涙が零れる。「クソッ」咄嗟に顔を一斗から背けたが、一度決壊してしまった涙腺はすぐには止まらず、誠司の足元に滴り続けた。

 突然の涙に一斗の顔から血の気が一瞬で引く。長年隣で兄弟をしているが、強気の兄が涙する姿なんて一度二度くらいしか見たことがない。

 慌てて誠司の背に回した腕に力を込めると、誠司のガッチリした筋肉に押し返された。一斗は否応なしに抱き竦めた。

「ご、ごめん誠司! 本当にごめん! でも理由があってさ、」

「お前もう、バイトやめろ」

「……は?」

 一瞬、何を言われているのか理解ができなかった。力が緩んだ隙に、今度こそ誠司は一斗の腕を振り払った。

「お前がいつも夜どっか行ってンの、バレてないとでも思ってんのかよ。駅の反対側のガールズバー、そこでボーイやってんだろ」

「……尾けてたんだ」

「昼間あんなにフラフラで、気にしねェ兄貴がどこにいンだよ」

「今まで誠司が起きる前に、帰ってきてたじゃんか。学校にも毎日行ってる」

「もう、そういう問題じゃねェ。バイト辞めろ。髪も染めろ。俺に心配させんな」

「じゃあ、誠司もバイトやめてよ」

「はァ?」

 今度は誠司が問い返す番だった。

 涙はもう引っ込んでいた。充血した目で一斗を睨むと、垂れ気味な弟の眦がキッと釣り上がり、眉間に全く似合わない皺が厳つく刻まれた。

「どうせ今日もほとんど寝てないんだろ。もう朝ご飯とかいいよ。作らなくて」

 低く言い捨てるような一斗の言動に、誠司の心臓が大きく脈打つ。怒りとも哀しさとも判別できない感情が誠司の腹の中を暴れて、ヒュッと小さく息を飲んだ。何とか声を絞り出そうと口を開いたが、一斗のわざとらしい無機質な声が降ってくる方が早かった。

「もう、何もしないでいいよ。……気持ち悪いんだよ、誠司も父さんも」

 バチン。破裂音が玄関に響く。

 惚けた一斗の左頬が徐々に赤くなっていく。誠司の掌がそれに呼応するようにジンジンと熱くなっていった。

一度は引いた涙がまた誠司の頬を撫でる。

 記憶を何度探っても、誠司は兄弟をぶったことなどない。無作法者を拳でぶん殴ったことなら幾度となくあるが、誠司にとって宝物に等しい弟妹たちをぶつなんてこと、あるわけがない。

 子供の癇癪のようだった。迫り上がってきたどうしようもない感情の濁流をそのまま、一斗に気付けばぶつけてしまっていた。

 おそらく一斗の言葉も、ただの子供の癇癪で、心の底からどうしようもなく、誠司にぶつけるしかなくなっていたのだろう。

 しかし互いに突きつけあった矛先は互いであるからこそ決して引くことが出来ず、ただただ抉り取られた痛みが、己の中で沈殿し続けた。

 誠司は振り切ったまま行き場のない右手を、弱々しく握りしめた。

「……父さんが、どんな思いでいたのか解ってンだろうが」

「当たり前だろ。だから、死んだのが馬鹿馬鹿しいんだ」

 家族のために命を張った父。誠司はずっとその姿を追いかけていた。

 だけど一斗は、ずっと隣を歩いていると思っていた弟は違ったらしい。

「ずっと俺らと一緒にいたいって思ってたのは、父さんだろ……」

 昔、一斗はよく泣いていた。昔というほど昔でもない。誠司が一足先に高校に上がるまで、一斗は人目も憚らずよく泣いていた記憶がある。両親の葬式でも、一斗は家族全員の涙を背負うように、よく泣いた。

 しかし誠司が高校に入学しバイトを始めてから、一斗は泣かなくなった。ヘラヘラと軽薄に笑うようになっていた。

 心配をかけまいとしていたのかもしれない。少しでも誠司の荷物を一緒に背負おうとしていたのかもしれない。じゃないとまた。

 また、父のように、死んでしまうかもしれないから。

 一斗は垂れた目からボロボロ涙を零して、泣いた。まるで昔に戻ったかのように。

「心配してるのが、誠司だけだと思うなよ……っ」

 ベシャベシャになった頬を子供のように拳で何度も擦って、目の下は腫れたように赤くなった。

 そんなに擦るな、と反射で伸ばした誠司の手が触れる前に、また平手が飛んでくると思ったのか、一斗がビクリと肩を震わせる。そう愛する弟に思わせてしまった自分に絶望して、誠司は手を差し出したまま立ち尽くした。

「ごめんね、誠司。ちょっと頭、冷やしてくる」

 誠司の言葉も待たず、一斗は誠司から逃げるように背を向け、空が少しだけ白んできたばかりの薄闇に飛び出して行った。

「一斗……」

帰ってくるよな。扉で遮られた一斗の背中に何度も問いかける。

宙ぶらりんになったままの掌を見つめた。初めて拒絶され、拒絶した掌の赤みはもう癒えていた。しかしジクジクとした痛みが、皮膚の裏っかわに残っているようだった。心臓があたかもそこにあるかのように、掌が脈打っている。

 誠司は玄関の土間にへたり込んで、自分の膝に顔を埋めて呟いた。

「いてェ……」


 潤がいつも通りの時間に眠そうな目を引きずってリビングに現れて、誠司はようやくほっと一心地付けた気がした。しかし、やはり一斗が座っているはずの潤の隣は全員が朝飯を平げた後も空席のままだった。一斗のテーブルで手付かずのまま冷めてしまったオムレツをゴミ箱に捨てた時、潤が「どうしたの?」と不安げに尋ねてきたが、「何でもない」と応えるのが精一杯だった。

 凛の手を引き、いつもよりゆっくりと時間を掛けて幼稚園に迎う。道端の枯葉をジャリジャリと楽しそうに踏み締めて遊ぶ凛の後ろ姿に、わけもなく泣きそうになった。

 結局その日は一日上の空だった。遅刻しかけたし、ゴリラのタックルにも惨敗した。授業では初歩的なミスを連発し、弁当も忘れてきてしまったせいで購買の列に並んだら、さすがに周りから心配の目を向けられた。

 終業のチャイムが鳴る。やけに長い一日だった。一斗はちゃんと学校に来ただろうか。そればかり考えてしまい、ホームルームが終わり、委員会やら部活動やら、各々の目的に向かっていくクラスメイトを尻目に、誠司はスマートフォンの画面をただ眺めていた。

 すると、

『九条一華さんの失踪についてお聞かせくださぁーい!』

 教室の外から飛んできた大音量に顔を上げる。見ると、廊下の窓辺に屯したクラスメイトたちが、どよどよと一様に窓の外を見下ろしていた。先ほどの声は校門の方から聞こえてきたらしい。

いや、今、なんて?

誠司は弾かれたように席を立ち、クラスメイトの群れをかき分けて窓辺から身体を乗り出した。

『九条一華さんはこの高校の副会長だそうですが』『バイト先から帰ってこないと通報があったそうですね!』『つい先日も一人、生徒が失踪したとのことで』『この状況下で、深夜のアルバイトを許可されていたのですか⁉』『貴校の危機管理体制に問題があるのではないかと』『親御さんにはどう説明されるおつもりで』

 校門の前を烏のように黒い群衆が埋め尽くしていた。その侵攻を阻むため数人の教師たちが目一杯両手を広げて壁となっている。迷惑そうに「帰ってください!」「今は何もお答えできません!」と怒鳴り声を上げている教師たちに、シャッターのフラッシュと容赦ない詰問が矢継ぎ早に浴びせかけられていた。

 マスコミだ。誠司はこの光景を以前にも見たことがあった。記憶に新しい。

クラスメイトがいなくなった時だ。

 誠司はギン、と目をかっ開くと、桟に足を掛け、そのまま窓の外に飛び出した。

 二年生の教室は二階だ。後ろから眼下から、絶叫が追いかけてきたが、誠司の耳には届かなかった。

 ズドン、と土埃を上げて誠司が両足で着地する。一瞬、シャッター音も怒鳴り声も何もかもが止んだ。

「マスゴミさんよォ、誰がいなくなったってェ?」

 土埃の中、ゆらりと立ち上がる。誠司の氷のような眼光に射竦められた記者の一人が息を飲んだ。

「く、九条一華さん……。今朝方、家に帰ってこないと親御さんから通報が」

「……で?」

「『神隠し事件』に、巻き込まれたのではないかと……」

 記者の胸ぐらを誠司が力任せに鷲掴みにした。途端辺りからシャッター音が閃き、怯え呻く記者と誠司を画角に捉えようとする。背後から青ざめた教師たちによって羽交締めにされ、誠司は記者から引き剥がされた。

「離せやァ! ンなわけねェだろうが! 一華は、昨日、一華、は……!」

 サイダーの炭酸と、心地よい夜風。

 たった昨日だ。一華と交わした言葉の記憶が、あまりにも鮮明に誠司の脳味噌にこびりついている。信じられるはずがなかった。

 彼女の憂うような悲しい顔が、翻した黒い髪の尻尾が、闇夜に消えていく。

 誠司は咆哮を轟かせ、教師たちの拘束を引き剥がした。

「藤堂くん……」

 背後からのか細い鳴き声に、誠司の身体がピタリと止まる。

 やおら振り返ると、そこにはハムスター会長がいた。

「一華……、一華が、今日、来てないんだ」

 今にも倒れそうなほど蒼白な顔面をしているくせに、彼は微かに笑っていた。

「嘘だよね、一華がいなくなったって……。だって、僕、昨日言ったじゃないか、君に、言ったじゃない。一華を——」

 守ってくれって。言葉の代わりに、会長の頬を涙が伝った。

「あああああ、あああああああああああああああああああああああああっっ」

ドシャ、と会長は地面に突っ伏し、血を吐くような雄叫びを上げる。

 マスコミのシャッターが一斉にけたたましく瞬いた。

「——テメェら、どけェええええええええッッッ!」

 髪を逆立て、誠司は黒い群衆に突っ込んでいった。手を目一杯伸ばし、肉の壁をかき分けていく。悲鳴とシャッター音が無い混ぜになって耳が捥げそうになった。

 自慢の腕力を振り絞って真っ黒な人垣を抜ける。転げるように、誠司は走り続けた。

『いちとごめん 用事出来た 凛の迎え頼む ごめん』

 走りながらスマートフォンのメッセージアプリを開き、簡素な文面を送る。

 指が震えて、何度も打ち直した。何度も立ち止まろうかと思った。

 何度も打ち込んだ「ごめん」は、一斗に対してなのか、会長に対してなのか、分からなくなった。


「クソがァ……!」

 とっぷりと日が暮れ、勾配の急なこの坂は月明かりだけが頼りになっていた。

 誠司の足はもう棒切れのように役立たずで、勾配を前に、途中で蹲み込みそうになる。眼前を見上げると、急勾配の頂上にはこの町のシンボルである霊山が、シンと黙りこくって誠司を見下ろしていた。

 町中を走り回った。一華の姿を求めて。神隠しなんてガセだと。どこかに必ず、一華はいるはずだと。一華の家の周りも、バイト先の周辺も、路地裏も郊外の空き家も。

 そして退路を断たれた鼠のように、この場所へ辿り着いた。

 もうここしかない。

「一華……ッ」

 霊山の中腹、町を展望できる開けた広場まで登りきり、誠司は頑強な鉄柵にふらつく身体を投げた。ガシャン、と派手な音が夜空に響くが、何の反応もあるはずがない。誰もいない。ただ寒々しい孤独が誠司を包むばかりで、誠司はギュッと目を瞑った。

「ニャァオ」

 突然聞こえてきた猫の声に、ぎくりと肩を震わせる。慌てて目を擦ると、山頂へと続く石畳の階段から、真っ黒い猫がこちらを見据えていた。闇夜に半分融けるようにして佇むその猫の両眼が、ギラリと光っている。

 異様なことに黒猫の瞳は、右側が金色で、左側が深い碧色をしていた。

「ンだ、あの猫……、気色悪りィ」 

 ニャァーオ。一際高く黒猫が鳴く。ピョン、と何かを飛び越えるかのように階段を跳ねた黒猫はその瞬間——消えた。

「なァ⁉︎」

 暗闇に紛れたのではない。間違いなく、消えたのだ。

 まるで神隠しのように。

言うことの聞かない両足を叱咤して立ち上がる。霊山の山頂へと登るための石畳の階段は、それこそ天にでも繋がっているんじゃないかと思うほど、長く誠司の目の前に伸び上がっていた。階段を一段進むだけで、限界に近い心臓がドクンと脈打つ。

息を切らしながら十段ほど登った時、ずるりと、まるでクモの巣にでも引っかかったような不快な感触が顔面を覆った。うわ、と思わず目を閉じる。ちょうど黒猫が掻き消えた辺りだった。

「——ッ」

 驚愕に息を飲む。蜘蛛の巣を抜け出たと思った途端、唐突に感じた熱に目を見開けば、目の前は青く煌々と輝いていた。

 さっきまで石造りの階段は一分の隙もない闇に向かって、ひんやりと伸びていたはずだった。しかし今、まるで異世界にでも迷い込んでしまったかのように、階段の両脇には松明が山頂まで等間隔に設えられ、奇妙な青い炎が辺りの鬱蒼とした木々を照らしている。

 そして見上げると、黒猫がこちらをジッと見つめていた。

 青い炎を受けて艶めく黒い痩躯は、色違いの双眸も相まって身が竦むような神々しさを感じる。黒猫は誠司を見つめたままニャァーオと呟くと、階段を軽やかに駆けていった。

誠司もその後を追う。存外にも早く猫の姿が見えなくなった。階段の終わりに向かい、誠司の喉がごくりと鳴る。

辿り着いた山頂はそれこそ、異空間のようだった。

 山頂は先ほど通ってきた広場よりも、こぢんまりとした広さにくり抜かれていた。しかし背の高い木々にぐるりと囲まれているせいで、町を覗くことはできない。月明かりはまるで差さないが、所々に浮かび上がる松明の青い炎が、不規則に揺らぎながら辺りをくっきりと映していた。

 誠司の正面に、黒く煤けた巨大な建物がある。——寺だ。

 特徴的な傾斜のついた屋根には穴が開き瓦は寒々しく剥げ、火事にでも見舞われたのかほとんどの壁面は煤けて朽ちかけている。文字通り伽藍堂と化したその寺は、風が吹くたびにギシギシと軋み、あまりにも不気味な様相を帯びていた。

 すでに使われていない物であることは明らかだった。しかし——奇妙なことに、ささくれだった本堂の扉の隙間から、松明の物と同じ、白味がかった青い炎が漏れている。

 誠司はぐっと息を殺し、本堂へと近づく。朽ちた階が軋まないよう、そっと足を運んだ。本堂の扉に身を寄せると、扉は猫が一匹通れる分だけ開きっぱなしだった。

 そっと中を覗く。青い光に照らされた中の光景に、誠司は戦慄した。

「——一華ァ!」

 矢も盾もたまらず、扉を蹴り飛ばした。外れかけていた木製の扉は勢いよく吹き飛び、松明の炎が激怒するように猛る。その熱に一瞬だけ目が眩んだ。

「……不法侵入で訴えますよ、このクソ犬」

 シャラ、と覚えのある錫の音が誠司の耳を擦る。

 誠司を氷のような瞳で射抜くその姿を見て、誠司は堪らず口角を吊り上げた。

「やっぱりテメェか……! クソ猫がァ……!」

 ゾッとするほど美しい顔。猫のように鋭い瞳孔。耳元だけ長い、独特な銀糸の髪。

 猛る炎の中心で、誠司が最も嫌悪する人物——伊達真央が、侮蔑の表情を浮かべてこちらを睨んでいた。

 そして——真央の背後の二つの人影に、誠司は歯を剥き出して低く唸った。

「『連続神隠し事件』——黒幕はテメェだったってこったなァ、伊達ェ」

 二メートルをゆうに越すかと思われる巨大な本尊——仁王の如き厳しい面構えをした仏像の脇に、誠司が探し続けていた二人の女性はいた。九条一華と、クラスメイトの橘梨華穂。

 二人の身体は漆喰の壁面に、ぞんざいに張り付けられていた。両の掌を杭で壁に打ち付けられた二人の姿は、磔刑に処されたキリストを思わせる。杭に穿たれた掌からは夥しい量の血が流れ、彼女らの足下に血だまりを作っていた。ぐったりと項垂れている二人は果たして息をしているのか、誠司からは確認することができない。

 漂う生臭い匂いに目の前がチカチカと明滅する。一華。身が捩れるような怒りに一瞬、吐き気すらこみ上げる。

 誠司はそれらを喉でぐっと堪え、一歩右足を引き、拳を構えた。

「その二人、テメェどうするつもりだァ? 仏さんの生贄にでもするンかよ」

「まさか」

 地獄絵図を背景に、真央はふふ、と妖艶に笑った。

 そこで誠司は真央の右手に握られている物に気付く。

 真央の足先に向かって柳の如くスラリと伸びるそれは、紛れもなく日本刀であった。

「僕はこの子たちを救ってあげるんです。——この悪魔からね」

 一閃。真央はトン、と後方に跳躍すると、まるで蝶が舞うかの如く優雅に白刃を振るった。

「出番ですよ、ツバキ」

 ゴトン。何かが床に落下する音が鈍く響く。

 柔らかで、いっそ慈愛さえ滲むような真央の声とあまりにもかけ離れていて、誠司は何が落っこちたのか、すぐに理解が出来なかった。

 ゴロゴロと慣性に任せてそれが誠司の爪先まで転がってくる。

 そのケロイドと目が合った時、理解が一斉に脳天まで追いついて貫いた。

 首だ。

 クラスメイトの、首。

「————ッッッッ!」

 誠司は声にならない絶叫を上げて、その場に勢いよく尻餅をついた。

 なんだ、なんだなんだなんだなんだッ。

身体中の汗腺という汗腺から汗が吹き出る。全く狂ってしまった心臓の鼓動が、肺から空気を一方通行に押し出してしまって、まるでまともな息が出来ない。

真央が振るった白刃によって胴体から切り離された橘梨花穂の首は、あまりにも静謐に死を物語っていた。ただただ虚な薄く開いた双眸。辺りにざんばらに散った黒髪。青白い肌。そして——切断された首から溢れる、夥しい血の赤。

赤は際限なく溢れ出て、彼女の左側を、褐色のケロイドを、その身に沈めていった。

 強烈な、吐き気。唐突に腹の底から胃液が迫り上がってくる。誠司は口を抑えて一瞬堪えるが、結局は床に突っ伏し、全てぶちまけてしまった。

「おや意外、動揺なんてしなさそうだと思っていたのに。ごめんなさいね、一言声をかけるべきでした」

 明日の天気でも話すかのような、あまりにも呑気な口ぶりで真央が言う。

「しかしそんなところで蹲っていられると、些か邪魔ですね。どこか端の方で転がっているなりしてて下さい。僕は忙しいんですよ」

「——ガァッ!」

 真央は一足飛びに蹲る誠司の元へ近寄ると、彼の横っ腹を爪先で蹴り飛ばした。避ける間もなく、誠司の身体は壁目がけてすっ飛ばされる。ズドン、と轟音を上げて寺が大きく揺れた。 

 誠司を受け止めきれなかった壁が崩れ、辺りに朦々と煙幕を吹き上げた。瓦礫に抱き抱えられながら、誠司はゴポリ、と血混じりの胃液を吐き出す。背中が、腹が、頭が痛いを通り越してもう訳が分からない。瓦礫で額を切ったのか、誠司の顔面は半分血で染まり、目を開けようとすると僅かに滲みた。

手放したくなる意識の細い糸を辛うじて握りしめて、誠司は上体を起こす。視界は血と煙幕で薄らとぼやけていたが、そう遠くない場所に真央の姿を捕らえることができた。

真央はすでに誠司から視線を移し、厳しい面の仏像を冷たく睨めている。

「て……メェ……」

「そこから動かないで下さい。危ないですよ」

 誠司に一瞥すら寄越さず、真央はそう言い捨てると日本刀の切っ先を仏像に向けて構え直した。

 いや、あれは——

 誠司は、はたと気が付いた。真央がシンと睨めている先は、仏像ではなく、その隣の。

 首を失って尚、ドクンドクンと血を垂れ流し続けている、磔の骸。

 次の瞬間、誠司は嘘のような光景に己の目を疑った。

 骸の首の断面から、ニュルゥリと人の手らしきものが生えてきたのだ。

 それだけじゃない。狭い箱に閉じ込められていたニンゲンがようやく出てくるようにして、手が、肩が、胸が、そして頭が、血の滝を纏って断面から這い出てくる。

 腰と思しき箇所まで這い出てきたそれは、ニンゲンの形をした何かだった。

 髪もなければ、目の玉もない。あんぐりと開けた口はひたすら空洞になっている。例えば血で作った巨大な泥人形だ。ボタボタとそこかしこから血の泥を滴らせて、ムッとした生臭い臭気が、誠司のところまで襲ってくる。

 血の泥人形はずんぐりと太い五指を目一杯開くと、腕をしならせ眼下に対峙する真央に叩きつけた。

「伊達ェ!」

 強烈な衝撃波と臭気。寺が破れんばかりに揺れて、瓦礫がまた誠司の頭上に降ってくる。

 朦々と立ち込める煙幕の中から、嫌味なほど涼やかな錫の音が聞こえた。

「——相変わらず、醜悪な姿だ。この少女が哀れでならない」

 泥人形の掌の下で、真央の白刃が煌めいた。

人一人は軽く握り潰せるであろう巨大な泥人形の掌を、真央はか細い日本刀一本で防いでいた。日本刀を横一文字に頭上で構え、圧殺せんとする力を柳の如き刃で抑え込んでいる。

 掌から滴り落ちる血の泥に明らかな嫌悪が滲んではいるが、真央の冷ややかな視線は全く揺らぐことなく、泥人形の醜い面を見据えていた。

 華奢な身体のどこからそんな剛力が湧き出てくるのか、真央は片腕で刀を支えたまま、もう片方の手を、す、と学ランの胸元に忍び込ませた。

 学ランの合わせから取り出したのは、——一丁の拳銃だった。

 瞬きをする間もなく、真央は拳銃の銃口を泥人形の額に突きつけると、

「さあ、来世に逝きましょう」

 一切の躊躇いもなく、その引き金を引いた。

 ズドン。と轟音と共に発射された弾丸は、一直線に泥人形の額を貫いた。

 泥人形の額に風穴が開く。泥人形はまるで、痛い、と呻くように天を仰ぎ、両手で顔を覆った。

真っ黒な眼窩から滴る血が、誠司には涙に見えた。

そして鮮血で覆われた横顔が、彼女のケロイドを思い出させた。

「——たちばな」

初めて呼んだ彼女の名は、口から溢れて、鞠のようにてん、とそこらに転がった。

 泥人形の動きが唐突に止んだ。天を仰いだ姿のまま、血の一滴も滴らせることなく硬直する。

 ボロリ、と泥人形の肘が崩れた。土壁が剥がれていくようにして、ボロボロと、泥人形が土塊に還っていく。

泥人形が全て崩れると、首のない彼女の骸にひび割れのような無数の線が入った。パァン、とガラス細工が砕けるように、彼女の骸も砕け散って、床に散らばった。

血の池に沈んだ彼女の首が、その後を追うように砕けた。

誠司は呆然と、砕けた彼女の破片を見つめていた。

銃口から立ち上る硝煙を吹き消し、真央はようやく誠司に向き直る。ぼうっと血の池に視線を落し続ける誠司の顔を見て、真央はふふ、と可笑しそうに笑った。

「あなたもそんな顔するんですねぇ、いつもそのくらい大人しくしていれば良いのに」

「……ふざけてんじゃねェぞ、クソ野郎……」

「汚い言葉はやめてください。言ったでしょう、僕は彼女を救ったんです」

「救ったァ……?」

「彼女はね、生まれてきちゃいけないヒトだったんですよ」

 カァッと誠司の頭に血が上る。跳ねるように瓦礫から抜け出し、一気に真央と距離を詰めた。 抉られた横っ腹が鈍く軋んだが、誠司は痛みを感じなかった。

「テェメェエェェェェエエッッッ! 歯ァ食いしばれやァァ!」

 きつく握った拳を、真央目掛けて振りかぶる。拳は真央の鼻先に真っ直ぐ放たれたが、到達する直前、真央の掌に包まれ、阻まれた。

 片手で誠司の拳を受け止めた真央は、先ほどまでの軽薄な笑みを消し、誠司をシンと見据え、静かに言った。

「何故怒るんです? 彼女の何も知らないくせに。彼女がどんな思いで生きてきたか知らないくせに。——ああ、知らないから不躾に踏み込めたんでしたっけ?」

 誠司の瞳が揺れた。真央の言葉が雪解け水のように誠司の胸の中を伝う。

 長い前髪。爛れた顔。隠すように俯く彼女。最後に彼女に会った日、誠司は土足で彼女に踏み込んで、そしてそのまま蓋をした。見なかったことにした。

 誠司は真央の目をギラリと睨み返し、真央の手を乱暴に振り払った。

「テメェは、知ってるって言うのかよ」

 絞り出した声が、僅かに震えた。

「あなたよりは。解っているつもりです」

 真央が首肯するように、ゆっくりと瞬きをする。再び目を開いた真央は、口元をかすかに綻ばせた。

 誠司の目の端で、真央に握られた白刃が青い炎を反射して煌めいた。

「——この子のこともね」

 真央の身体が一瞬にして翻り、刀を持った腕が勢いを乗せてしなる。カッと見開かれた真央の狂気を孕んだ双眸は、誠司ではなく壁に吊されたもう一人——九条一華に注がれていた。

「一華ァ!」

大きく円を描きながら、真央の刃が一華の首を刈りに逼る。くたんと項垂れた一華の首は、まるで真央に刈ってくれとでも言っているかのようだった。

誠司は咄嗟に真央へ向かって思い切り手を伸ばした。止められるような速さじゃない。すでに凶刃は一華の首の皮を捉えんとしていた。

「うああああああああああああああああああああああああッッッ」

 叫び声が木霊する。届かない。嫌だ、嫌だ。

 限界まで開いた指を、もう一歩伸ばした。

 誠司の爪先に何かが触れる。真央のピアスだった。

 かすかな希望に縋るように、誠司はそれを強く握り締めた。


 ズルゥリ


「ヘぁっ」

「えっ」

 お互いの口から聞いたこともないような間抜けな声が滑り出た。白刃がまさに一華の首の皮一枚のところで、ピタリと静止する。真央が首だけでこちらを振り向いた。元々大きな瞳が更に丸く驚愕に見開かれ、同じ表情をした誠司と視線がかち合う。

 真央は片手でわさわさと自分の耳たぶを弄り始めた。ない。摘んだり引っ張ったりを何度か繰り返したが、観念したのか、真央は耳たぶを摘んだ形のまま固まった。

 ピアスを掴んだはずだった。真央の耳元で揺れていたピアスが喪失していることが、それの証明だ。しかしピアスを握り締めた瞬間、何かを引っこ抜いたような感覚があった。そして握り締めた手の中からは、到底ピアスの重量とは思えない、鉛のようなズシリとした重さが伝わってくる。誠司は恐る恐る真央から視線を外し、自分が握りしめているものを見た。

「——ハァアアア⁉︎」

 誠司の掌に、しっとりと馴染むように収まっていたのは、一振りの日本刀だった。

 思わず勢い任せにぶん投げそうになる。しかし誠司の手が、それを求めているかの如く離そうとしない。誠司は改めてまじまじとその刀を凝視した。

 三日月を思わせるスラリとした反りが美しい刀だ。年季が入った代物なのか、誠司が握る柄を覆う柄巻は所々がささくれ立ってはいるが、刀身には僅かの錆もない。青い炎が刃の中でゆらゆらと燃えているのが、息を吐くほど綺麗だった。

 切っ先から柄へと、美術品でも鑑賞するかのようにゆっくりと視線を落としていく。すると鍔の丁度真上、刃の根元の箇所に刻まれている一文字に気が付いた。

 “桜“——、

「さくら……」

 真央が刀の名を呟いた。いや、違う。誠司が真央を振り向くと、真央の大きな瞳と目があって誠司はギクリと肩を震わせた。真央は誠司を見ていた。

 誠司を見つめる瞳に、徐々に透明な膜が張っていく。白い肌が、薄ら紅色に色付いていく。うっかり刀を取り落としそうになったが、やはり指は刀に吸い付いたままだった。

 真央は誠司を潤んだ瞳で見つめたまま、自分の握る刀を殺害対象の首元から離し、胸にギュッと抱いた。

「さくら……、まさか出会えるなんて、思ってもみなかった……」

「オイ、ちょっと待て」

 何故かにじり寄ってくる真央の肩を掴んで止める。その手にそっと、真央の手が愛しむように重ねられて、ゾワリと全身の肌が泡立った。

「きッッッッッッッッッッ」

「さくら、会いたかった。会いたかったです————————っ!」

「オア——————ッッッ⁉︎」

 真央は両腕をガバッと目一杯広げると、誠司の身体を刀ごと包み込み、勢いそのままに誠司を押し倒した。なす術もなく床に背中を叩きつけられた誠司の息が一瞬止まる。押し倒した張本人に蹴り飛ばされたはずの横っ腹が、今更になって悲鳴を上げ始めた。

 だが誠司の頭の中には痛みより混乱と、四肢が捥げそうなほどの気色の悪さが渦巻いて、呆けた顔のまま微動だにすることができなくなった。

「ああ! これが運命! 『ですていにー』というやつなのですね! 英語とかいう授業で教えて頂きましたよ! ああ、素晴らしい! 『ですていにー』!」

 押し倒して尚、誠司を力一杯抱き竦めて意味の分からないことを口走る真央の腕の中で、みるみる誠司の呆然とした顔から血の気が引いていく。

 気色の悪い猫撫で声で「さくら……」と囁かれた瞬間、誠司は絶叫した。

「だァ—————————ッッッ! 何だテメェ———————ッ! ソッチの趣味があるんかァ————⁉︎ 俺にはッッッ、ねェエエエエエエエッッッッッ!」

 渾身の力を振り絞り、己に覆い被さっている真央の腹を蹴っ飛ばした。真央の軽い身体が天井近くまで舞い上がり、しかし刀で防がれたのか、上空から誠司を見下ろす真央の顔は蕩けそうなほど恍惚に満ちていて、また誠司の背筋を凍らせた。人間は真に気色の悪い物と対峙した時、身動きが取れなくなるらしい。

 真央は中空で身をクルリと回転させると、仰向けで真央を見上げる誠司の頭上に、猫の如く軽やかに着地する。背を地面に預けたまま固まっている誠司を振り返り、真央は少し寂しげに肩を落とした。

「ツレないですねぇ……、せっかくウン百年ぶりに出会えたのに。でもまあ……」

 唐突に真央の瞳孔が、獲物を狙う獣のようにキュッと細く尖り、猟奇的な光を灯す。誠司の頭上には真央と、真央の更に上から誠司を睨める仁王がいた。

 片足で床を蹴り、真央は仁王の目線までトン、と真っ直ぐ跳躍する。

「ヤることは今も昔も、同じですよね」

 真央が振りかぶった刃が炎の光を収束して、青色に染まった。

青い三日月が、宙を舞う。

その美しい刀身は誠司の刀と瓜二つで、双子のようだと、誠司は思った。

「——ねえ、“椿”」

 ザン。青い軌跡を描きながら、刀は一瞬で振り下ろされ何かを斬り落とした。

 誠司の顔面のすぐ隣に、バレーボールの球ぐらいの大きさのそれは、鈍い音を立てて転がってきた。誠司の心臓が、痛いほどに脈打つ。仏像を見上げたまま、誠司は息が出来なくなった。耳元の球体は、少し離れていても生暖かさが伝わってくる。その球体が「こっちを見て」と囁いているようで、誠司は恐る恐る、首を傾けた。

 ——一華と、目があった。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!」

 無情に転がった一華の生首は断面から、そして目や口からも鮮血を垂れ流し、寒々と泣いているようにも見えた。

 赤い雨が降る。己の首を追い求めて激しく降り注ぐ赤い雨は、誠司と一華を濡らしていった。

 自身もその雨に打たれながら、真央は両手を広げ、にんまりと火照った顔に笑みを浮かべる。

 新しい玩具を与えられた子供のように無邪気で、ひどく高揚した口調で叫んだ。

「さくら! あなたも斬るのです! この哀れな輪廻を! 天熱が植え付けた“業“を! 早く! さあ早く!」

 真央の狂気に満ちた声が誠司の鼓膜を劈く。誠司は耳を塞ぎ、血の池の中で身体を丸めて蹲った。食いしばった歯の隙間から堪えきれなかった喘ぎが漏れる。

 斬れというのか。一体何を。一華を? でも一華の首は、もう。

 頬を叩く雨が、少しずつ止む。小雨くらいの滴になった時、ムワッとした血の臭気が誠司の鼻腔を犯した。

「まさか……」

 斬るのか、アレを。誠司は血溜まりの中からやおら上体を起こし、真央の頭上を振り仰いだ。

 壁にぶら下がった一華の骸から、醜い姿をした泥人形が、血を滴らせながら這い出てこようとしていた。強烈な悪臭を放つ泥人形はすでに胸まで形成され、小学生が落書きしたような三点だけポッカリと穴が開いただけの顔が、誠司と真央を凝視している。おぞましい姿に、誠司の身体が竦む。握り締めた刀が手の内で震えた。

 一華とは似ても似つかない顔だ。しかし斬れと言われて、斬れるはずがない。

 弾丸を撃ち込まれて苦しみながら砕けたアレは、紛れもなく、彼女だった。

 泥人形は高らかに挙手した太い腕を、真央と誠司目掛けて振り下ろす。誠司は目を逸らし、唇を噛み締めた。

「まあ、今回はしょうがないですね。彼女には申し訳ないですが、また来世ということで」

 ため息混じりに呟いた真央の手の中に、いつの間にか先ほどと同じ黒い拳銃が握られていた。真央は振り向きもせず、肩口から泥人形へ銃口を向ける。

 ズドン。銃口から硝煙が上り、泥人形の額に風穴が開いた。

「あ……」

 泥人形が、苦悶の表情を浮かべながら誠司に手を伸ばしていた。誠司が手を差し出そうとした瞬間、誠司の目の前で泥人形は呆気なく崩れた。泥人形の指先から崩壊の波紋は広がり、全身が崩れ去った後、一華の骸も、パン、と砕けた。

 誠司の頭のどこかから、糸の切れる音がした。

 目の前が、真っ暗になった。


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