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クメール帝国秘史 蓮華を抱く者  作者: ミウラ シンジ
蓮華を抱く者
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蓮華を抱く者

船乗りは自由を求める旅人に似ています。時に、命とひきかえに得る利益や栄誉のためであれ、船の前途にみえるものは人間の根底に在る欲求なのです。知りたい、という願いです。そして、その願いにある人は自由であるのです。

ダラニンドラヴァルマデヴア様は菩薩の慈悲を説きながらも、知りたいという人の願いを知恵という言葉で語られました。

国のあり方を牛車の両輪に喩えられ、慈悲と知恵の両輪によって歩む国造りを願っておりました。

カヴィ様、摂政様の理想は叶いませんでした。

病床に横臥するスーリアヴァルマン帝を訪ねた日、口もきけない帝が従兄弟の手を握り後を託した。ダラニンドラヴァルマデヴアは摂政を引き受け敗北の荒廃に応じる。何よりも敗残兵の救援であり病傷者と家族への手当てであった。二年が過ぎても事態は悲惨であり続けヤショーダラプラは夢から覚めたように押し黙っていた。帰って来ぬ夫や息子を待つ家族の心情は、いつの時代とて変わらない。

兆しがみえたとき、スーリアヴァルマン帝の寿命が尽きた。それは、新たなるクメール帝をいただくことでもある。火中の栗を拾った摂政のもとに、この国の伝統的な王族がバラモン等を連れ尋ねて来た。

この国を我らに還していただきますぞ。

王族とバラモンらは容赦なく摂政に迫った。バラモンは争いを好んだスーリアヴァルマン帝を汚点と評し、ヒンドゥーの教えを軽んじた結果と断じた。

摂政様、この城府の主に仏教徒は似合いません。

そうそうたる顔ぶれに廷臣らは来るべき時をしった。

摂政は以前として混乱と窮状にある現実を口にした。その摂政の訴える施策は的を得ていた。

暫くの猶予ならば。譲り合うのは我らの美徳です。

王族とバラモンの憘びに歪む顔を廷臣らはみた。スーリアヴァルマン帝は、この伝統的な王族等を無能とし冷遇したことにある。名門名家と称えられた家系の誇りをとりもどすためと彼らは団結し新たな帝をいただくと決めた。

摂政はふりかえりスーリアヴァルマン帝の玉座を眺める。音を忘れた空間にあの豪快な顔が浮かんでは消えた。

ダラニンドラヴァルマデヴアは王宮に住まず王宮北方に居所をさだめていた。ヤショーダラプラのなかでは不便な土地であり住人らは多くの労苦を強いられていた。数年後、この屋敷に小さな仏教寺院が建てられ信仰の場となる。プリア カン、聖なる剣と呼ばれた寺院はダラニンドラヴァルマデヴア一族の心の拠り所であった。

スーリアヴァルマン帝が亡き今、摂政の役目も終わろうとしている。荒廃の立て直しは始まったばかりであったが、廷臣や高官らは次々と摂政の前から去ってゆく。

居ならぶ家臣らは摂政の無念を想う。そして、新たな帝を擁立し権勢と栄華に目の眩んだ者らの台頭する姿は容易に想像できた。スーリアヴァルマン帝を影で支えたてきた功績は小さなものではない。家臣らは悔しい思いを口にした。

よいか、争いを望んではならない。

新たな帝をいただく時、どの時代においても内乱がおこった。大きな内乱を制した勝者が不動の帝権を手にする。木々と稲田に覆われた巨大都市の風景は単調でありすぎた。争いの光景と勇者に人々は神をみたのかもしれない。

ここにも居られまい。

ダラニンドラヴァルマデヴアは自領に退く覚悟を決めた。

広大な屋敷に人影もみえず、建造中の寺院が西日を受けてただずんでいる。

龍の使いに命を下すお許しを。

ジャヤラージャチューダマニーの懇願に夫は妻の顔をのぞきこんだ。それは、ふたりの禁句であった。

ふたりの間の初めて娘に夫は感激した。寝ても覚めても娘を眺める夫に妻は、この娘の宿命を告げられなかった。娘が一歳を迎えたとき、娘の姿が消えた。夫の涙が枯れた時、妻は自らの境遇と重なる娘の宿命を告げた。夫の怒り狂う顔が亡き父親、ハルシャヴァルマン帝に重なる。傍流の若者がハルシャヴァルマン帝の王女を娶る奇貨に恵まれて以来、異例な出世を果たしてきた。それは龍の使いの意向であったとしる。

あの若者こそ、龍の娘にふさわしい婿であります。

だが、夫は影で動く存在を嫌い関係を断つよう妻に求めて今にいたる。

娘はどうしているのだろう。

孫もいる年齢であろうと想う。

時折、私たちに会いに来ているようです。

そうか。

父は龍の娘として生きる、つよい意志を知る。

人々のためならば、頭を下げよう。


龍の娘の命が下った。間もなくして変化がヤショーダラプラの住民に訪れた。ラブゥオのモゥン王家の使者がダラニンドラヴァルマデヴアを訪ね交易の再開を願い、北方のクイ族らが鉄とともに塩を届けに来た。その動きは断絶していた方面との復活であり、生活に欠かせない物を手に喜びに沸くヤショーダラプラの姿であった。それらは小さな物だったが、その話題はヤショーダラプラを駆け巡った。

摂政のもとに続々と高官らが戻って出仕を願うようになって、伝統的な王族らは焦りだした。

もはや誰でもよい。擁立を急がねばなるまい。

しかし、誰もが納得する人物を決めることは容易ではない。三代続いたマヒーダラプラ王家の前では、もはや他の伝統的な王族はかすんでみえた。まして、スーリアヴァルマン帝の後継者なることに怖じける人物は、ひとりやふたりではなかった。

モゥン王家と共同で宋国に交易船を出すことが決まった。交易船はチャーム人の住む沿岸を通り、チャームの港市で補給と宋国の情報を得る。あのチャンパ王が許可したことになる。敵対が終った。メーコーン河岸の都市はチャーム人との交流に依存してきた。昔の親交と活気に戻るのかもしれない。

ダラニンドラヴァルマデヴアヘの声望は巷に高まり、特にチャンパ遠征に従事した兵からの熱狂的な支持を受けた。

古い王族らは敗北を悟り、保身のため摂政の前に膝待つくしかなかった。

摂政の一言で、どうにでもなる。

私は摂政としての責務を果たしたい。

古い王族らは困惑した。摂政の妻妾ジャヤラージャチューダマニーはハルシャヴァルマン三世の娘であり母系を通じて扶南王家に繋がる、これ以上ない帝位継承権の保持者である事実を知っている。この温和な人物が、そもそも仏教徒でなければ異存はなかった。

お力添えを願います。

この後、古い王族らの子息が政府の要職に就いてゆくのをみる。トリブバァナ帝もそのひとりであった。

ダラニンドラヴァルマデヴアはクメール帝とはならずも、その治世は10年に及んだ。


仏教とはどのようなものでしょう。との問いに執事役はおのれの半生を語るしかなかった。日が暮れかかるなか夕飯を支度した下人らも話しを黙ってきいている。

カヴイ様、人を疑うことを知らない御仁でありました。何故、矢に倒れなければならなかったのでしょう。

商務大臣となったいた義父と伴に度々、謁見の栄誉に預かり、慈悲と知恵による国のあり方をきいた。それは広く四方の異族、異国と共存するものであった。

海がみられよう。その方が羨ましい。

破顔する摂政の祝意を抱いて南部へと赴任した。摂政の親書を携えチャンパの港市を訪ね、あのチャンパ王との謁見の栄誉を得た。

摂政の労苦と境遇をきくチャンパ王の顔には涙が浮かんでいた。

亡き父と亡命を余儀なくされた時、何も言わず匿ってくれたダラニンドラデゥアの恩を忘れてはいない。

商務官はチャンパの港市で特別な地位を与えられチャンパと行き来する多忙に恵まれた。

月日がながれ、摂政の子息がヤショーヴァルマン帝として即位する。この最大級の情報をチャンパ王の口からきこうとは思ってもみなかった。それでも、商務官はすすむべき道が変わらないとしる。

我が娘を嫁がせる。

スーリアヴァルマン帝の遠征軍を壊滅させたチャンパ王ジャヤハリヴァルマンの屈託のない喜びがチャンパ王宮に響いた。


それからの出来事は耳を疑うものだった。ヤショーヴァルマン帝の行方不明とトリブバァナ帝の即位が伝えられた。

しばらく、身を隠すがよかろう。義父は商務大臣を解任され軟禁状態にあることを知らせてきた。仏教徒はことごとく逮捕されていた。

メーコーンの雄大なる流れがみえる。いつもの船積みの作業が続いていた。じりじりとした暑熱のなか悪夢と思いたかった。

出頭を命ずる。

昨今まで従っていた兵らが桟橋に現れた。


何の疑いがあったのでしょうか。

ただ、義父を案じ調べに従うほかなく、時にバラモンの巧みな話術に翻弄されかけながら執容な調べが一年続いた。その後、仏教徒を辞めることを薦めてきた。

あなた様の経歴を断つのは惜しい。

摂政の顔が浮かんだ。

ある日、釈放された。余りにも丁重であった。

弱った足腰を気にしながらも家族に会える喜びに勝るものはない。

捕らわれていたとは、気付きませんでした。

貴人とわかる風貌の男が従者と伴に待っていた。トリブバァナ帝が最も信頼を寄せる者が自ら来た。

あなたは。

商務官はチャンドラクマラーの顔と、ふたりで交わした友情を鮮明に覚えていた。まだヴァルナの総帥になる前にチャンドラクマラーは知見を求め南方の神殿を訪ねていた時、商務官が手助けしてくれた。メーコーンを望み互いの理想を語り合った日々、立場は違えども深いものを共有し合った。なかでもチャンドラクマラーは商務官の半生に魅了された。

友情は変わりませんぞ。

商務官は目を閉じ口を閉ざした。そして、妻子が待つ義父の家屋ヘ向かった。

これが第三身分の商務大臣の住む処かと嘆く。従者はひとりもいず、一面の庭は野菜で溢れている。だが、妻子の喜びと穏やかな義父の顔があった。

長いあいだ、ご苦労であった。

その夜、ヤショーヴァルマン帝ヘの襲撃とトリブバァナ帝の即位そして、内乱によってダラニンドラヴァルマデヴアが命を落とした経緯をきいた。その罪は仏教徒に着せられた事を知ってようやく執容な取調べの意味がわかった。

私は監視下にある。

何を怖れているのでしょう。

義父の口元にうっすらと笑みが浮かんだ。

諦めを宿した眼差しの奥には消えることのない未練がある。激しい雨季が来て去ってゆく風景が子供の頃を思い出させる。郊外の生家には、まだ開墾の余地がある。

何もせず居るのは苦痛でもあった。

だが、チャンドラクマラーの使いが尋ねて来たとき心が揺れた。

我が当主の、あなた様ヘの敬意は変わりません。

義父と私そして、仏教徒にとって敵同然でもあるトリブバァナ帝の弟のような存在の申し出に心が揺れたことを恥じた。

そのことを告げると、義父は亡き摂政の口癖を呟いた。

憎しみは心を曇らせ、真実を見失うものだ。


代り映えのない日常は、この日から変わってゆく。義父の前に現れたのは王宮からの行列であった。

深紅の日傘の鮮やかさが青空に浮かび、その下には華やかな儀仗兵が伏している。

帝がお呼びです。

義父は予想していたかのように頷いた。

トリブバァナ帝はラヴォ王国との交易再開を義父に願う。義父は応じ、見事なる成果をもたらした。かっての上役でありダラニンドラヴァルマデヴアの懐刀と呼ばれた義父を頼らなければならない事情を義父は予想していたのだろうか。

トリブバァナ帝の労いに義父は仏教徒への誤解をただすことを求めた。監視は解かれ、かっての部下や商人が訪ねて来るようになり義父の笑顔がました。

あのチャンパ王とも会ったとは。惜しいことです。

商人は婿の経歴に憧れを隠さない。チャーム人と関わらなければ巨大な国、宋国との交易が断たれる。そうした孤立は貧しさと無用な争いを生むと商人は言う。

誰もが言葉に窮するなか、商人が先帝一族の近況を口にした。トリブバァナ帝の形式上の妃とされ、プリア カンでの幽閉に身を置かれているジャヤラージャデゥイのことであった。その厳重さは異様であり情報は途絶えていた。

二百いや三百の子供らを、世話しておるようです。

甚だしい窮状を知った。

まことですか。悲しみに歪んだ義父の顔を初めてみた。

その日から義父は考えをめぐらすように北の空を眺める日々がつづいた。おそらく、妃の思いに寄り添うことを望んでいる。

私に考えがあります。

それは帝の弟であり、帝が最も信頼をおくと噂されるチャンドラクマラーに願いすることであった。

その決意に義父は頷いた。

チャンドラクマラーは歓迎と同情を示した。

どうにかしましょう。

仏教徒であることを口外できない境遇に身をおくことが決まった。

友情は変わりません。

度々ふたりは会い、世の動向を語り合う仲になった。

チャンドラクマラーの権勢が高まるにつれ二人の会話もままならないものになってゆくなか願いが叶った。

三っの村の税が王妃に充てることが決まった。


カヴィ様、あなたに仕えるよう命ぜられ今日になりました。

菩薩像を彫るカヴィに、これからの機運を想う。神秘と迷信に覆われていた時代、喩え一個の塑像でも魂が宿ると信じられた。それは、無限の輪廻のなかで人が求めるものが輪廻自体にあると気ずく瞬間といってよく、そこには自分と他人の区別が消え失せ、昇華される様相をみる。過去を慰め、未来を慰める境地が悟りと云うものならば、慈悲こそが輪廻の意味であり、菩薩の正体ではないか。

カヴィ様、先帝の妃ジャヤラージャデヴイ様は今では五百の子供らを世話しております。我が子ですら難儀するものです。

十三を越えた少年はプリア カンを離れバ チュムの寺院で暮らすか商人にあずけられると聞いた。カヴィの頭に少年ら姿と老僧の顔が浮かんだ。それは、菩薩の本質を何よりも語っているように思えた。


雨季が終わり風景が乾いてゆく。

赤茶けた通り草木の緑のなかに鮮やかな色彩の花ばなが明るい。そして、人びとの活力は正月に向けられる時期になる。豊かな実りの収穫とさまざまな娯楽への参加は人びとの往来と出会いをもたらす。クメール人はこの時期のために働いていると云っても過言ではなく、時の帝も寛大な振る舞いを命じた。

だが、今年は違った。チャンパ遠征の命に、その準備に追われる街の慌ただしさをみながらカヴィはバ チュムに通う。

菩薩像の尊顔を後回しに菩薩の持ち物である水瓶を彫っていた。しなやかな左手に持つ水瓶は流れるように腰に添えらている。誰がみてもため息を漏らす出来であろう。それから、右手に持ち胸元に抱く蕾の蓮華に取りかかっていた。極度の集中が途切れると、その度に金銅の菩薩像に目を向ける。この菩薩像に会ってから何かが止まったような気がする。

その日、蓮華の輪郭が見事に整うとするとき茎が欠けた。失敗は受け入れざろう得ない。カヴィはまだやり直しの可能性を描く。それでも、受けた衝撃は大きなもので、その場に倒れこんだ。

金銅に鈍く光る菩薩像が視界から遠のいてゆく。

ここは、どこだ。誰。

夢は気まぐれにちがいない。脈絡もなく、見知らない光景に投げ出され望むものを与えてくれることはない。それでも、人は別な世界の存在が有ることをしる。

彫工様、夢をみていたようです。

カヴィは仏僧の気配に気ずと、頬に残る涙を拭った。夢の余韻が老僧の穏やかな顔に救われる。

欠けてしまいました。

この青年彫工の自信に満ちた表情が会うたびに変わってきたことに老僧は気ずいていた。憑かれたように何かを求め何かと戦っている。その謙虚な微笑みのなかの覚悟は消えてはいないとみる。

一時の迷いを打ち消すことを教えましょう。

あなた様も菩薩なのです。

カヴィは仏僧をみる。

三十三の化身に顕れ人びとを救う菩薩の真実とは、人びとの願いが託され、形になったものであり人びとは皆 菩薩なのだと老僧は語りかける。

間をおかず老僧の眉間に険しい相が刻まれ、かぼそい声をもらした。

人は弱いものです。

カヴィは仏僧の苦悩を想う。かなりの窮状は明らかで、育ち盛りの子供をかかえ方々を尋ね食を乞い歩いている。埃をかぶった首筋に汗のあとが残っていた。カヴィは誘われるまま金銅製の菩薩像をみた。どこかで会った人物の顔がよみがえる。

仏僧殿、この菩薩は誰なのですか。

老僧は虚を突かれ動揺した。それでも、この青年に隠し事は通じないとみる。

さよう、ヤショーヴァルマン帝です。

黄金に輝く牙、その象の上ヤショーヴァルマン帝の顔が今はっきりと目に浮かんだ。

行方不明になって十年が経っていた。

生きておられますね。

すぐに仏僧は応えなかった。そこには、秘密を分かち合う者同士の眼差しがあった。

菩薩像の依頼主は先帝の妃、ジャヤラージャデヴイであることを明かす。今も妃は夫のお帰りを一日千秋の思いで待っている。同時に先帝のお帰りは再びヤショダラプラが戦場になり多くの血が流されることを意味していた。そして、ジャヤラージャデヴイはその時が間もなく来ることを受けて壊された菩薩像を依頼した。依頼はチャンパにいる夫のもとに届いたことだろう。

先帝が菩薩の加護につつまれ、大いなる慈悲を忘れないようとの祈りであった。

妃の気持ちに先帝は応えました。この菩薩像は夫婦の絆なのです。


ヤショダラプラは正月を迎えた。恒例の祭典や娯楽は中止され、遠征軍が続々と東に向かって進軍してゆく。その後を兵糧と武器を積んだ牛車が従う行列を連日のように見かけられた。何も知らず巡礼に来た地方の村人でさえ荒々しい空気をすぐに理解した。

クメール史上最大規模と呼ばれる遠征軍の話題に巷は異様に盛り上がっていた。

カヴィの下人らも勇壮な行軍を目にして帰って来た。若者らの興奮した声が耳にとどく。

確かにメーコーンを渡ればチャーム人の国に近ずく。しかし、この時期の渡河は容易なものではない。筏を組み戦象や牛車を対岸に送らなければならなず、前線に拠点を造りを逐えれば、チャンパ王国を前に雨季に入る。

雨は避けねばならない。トリブバァナ帝の慎重さを巷が讃えていた。

ただ雲ひとつない空がある。

真相を知るカヴィにとって勝敗を超えて菩薩として戦うヤショヴァルマン帝の凄まじさを

夢想する。しかし、どこまでもカヴィにとって現実とは想えない。それは神々の戯れであり、壁面に刻まれる神話であった。

この後カヴィは追放が命じられヤショダラプラを去ってゆく。間もなく無防備なヤショダラプラがチャンパに占領されるのをみる。


従兄弟のローイは事務官登用が決まりポーサットに帰る日がきた。ここ数日船を待っていた。話題の埒外であるよりも去らねばならない淋しさがある。

ローイよなぜ戦をするのだろ。

法 ダルマを守るためとも、戦自体がダルマであるとも。

勝利とはなんだろう。

ローイは応えられない。正義と勇気がもたらす余りにも自明な事をカヴィが尋ねるとは思わない。カヴィの哀しげな目が離れず思わず口に出た。

思いを果たそうする意思そのものが勝利です。

カヴィは虚を突かれたように何度もうなずいた。


カヴィは最後の鑿をいれる。あの日、象の上にあったヤショーヴァルマン帝の顔が鮮やかにカヴィの眼窩に浮かんでいた。遠くを見つめる瞳に精気が宿り、口元には微かな笑みが浮かぶ。金銅の像を超えて精緻であり、その精緻さは先帝が生きているようであった。

そして、蓮華を削り取り右手に穴を明け、寺院の池で摘んだ蓮華を通した。薄桃色の蓮華が胸に抱かれた。

老僧の感嘆の息がもれる。長い労苦が報われたかのような顔には涙が流れた。

お喜びになりましょう。

ジャヤラージャデヴイの思いが叶う時の訪れを、この菩薩像が護ってくれるだろう。

カヴィに深く合掌した老僧はカヴィの寂しげな眼差しをみる。もはや、会えなくなることを語っていた。

見送る老僧の足取りが重い。

なぜ、先帝は遠くをみっめているのでしょうか。

遠くではございません。それは、見果てぬ夢をみているのです。

午睡の刻、寝静まった静けさのなか老僧の声をきいた。


カヴィはその足でチャンドラクマラーの屋敷を尋ね仏像の完成を告げた。当主の大声が屋敷に響き、侍従らが駆け寄る。

王宮ヘ行く。支度を急げ。

当主はカヴィをねぎらい、カヴィの功労の意味をあらためて説いた。

菩薩像の完成をもって南部の太守が遠征軍に加わる約束が果たされる。

チャンパを知り水軍を擁する南部の参加は地の利の不利を打ち消してくれる。それは勝利の確信そのものである。

帝の喜びが目に浮かび、恍惚と天井を見上げる当主をカヴィは見送った。

その夜、トリブバァナ帝は祝杯をあげた。上機嫌な帝を久しぶりにみる。

あの若者に、また助けられた。

さようですな。

カヴィが帝のために彫った、踊るナタラージャを思い出す。あの頃もまた困難な時期であった。慎重な帝に勇気を与えた。

すみやかに仏像の開眼供養が挙げられ、仏僧を伴い南部へ向かう予定が交わされた。

あの若者の、菩薩像をみてみたい。

しかし、王宮に持ち込むとなれば何かと。

この一件は秘匿とされ高位高官ですら知る者がいない。あらぬ噂と誤解が生じる。

密かに王宮を出る。頼む。

クメール帝の外出は些細なことでも一大行事であった。数百の警護兵、儀仗兵に囲まれ、かかわる高官を伴う。その準備でさえ容易ではない。

トリブバァナ帝の我儘に酔いもさめる心地を覚える。だが、常に律儀に振る舞う帝の不自由に同情も抱いてきた。

一度だけですぞ。

あの若者も呼んでくれ。


久しぶりに飯の味を噛み締められる朝を迎えた。燃えるように火炎樹が朝の日を浴びている。大きくなっていた。この家屋にきて七年の年月が過ぎていた。

庭を眺めるカヴィを見つけ愛想笑いを浮かべながら近所の者が通りすがる。クメール人ほど噂好きな民族もいない。

栄誉と称賛に包まれた今をカヴィ自身もしっている。だが、菩薩の存在を知ってから何かが変わろうとしていた。

その予感がカヴィの前に現れた。

カヴィ様ですな。帝がお呼びです。

帝の内侍の声をカヴィは耳許できいた。

王宮の使いは華やかな衣装を手にバ チュムの寺院に来るようと告げた。


バ チュム寺院は異様な空気に張り詰められていた。市井の者に変装した親衛官らが所々に立ち周りを監視していた。

午睡の時刻であってもバ チュム寺院も近隣もまったく人影がない。

彫工様。

駆け寄る老僧の声には不安がにじんでいた。

寺院も人ひとり居なかった。

どうしたのです。

クメール帝の尊顔は、ひときわ神聖なもの。殊に貧民の目は穢れというのです。

炎天と静寂のなか、トリブバァナ帝の行列が寺院に入ってきた。質素な牛車から帝とチャンドラクマラーが降りてくる。すぐに日傘がかけられ老僧の前に歩む。

密かに参った。開眼供養を願う。

合掌する老僧に帝はやさしく言う。

開眼供養の費用、今後の給付と信仰の保護を語りかけ、豪気な弟の信頼を望んだ。

トリブバァナ帝はカヴィをみる。

楽しみだ。

老僧の先導でふたりは粗末な階段を登って部屋ヘと入った。炎天の明るさに目が慣れるまで少しばかり時間が要る。部屋には帝程の身丈の像とその半分程の像があった。蓮華が薄暗いなかで輝いている。

おぉ。感動の息がもれた。何という趣向だ。

トリブバァナ帝は震えながら一歩、一歩と近ずき菩薩像に敬意を示すように合掌した。

菩薩像と対面する次の瞬間、帝が石のように硬直する。そして、仰け反るように座りこんだ。驚くチャンドラクマラーが駆け寄ると手で制し何かを呟やいた。

陛下。

トリブバァナ帝の唇は震えていた。

わたしは知らなかったのです。

菩薩像は何も語らない。

老僧の予感は的中した。間近で仕えたトリブバァナ帝ならばヤショーヴァルマン帝の顔を知らない訳がない。老僧は目を閉じ合掌する他なかった。

見事な仏像だ。

トリブバァナ帝の真っ赤な目が老僧をみる。

その言葉に安堵と一抹の哀しみがよぎる。

カヴィよ。見事である。まさに生き写しであった。

日傘を拒みカヴィを見っめる。

生きておられるか。

はい。

いくつもの感情が溢れた。

その方を追放する。二度と鑿を握ってはならない。

チャンドラクマラーは一体何が起きているのかわからない。ただ、帝とカヴィに通うものを認めた。

カヴィよ。

悲痛に歪む当主の顔が去ってゆく。


あの者は生きておりますぞ。かって、帝位を与えてくれたバラモンのことばがよみがえる。その警告を半信半疑にきいた。だが、ヤショーヴァルマン帝の生き写しをみた時、存命を確信した。不可解なチャンパ王の挑発、菩薩像を依頼した南部の太守、その思惑には本当の返答が隠されているとみた。

これは、罠だ。

帰路の牛車に揺られながらトリブバァナ帝は事態を冷静にみる。もし、あの生き写しの像をみなかったら気がつかなかった。

あの若者は、助けてくれたのか。

追放を口にした自身を悔やんだ。

もはや猶予は無い。チャンパ王 ジャヤインドラヴァルマンはヤショーヴァルマン帝である。

金版に我が命令を記せ。

重大なる命令を発すとき、クメール帝は黄金の版に記す。有無を退ける絶対なる帝の意思をみよう。

南部は裏切る。チャンパの前にバティの太守を捕まえる。

チャンドラクマラーほか帝の信頼をおく者らが帝のことばをきいた。これが計略ならば遠征軍は挟み撃ちになるか孤立する。

まさか、同族に矢を打つことはないだろう。と、まだ誰もが思っていた。

チャンパ王は先帝陛下である。生きておられるのだ。

穏やかな口から、そぉ語られたとき誰もが目を見開いた。



この頃、遠征軍の先遣隊がメーコーンの渡河を終え補給線を築きながらチャンパ王国ヘ向かっていた。近隣の城市も村も歓迎し充分な補給と人足が用意されていた。チャームの勢力圏近くに大規模な兵営を設け遠征軍の到着を待つ。予定どおり万全なる準備であった。

近隣の精鋭が合流を願い、偵察の報告に先遣隊も緊張もゆるんでゆく。

チャームは怖じ気づいたか。

はやく海というものをみたいのぅ。

戦象に乗る軍人の冗談に皆がわらう。軍司令官は咎めない。勝利の後、海の近くに領地が拝領される。チャームに楔を打ち、軍事と交易を主導する都城、マハーナコンの建設がトリブバァナ帝から命じられた。その地は現在のホーチミンであろう。

水運にも恵まれた都城で軍司令官は王となる自らを夢想する。



西暦1177年 陰暦十一月のことである。

星明かりを頼りに宋人の操るジャンクとチャーム人が漕ぐ戦舟がトンレサップ川を遡っていた。メーコーン河と太湖をつなぐ水道は狭く敵、すなわちトリブバァナ帝の軍隊に発見され易くいと判断したのであろう。

頭上の星明かりが地表を影のように照らし川面が鈍く光る。ただ、櫂を漕ぐきしんだ音だけがきこえていた。

歴史はチャームが宋人の水先案内によってヤショーダラプラへ奇襲したと云う。地の利を知らず補給もできず、インドシナ最大の都城に攻めいるのである。言うまでもなくクメールの大きな勢力の協力がなければ不可能である。狭い平野から海ばかり眺めていたチャーム人にとって増水した太湖トンレサップは迷路であった。

無謀というものを超えていた。もはや、これを作戦とは呼ばない。一個の人間の信念と言う他にない。

殺してはならない。

トリブバァナ帝を挑発しクメール軍を揺動しヤショーダラプラが空になろうとするとき、かってヤショーヴァルマン帝と云われた者の忍耐が解き放たれた。

太湖の入り口、港市コンポンチュナンの朝焼けのなかを通過してゆく。河岸の村人の目が初めてみるジャンク船を見ていた。

やったぞ。

チャーム語で、そう若者は叫んだ。この若者は亡きチャンパ王の親族であり人望豊かなる者と評される王子であった。ヤショーヴァルマン帝はこの若者にジャヤインドラヴァルマンの王名を譲りチャンパ軍の指揮を委ねた。はじめて奇襲作戦を明かされた時の驚きを思い出す。

クメール軍がメーコーンを渡る同じ時、ナーガ王は故郷に還るのです。

側近の詳細な説明に安堵を覚えた。すべての準備はおえていた。

チャームをまとめ、チャンパ王としての振る舞いをお願いするばかりです。

殺してはならない。

若者は無謀なる作戦の真意をしった。

しかし、叔父様はクメール帝ではありませんか。帝位を簒奪され家族を殺された筈です。

これは、復讐ではありません。それ故に帝はヤショーヴァルマンの名を捨てられました。

未知なる価値観を前に若者の感情は苦しんだ。

名を捨て、名を譲ったクメール帝は西暦1181年ジャヤヴァルマン帝として即位する。いわゆる、ジャヤヴァルマン7世である。齢60を越えていた。

1177年末、チャンパの奇襲は成功する。命乞いをするトリブバァナ帝の命を無慈悲に奪ったと云う。しかし、それから1181年即位するまでの4年の空白は何を意味するのであろうか。

なぜ、チャーム人は4年もの間、ヤショーダラプラにいたのであろうか。

バァイョンの神殿の壁面に彫られた浮き彫りに真実が浮かびあがる。太湖での水上戦が物語るのは、クメールとチャーム双方の兵が敵味方と別れ戦闘を繰り広げる不可解な光景である。


プノン クロムの山が星明かりに浮かぶ。

未明の刻、チャンパの水軍はマへンドラの川を遡上した。王宮までは遠く戦舟で行けるのは現在の国道6号線までであった。チャンパの兵はクメール人の合図で舟を降り陸路を従ったであろう。要所要所に眼光鋭い男等がおり短い会話を残して去ってゆく。若いチャンパ王は事前にきいた周到さを目の当たりにした。

予定どおりです。

今この極限のなかにあって興奮も混乱もない。

ただ延々と家屋が続くなか、不穏を覚えた犬が吠え、方々の犬が加わる。

よほど神経質な者も、この時期の寒さに震えて外に出ようとする者はいなかった。

王宮を襲撃する者と城門を占拠する者とにチャンパ兵は別れた。いずれもクメール人の指揮に従った。

この年時にはまだ、いわゆるアンコールトムは存在しておらず、巨大な環壕も堅固なる城門もなかった。


確かに悲鳴を聞いた。鋭い物音も聞こえた。目を明けると天井を蝋燭の灯りが灯していたる。悪い夢をみたようだ。

すぐに、うめくような声と女の悲鳴が届いた。それは、間近に起きているとわかる。悪い夢に違いない。

だが、影が近かずいて来る。首元に冷たい槍がおかれた。

王宮を制圧しました。しずかにされよ。

見たこともない兵装の男等が蝋燭の灯りに浮かびあがる。この世の事象の大概は頭のなかで解決できると信じてきたトリブバァナ帝にとって、痛みとか恐怖といったものを肌で感じることのない生涯であった。

目の前いるのは精霊だと疑わなかった。

チャームの兵には帝の無表情がクメール帝の威厳にさえ映った。

よく、観察されよ。まずは都城の制圧です。

叔父の側近のことばに若いチャンパ王がうなずく。

内侍の者、王宮に居する宮内官や女官が謁見の間に引きずられて来る。そして、槍を向けられ玉座にあるトリブバァナ帝の姿をみた。

いったい、これはどうしたのだ。

チャンパの兵ですぞ。宮内官の歪んだ顔を帝はみる。見慣れない兵装を暴漢はする、山地の異族もそうだときいた。

合図とともに帝の首元に槍がちかずく。

クメール帝よ、ただちに我らに従う命を下されよ。

まだ日の出前の暗闇のなか、帝の側近らは護衛である親衛長官、門衛府に駆け出し帝の命令を伝えた。武装解除であり、城門の閉鎖である。もちろん、チャンパ兵に王宮が占拠されトリブバァナ帝の生命の危機を知った。


早朝の靄のなかを後に、ジャヤヴァルマン7世となる男が王宮前を通る。チャンパ兵の歓呼に応じる。敬意に満ちた若いチャンパ王が待ち構えていた。

冷静なる若者の表情に安堵を覚えたことだろう。

朝靄のなかにクメール帝国の枢要をなす官庁の建物群が浮かびあがってきた。チャームの兵はその威容に圧倒された。

そのなかを、戦象が北ヘと向かう。


プリア カンは朝の陽射しのなかにあった。

かっての華やかな宮殿の面影もないほど荒れ果てたなかにジャヤラージャデヴィが待っていた。

この十年の歳月がふたりに与えた労苦を思い、ふたりは見つめ会った。

背後に幼い娘らが大勢いる。娘らは王妃にしがみつきマァ、マァと甘える。

あなたが居ない間、たくさんの子供に恵まれました。

男の微笑みに妻は声を殺した。

荒れ果てた宮殿には何もなかった。大事に飼っていた鶏を潰し、池の小魚を捕る。五百を数える娘らにはご馳走であったろう。

はしゃぐ娘らの姿と、娘らのアプサラの舞いに男は束の間の幸せをかみしめた。

今この時、王宮は占拠されている。間もなく悪夢がヤショーダラプラを騒然とさせるだろう。男のもとには次々に伝令が駆けつけ男の命を仰いで去ってゆく。

夫に時間はない。

即位の儀式を挙げ、あらたな秩序をつくるとともに引き返してくる遠征軍に対処しなければならいことを、ジャヤラージャデヴィもわかっている。

しずかな午睡のなか老僧らが菩薩像を運んできた。死んだように眠る帝に合掌する。

王妃さま、願いは叶いましょう。

菩薩像はふたりが最も華やいでいた頃の夫の顔であり、夫の生きざまを写していた。

夫が目を覚ますと妻は摘んだばかりの蓮華を右手に差した。うす桃色の蕾には、これまでの歳月と未來を宿して輝いている。

ともに来てくれぬか。

妻は小さく首をふる。

あなたは菩薩です。

ふたりが、一族が理想を求めてどれだけの犠牲をはらってきたかを想う。

朝靄のなか夫を見送る妻の隣に姉、インドラデヴィの姿があった。

至福に満ちた妹の顔を姉は生涯忘れることはなかった。ジャヤラージャデヴィは即位後、間もなく亡くなり姉インドラデヴィが後添いになったと碑文は語る。ジャヤラージャデヴィの死の真相が空白の4年間、そのものであった。束の間の再会から7日が過ぎた日、チャンパ身内に内紛が起こり、兵団がふたつに別れて争う事態になる。解放されたトリブバァナ帝はプリア カンを占拠しジャヤラージャデヴィを人質にする。そして、徴兵令を発した。

ジャヤヴァルマン帝はチャンパ王の裏切りを戦象の上できいた。

妻への想いに自らの運命を呪う。

あなたは菩薩です。

妻のことばがよみがえる。それは最後のことばでもあった。

プリア カンが最後の激戦地になった理由はジャヤヴァルマン7世の妃をめぐる攻防であった。そのなかで、ジャヤラージャデヴィは夫のため自ら命を絶った。


見慣れた池に射す日の輝きと、その向こうに咲き乱れる蓮華をトリブバァナ帝はみつめていた。視界のなかにチャームの兵がある。敗北の事実は死の恐怖を超えていた。流れる川に身を委ねる他に何を想えようか。

甥のすすり泣きが耳にはいる。親衛長官として屈辱的な指示を受ける役目であった。

捕らえろ。

流暢なクメール語を話し、内情を知る者に感心と同時に疑念もいだいく。その者らの目はチャームの兵とは明らかに違う。

その方、龍の使いであろう。

眉ひとつ動かさない目がトリブバァナ帝をみる。無言の目に憎みも嘲りもない。

やはり、そうだとみる。

高位高官をはじめ軍司令官の妻妾が拘束されたことを耳にして王宮は無論、都城が完全に制圧されたと悟った。

王妃の泣き声が哀れを誘う。だが、広大なる池の輝きを見つめるトリブバァナ帝の心には、もはや響かなかった。

チャンパ兵の隊列がこちらに向かって来る。鎧と頭巾をまとう兵にクメール人は奇異を覚えて眉をひそめる。重い兵装はそれは、いかにチャンパが戦乱に苦しみ、戦闘に慣れているかを語るものである。

我らがチャンパ王が参られます。

なんだと。激しい緊張が突きあがる。まさか、王自らが来た事は想定外であった。そして、そのチャンパ王の正体が先帝であると睨んでいたトリブバァナ帝は来るべき時をしった。

それも、一興ではないか。

精悍な兵の目に悦びが浮かぶ。

兵とは、このようなものだ。

隊列が広がり、ある若者を囲み敬意を示した。

チャンパ王、ジャヤインドラヴァルマンと初めて対峙したトリブバァナ帝は、その若さと美しい顔立ちに驚き、その口から流暢なクメール語を聞くとは思わなかった。

さすがはクメール帝、敬意を新たにしました。

これだけの敵兵に囲まれながらも毅然とした態度は瞠目に値する。この奇襲の成功は人質がこうでなければならない。

まことに、チャンパ王なのか。

無礼ではないか。

まぁ、よい。

ジャヤインドラヴァルマンは側近を抑え要求を突き付ける。スーリアヴァルマン帝の為した損害ヘの賠償とチャンパ遠征軍の撤退でありトリブバァナ帝の罪を問うものだった。

勝者の要求に感慨も沸くこともなかったが、

遠征軍には金版を用い最終的な命令を発していた。

我が軍は何人の命もきかないであろう。

クメール帝の死が報じられ、妻妾が捕らわれていることを知れば、どうですかな。

トリブバァナ帝の口元が緩む。やはり、若者だと思った。帝は若者を諭す。

卑怯な振る舞い、この屈辱は取り返しのつかぬ禍根を残す。恨みは復讐となる。チャンパの国益に合わないとしるべきではないか。

重々承知であると若き王が微笑む。

不殺生を実践する戦いです。

ヒンドゥーの教えには無い思想は妙な説得力を放った。

返す言葉がなかった。

そうだ、戦争は意思の表明であり戦闘そのものではない。理想を為したというのか。

クメール帝よ、安住の地にお連れします。

流刑か、見事だ。この勝利は永く語り継がれるだろう。トリブバァナ帝は最後の敗北を認めた。しかし、その相手が先帝陛下であると若者は知らない。

油断するな。

チャームの言葉に兵が応じた。


翌朝、クメール帝の宝物庫が開けられた。歴代のクメール帝から引き継がれたであろう品々は圧巻であった。金蔵はひと際厳重であり、その扉が開けられると鈍く光る黄金が大量に積まれいた。

チャンパ王は息をのんだ。

交易はおろか何でもできるであろう。それが、黄金の力だ。

特別な場合を除いて、黄金は儀礼と神殿に使われます。

宝物庫をあずかるクメールの大官は平然とそお言うと、銀 銅 錫そして鉛を指ししめした。古より、これら貴金属は神殿の奉納物となり、踊り子の装飾をなし、臣下に下賜される位階傘に使われると言う。

この国は不可解だ。内に籠って自らの価値に耽溺してきたというのか。

チャンパ王は叔父ヤショーヴァルマン帝が語った真意を、この黄金にみた。

叔父がプノン王家の遺産の存在を明かした日を思いだす。

遺産を使う時がきた。プノンは蘇る。

両手で抱えられた黄金の重みを噛みしめながら若きチャンパ王もチャンパの未来に思いを馳せる。大越に奪われた北部の土地の奪還はチャーム人の長年の悲願であり、この黄金を計略に使えば李朝を攻略できる。

このひと山でよい。明後日、運びだす。

それは全体の十分の一の量にみえる。

若。その聞き慣れた声が呼ぶ。

振り返ると親しい重臣らの顔が不満で歪んでいた。子供の時から仕え、海原を共にしてきた重臣は兄であり友であった。

遠慮が要りましょうか。惨めな交易を変えられますぞ。

この十年の間クメールとの対立を余儀なくされたチャンパもまた疲弊していた。黄金は大きな取引を呼び寄せる。

躊躇する王にクメール帝の配下が応える。

さよう、遠慮は要りません。

配下は黄金に輝くピミアナカスを望んだ。

当時であれピミアナカスは謎の神殿である。誰が、何のために建造したのか不明である事は畏怖の念を与えてきた。

あの神殿の最上階を黄金に輝く構造に改修したのはスーリアヴァルマン一世であったに違いない。最上階の敷石に敷き詰められた黄金を目の当たりにした時、それがプノン王家の遺産であり、龍の娘に受け継がれていることを知った。スーリアヴァルマン帝は封印する事を決め黄金の頂を築造し、それ以来神殿の真後ろに王宮が営まれることになる。

おそらく、170年の封印が解かれる。碑文が莫大な黄金の存在に触れるのはジャヤヴァルマン七世の時代が最初である。プノン王家の黄金は龍の娘に引き継がれピミアナカスに封印された。クメールの最初の女王ジャヤデヴィが後世に託した願いが五百年の歳月を経て開封されようしていた。

この頃、都城の事件がヤショーダラプラに知れわたっていた。チャンパの奇襲、占拠という語彙は荒唐無稽に聞こえる。それでも固く閉ざされた門にうなだれた門衛を見ると誰もが異変を認めるしかなかった。

トリブバァナ帝の死去が漏れたり、健在の報せが市中をめぐる、巧妙なる情報操作がおこなわれていた。

どうなるのだ。

人びとの間に一喜一憂はない。都城の外に住む数十万の人びとにとってクメール帝は神であった。その神は見えざる力によって数十万の生活を運営していた。米をつくる者、魚をとる者、運ぶ者、数多の職人、割り当てられた仕事が充分な食を保証し、時に衣類の配給に喜び、余暇を生産に当て不足を補う。近世までのカンボジアで物々交換を可能にした由縁であり幸福なる経済統制であった。

この変わらぬ日常が混乱することに危惧を覚えながらも、人びとの本能は変わることへの契機と感じたとしてもおかしくない。

スーリアヴァルマン帝の覇権は自らの生涯とともに幕を閉じた。だが、その一方でインドシナの大地に沸騰するような経済活動をもたらしたことを忘れてはならない。人と物の交流は多様な価値をヤショーダラプラそして、インドシナの人びとに残した。

あの山の向こうには何があるのであろう。時に、人はこの素朴な疑問に不安よりも憧れを抱く。経済の勃興とは人の自由な移動であり、この時代のインドシナの自由とは秩序がもたらす安心感といえる。

数年後、ジャヤヴァルマン7世の構想がいわゆる王道としてインドシナの大地に展開してゆくのをみる。慈悲と知恵の両輪は診療所と学校を兼ねた宿駅として具現化してゆく。その安心感に最も順応したのがシャーム人であり、この理想はスコータイに受継がれた。


日が西ヘと向かう空の青さに御苑の風景も穏やかに応じている。こうして池を眺めながら歩いていると、ここがクメール人の王都であることが夢のように思える。莫大な黄金を手に英雄として帰還する自らの姿も夢のようであった。

プノン クロムの港に整然と並ぶ戦舟と二隻のジャンクの接岸の報せに若き王は安堵の息をついた。

チャンパ兵の監視のもと、クメール大官の指示に多くの者が懸命に動いた。予想した不測の事態は起きなかった。

心配は杞憂です。これは、王命ですから。

クメール大官は平然と言う。

クメール人とは、命令にこうも従順なのか。若きチャンパ王は自国の内紛の歴史を想う。

チャンパ王国は緩やかな港市の連合体である。危機がなければ、その状態を好んだ。

海原を自由に行き交うチャーム人は多様な価値観と共存し、個人を持っていた。同じ人間かと驚く風貌の男たち、奇異な神を崇める者らとの駆引きを通して交易が成立する。それは躍動であり自由と富に目覚めた者の生き生きとした姿であった。

私も、そのひとりでありたかった。

しかし、クメール帝への恩義とクメール帝の理想であるインドシナの統合は、それら凡て叶える意味があった。

帰ろうぞ。

明るい重臣らの声が、その響きと重なる時、池の水面に映す日射しの遠くに深紅の日傘をみた。

何のまねだ。重臣らの嗤いに槍を持った兵が前に繰り出そうとする。

おやめなさい。ラージャ クマリー、王女様です。よいかな。

ジャヤヴァルマン帝の側近が諌める。敗北がクメール帝の神聖を犯すものではない。課せられた義務遂行の結果は神の領域にあり、天命に従ったクメール帝に何人も感情を表すことを控える。

だが、王女は神ではなく、クメール人の母系相続の象徴であった。

王女に指一本、触れたなら我々は生きて都城を出れませんぞ。

深紅の日傘が緑の風景を遠いものとしながら近ずいて来る。その鮮やかさは落日のなかに咲く華にみえた。苦い思いが若者の胸を苦しめる。戦禍に覆われた幼少期の記憶と重なる。あの日、勝者に召されてゆく姉を桟橋で見送った。朝焼けのなか船に乗り込む姉の顔に運命を受け入れた女人の美しさをみた。子供ごころに切なさを残した。

待っておれ。

しかし、女人といえど。

重臣らの戸惑う声も若き王の目に宿る涙に気ずいた。

若者の歩みが王女一行に近ずいて行くと王女もまた従者を下がらせた。これまで、これほど煌びやか衣裳を知らない。

初めてふたりの瞳が会った刹那、ふたりの瞳は微かに驚きに揺れそして、互いの沈黙の意味をふたりが覚るのに時は要らなかった。

羞恥に微笑をみせる若者と決意に歪む王女の唇が震えた時、王女の短刀が若者の胸にあてられた。ちくりと痛みがはしり血がつたう。変わらね若者の眼差しに王女の手から刃が落ちた。得体の知れない情念が恋であることを拒みたかった。恋とは身も心も委ねることならば、ひとときであれ王女であることも、この世のことも忘れたことになる。

わたしは死んだ。歓びと死が重なる。

この情念を解くすべがわからず、王女は咄嗟に短刀を拾い自らの首筋に刃をあてた。

何もみえない。何も聞こえない。ただ若者の眼差しがある。そして、若者の唇からからもれることばを待つている。次の若者のことばが、この世の答えであった。

王女は若者の哀しい眼差しをみつめた。

何もかもすてます。初めて聞く若者の声、王女は、その意味に驚愕する。

このひとも死を覚悟した。

若者の手が短刀を握りる王女の手を包む。王女はその温もりから現世に還り、ひとりの娘になった。

ふたりの沈黙は、ふたりの意思が神々の前で誓いをたてる儀式のようであった。

喩え、神々がふたりの意思を拒むものとなろうと、その予感さえ甘美であった。

王女は若者の血を拭う。

今宵、 あなたヘの誓いを舞うわ。


我が妃とすることに決めた。

重臣らは我が耳を疑い、咄嗟に周りを睨んだ。

無用な誤解をうけますぞ。

この若きチャンパ王は正嫡ではない。ジャヤハリヴァルマン王の跡継ぎが成人を待つ間の王であった。それでも、英雄として凱旋すれば人心は変わり待望される。そして、有力者の娘を娶ることによって磐石となる。チャンパは大きく三つの港市の連合体であった。この奇襲に参加した兵も三つの港市の精鋭であり、亡きジャヤハリヴァルマン王の兵が最大をなしており、ヤショーヴァルマン帝ヘの忠誠は亡き王の遺言であった。

この成功と引き換えにしてもクメール王女を娶ると若者の意思は変わらない。

側室ならば。

しかも、正妃を娶った後のこと。

重臣らの痛々しい忠誠心が胸に刺さる。だが、若者の瞼には王女の瞳が浮かぶ。

何もかもすてる。その余韻が胸をしめつけた。

日が傾きゆく。影に沈みゆく王都の空が狭く思えた。やがて漆黒の闇が現実を覆い若者の想いを自由にしてくれるのか。荘厳なる正殿の回廊から西の空をみる。黄金に輝くピミアナカスと王宮の赤茶けた瓦が黄ばんだ空と馴染んでいた。

会いたい。消えゆく風景のなかで王女の姿が今だ明るい日射しのなかにある。

蝋燭の灯りが行列をなして近づいて来る。無数の灯りが踊り子のものと知るとチャンパ兵の緊張もとけ、踊り子の美しさに目を奪われた。黄金の髪飾り、肢体を包む美しい衣裳、手足に嵌められた黄金を目の当たりにチャンパ兵は天女をみた。

行ってはなりません。

若者は重臣の叫びをきいた。

王女さまはお約束を果たされます。

若者の前に黄金の輿が用意された。

日が沈み、心地よい冷気が肌を撫でる。篝火のなかに王女が待っていた。燃え盛る炎が王女の瞳をゆらしている。妖艶とも孤高とも思える光を若者は見つめた。

お待ちしていました。

王女の合図で銅鑼が鳴った。すると、方々に篝火があらわれ水面を照らすと、若者はふたりの近くに浮かぶ舟に気ずいた。竜があしらわれた船首、舞台を想わせる造りは豊かに装飾されていた。

さぁ。王女が誘う。

漕ぎ手の腕が小さく動き、音もなく水面を滑る。

しずかに篝火が水面をゆらす光景がふたりを取り囲んだ。薄い膜を張ったような水面は手に届く世界ではないような気がした。

王女の唇がゆるむ。しなやかな王女の手が天空を指すように掲げられ、その合図に水辺の火が消されてゆく。瞬く間に漆黒の闇がふたりを包んだ。ふたりは微かな息を確かめるようにみっめあった。

やがて、王女の顔が星明かりを浴びて浮かびあがる。燦々と輝く星ぼしに埋めつくされた天空に若者は気ずき感嘆の息をもらす。

無邪気に天空を見る若者に王女が初めて少女のように微笑む。

いつの世も、この果てしない星空に祈りや願いを託してきたのかもしれない。そして、ひとときの無言の対話に在るものは歓びであろうとも、儚さであろうとも、やがて、人は神々しいものの存在、その根源ヘと還ってゆく。

若者は仰向けになって航海の話しをする。甲板から星ぼしをみながら眠った思い出であった。星ぼしの沈黙は孤独を教え、自由と云うものが寂漠に思えた。潮の匂い、波の音が愛おしいものだったと白状した。

海をみたい。あなたと船にのって。

約束しよう。

王女がグラスに注ぐ酒からは甘酸っぱい香りが漂う。芳醇であり、毒々しい味がした。若者は、この酒が駱駝に背負われ砂漠というもの越え、船に積まれてたどり着く旅路をマレーの港市できいた。

この酒は命懸けで辿り着いたものです。

王女は、そんな夢物語を可笑しくもきいた。

ただ、夢中に話す若者の顔が幸せをくれた。

わずかな星明かりに浮かぶ静寂に銅鑼が鳴った。間もなく、篝火が灯りはじめ軽妙な楽音が近ずいてくる。楽隊、歌い手の舟、そして、舞台を模した筏に天女たちが控えていた。無数の炎にゆるれる水面が闇夜に浮かぶ光景が水辺にいる者らのため息がとどく。

王女が舞台に移ると、歌い手の声が闇夜に響き、軽妙な楽音がはじまった。

王女の手の蓮華が舞い、流れるように手脚が舞う。いわば善と悪の拮抗から生まれたアプサラスの天命が美であるように、王女の眼差しに迷いのない美があった。

称揚と哀切に高揚する歌声に引き込まれたかと思うと、木琴や弦の音が日常という現世に帰してくれる。耳をすませば、人生はこの音に包まれているのかもしれない。

赤にみたされたグラス越しに王女が舞う。

ふたりの目が会った。



一巻 完。




























































































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