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クメール帝国秘史 蓮華を抱く者  作者: ミウラ シンジ
蓮華を抱く者
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龍の娘

神殿を中心に都城造営が始まった。小さくも優美なものを、との帝の意向が反映された図面を前にトリブバァナ帝は造営を担う大臣等から説明を聴いている。当然そのなかにはチャンドラクマラーの顔もあった。

遠祖の加護、約束の地と言っても過言ではありません。

トリブバァナ帝は神妙にうなずく。神殿の真北に構える王宮、そして、その背後に造営される後宮と巨大な蓮池の説明を受けた時、さすがに帝は声を漏らしそうになった。

まぶたに浮かぶようだ。それにしても巨大な王宮だ。

予定される地に有る物の撤去が進められ、神殿建立の地点に結界が張られた。

その日、占星官が選んだ吉日をもって施工の始まりとなす。深夜であった。煌々とする星辰を頭上に望みながら施主であるトリブバァナ帝が篝火のなか結界へと歩みをすすめた。

正妃、王女そしてまだ年少の王子らが続いた。結界のなかには祭壇が設けられ祭儀官らが座っている。占星官が広大なる天空を示し、たった今を刻んだ。この煌々とある星久は人の運命のように流を止めることはない。それ故日時を刻する事は宇宙が証人となる。

祭壇の燃え盛る火を無心で見つめる者達の息ずかいが微かに伝わる。その気配をトリブバァナ帝は隣にいる王女からも感じた。王女の瞳は祭壇の火を映し天空の星のように澄んでいた。何か決意を秘めた光に息をのむ。

王女の小さな唇から言葉がもれた。

私は龍の娘。そお言うと父親を見つめた。

トリブバァナ帝は愕然として身体の震えるのを必死で抑えた。


王女に余計なことを吹き込んだのはそのほうか。見たこともない帝の眼光に王女付きの学者は狼狽するしかなかった。ピミアナカス、天空の宮殿の伝説とその由来を王女に訊ねられたことを帝に述べた。

確か七年も前のことです。

帝の正妻である王妃が奉仕の者の制止を聞かずピミアナカスの主殿に登ろうとした。木製の階段を数段登った時、急な目眩に襲われ足を踏み外した。侍女らが支え大事にいたらなかったが王族の夫人らを前に恥をかいた。その出来事はひそひそ話として侍女から王妃の耳に伝わる。

龍の神様のたたりよ。

王妃は屈辱と不気味さを覚え、この王宮から出たいとトリブバァナ帝に懇願した。帝になって間もなくの頃で、この我儘を認めた。

はじめて聞く話だ。

その日、王女も母に従い王族夫人等と王宮を散策していた。ピミアナカスの神殿は黄金に輝き、観る者を圧倒する。

登ってみたい。王女のことばに居合わせた夫人らは困ったような笑みをつくった。この特別な神殿は誰が、何のために建立されたかわからず謎に包まれていた。神聖というものを超え畏怖の念を観る者に与え誰もが、あえて触れようとしなかった。ただ、この神殿に仕える者らが粛然と奉仕の業をしている。さすがに王妃ら一行に気ずくと、片膝をつけ頭を深々と下げた。この者らは代々世襲であり、宗務行政の枠外にあると聞く。

不気味な者達だと王妃は思った。

これより、参拝いたす。よいな。

仕える者等は祭官が不在であることを理由に断りを述べる。その堂々とした態度に王妃は激昂した。その声に武具を持つ侍女らが駆けつけ仕える者等を打ちのめした。

王妃様に災いが及ぶやも知れませぬ。

無礼者。王妃の甲高い笑い声が静寂に響いた。が、呪いは現実のものとなった。

王妃の失態を目の当たりにした王女は隠されている何ものかを感じた。

あの神殿の来歴ということですかな。王女の真摯な眼差しに学者は適当に誤魔化すことを諦めた。もはや、記録も失われ伝説の類いに覆われたものとなっていることを説明したが

聡明な王女の瞳は揺るがない。

伝承によりますと、およそ六百年前に遡ります。ここからは私の推察になります。

王女の唇が微かにうごいた。

かつて、この地はプノンと云い山の王が君臨した。漢人は扶南と記した。

インドシナの海や河川を舞台にプノン王国は実に多くの民族を抱えながら、繁栄を謳歌した。全く違うヒンドゥーの国々と漢人の国を交易によって結びつけた。永くあった栄光の時代、育まれた価値観、五百年の歳月はインドシナの国々に共有された。

しかし、栄枯盛衰は訪れる。人口が増えてゆく内陸部の不満が王位継承の形で現れ、争いになる。多くの人口を擁する者が王位を継ぎルドラヴァルマンと名乗った。その後チェンラと名のる。王の固い意思はプノン王家との決別でもあった。

落日したとはいえプノン王家は、その威信によって余命を保つことになる。双方には多くの血縁者がおり、プノン王家への敬意が消えることはなかった。

ルドラヴァルマン王の子の時代、この二つ王家は和解した。チェンラの王子がプノン王家の王女を娶り、その間に生まれた娘をもってチェンラの王権の正統性とプノン王家の栄光が相続されるとの約束が交わされ、プノン王家は海の彼方へと去って行った。西暦七世紀のはじめの頃であった。

この娘とこの娘が産んだ女児は秘かに龍の娘と呼ばれ、この母系相続を護る五百の者等を龍の使いといった。チェンラ王国が混乱した時、龍の使いは当時、王城から遠いこの無人の地で護ることを決めた。

ピミアンナカスは龍の娘の神殿であったのでございます。

果てしない時間の流れと今がここに厳としてある事実に王女は震えを隠しきれない。王女の瞳に学者は吸い込まれてゆく気がした。

あの神殿に祭られている主神の名を、ガンビレシュウバーラと申します。奥義の神との意味でございます。

確かにシバ神、ビシュヌ神、インドラ神といったヒンドゥーを代表する神々ではない。

奥義の神。隠された真実と云うこと。

さよう、謎に包まれた神の正体は龍の娘でなければ説明ができません。

十三歳であった王女は深くうなずいた。そして自身も王族のなかの王族であることを知っている。

私も龍の娘の血が流れておりましょうか。

王女の突き刺さる瞳に学者は困惑した。十三歳の娘が本気で興味を抱くことではない。学者は焦りだし汗を拭う。

もちろんでございます。ただし、龍の娘は秘密にされておるのです。

龍の娘は、このインドシナを相続する権利を保持したまま、プノン王家の母系相続は今に至るまでこのマハーナコン、ヤショ-ダラプラに続いている。マハーナコンとは偉大なる龍の都の意であった。そして、暗黙のなかにありながらも龍の娘を娶った者、あるいは龍の娘の産んだ男子に四周の国々が敬意を払った。

王女は窓辺からピミアンナカスの神殿を望む。日差しを受け柔らかに輝いている。

おじ様、このお話は二人の秘密よ。秘密は龍の娘の約束事でしょう。

その時からです。

王女の学問への真摯なる取り組みは驚くべきものとなる。成長するにつれ多くの学者や芸術家が王女の命によって王宮に招かれた。母親と違い王宮に残った王女と、その賑やかさはトリブバァナ帝を慰めた。この娘の願いならば何でも叶えてあげたい。

王女から、親しくおじ様と呼ばれる学者はトリブバァナ帝の一門に属する、いち学者に過ぎず血縁どころか身分もなかったが、王女の確かな信頼を感じたトリブバァナ帝は、この学者に王女の侍従職と破格の身分を与えた。学者はその恩恵の大きさの凄まじさに夢をみているようだと呟いた。

忘れ去ったと思ったこの頃、誰も側に居ない静けさを確かめると王女は龍の娘の話しを切り出した。

どなたが、龍の娘であったのでしょか。

王女の侍従職となってから、名門貴族、人々に尊敬される祭儀官も、この学者を軽く扱う者はいなくなっていた。王女様の好奇心には頭が下がるばかりです。さようです。昔話です。と言っては歴代帝にまつわる事蹟を秘かに集めた。

調べている最中です。が、今までのところを、お話しします。おひとりは、

パラマビシュヌロカと諡名されし帝、いわゆるスーリアヴァルマン二世の母親 ナァレンドララクシュミーが龍の娘であると説いた。母親がマヒーダラプラ王家の後継者、クシティンドラディトヤ王子に嫁ぐことになった理由は不明ながら、西暦1094年この夫妻からスーリアヴァルマン帝が誕生する。はじめから夫妻の幸せは鳥籠の中にあるようなもので欲望と権力に利用される宿命にあった。クシティンドラディトヤ王子の兄ジャヤヴァルマン六世が帝となり得た理由、そしてマハーナコンにて至上の大権を欲した兄は弟を暗殺し龍の娘ナァレンドララクシュミーを自分の妃にすることでマハーナコンで君臨することが出来たのであろう。

母の哀しみと亡き父親の無念、そして龍の使いを通して己が歴代のクメール帝と繋がりを知った時、スーリアヴァルマン帝は叔父らを滅ぼすことを誓った。

まだ学生期が終わらぬ時、復讐の兵を挙げた。そして十八歳の若者が帝位を得たと碑文は云う。まともに家臣さえいない若者が何故、この大事を可能にし得たのか。龍の娘の不幸と護れなかった悔恨に龍の使い等は、この若者のため死に物狂いの働きをした。

ナァレンドララクシュミーはスーリアヴァルマン帝の孫娘であり若者にとって憧憬と模範にする唯一の存在であった。スーリアヴァルマン帝の生涯は、その名を継いだ曾祖父のように遠征と神殿造営に費やされた。その情念の激しさをインドシナの人々は目の当たりする。

学者の淡々と説く話しを聞いている王女の頬に涙がつたわっていることに気ずいた。しかし、その瞳は動ずることがない。なんとも神々しいお方だ。学者は感動を覚える。それは想像のなかに浮かぶ龍の娘を、この目で見た瞬間であった。

幸福とは言い難い、龍の娘としての生涯であったと推察します。

王女はうなずいた。

もう、お一人おります。

王女は小さく首を横にふった。

あのスーリアヴァルマン帝の生涯に隠れた秘密に母の不幸があった。王女は、その情景を想い放心したように宙を見つめる。

少女の儚さに学者は危うさを覚え敢えて口を開いた。

もうひとりの龍の娘、ジャヤラージャチュウダマニー様です。ナァレンドララクシュミー様とは姪にあたります。

学者が一礼して立ち去る時、王女の顔が少しばかり歪んだようにみえた。

王女は幼少の時、ジャヤラージャチュウダマニーと会っていた。緊張する母親と訪問した無邪気な娘は、やさしい老婆に手招かれるまま老婆の膝にのったことを憶えている。それが、いつからか罪びとになっていた。

天空の宮殿、ピミアンナカスの輝きと龍の娘の境遇に王女は深い謎を想う。


数千の住人の動員が始められ還壕の掘削と宿舎の建築がはじまった。

日を追うごとく高まる人びとの熱気がヤショーダラプラに溢れる様子をトリブバァナ帝は王宮で聞いた。見事なまでの運営能力を褒め、ヤショーダラプラの住人の献身にうなずく。

まずは、食うものに困らせてはならない。そして、十年間に渡って従事する者等には相応の給付が用意されてゆく。新築の家屋や牛車であったり、新しい村をつくるための土地であったりと人びとの生活や人生が変わってゆく。その契機を最も得るのは高位高官らであり、地方も含めた有力者であった。彼等は身分を望み、帝から下賜されるヒンドゥー風の名を欲した。そして何よりも彼等を悩ませているのは、二十歳を迎えた王女が誰と婚姻するかであった。王女の夫となる者が次ぎの帝になり栄枯盛衰が決まる。王女の侍従とその家族は、そのような渦中にあった。

龍の娘か。どうすればよいのだ。トリブバァナ帝の悩ましい息使いに王女の侍従もうつむくしかない。


最初に四方の起点である神殿建立が優先される。チャンドラクマラーと測量士は掘削される神殿基底を見詰めていた。この後、よく付き固められた上に紅土が敷き詰められ積み重ねられ外観をなす。そして、その基体を美しい砂岩が装飾してゆく。

カヴィよ、それからがお前の出番だ。

周りには何百の者等が作業をしているなか監督官の怒声も聞こえてくる。だが、そんな喧騒はこの二人には耳に入らなかった。

いちから見ておくのも大事なことだとチャンドラクマラーはカヴィを呼び寄せていた。切り出された紅土が強い日差しを受けて硬化をまっている様は圧巻であった。

激しい雨季がくる前に基礎を終える。

チャンドラクマラーの横顔には悲願を前にした者が発する妖気があった。

その妖気といったものを騒然する視界のなかに気ずくとチャンドラクマラーは愕然とした。半裸の男どもが作業をしているなか王宮の女官を従えて向かってくるのは王女であった。王女だとは誰も知らない筈だが現場は止まり、監督官も、その纏った衣装に片膝をついて応えている。

王女が、このような場に来ることはない。


許してはおらぬぞ。帝の叱責に王女は失望の色をあらわにした。だが、その瞳には強い光を宿して帝に迫ってくる。

可憐だ。一輪の蓮の花のようだ。トリブバァナ帝の側に侍するチャンドラクマラーは、そう思った。

お願いがあります。

王女のことばに父親は笑顔する。

カーリー女神を神殿に納めたいの。

激しい女神の姿と愛おしい娘の可憐さに違和感を覚えチャンドラクマラーに意を求めた。

カーリー女神は血に飢えた殺戮の神であり、シバ神が最も怖れた妃の形相である。クメール人は穏やかさを好み、ヒンドゥーの世界がもつ激しさとその毒々したものを受け入れなかった。だが、唯一カーリー女神を主神に祀る神殿がある。

山頂に建立された、あの神殿。

何故、王女はプリア ヴィヒヤの主神をお望みなのか。王女の瞳に一抹の疑念は消える。

王女様の望みは叶えられましょう。

喜ぶ王女に破顔するトリブバァナ帝からは、ありふれた親子の日常の風景があった。


夕方には沐浴も厭わしく感じる寒さが訪れる。トリブバァナ帝は日の残りを恨めしく見ながら沐浴に奉ずる女官らを待っていが現れたのは宮内官らであった。

その表情は普段のものとは違って険しい。

帝に謁見を求める大臣らが参内しているとの報せにトリブバァナ帝は退屈が紛れると悦んだ。

チャムがシャンブプラに侵攻しました。大臣の一言が悪い夢のように思えた。シャンブプラは大河メーコン沿いにある城市でありクメールの王族にとって祖地でもあった。その重要さから多くの兵を養っており容易く侵攻を許す筈もない。

あっという間の出来事に逃げるのが精一杯でございました。

シャンブプラの使者の説明に重臣らの表情は怒りをを浮かべている。

解らぬ。チャームに何の利益があろうか。トリブバァナ帝の一言に頷く重臣もいた。

チャームの、この暴挙に喜ぶのは越南であった。おもしろいことになる。越南人は歓喜するだろう。越南は虎視眈々と南下の機会を窺っていたが、クメール帝国が、それを許す筈もないと知っている。チャームとクメールは一時の不仲もあったが、双方の王族には婚姻を通して結ばれた永い歴史があった。だが、

チャームは侮れない。三十年前、スーリアヴァルマン帝の大軍を壊滅に追い込んだ記憶はまだ消えることがない。スーリアヴァルマン帝の野望を砕きチャームを守ったジャヤハリヴァルマン王の名声は、このインドシナにとどろいた。

そのジャヤハリヴァルマン王も三年前に亡くなったとの報せに接した時トリブバァナ帝は運が向いてきたと思った。

不可解だ。だが、事は急を要する。

トリブバァナ帝の命令を待つ軍司令官は意見を求めるられるまで、この軍司令官は自分の存在をどれほど高められるか案じていた。再びのマヒーダラプラ王家の隆盛がかかった千載一遇の機会であった。

帝の威信に挑戦する愚かさをチャームは後悔することになりましょう。五千の兵力をお許し願います。

状況がわからぬなか適当な兵力であり、すぐにも編成を終える。

一万の兵力がよかろう。トリブバァナ帝は圧倒的な兵力によって戦闘を避け、内外に自らの威信を知らしめることを目論んだ。軍司令官は呆気にとられ、大臣らは動揺した。

帝よ、造営に障りが生じます。

何のことだ。

この時代、戦争は自然環境との戦いでもあった。過酷な暑熱と人力では制御できない自然の猛威のなかを行軍する。見渡す限り目の前は木々と水溜まりが延々と続き人家も希であるなか、戦象と牛車がゆったりと進む。それがインドシナの風景であった。そのため、軍は補給と兵站に従軍する者等を連れて行かなければならず、その者等の多くが造営に従事している事実をトリブバァナ帝は知らなかった。

それなればこそ。帝の決意は変わらない。

翌朝、造営は中止された。


ひと月が過ぎた頃、トリブバァナ帝は戦況の一報を受けた。大河メーコンの右岸に一万の軍勢が現れ、その勇姿に歓喜する多くの人々の姿を対岸にみた。

帝の目論み通りチャームはヤショーダラプラの本気を悟り、めぼしい財貨を奪い撤退していた。それは帝の決意に近隣の有力者も派兵した結果でもあった。

大河を渡ってシャンブプラの歓迎を受けた軍司令官は安堵と虚しさを覚えた。苦労の行軍を思い出すと戦果が何もない。

トリブバァナ帝は軍司令官の幕僚の報せを予想以上と喜ろこんだ。受けた屈辱、奪われし物などは還ってくる。どう攻略するか。

チャームを調べよ。

一千の精鋭を残し撤退を命が下った。

チャーム人の国、チャンパ王国とクメール人は共にプノン王国を築き上げていた深い縁があり、この時代の両者の婚姻関係には目を見張るものがあったが同時に激しい衝突をおこした。東の海辺の主要な港市に王宮を構えインドシナの海を舞台に生きたチャンパ王国は主要な港市の連合体であり、それらの賛意を得て王となる。この民の気風の激しさは越南人との永い衝突に表すことができ、一方交易の民であったことでクメール人とは比べられない程の先進性と視野を持っていた。

スーリアヴァルマン帝の遠征軍を迎い撃った偉大なるチャンパ王、ジャヤハリヴァルマンが亡くなると、また緩やかな連合体に戻るものとトリブバァナ帝は予想した。そこに、この度の暴挙を引き起こした要因をみたが、一枚板ではないチャームの攻略が難しいものとは思わなかった。

次々にチャームの情報がもたらされた。いずれも、ジャヤハリヴァルマン王の後継者をめぐって血縁ある者が乱立している様子を伝えてくるなか、ある不明なる人物の名を聞いた。

その者の名をジャヤインドラヴァルマンと云い、血縁にない高官でありながらも先王の篤い信頼を得て、後継者にと懇願された噂の持ち主であった。

その者の仕業に違いない。王位を得るためか。

どのような者だ。

あらゆる学問に精通したバラモンとも仏教徒であるとも。

ほう、バラモンか。

チャームと懇意にある者、商人からの情報には限度があるだろう。がトリブバァナ帝はバラモンときいて妙な親近感を覚えた。


遠征軍の凱旋に多くの人々が沿道で出迎えた。通りすぎる勇姿に、かつての誇りがよみがえり歓声で沸いた。間もなく雨季の訪れ、たいはんの人々は稲田に思いを馳せる。暑熱のなか苦楽を共にする家族が団結しなければならず、忙しさのなかに平穏をもたらす。

やがてヤショーダラプラの周辺は豊かな稲田に輝く風景に変わり、そして増水で拡がる大湖からは食いきれない程の魚が揚がる。

農民の日常は農村で完結し得たが、国家の恩恵を強く意識していたと思われる。当時、人の行為の半分ほどは、いわゆる税の範疇であった。それは自分に課せられた義務を当然と受け止める事によって成立する制度であってヤショーダラプラの人口が七十万を数える要因であった。

安心と未来がなければ、この信じられない数字には成らない。

雨は日増しに少しずつ激しさを増して降る。赤茶けた埃を被った樹木、たち枯れた草花が、そして小さな生き物が、いっせいに生命の謳歌を始まる。人々はその時期、庭に咲く花ばなを眺めて過ごす閑静な時期でもあった。

一年のうちで最も穏やかな時間の訪れに人々の交流も増え、おのずと婚姻の話しが持ちあがる。人々も政治も降りしきる雨を見つめたまま雨季の終わりを心に浮かべる。


だが、平穏は打ち消された。チャームの軍勢がシュレシュタプラを襲い占領した報せをみる。奏上する者らは酷く汚れ、この長い道のりの険しさに同情する。

シュレシュタプラ、いわゆるワット プーのある都市は日の出に映えたメーコーンの雄大なる流れを望む河岸にあった。この特別な都市は最も古く神聖なる祠堂にあふれ、クメール人の発祥の地とも云われ歴代のクメール帝の庇護と敬意を受けてきた。そして、国籍と云う概念が無かった時代、この地方にはモゥン、クイ、シャム、そしてチャーム人と共に暮らしてきた。ダンレックの山並みの北側を流れるムーン河とメーコーンの合流は広大なる経済回廊と成してきた。

チャームは禁忌を犯した。

トリブバァナ帝の形相は怒りに震えながらも帝としての威信を忘れなかった。

今一度、チャームの言ったことを話すがよい。

この地、シュレシュタプラは時のチャンパ王がインドラヴァルマン帝に譲り渡しもの、インドラヴァルマン帝の家系にない者が帝位にあるならば還していただく。ヤショーダラプラにそう告げるがよかろう。

震えながら奏上する者の言葉に大臣らは首をかしげ沈黙をまもる。知らぬ事を迂闊に論ずれば信用を失う。

何のことだ。三百年も昔の事であろう。

トリブバァナ帝の嗤う声が響いた。

許せぬ。

トリブバァナ帝は黄金に装飾された剣を握り鞘を抜いた。

この日より王宮はむろんヤショーダラプラが国運をかけてのチャンパ侵攻が決まった。


御前会議は連日のように開かれ、作戦が計られた。チャームの王宮を占領し、この暴挙を為した者等を捕まえチャーム人が二度と逆らえない程の敗北を与える。次々と勇ましい者らの声にトリブバァナ帝は満足に頷いた。

だが、この遠征が容易でないことは史実が語る。スーリアヴァルマン帝の敗北の記憶はまだ消えてはいない。敗因は補給にあったと誰もが同意した。

南部の者にはチャームに同情し内通していた事実が憶測ではないことも語られた。

南部の者らの協力が勝敗を分ける。

帝は深く同意した。

ヤショーダラプラの閑静なひとときは何処かにいった。チャームの暴挙を非難する声がヤショーダラプラに満ち溢れ、軍人が新兵の募集を説いて廻った。志願する男どもが兵営に溢れる。遠い村から来たという若い男どもは歓迎と熱気に酔いしれた。

志願する者が五万を越えたとの報せにトリブバァナ帝は驚き、戸惑った。

半分も要らぬ。考えてもみよ。

武器である弓や槍、身を護る防具が圧倒的に足りない事実を軍高官らに諭した。

無駄な犠牲者の多さは後々、怨嗟の声に変わる。

側で控えているチャンドラクマラーは帝の見識に感嘆した。だが、遠いチャンパ領内での戦闘は相応の兵数によって不利を埋める事が出来る。

その通りだ。少しばかりの沈黙の後、密使をバ テイの太守におくった。

先帝の宮内大臣で在りし頃の剛毅な顔立ちが浮かぶ、先帝亡きあと争乱の罪によって追放を命じられて南部の自領に帰った者。

寛大なる処分にも関わらず太守はトリブバァナ帝の威光を認めず、帝もまた存在すらしないものと扱い現に至っていた。

遡れば、プノン王家の流れを自認し団結を誇り、何よりもチャームの国に近い。

勝利の鍵を握るのはあの者だ。

裏切りがないと確信できますか。

真顔で訊ねるチャンドラクマラーにトリブバァナ帝は遠くを見るように微笑んだ。

ダラニンドラヴァルマデヴア摂政の時代、トリブバァナ帝は大臣に昇格した。名門家系出身であり秀才との高い評判が後押しした。

だが、ヒンドゥーの観念に精通し、それを理想とする態度は現実との大きな乖離の存在の前には無力であった。そんな時、度々相談にのってくれたのは宮内大臣であった。庶民の生活状況の把握、それによって税と分配が決められる。確かな情報と、それに基ずいた政策は成果を上げてゆき、一段と評価が高まっていった。ヤショーヴァルマン帝の即位とともに筆頭格の大臣になり、その権勢に多くの者が取り巻きを成し、いつしか格下である宮内大臣を見下すようになっていた。

そのようなことが。

ふぅ。愚かであった。

誰かに隠してきたものを打ち明ける心境には尊いものがある。

許しを乞う密使だ。だが、力をかさないならば、チャームの前に南部を潰す。


カヴィの周辺も巷も、この熱気に溢れていた。商人か役人の他にチャーム人を知るものはスーリアヴァルマン帝の遠征に従軍した者達で、その者らの声が話題となっていた。

あの国には海と云うものがある。その水は蒼い。大きな船でなければ何処にもゆけない。

ヤショーダラプラの住民はチャームとの歴史的繋がりを知っていた。クメール人の物産を求め見返りに東方から得難い製品を得てきた。宋国の、それらは王宮では無くてはならない物になっていたが、西方の国々と同様にクメール帝国の威光の下にあるものとの意識から無関心であった。

私も何か役になれませんか。同世代の若者らの姿を知るとローイはカヴィの前に立った。

志願者の願いはトリブバァナ帝のひと声で萎んだ経緯をカヴィは知っている。

ローイよあなたがカヴィ様の従兄弟とわかれば軍人は断りますぞ。

老境の執事役はそう諭した。

五年の歳月のなかローイは雑事をこなしながら学問に向き合ってきた。その成長ぶりをカヴィと執事役も眩しくみてきた。

役人が向いていますな。

カヴィはここに来た時からポーサットヘ帰すことを決めていた。

ポーサットで役人の口はありますか。

執事は目を丸くして聞いた。執事は長く商務官として南方の港市にいた。その時の部下にポーサット出身の者がいた。忘れていた自身の輝かしい過去と同時にどこまでも謙虚な主人、カヴィに驚いた。

どこの太守であれ、あなた様の願いを喜んできいてくれますと心に叫んだ。

不遇となった自らの晩年、寄りによって息子のような若年の下で働くことなったことを呪いもしたが、この穏やかな日々に今では感謝している。

ポーサットの友人に手紙を書きます。


激しい雨音に午睡から目を覚ます。雨足は目の前の風景すらおぼろげにして遠くはみえない。雨音は脳裏を静寂にする。

そのどしゃ降りのなか当主チャンドラクマラーが訪ねて来た。

カヴィも下人も慌てて溜まった水の上で片膝をつけた。

王宮からの帰りだ。折り入っての話しがある。

ずぶ濡れの姿から落胆の声がする。

この日、チャンドラクマラーはトリブバァナ帝から彫像の命を受けた。戦勝を祈願するものではなく、それは仏像であった。

困惑と拒否でことばを失ったまま帝をみつめた。

バティの太守の願いだ。それが条件だ。

先帝の宮内大臣一族は仏教徒であり南部は伝統的に仏教徒が多い地域であった。

仏像の開眼供養をもって協力しましょう。太守のことばに帝の密使が喜んで承諾した。

太守には歳の離れた兄がおり、バ チュムの寺院で信仰の生活をおくっている。トリブバァナ帝の仏教徒迫害の時、大事な仏像が何者かによって壊された。

帝よ、探せば仏像など彫る者はおります。

我らは石工 彫工のヴァルナ、このふたりの遠祖ヤジニューヴラゥハとビシュヌクマラーによって創設された職能集団であり、純粋なるシヴァ信徒であった。バ チュム寺院を最後に、この遠祖の時代以降ヤショーダラプラには仏教寺院は建立されず今に至った。

わかっておる。よいか、勝たねば我らの夢はついえるぞ。

帝の懇願の前に私の涙もとまらなかった。カヴィよ、その方しかいない。


翌朝、牛車はバ チュム寺院ヘと向かう。途中の街路沿いの運河には多くの小舟が行き交う。さらにすすむと、牛車や手押し車が騒然と街路を埋めつくしていた。辻も橋も渋滞し先を急ぐもの等の怒声が飛び交う。

相変わらずです。御者はカヴィに嘆いてみせた。

この街の多くの住人は職人や運搬に従事しているが、実状は所属もはっきりしない境遇に置かれ、過酷な仕事と貧しさにあると御者が話す。

多くの者が遠征軍に従軍する事が決まり、不安と興奮に妙な活気にあった。クメール人は家族で行動を伴にする。従軍も妻と幼な子を連れて行く。

そんな雑踏をカヴィの牛車が通りすぎる。すると、ぎょっとして道を譲る者等と、その場が静かになった。ひと目で華奢な牛車はチャンドラクマラーが第二身分にあった時期のもので無用な争い事から免れるる護符としてカヴィにくれた。真っ黒に焼けた体にボロキレを腰に巻いた男らが押す荷車とすれ違う。

男らのひとりと目が合った。男はカヴィを凝視した。その一瞬は長く感じられ記憶に残った。

バ チュムに着いた。

若い僧の案内に本殿に向かうなか、僧らの読経がきこえる。驚くことに若者ばかりか子供らも額に汗を流して経を声にしていた。

バ チュムは見事であった。歴史を偲ばせる風格を感じた。だが蝉のような読経が絶えず聞こえくる。

カヴィは母屋に通され住職を待った。いつしか読経が止んだ。

頭をまるめた赤茶けた僧衣を着た老人がカヴィの前に座った。

ここを預かっておる者です。

終始、穏やかな笑みを浮かべながらもカヴィの若さに戸惑いを隠せず、額の汗を拭う。

あなた様が帝の彫工ですか。

カヴィは小さく頷くと名を告げた。そして、この仕事の大事と急を要することを知っている。老僧の背後に粗末な祭壇があり、仏像の絵が架けられ、幾つかの小さな仏像が並んでいる。それは木製であった。

仏像は初めてのこと、ご教授願います。

お願いするのは菩薩でございます。

そして、老僧は若者の謙虚な言葉に頷き、手を合わせた。

老僧が説いたのは大乗仏教であった。涅槃の世界におる仏を説明することの不可能をカヴィに詫び菩薩を説いた。本来、菩薩は仏であるにも関わらず、この苦難にある現世のため、この世にとどまり、この世を救うと決められた魂である。

菩薩の前では富者も貧者も誰もが等しくあり、等しく慈悲を与えます。

誰もが。

さようでございます。

カヴィは反発を抑え老僧をみつめた。カヴィの知っている神々はバラモンの祈りの姿によって顕れる。供儀を通して神々に感謝し繁栄を祈願する姿は崇高そのものであり、神殿で舞う踊り子の美しい所作は神々の世界を現出させるものだった。

お願いするものはこちらにあります。

老僧は立ち上がり隣の部屋ヘと案内した。

外の強い日差しに慣れた目には薄暗い部屋であった。像の前で老僧が座り手を合わせた。その像は立像であり座る老僧と同じ程の小さなものであったがカヴィはすぐ異様に気ずいた。その像は、いわゆる金銅製であり、砂岩に比べ鋳造は複雑な作品が可能である。珍奇な像に目も奪われカヴィも老僧の隣に座った。そして、もうひとつのある異様さの正体を知った。その菩薩像は一度破壊され、修復したのであろう。手足、さらに首を布地によって固定し、辛うじて姿を保っている。

なんとも痛ましい姿、残念だ。とカヴィは思った。金銅製が放つ風合いと底光りは砂岩では出来ない。

カヴィは恐る恐る菩薩像の顔をみる。像の目をのぞきこんだ時、ある違和感を覚えた。

どこかでお会いした人のような気がした。

気のせいか。

カヴィの小さな声がもれた。

お願いできますかな。観自在菩薩と申しましてな、右手に蓮華を持ち、左手に水瓶を持つております。

蓮華は胸元にあり蓮華を抱いているようで、水瓶は腰下にあった。難しいとは思わないが、強度のため大きなものでなければならない。

老僧は幾度も頷ずいた。

翌日、石材が運び込まれ、カヴィは鑿をいれた。壁面に彫る精緻なものに比べれば丸彫りは容易であった。カヴィの作業は読経の声とともにはじまる。異国の言葉であろう。慣れてみれば心地よいものであった。

読経の声が止むと少年のような僧が椰子の実をカヴィのそばに置いた。

十日ばかりで粗彫りを終えた。カヴィの身長よりも高い直方体の石材が細身の人の形になっていた。

そして、カヴィは最初に抱いた、ある違和感に不安を滲ませた。この菩薩像の目を覗き込むと思考が止まったかのように何も出来なくなった。

ほう、お見事ですな。老僧が椰子の実をかかえて入ってきた。

カヴィは受け取ると外に目をやる。多くの若い僧が畑仕事をしている様子をみた。どこか楽しそうである。

あなた方は穏やかに日々を過ごしておられる。奉仕の者の姿が見えぬが。

昔はおりました。これで良いのです。そもそも私どもは奉仕者なのです。

老僧は続けた。

人を救う心をもって、はじめて自らが救われるのです。それが、菩薩の教えです。いずれ、この者たちは四方の里や村で人々の灯明になることでしょう。

老僧は、はっとして高じたことを詫びた。


カヴィの名声によって、どこの神殿からも歓迎を受けた。だが、カヴィはヒンドゥーの神々の教えと云ったものを知る者ではなかった。

高位のバラモン、祭式執行者、宗務官、その下には数多の奉仕人たちがおり主な神殿それ自体が王宮であるかのように思えた。儀式に次ぐ儀式が、拝殿に奏でられる軽妙な音楽のなか美しい女人らが踊る姿、それらは毎日のように執り行なわれている。

だが、そこで人を救うと云う言葉を聞いたことは無い。

カヴィは鑿をおき菩薩像の前に座った。彫工となって、はじめてしる虚さであった。

その伏し目がちの目は遠くを観つめている。聡明な眼差しのなかに哀しみを宿しそして、唇にさす微かな笑み、カヴィはその意味が解らなければ決して彫れないと思えた。

仏僧殿、鑿が止まってしまった。期日を教えてほしい。

彫工様、その事は気遣いいりません。依頼したのは私の弟です。ある御仁の望みを察してのことです。

それでは、帝に服従しない大臣とは。

そこまで、ご存知でしたか。あなた様は王宮奥深きところを知っておられます。


その日、カヴィは昼前に帰ってきた。こんなにも冴えない表情をはじめてみた。やはり仏像を彫ることが苦痛なのだろうと皆が案じるなか老境にある執事役がカヴィのそばに座った。

仏教と云うもの、確か菩薩と申すものを教えてほしい。

仏陀の教えもヒンドゥーの教えと同様に実に様々にあって、それは難解です。

この執事役が物心ついた頃、スーリアヴァルマン帝の大神殿が建立が始められた。父親の肩にのり中央の尖塔を見たときの感動は今でも覚えている。その尖塔の完成とともに子供も成長した。子供は朝焼けに浮かぶ尖塔をみた時、その威容に圧倒された。そして、身分を欲し学問をすると誓った。

二十五歳の時、ようやく高等官の秘書役に採用された。名の通ったバラモンに師事したわけでもなく、家柄も無名な者に誰も関心を持つことはなかった。

時は、スーリアヴァルマン帝の勢いが絶頂期であり、休憩を取る間もなく四方へ軍隊が向かう、そんな時代であった。遠征軍と巨大な神殿造営に役人も多忙をきわめた。もうひとつ、スーリアヴァルマン帝の夢は自らの名を冠して交易を行なうことであり、このヤショーダラプラに王宮を構えてから途絶えていた。長い歴史のなか陸路はモゥン人に委せ海路はチャームに頼ってきた。利益を度外視してまで、それに甘んじてきたのは何故なのか。スーリアヴァルマン帝の大きな声が王宮に響いた。

主な海辺と河岸の港市に交易官を派遣せよとの命が下された。だが、それらの地は余りにも遠く多くの異族が住むところであり、誰もが右往左往した。ある者は病気と言って寝込み、ある者は老母の看病を理由にひたすら辞退を懇願した。

その方は語学も確かなようだ。行ってくれるな。

若い時の執事役は、こうして、マルヤンという海辺の港市に任官した。長い歴史のなかでマルヤンはクメール人に従属を拒み、時にクメールと事をかまえた。その事実を碑文が語るのは、この地が扶南の時代から地政学の上で重要であったからだ。

現在チャンタブリと呼ばれる、この都市はシャム湾の中央にあり、マレー半島から来る船が最初に立ち寄る港市であって、交易に関わる多くの異族の拠点であった。そして、ヤショーダラプラに最も近い港市である意味は大きい。

不安を募らせながら着いた港市は風光明媚という言葉に尽きた。その蒼い海に見たこともない大型船が泊まっていた。

心配はいりませぬ。スーリアヴァルマン帝の威光に誰もが恭順しております。

新任の交易官に従がう商人は、こう耳打ちした。通詞を兼ねる商人は、このクメール帝国の官僚を思うがままにできると確信した。

国力とは人の数、人口であった時代ヤショーダラプラは驚異の人口を数えたがクメール帝国は内に籠り続けてきた。それが、スーリアヴァルマン帝の誕生とともに、その持てる力が外に向かい始めており、その影響はインドシナに新たな地図を造りだそうとしている。

マハーナコン ヤショーダラプラが中心になってこそ、栄光のプノンが復活する。

幾多の経験から得たものと、本来自由に身をおく商人の夢が目の前に迫ってきた。

涼しいのは助かりますな。

交易官は町の有力者と船乗りを前に穏やかさを交わした。雨季明けから始まる取引きが決まった瞬間であった。船乗りらは異国の者達であり通詞のことばをきいて安堵する。

米、米と船乗りが大きな声を発する。これほど、米を欲するのか。

さようです。米の味をしると米を欲しがります。向こうではクメールの米は高級品なのです。

ヤショーダラプラには有り余る米がある。

おもしろい。交易官は商人の肩をたたいた。

ヤショーダラプラの巨大な官僚の一員であるならば、この世の広さと美しい風景など知らずに生涯を終えたであろう。

ヤショーダラプラから部下である伝令が戻って来る。見事な仕事と驚いておりました。

交易官は自分が、ただ機会に恵まれたに過ぎないことを知っている。そのことは、彼に異国の言葉を学ぶ意欲をもたらした。

それ以来、通詞に学び、船乗りらに試した。

船乗りらは交易官の素養の高さに感心するようになる。

ヒンドゥーの言葉ならば大概はできます。

船乗りらは尊敬の念と親しみを、この新任交易官に向けた。

米を満載にした船が出航を待っている。交易官も船に乗り込み挨拶を交わしている。

すると、船乗りらは船首の先端にある彫像にお供えをして祈りはじめた。

菩薩さまです。我らを護ってくださいます。

ほぅ すると仏教の神像ですか。

しかし、交易官の顔には一抹の落胆の色が浮かんだ。仏教がクメール人の国の西方で栄え、その教理も聞いたことがある。だが、幼少の頃から昨今までバラモンの苦行者のもとで学んだ交易官にとって仏教は人を迷わせるものと理解していた。出世を断り遊行期にあった師を郊外の森に訪ねた歳月を昨日のことのように思い出す。

あの者らは生産をしない。ある日、師は仏教をこう断じた。

現世は河のように流れてゆく。人の喜怒哀楽さえもたち止まることはない。現世への疑問は、ただ心を乱すにすぎないのだ。

船乗りは交易官の表情と意味を知っている。

菩薩さまは我らの航海を護るばかりではありません。何人も救おうとする慈悲そのものなのです。

真っ黒に日焼けした異国の男の目にやさしい光をみた。


カヴィさま、私の仏教 、そお菩薩さまとの出会いです。そこで、信仰というものを知りました。

ヒンドゥーの教えには神への親愛、バクティというものがある。この激しい情念は神への絶対的な帰依であり信仰そのものである。一方で、菩薩は慈悲そのものであり、菩薩への信仰は慈悲を通して他者に向けられた。

菩薩との出会いは若き交易官の転機になった。大きな実績はスーリアヴァルマン帝の耳にも届いたことだろう。

商務官庁に呼び出された。色白で背のすらっとした人物が待っており商務次官と知らされた。上位の高等官特有のただずまいに緊張が高まった。

その方を第一身分にする。帝の命である。

若き交易官は、その言葉に頭が真っ白になった。呼び出しを受けた時、無理難題の命を聞くものと思っていた。物音が消えた部屋、次官のすずしい眼差しがある。

期待しておる。

交易を事実上統括している次官は港市のめざましい発展を知るに及んで、この若き交易官が自らが想う構想の実現する者と見込んだ。

さっそくだか。と次官は港市の状況を問い耳をかたむけた。そこには牛車の不足と悪路に苦労する輸送の実状があった。

次官は宙をみる。

この頃、スーリアヴァルマン帝はチャンパ王国を従え伴に越南李朝への遠征を企図しており、あらゆる物が反対の、つまり東北の方面へと動いていた。

次官の側で控えていた秘書官らの俯むく姿が見える。

その方、海を渡り見聞を得よ。遠征は終わる。

気ずいてみれば、退庁の時刻に官庁街が騒々しくなった。

その方、今夜は私の公邸に泊まるがよい。小さくも祝宴をあげたい。

若き交易官は味わったことのない厚遇といったものをしる。間もなく第一身分、高等商務官の辞令を受け港市の長そして、地域の知事ともなる。

次官公邸の庭先には家族が忙しく動いていた。竹を組んだ広い台座の上に料理が並べられている。父の帰りに笑顔がこぼれ若者を目にすると小さく手を合わせた。

今夜は満月だ。















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