ある彫工の生涯 つづき。
トバァラパーラ門衛神にふさわしい面相の要求にカヴイが目に浮かんだのはトゥイの顔であった。人懐かしさと度胸が調和したトゥイの表情を思い出したカヴイには迷いが消えた。カヴイはその日より個室の工房を与えられ、そこで完成まで寝食をともにする。
彫工は己と向き合い心を研ぎ澄ました孤独に身をおく。立てられた平板、中央から外縁へと粗彫りをはじめて十日が過ぎた頃カヴイは疲れを感じてきた。時に激痛が腕や腰をおそう。そのほんの気のゆるみを石は見逃してはくれないであろう。そんな時、カヴイは寝台に横たわり固まって動かない手を眺めた。平面の図面を頭の中で立体に描いてゆく。そして強度と均等を意識しなければ美しいものとはならない。
失敗ヘの不安がよぎる。一か所でも欠けた時点で工房を出され山中の石切場で働き、この平板を贖う。そうなれば彫工への道も断たれる。
強い風が外に吹いてきた。工房の中にも入り込んで石粉が部屋じゅうにまう。間もなく雨が降って地面やら屋根を叩く音をカヴイは目をつむって聞いた。雨音の激しさは頭のなかを空っぽにする。
雨が止んだ時、薄暗くなった寝台の上で指先をみた。石粉をかぶった手の甲は白っぽく汚れ、汗が滲んだ痕がわかる。
ぼんやりとした意識のなかで、カヴイはあることに気ずいた。
生きている。この腕もうす蒼く浮かぶ甲の血管、黒く浮かぶまめ痕は薄明を映して何かを語っている。
これほど精緻で美しいものがあろうか。これほど強く、けなげなものがあろうか。カヴイはそお思った。そして失敗を思う自分を恥じた。カヴイは起き上り自身の身体に感謝の念を思わずにはいられなかった。眼を閉じた時、答えは容易に浮かんだ。深い呼吸によって、その行きと戻りによって身体と応答できるとおもった。
幾日が過ぎたのか、カヴイは工房を出て親方らに完成を告げた。
数人の親方らの鋭い眼差しが平板に注がれる。親方らは互いに顔を見合せ頷いた。
見事だ。
翌朝、平板は丁寧に梱包されチャンドラクマラーの屋敷に運ばれた。
教官である親方、上級の彫工そして侍従らが見守るなか当主の品定めをじっとみていた。
当主は片ひじをついて下を向いている少年カヴイをみた。
信じられぬ。彫工百人あまりの中で、何人おろうか。当主の感嘆の声は近くの者だけが辛うじて聞こえる小さなものであった。
なかでも、このトバァラパーラの面相に当主は魅了された。これは生きている。
才能は才能をしる。この少年のことを知りたいと思った。だが居ならぶ者らの前で私の威厳はどうなる。
見事と言ってよかろう。だが、この者はヒンドゥーの学問、信仰を知らない者。大事なことが欠けておる。
当主チャンドラクマラーの威厳にみちた表情は、そお言うと不機嫌なものとなり謁見の間を出ていった。
帰り道、親方らが陽気に談笑するなか、カヴイは空の荷車を引く。人と牛車が途切れることがない往来をフタバガキの巨木が涼を与えている。当主の不機嫌な態度に一時は心配もし親方らにおずおずと聞いてみた。
親方は目を丸くして笑いだした。
わしらは、当主が子供の頃から仕えておるのだ。心配するな。
そこには、優秀さと配慮の持ち主でありながら、ヴァルナの総帥という立場があのような振る舞いをさせているとしっている。
木漏れ日が顔を刺す。見上げるフタバガキの梢は眩しさに揺れていた。
工房ではカヴイの素質に驚きを持って迎えられ、はじめて人に認められる悦びをしった。翌朝、まだ薄暗いなかカヴイは目の前の運河を眺め、小鳥のさえずりをきいた。小鳥のさえずりは自身の悦びのように思えた。が、カヴイの行く先は可憐なものとはいかない。
ご当主がお呼びだ。
誰もが、あの威厳に満ちた表情を苦手にしており、親方らは同情の苦笑いを浮かべる。
当主チャンドラクマラーは侍従さえ滅多に入れない母屋にカヴイを呼んだ。侍従は意外な展開に首をかしげる。裏口の扉を前に侍従の表情は懇願とも取れた。
中でお待ちだ。無礼なきよう頼むぞ。
おお、カヴイか。待っておった。
当主の大きな声にカヴイは挨拶さえ忘れた。当主の背景には美しい彫像がみえる。シバァ神であろうか、玉座に片膝をのせ座るシバァ神に神妃が数珠を捧げようとしている。その両脇には異なった神妃が彫られていた。この四体の彫像は明らかに現実の人間をうつしたものであるような気がした。そして美しい赤色砂岩であった。
気になるか。当家の祭壇である。我が遠祖ヴィシュヌクマラーを讃えるものだ。
バンテアイ・スレイは当時シバァプラの神殿と云われていた。創建者はクメール王朝最大の学者と称されるヤジュニヤーヴラゥハでありつつも実際には実弟であるヴィシュヌクマラーが築造した。兄の幼帝の摂政としての権勢、その華やかな影のなか弟ビシュヌクマラーは歳月をかけシブァプラの神殿を完成させた。この兄弟の祖父はハルシャヴァルマン帝であり、最も高貴な血統であり、時の帝をも遠慮する家柄であった。それ以来二百年余り、この二つの家系は自他とも認める兄弟の間柄として至る。それ故、兄の家であるトリブバァナ帝の誕生はチャンドラクマラーに深い感慨をもたらし、歓喜は夢となり抑えがたく溢れてくる日々をおくってきた。
シブァプラの神殿に優るものを、この都城の中央に建造する。神殿を中心に王宮を構え、宗務、行政の重要なるものを配する。伝統的に建造は思想であった。しかし、実現するには強固なる王権、人々の支持は欠かすことができない。帝はまず人々を富ますことが求められる。自給自足が当然であった時代、このヤショ-ダラプラは米と魚に恵まれれ巨大な都市へと変貌していた。五十万を超える人口によって富みが蓄積されその余裕は様々な職を産み、それが文化として人々の目に映った。そんな食と住に困らない人々が最も欲した物は自らを着飾る衣料である布地であった。昔から布地ばかりは交易に頼らなければならなず、ヒンドゥーの国そしてビルマ人の国とは大量の米と引き換えに布地を得ていた。ラボォのモゥン王国が仲介と輸送を仕切っており、モゥン王は先帝の行方不明によって即位したトリブバァナ帝を認めず、交易は途絶え二年目の正月を迎えようとしている。
大量の米、あるいは森の産物も行き場を失い、その価値も下落する。
トリブバァナ帝は激しく降る雨をみながら、不満と嘲りに歪んだ人々の顔を思い浮かべていた。
大老衆の言うとおり、この際武力を使うことも考えてみては。
トリブバァナ帝の甥、姉のたっての望みをききいれ親衛長官に任じ側においた。学問に興味をしめさなかった甥だが立派な体形と甘い顔付きをしており、黙っておれば、見映えする。何よりも親族、まして姉の望みならば決して無視できない。それが母系相続であった。
ラボォに遠征軍を派遣せよとのことか。元も子もなくなると考えよ。
トリブバァナ帝は玉座に腰をおろすとため息をついた。大老衆の思惑、軍人らの軽口はそれぞれが違うのだ。ラボォ王国占領などは容易い。だか、モゥン人の国は北にハリプンチャイ王国、西にペグゥ王国そして、ビルマ人強国バカン王国がある。さらに我が国の傭兵であったシャム人らが三ヵ国の庇護のもとに著しく勢力をつけている。ラボォに手を出せば、結束し我が国の敵となろう。時代は変わっておるのだ。数日前、大老衆の進言にトリブバァナ帝はこう応じ、大老衆が珍しく納得して引き下がった。このトリブバァナ帝の知見は先帝ヤショヴァルマン帝の大臣をしていた頃、直接先帝から聞いたことのひとつであった。
今、自身が帝となってみれば博識と苦悩を抱えながら穏やかに教えてくれた姿がよみがえる。感謝と後悔の思いがめぐった。
激しい雨がやみ強い陽射しが王宮外の風景を鮮やかにする。それは、まるで何もなかったかのようであった。
トリブバァナ帝は三人の大老衆に功労を讃え、土地を与える勅命を発した。それぞれが太守となり任地に向かう。臣下にとって最後の栄典を居並ぶ高官らが喜んだ。
バラモンの栄光に輝く国、私が懇願するものであり、約束である。
大老衆にとっては、まさに寝耳に水であった。老人らは拳を震わせトリブバァナ帝を睨んだ。帝の穏やかに面差しと動かぬ瞳があった。老人のかすかな声をトリブバァナ帝がきいた。
あの者は生きておりますぞ。
それ以来、朝議は活発になり帝が望んだバラモンの合議の姿がみえてきた。誰よりもトリブバァナ帝の指導力は目を見張るものがあった。いよいよ、解決しなければならない。
トリブバァナ帝はかつての同僚であり当時、商務大臣であった者を王宮に呼んだ。
老境にありながらも常に背すじを伸ばしていた姿をトリブバァナ帝は憧れの眼差しで見つめていた老人が今目の前にいる。帝は玉座を離れ老人の手を握りしめ親しく挨拶を交わした。異例な出来事に側近らが言葉を失う。
交易は大事です。モゥン王に会って下さい。
トリブバァナ帝は仏教を信仰する高位高官を王宮から追放した。この商務大臣も例外にもれず、さらには監視の目もつけられている。老人の冷ややかな目を帝は見つめる。この者は先帝の父、ダラニンドラヴァルマデヴァが摂政のおり商務を任されていた。モゥン王とは昵懇の間柄との噂をきいたことがある。
このままでは人々が困ることになるであろう。行き場を失った産物がだぶつき、その産物の価値が下落する事態は戦禍に等しい混乱を招くことになる。その結果人々の意欲が失われる。それが最も怖いのだとトリブバァナ帝は老人に語りかけた。
老人の口元が少しばかりゆるんだ。
人々のためならば、モゥン王に会ってみましょう。
カヴイはチャンドラクマラーの命によって屋敷に住むことになった。ヒンドゥーの学問を学び、方々の神殿を訪ねかっての彫工の仕事を見て廻った。泊まりがけで行ったシヴァプラの神殿にカヴイは圧倒され、その目に焼き付けるように見つめた。
屋敷に戻りカヴイの顔をみたチャンドラクマラーは興奮を隠さない。
数日前、トリブバァナ帝の使者が戻ってモゥン王が帝の望みをききいれたことを報じた。交易の再開である。トリブバァナ帝は狂喜し己の幸運を噛み締めた。そして、所望の物資の輸送が順次はじめられると使者は告げた。
黄金の贈りものがモゥン王の心に響いたのであろうか。
使者は目を細め少しばかり首を振った。
帝よ、あなた様が人びとのためと言われた、その言葉にモゥン王が感心されたのです。
トリブバァナ帝はさっそく大臣ら高官を前に交易の再開を告げ、モゥン王の要望に応えるよう物資の収集に取り組むよう命じた。
この正月は簡素でよい。
椰子の木々が池の水面に映る、遠くの水面は日を受けて輝いている。トリブバァナ帝は池辺の東屋からこの広い池を眺めることを好み、ここで大臣らの話しをきいた。
一段落した。ずっと、その方と会いたかった。トリブバァナ帝はそおチャンドラクマラーに微笑みかけた。
ふたりは血縁の間柄ではなかったが、子供の頃から本当の兄弟のように意識して育った。
そお遠くない日、吉祥なる時刻に帝の神殿建造がはじめられますよう。
そんなことがあったかとトリブバァナ帝は少しばかり戸惑い、悟らせまいと水面をみた。
その方の時代が来るな。
石工、彫工そして神殿建造を担う職能集団であるヴァルナは身分こそ高くはないが、世襲を許され技術と知識を独占しており神聖なる者たちらと敬意を受けていた。
私は幸運である。これは遠祖の加護であろう。神像を奉納したい。
チャンドラクマラーはようやく帝のお役にたてることを喜んだ。
カヴイよ、お前ならできる。
カヴイは当主の眼差し、その瞳のなかに愛情を感じ頷いた。
さっそく当主は図面を拡げる。踊るシヴァ神像であり立像として仕上げると言った。楕円形の枠のなかで、その神像は腕と足を横に拡げるように躍動している。よく見れば腕が四本あり、その後ろ手には火炎と何かを持っている。そのなかにあって両腕、両足が左右にひろがる様はまさに踊るようであった。図面の上では重点に配分した結果これが彫像としては限界であった。しかし、こんなことが可能なのか。
当主は口元をおさえ未だに悩んでいる。
お顔が描いてありません。当主はカヴイの声に我に帰えった。
この神像は奉納者、つまりトリブバァナ帝であり帝のお顔を忠実に再現することをチャンドラクマラーは心に決めていた。
そうか。カヴイは帝のお顔を見ない訳にはいかない。
数日後、チャンドラクマラーは侍従長をはじめヴァルナの専門職を従え王宮に向かった。設計、測量の専門職、上級彫工らの来訪にトリブバァナ帝は歓んだ。池を望む岸辺に特設の宴席が用意されていてチャンドラクマラーを感激させた。
我らは兄弟ではないか。家族はどうした。
帝の言葉にチャンドラクマラーは恐縮するしかない。ふたりの乾杯で宴がはじまる。地面から少しばかり高く竹で組み上げ美しい呉座をひいたこの宴席の末席でカヴイはトリブバァナ帝を見つめた。だが、カヴイから帝は近くなく、その素顔を捉えるには宴席は不向きであった。食ったこともない料理が次々に運ばれ参席者の舌鼓がきこえるなか、カヴイはチャンドラクマラーの強い視線を感じる。ふたりは今日の目的を共有していた。
カヴイよ、どうした。生涯、一度のことぞ。
隣の上級彫工がカヴイに満面の笑みを向けた。いつしか、楽隊が現れ小気味よい音色が奏でられるなか深紅の日傘に護られた女人の姿がみえた。女人は若く、その美しい顔立ちと華やか衣装に皆が言葉を失った。
これは、ラージヤクマ-リ様大きくなりましたな。チャンドラクマラーは帝の娘に合掌した。当主のその姿に皆が威をただし合掌する。ラージャクマ-リ帝の娘であり、この娘が望んだ男が次の帝位にあずかる。そして、その後も、その影響力は帝を凌ぐものとなり得る。
おじさま。久しぶりです。
帝の娘は居並ぶ者らを眺め、その教養が滲みでる顔つきをみた。
いよいよ、おじさまの悲願が叶うことになるのですね。
まだ先のことだ。穏やかなトリブバァナ帝の声には毅然としたものがある。それでも娘をみる父の顔は幸福であった。サンスクリット語を学び様々なヒンドゥーの学問に目を輝かす姿は若き日の自身と重なる。トリブバァナ帝は娘の後姿を見ながら、この娘の願いならば何でもきいてやりたいと思う。
まさに才色兼備というのはクマリー様のことです。神殿建造のおりにはクマリー様にご相談いたします。
小さくともよい、シブァプラのような優美なる神殿。壁面を覆う精緻で華麗な彫刻の数々はヒンドゥーの叙事詩に彩られ、踊り子が舞、演劇に心を奪われる。
今日は愉快だ。トリブバァナ帝の声に居並ぶ者らも緊張もゆるみ、よく呑んだ。
チャンドラクマラーはこの機を逃さなかった。奉納する神像の件を切り出した。
神像の面相は帝のお顔が最も相応しいと考えます。と言うとカヴイを呼んだ。身分のない彫工が帝の近く来て、しかも顔を観るという事は余りにも不敬であったが、チャンドラクマラーには確信があった。最高のものの出現によって新たな時がはじまることへの確信とも言うべきものである。
まだ少年ではないか。トリブバァナ帝はカヴイを一瞥すると疑念の目をチャンドラクマラーの顔に向けた。予想の反応にチャンドラクマラーは落ちついた笑みを浮かべた。
この者はチャクラスバーミン様の紹介で当ヴァルナに加入した者です。
トリブバァナ帝の驚きは、すぐさま憧憬に変わる。
あの方に気に入られたのか。信じられぬ。
なにとぞ。
チヤンドラクマラーの懇願に帝は神妙に頷いた。カヴイは顔を上げることを許されトリブバァナ帝の斜向かいに座し帝の面相を見詰めた。その集中力は時に帝がカヴイの目をのぞきこもうが瞬きひとつするものでも無く、気配すら消し去るように、ただ静かに呼吸を繰り返していた。
変わった少年だと思いながらも自らが被写体であることを意識してかトリブバァナ帝は自然に振る舞いに戻った。
酔いがまわれば、帝の神殿について帝の本心を聞きたがるのは人情であろう。そして、このヴァルナを代表している者達は、それ故に宴に呼ばれたと信じていた。帝に直接話す事は出来ない。侍従長が話しを聞き取る形で、厳かに帝の耳に届くように話す。
トリブバァナ帝もまんざらではない。
愉快だ。
神殿造営の命が発せられれば、このヤショダラプラ、否クメール帝国が新たな時代を迎えると人々は想像するであろう。だか、スーリヤヴァルマン帝の遠征軍の敗北は予想以上の傷と分裂を残し今だ癒えていない。そして、先帝の事件はこのヤショダラプラに、その追い撃ちをかけた。そう思うトリブバァナ帝の心は悔恨の念と先帝の理想である人々の豊さを今、自らも叶えようとしていることに気ずく。水面の輝きに目を奪われ、輝きとひとつになれればとのトリブバァナ帝の刹那は誰にも解らなかったであろう。トリブバァナ帝はこの後十年ほど在位したとある。帝の神殿造営は叶うことがなかった。
水面の遠く先木々の間から役人ら牛車が蠢いている。王宮の倉庫が建ち並ぶ一画であった。帝が関心をよせると、甥の親衛長官が厳かに部下を引き連れ見に行った。
モォン王家の牛車でございます。甥は帝の顔を見ると一瞬笑みを浮かべ、目録を手渡した。トリブバァナ帝はむさぼるように目録に目を通す。大量の布地、様々な道具、何よりも大量の薬を認めると感嘆の息を漏らした。
愉快だ。
チャンドラクマラーは帝の穏やかな声とともに、少し涙で滲んだ目をみた。
傾きつつある日が柔らかく水面を映しトリブバァナ帝が内心の歓喜の余韻にしたっていた時、カヴイがはじめて呼吸を乱した。
どうしたのだ。私の顔がどうかしたか。
帝の優しい眼差しがカヴイをみる。
先帝、ヤショーヴァルマン帝と陛下が重なりました。遠慮ない言葉に違いない。
カヴイ無礼であろう。チャンドラクマラーの怒声に宴がしずまった。トリブバァナ帝が片腕でその怒りを制すると、カヴイの顔をまるで不思議なものをみるようにのぞきこんだ。
驚きと不安気な帝の表情に、その場はある静寂に包まれ長く時が感じられた。
この若者は私の心の側をみた。心の底にしまって、ずっと抱えてゆく苦悩の存在を、この若者の言葉が癒してくれた。そうだ、最も欲した言葉ではないか。
ほほぅ、嬉しいことを言ってくれたな。
一段と日が傾きかけた。トリブバァナ帝を迎える親衛官が続々と現れる。それは皆が華やかに着飾った女人らで武具を身に付けている。黄金の柄が煌めく籠の中で見送るチヤンドラクマラーを側に招いた。
頼りにしておるぞ。
幼少の頃から、行政官として大臣にまで登りつめた帝の人物像からは、このような温かみを秘めていたことを想像できなかった。
あの若者をまた連れてまいれ。
彫像に向き合う日々が始まった。十人もの人らによって運ばれた赤色砂岩の分厚い平板に絵師が墨を入れる。チャンドラクマラーはそれを見届けるとカヴイを見詰めた。
いわば、この作品にはトリブバァナ帝とクメール帝国の新たな時代と繁栄の契機となる。
熟練の親方がカヴイの要望に応えるため作業場に顔をだし指示をうかがう。もはや少年カヴイではなかった。ひと月程で粗彫りを終えシヴァ神の踊る様その輪郭がみえてきた。それから、この分厚い平板の大部分を裏側まで貫通させてゆく。鋭利な細い鑿のはじける音は近くに寄らない限り聴こえない。カヴイは手足の疲れを認めると沐浴にゆき、いつの間にか作業仲間達の後ろに座って作業を見ていた。カヴイの存在に気ずいて畏敬の眼差しを向けるも鎚を振るうことが止まることはない。ほとんど半裸の彼らの汚れた手足、汗に滲んだ胸や背中の骨格や筋肉は躍動していた。
身震いするほど寒い夜は故郷の山地を思い出す。子供の頃カヴイは山地に周りの人々に馴染めず、気がつくと日が沈む方を眺めていた。あの山の裏側には何があるのだろう。ある時、養父母はまだ歩けない赤子を抱いて帰ってきた。跡を継ぐ娘がいなければ家は淋しいものになる。赤子をあやす養父母の笑顔が、まだ瞼に残っている。赤子はカヴイにもなずいた。
間もなくカヴイは養父に習い牛車に乗りポーサットを往来する。山地で生きてゆく知恵とポーサットで必要なクメール語を厳しくたたきこまれたが、カヴイにとって、はじめて知る悦びであった。
しずかに鑿と鎚の音が止んでは、またはじまる。分厚い平板は親方らによって立てられ固定された。これから仕上げに入ってゆく、そして最後に顔を彫る。平板を見詰めるカヴイの眼差しはしずかに閉じた。
それから間もなく朝の給仕の者が平板の前で倒れている姿をみた。親方らが駆け込むと、カヴイは完成を告げ意識を失った。緊張の糸がきれ、積もった疲れに猛烈な睡魔が押し寄せている。親方らはカヴイを上等な寝台に運び団扇を持って看護することを命じ、完成した彫像、踊るナタラージャをみた。
親方らの無言がじっと続いた。修練所の作業はすべて中止され、梱包の準備が命じられた。
当主チャンドラクマラーが彫像の前に立ったのは昼頃であった。額からの汗も忘れ当主は、その大きな目で彫像を観る。シヴァ神の異名、踊るナタラージャ 宇宙を表す楕円の中で、宇宙の破壊と再生を、踊ること躍動することによって顕している。片足で踏まれている小さな悪魔は人間の惰性と無知を戒めている。
そしてチャンドラクマラーはナタラージャの顔を見入る。その目はやや釣り上り、瞳は怒りとも慈悲ともとれる。やや開かれた口元は今にも声を発するようで、この面相は肢体の躍動にも負けていない。だが、面相はトリブバァナ帝でなければならない。が、穏やかな帝の面相では、チャンドラクマラーの葛藤のため息が鼻から漏れた時、侍従長が歓声をもらす。
まさに、トリブバァナ帝です。
何だと。チャンドラクマラーは侍従長の前に立ち彫像の面相を斜めからみた。
まことにトリブバァナ帝であった。自信と希望に溢れ学問に精進していた学生期の頃を思い出す。
彫像は慎重に梱包され、深紅の日傘をかけられ王宮へ向かった。
謁見の間で梱包がほどかれトリブバァナ帝が目にしたものは自身の想像を超えていた。しかも自身に似せられ彫られた顔立ち、帝は感慨深くみた。
灯りを用意しましょう。チャンドラクマラーの声に嬉々として頷き、女官らが蝋燭を彫像の前に並べた。ほどなく蝋燭の火灯りが彫像に馴染み、その怒りと慈悲を合わせた顔立ちが浮かび上がり帝を睨みつける。
トリブバァナ帝の後ろ姿が小刻みに震えていた。
翌日から、この謁見の間は開放され、この彫像をひと目見ようとする高位高官、祭儀官で溢れた。真摯な眼差しと賛辞に帝は満足を覚え、あらためて神像のもつ威力を知る。この神像は準備次第でシヴァプラの神殿に奉納されることを帝自身も後悔しはじめた。この躍動は勇気であり、充たされた勇気が私を励ます。トリブバァナ帝は強固とはいえない政権にあって、慎重さと躊躇にあった自身を省みた。
チャンドラクマラーがサンジャクのに就任し第二身分から第三身分に昇進したのは間もなくのことだった。多くの高位高官は彫像のお礼と理解し親族であるため歓迎された。サンジャクは帝の御友人と云う意味であって、帝が個人的に好む人物、学者や芸術家が選ばれ、特に幼なじみは欠かせない。帝のお話し相手であり政務に関わる事がない地位ではあったが、帝との親密さを無視できる者はおらず、有力者の出現ととらえ今後高位高官らの接触が止むことはない。第三者身分はクメール帝国の昇進制度であって、第一身分から第五身分まであり、第五身分が帝である。そのため第五身分は存在しない。クメール人は一から五を数えとして基本にしたのが由来かもしれない。第四身分は帝の王師、大臣のなかの大臣、摂政時に功労多き軍司令官が就いた。第三身分は各行政の大臣、宗務、軍、地方の太守など長であり、その下位に第二、第一と身分があった。身分は日傘の種類や数で顕され、また籠や牛車といった乗り物などの違いは何びとにも判り、家屋の大小にも表れた。さらに、チャンドラクマラーは帝から給与保有地である村つきの土地を与えられた。
石工、彫工の職能集団はその成員が実に多く裕福どころか質素であった。そのため給与保有地の話しは希望をともすものとなった。
一連の手続きを終え、一息ついたチャンドラクマラーはカヴイを屋敷に呼んだ。侍従等をはじめ、重責にあるヴァルナの面々が謁見の間に整然並ぶ様にカヴイも緊張を覚える。
久しぶりに床に三度頭をつけたると、カヴイの側に椅子が用意された。
カヴイよ座るがよい。チャンドラクマラーの声がした。人前では決して見せない笑顔があった。
カヴイよ、ご苦労であった。この度の、その方の献身は見事であった。その方の才覚はこれからも大事だ。それ故、と言うとチャンドラクマラーは口ごもり隣に起立する侍従長に目配りした。
侍従長は苦笑いを浮かべカヴイをみる。
カヴイよ、ご当主の心をつたえる。ご当主は、その方を弟になさりたいと思っておる。それには、信仰に篤い家柄のよいところの娘を娶り、正式にヴァルナの正員に就くことをお望みである。その方幸福を何より、お考えである。
居並ぶ者らからは静な歓声とともに頷く様が見とれた。
だが、カヴイの表情は冴えないどころか、険しくなる。カヴイはチャンドラクマラーをみる。
カヴイはスーリアパルバタの西門から陽を受けて輝く尖塔を見たときの話しをはじめた。願いが叶うなら、何も望まない。咄嗟に大事な銀の腕輪を奉納し尖塔の輝きから聴こえた声に嘘のない事を示した。父が生涯で残したものを手放すことに悔いはなかった。その様は管長チャクラスバーミンの目に止まった。
謁見の間は静に少年の声を聞いた。
願うならば、工房つきの小さな家屋をお与えください。
カヴイよ、よく申してくれた。その方の胸の内がわかって私は嬉しい。待とう。
チャンドラクマラーはカヴイの根底に在るものを知り、その在るものはチャンドラクマラーの心をゆさぶった。
カヴイよ、ポーサットに両親がおろう。当主は親孝行も考えておられる。何が望みであろうか。
侍従長の機転にチャンドラクマラーは握りしめていた拳をゆるめた。
カヴイは山地を離れる前の両親を思い浮かべた。そして、山地の民の掟がよぎる。山地にある村の存在は口外してはならない。
牛車がよく壊れていました。修理する道具を望んでおります。
困ったものですな。侍従長は半ば笑いをこらえた。
新しい家屋、充分な田畑、よき布地、村での地位、とチャンドラクマラーは興奮して捲し立てた。カヴイよその方が為した献身はとてつもなく大きいのだ。
その日から、この屋敷は数人の下人を残して誰もいなくなった。第三身分への昇格そしてサンジャクの地位に当主も侍従らも驚くほど忙しいようであった。
ひと月ぐらい体を安めよ。との当主の言葉を伝えにきた侍従の表情は楽しそうである。
カヴイよ、その方が来てから当主は変わられた。
ひと月が過ぎた頃、侍従はカヴイが望んだ家屋へ案内した。広大な運河に面した家屋は決して小さなものではない。生垣をくぐると、まだ職人らが作業をしていおり、訪問に気づくとカヴイの前にあらわれた。
侍従はその者らを紹介する。日々の食事を準備する者一名とその助手、牛車を扱う御者一名は住込み、そして宗務に詳しい者一名は通いと言うと、それぞれがカヴイに合掌した。カヴイはただ呆気にとらわれ彼等を見た。自分が一番年少であること、そして彼等の背景の立派な家屋に茫然とする。
皆の者、この方は第三身分、チャンドラクマラーパンジェッタ様御抱えの彫工、そして親しく弟と呼ばれておる。侍従の声がひと際高く響いた。
カヴイの新たな生活がはじまった。
この時からトリブバァナ帝は自らの意思、忠誠に欠けている国内をまとめる事に、その為ならば手段を選らばないと決めた。手始めに独立王国のように振る舞う北方の王家マヒ-ダラプラに軍司令官の就任を打診した。加えて幼少の王族が最良の学問を享受するができると告げた。穏やかな帝の使者の口上にマヒ-ダラの王家は右往左往し返答をのばした。
人質までとるのか。
マヒ-ダラの王家の反発にほくそ笑むトリブバァナ帝は東方の有力なプラに軍を派遣する。行政官を伴い地方巡察と称していたが、クメール軍の精鋭による大規模なものであった。砂ぼこりを舞い上がらせる戦象とともに華やかな軍装の兵を見た時プラの住人達は大変なことになったと悟った。有力なるプラの長は太守であり、遡れば王族であって自負がある。だが、軍人らの威圧に満ちた眼差しに屈する他なかった。
陛下にご挨拶されれば、それでよいのです。
有力なるプラも行く先々の港市もこの行軍に震え上がった。
一大臣上がりの者がと軽くみていたのを悔いるしかなかった。
トリブバァナ帝は行軍の成功と軍が帰還の途についたことを知った。
お見事です。チャンドラクマラーの言葉にトリブバァナ帝は少しばかり頬を緩めた。サンジャクになり月の半分はこうして帝と過ごしいる。何よりもチャンドラクマラーがヴァルナの総帥にありながら究めて現実主義者であることを帝は高く評価するようになる。マヒ-ダラ王家の忠誠を得ることはトリブバァナ帝の威信が、このインドシナの大地に響きわたることになる。
これで、チャム人と話しもできよう。
チャム人の国、いわゆるチャンパ王国は交易国家であり、その好戦的な民族は海の支配者として畏れられている。二十年前、スーリアヴァルマン帝がチャンパ王国に敗北した事は記憶に新しい。
では、チャムとまた一戦をとお考えですか。
トリブバァナ帝は首を横に振る。いっ時の勝利などは意味がない。
北の大国、宋と強いつながりだ。
文字通り、このインドシナの大地はインドと中国の間にあって繁栄ができる。帝が秘めた遠望と云うものを開かされたチャンドラクマラーは全身が震えあがる。
壮大なる未来は冷静に進められようと、日頃の穏やかな帝をみると確信する。だが、このヤショーダラプラは貧富の差がより顕著になり、家族離散の噂が絶えない。まともに行政が機能していない事は明らかだった。有力な者ほど自らの地位と富を得ることに貪欲になり、その影響は下層に及んでいた。世のなかが繁栄を前に混乱する過度期であろうと有力者は意にかえさない。
仏教を信仰する者等の複職をお考えください。せめて、上級官まで。
チャンドラクマラーは帝の怒りを覚悟のうえで進言した。
それほど、ひどいのか。
トリブバァナ帝が帝位を得た時、最初に行ったのは仏教徒の追放であった。バラモンにより祭儀と政治が一致した在り方こそ理想であり、その空間には自ずと平和と富が溢れる。
だが、これ程までの追放を考えていたわけではない。ヒンドゥーの教えが主であり仏教が従であれば問題なかった。実務官僚、下級役人そして商人には仏教徒が多く、その不在はいまだに混乱と分断の要因となっていた。
仏教に篤い先帝一族、一族を護る龍の使いの存在に身の危険を感じ仏教徒を弾圧した。
先帝の父、ダラニンドラヴァルマデヴァ様の死がなければ私は今ここにいたであろうか。
深紅の日傘とともに崩れるように倒れた姿が目に浮かぶ。スーリアヴァルマン帝の戦乱をおさめた摂政の最後であった。
よくぞ、申してくれた。
トリブバァナ帝の眼差しにはすがすがしいものがあった。
大臣、高官らは容易に説得できるであろうが弾圧した仏教徒の者達は果たして復職に応じるだろうか。
私にも面目がある。
チャンドラクマラーはトリブバァナ帝がこのことを深く考えていたと知った。
先帝一族と仕えていた者等の慰労は欠かせません。さらに仏教寺院の自由な活動をお許しあれば。
やはり、そう思うか。先帝一族の扱いに苦慮の念を覚えながらも、この区切りによって大きな収穫を予想し得えた。
いまひとつ。先帝の妃ジャヤラージャデビイ様のことです。
険しい眼差しからは驚きを隠してみえた。先帝の妃ジャヤラージャデビイとトリブバァナ帝は形式上の婚姻にある。帝位についてから一度も会ったことはない。広大な宮殿は厳重に見張りを付け外出を禁じていた。龍の使いから身を護る人質であることを誰も知らず、この不思議な警備が厳重に続いていた。十五歳以上の男子は入れず女人ばかりが住む宮殿は荒れ果ててゆく。
給付は充分のはずだが。
潤沢な食糧と高価な布地が割り当てられ、時には踊り子の慰問、その時には医師が伴っている筈であった。
聞いたところによると宮殿には年端もいかぬ子供が二百とも三百とも居るとのことでございます。なかには乳呑み子も。
何故に。トリブバァナ帝はその事実をいぶかしく思う。一時として息もぬけず、あの給付でも足りないであろう。先帝の正妃ジャヤラージャデビイの華やかな顔立ちと優雅な振る舞いを鮮やかに憶えているトリブバァナ帝には想像できなかった。
貧困と一家離散を前に、その者らは仏寺に頼る他なく、あの宮殿が受け入れているとか。
元来ヒンドゥーの教えでは底辺の貧困に同情するといった考えが欠如していた。現在の不幸なる境遇、貧困などは前世からのものであり個人の責任に他ならない。だが、妙な感情が胸奥に残る。
トリブバァナ帝は深いため息をついた。
カヴィは屋敷の裏門から自由に出入りを許され当主の望みをきいた。サンジャクの地位になると有力者らの接触が増え彫像の依頼がもちこまれた。祭儀官らは既存の神殿の改修あるいは増築を競うようにヴアルナの屋敷を訪ねて来た。一様に来訪者は優雅な笑みをたたえ過分な謝礼をチャンドラクマラー前に残した。時に世間話や帝国の今後などの談笑に花が咲き、この屋敷は一段と華やいだ。
王女様、ラージァクマ-リイ様はそろそろお年頃でありますな。
帝の寵愛を一身にあつめる王女の存在は有力者にとっては、まさに憧憬そのものである。もし、我が息子がと思う心情は理解できる。
王女様はまさに才色兼備、帝も呆れるほど学問に夢中です。特に語学は秀でておりますなな。
カヴィはまだ薄暗い朝、方々に出掛ける牛車の中にあった。日は空に現れる。少しばかりの涼と静けさがこの時刻にあった。牛車はチャンドラクマラーが第二身分の時に使用していたもので高い身分に許された装飾が施され一目でわかる。カヴィは丁重に迎えられ、身分のある役人であれ慌てて道を譲った。
いずれ、ラージャシルピン、王の彫工になるのではとの噂が聞こえる。
日暮れ前の街路はさまざま人々に混み合うなかを家路に帰る。一日の仕事を終えた顔には安堵の笑みに溢れている。どこまで帰るのだろうか、帰路の列はどこまでも続いている。日除けの街路樹の奥にも途切れることなく民家が続き子供らが駆け回り、大人らが台座に座り帰路の列をみていた。はりめぐされた水路や運河には大少の橋がかけられおり、それが交差点ならば酷く渋滞する。橋守の誘導に従う他ない混雑、時には怒号を発し強引に割り込む者もいて揉め事を起こす。殆どが身分ある役人の牛車であり、揉める相手も役人であった。御者は役人の身分、官職を声を大に言い放ち合うと、橋のまわりは興奮した見物人で溢れる。仲裁する橋守の後ろで囃し立てる声、双方の役人の上下を論ずる者、男も女も野次馬になって時々観るこの事件を楽しんでいる。この類いはつまるところ双方の役人の身分で決する。相手の身分、官職が上だと判断すれば道を譲るのが賢明であったが、クメール帝国の巨大で複雑なる官僚機構を説明できる者もいなかったであろう。
カヴィの牛車は家屋の前の広大な運河にさしかかる。大勢の老若男女が思い思いに水を浴びていた。
歳月の流れも気ずいてみないとわからない。カヴィが、このヤショーダラプラに来て以来七年が過ぎようとしている。御車も下人も新しい者に変わっいた。月に二度の挨拶に当主は親しみを込めて蓮の花が咲く池に誘う当主の頭にも白髪がめだつ。
宋の酒だ。
揺るぎない信頼をトリブバァナ帝から受けるチャンドラクマラーのもとには何かと品物が届き、訪ねる有力者も後をたたない。チャンドラクマラーの言葉は帝の意向であることをしっていた。
豊かになっておる。だが。チャンドラクマラーの宋の酒を飲み干す顔は強い酒によるものではない。行き過ぎるバラモン等への優遇によって華美を競い合う姿、これが権勢であると陶酔した者らの顔が浮かぶ。私も、そうだろうか。美しい壺をかたむけカヴィの杯を満たす。カヴィの親しい眼差しと、この小さい蓮池に満足を覚える。豊かになって、なにが悪いか。と心に呟いたが、その思いを拒むように蓮の花は自ら光を放つように鈍く、鮮やかにあった。
当主の不安げな態度を思いながら家屋につくと、ふたりの役人と少年が待っていた。少年は後ろ手で縛られていた。事情をきいた執事がカヴィに説明するなか、役人は緊張に身をただしている。少年は訃報を知らせるためポーサットを出た途中、巧妙に騙され人さらいの隠れ家にいたのを保護された。
なんでも、彫工であるカヴィ様と言うのでプノンクロム宗務官に尋ねると、第三身分であり帝のサンジャクおかかえの彫工とわかり連れて来た。罪人ではないが、おお事ゆえ自由を奪った。
この者の申すことが本当かどうか、お確かめください。偽りならば我らも、この者もただではすみません。
カヴィはニ三度会った少年を思いだす。父の弟の息子であり当時は小さく、カヴィを嫌悪の眼で見る子供を想いだす。確かローイといった。
父が亡くなったのか。
ローイは強くうなずいた。
役人はほっとした表情になり後ろ手の縄をほどいた。
従兄弟を助けて感謝します。さぁ、奥にてお休みくだされ。カヴィは役人とローイに食事をふるまうよう執事に頼んだで家屋を出て行く。歪んだ顔を見た執事はカヴィが運河に行くことをしっている。苦しい時は、ああして水に漬かる。執事の明るい声が三人の緊張を解く。執事が二人の役人の前に見るからに上質な布地を置いた。役人は驚きを隠せない。この布地の価値、換金すればどうなるのか。
これを私どもに。
お二人の上役のお名前、官職をお聞かせください。明日にでも、お礼に参ります。
直属の上役には、これ以上の品物が届くであろう。上役の許しを得ず高価な品物を受けとることは問題となる。下位の役人は上役の命に忠実であることが、その職務よりも大事であった。
ローイはたまらずカヴィの後を追いかけ、叔父が残した書き付けを無くした事を詫びた。そして、山地の事は心配いらないとローイの両親の言葉をつたえた。
真っ赤な目が小さくうなずく。
もどって飯を喰え。
ここにおいて下さい。学問をやりたい。
その目はカヴィも驚くほどの強さを残した。五年前、ポーサットの役人が大勢でローイの家屋を訪ねて来たことをローイは昨今の事のように憶えている。
カヴィ様のご家族か。
ポーサットから半日はかかる、この小さな村が騒然となる村人の声に昼寝から起こされたローイは入口に現れた役人らをみた。衛士の鋭い眼差しのなか牛車から降りて来る役人の表情はやさしいものだった。ローイの両親と、山地から来ていたカヴィの父は、ただ地面に膝をつけている。
カヴィ様のご家族ですかな。最も上等な身なりをした老人の声にカヴィの父親は顔を上げてうなずいた。老人は石工、彫工の職能集団ヴァルナの総帥の命によってマハーナコンから来た事を告げた。要領を得ないカヴィの父とローイの両親に老人はカヴィが腕のよい彫工であることを教えた。
カヴィ様は当主の望みを実現された。それ故、我が当主は報いられる。と言うと目録を読み上げ、隣に侍するポーサット代官に手渡した。
第三身分にして帝のサンジャクの命、寸分も違わぬよう施工されますよう。
間もなくローイの家族の境遇は信じられないものとなった。立派な家屋が建てられ、新しい牛車、牛や鴨などの家畜に悲鳴を上げる家族にまだまだありますと役人が真顔で応えた。子供心にローイが最も驚いてことは役人らの態度であり、それはカヴィへの尊敬が空想と相まってゆくなか自らも広い世界に憧れを抱く出来事であった。
カヴィよまだ嫁をもらう気はないか。とチャンドラクマラーはカヴィに尋ねてみたい誘惑を抑えた。いよいよトリブバァナ帝が自らの名を冠する護国神殿の建立をチャンドラクマラーに打ち明けた。紅潮した帝の顔には自信が漲っている。帝位について八年、一層の発展のためにも神殿建立は契機となると何度も進言してきたチャンドラクマラーにとって、まさに僥倖であった。
カヴィよ、その時には、すべての彫工らの差配を頼みたい。
カヴィはしずかにうなずいた。数年来、カヴィの仕事は半年以上かかるものが多く他の彫工等と共することで多くの彫工の技量を把握していた。過酷な一日が終え家路に向かう道には緊張が柔らぐように色とりどりの花が咲いている。雨季が終わり正月を迎える街並みも、どこか花のようであった。
正月が訪れ街が賑やかになるなか、トリブバァナ帝は百官を前に護国神殿建立と都城造営の命を宣んだ。護国神殿を建立するようになって帝の威光は益々輝き、あまねく四周が服従する。神意に叶う帝王として長く世を治めと信じられていた。
数日後、トリブバァナ帝の命を知るヤショーダラプラの人々の興奮と歓喜の声が溢れた。少なくとも十年は続く作業は、いわば好景気をもたらし、国がひとつになる実感を与えてくれるだろう。護国神殿の建立地はスーリアパルバタ、現在で云うアンコールワットの北面に定められた。その地の東西線上には遠祖ハルシャヴァルマン帝が自らの建立した神殿がある。西暦1176年のことである。