ある彫工の生涯
ある彫工の生涯
夜が明けようとする村には朝靄がたちこめ簿明に霞んでいた。初老の男、カヴイは2頭の牛を牛車につなぎながら永年住んだ家屋をみつめ別れをつげた。昨夜の雨に湿った村はやさしくみえる。村を立ち去ることに迷いが無いとの思いも長年暮らした日常を忘れることも無かった。カヴイは最後の作業をすすめながら同乗する妻子を待った。2頭の犬がせわしく動き出発を待っている。沼地や深い森で遭遇するかもしれない獣の難を避けるため犬は欠かせない。
夜明けははやい。心地よい冷気 朝靄も消えて、瞬く間に周りは明るくなる。村は日々の営みをはじめるであろう。間もなく煮炊きの煙がただよい、昨夜の片付けをする。そして今日1日を思い庭先の小さな池で冷たい水を浴びる。名々は寡黙に、それは儀式のようであった。
家屋を建てれば、まず池を掘る。それからバナナマンゴー ヤシの木をところ狭しと植える。暑熱を避け食を得る。数年後家屋はそうした濃い緑に囲まれ森の中とかわらなくなる。そのなかで、人々は濃密な人間関係をおくる。
妻と7歳になる息子が牛車に乗り込む、ニッパスで葺いた屋根のなかに二人は身をしずめた。カヴイは妻子にうなずくと2頭の牛の手綱をひいた。いまだ雨季のあがらぬこの時期の遠出は相当の覚悟をしなければならない。北へ向かう道は草木のなかに赤茶けて見分けついたが処どころ砂がかぶさり、赤茶けた水を溜めていた。牛の歩みに力が入ると時に車輪の軋む音をきく。
あと一月後道普請がはじまる。待てばよいではないか。親しい者らはカヴイの無謀なことを心配した。妻子を連れ、獣にでも遭ったらと考えると、親しい者も目を閉じる。
なぜ急ぐのだ。
ヤショウダラプラに行く。クメール人の正月に間に合うようにしたい。親しい者らの驚いた目が止まったようにカヴイを見つめ、その響きに息を飲む。郡都ポーサットでさえ豊かで華やかなクメール人の世界であった。威厳にみちた知事や高官はヤショウダラプラからくることを知っていた。
ジャヤヴァルマン帝 治世30年この村にも郡都ポーサットから役人一行が姿を現したのは昨年のことだった。この大事件に村人は恐れおののき、寝食を忘れ、恐ろしい者たちの訪れを今か今かとその時を待った。古老らは村を守る精霊の祠に村人を集め、供え物をして祈りを捧げた。
もはや隠れて暮らすのは許されないのか。村人は重い税、あるいは賦役の命によって何処かに連れてゆかれる不安を抱いた。郡都ポーサットから南へ、順調ならば7日ぐらいのこの山地の村は標高500メートルの山中にあり深い森に覆われ、よそ者を遮っている。
強大なクメール族をおそれ、この山地に逃れたペアル、チユーン族と呼ばわれし異族の記憶を古老の口伝でもわからなくなっていた。クメール人は低地を好み山地の者らを忌み嫌い、山地の精霊を畏れ長い間足を踏みいれようとはしなかった。
クメール帝国との接触によって、この山中はカルダモンの一大産地となり後世カルダモン山脈と呼ばれる。
低地とは比べられない雨が降り、古代の原生林が鬱蒼とする山地の村にクメール帝国が訪れた。戦象を先頭に槍や弓矢で武装した兵の姿に村人は言葉を失った。
役人は戦象からおりると自らの身分をつげポーサット知事の命令を読んだ。まともな服を纏っていない五百人ほどの村人と前に座る村の長老もただ固くなっていた。
簡単に申せば、共に豊かになろうとうことだ。
役人の合図で牛車に積んだ品物が長老の前に次々とつまれた。その方らは密かに山をおり麓の村と取り引きをしておろう。生きてゆくには塩や油、布地 薬も要る。税としてこの山の物を届ければ村が豊かなる。
役人はもう一台の牛車の荷を並べた。蛮刀と鍬に村の男たちは歓声を洩らした。
この村と麓の村までの道を造るための道具であった。これ程の鉄物を得る困難を村人もしっている。
賦役は他に無い。と言うと役人は大きな声で笑った。
その後長老宅で宴がはじまり、役人この村の事情に耳を傾け、大事な要点を記すよう若い役人に命じた。
噂で聞いたことがあるが、精霊の化身は本当にいるのであろうか。長老らは顔を見合わせた。
おります。私が子供の頃父親らと村の外れの沼に行った時のことです。水辺で虎が死んでおりました。恐る恐る近付いてみると、横腹に刺傷があり片目が潰されておりました。父親らは遠くの山並みを見つめて、手を合わせておりました。村人を守ったのです。
まさか二人で虎を倒したのか。
精霊の化身は虎の動きよりも速いのです。長老らは固く頷いた。ポーサットの役人はその噂を恐れるあまりできる限りの武装で来たことを白状した。長老らは久しく口にする檳榔に赤くそまった歯をみせながら同情してみせた。
精霊の化身は子供にだけ姿をみせます。
翌朝役人らは村の精霊の祠に供え物をすると、村人の調査をはじめた。多くの者がクメール語を知らないことを想定しペアル語に通じた麓の村人を連れて来た。
政務官様 村人は自分の歳どころか名前さえ曖昧であります?暦が無いとはそう言うものかもしれない。
特徴を記すことだ。歳は見た目でよい。との指示に役人の仕事はすすんだ。初めてみるクメール人、しかも面を合わせ言葉を交わしたことは村人に安堵を与えた。美しいサンポットを身にまとい、鉄筆で文字を書く姿は若者の瞼に強く残ることになった。この村は後世まで平地との孤立をまぬがれることができず、それ故、当時のクメール帝国の行政のあり方を近世まで残した。
道普請は間もなくはじめられるます。長老の声は穏やかであった。
ところでだが人を探しておる。名はカヴイと申し、歳は55歳ぐらいらしい。
はて 思い付きません。長老は咄嗟にこう答えてしまった。よそ者を疑う癖はやはり染みついている。あの者に違いない。あの者は若い頃、村を離れておった。
何か悪行をしでかした者ですかな。
それは違う。知事様が秘かに探しておる、恩人だと申しておった。
初老の男の牛車の前途は少しずつ木々が高くなってきた。日が明けた時の辺り一面の霧も晴れて、山並みが迫ってきた。いつの日だったろうかと、養父とともにこの道を往来したことを思い出す。子供の時のあの頃に帰ったように恐れに身震いしている自分に気づく、すると養父の背中が目に浮かんだ。養父は陽気な人だった。養父とともにいる。妻子がいなければ、ここで大きく叫びたかった。
やがて薄暗い森へと牛車は入りこんだ。2頭の牛が何かを怖れ首を振り歩幅が乱れた時、初老の男は、はじめて2頭の牛に鞭を打った。高い木々の梢からまばらに青い空が見える。日の届かぬ地面は荒れ地のように枯れている。冷やりとした空気は霊気を宿し、どこにいるのかわからね生き物の鳴き声は精霊の供笑のように耳に響いた。
迷った虎がいるかもしれない。とからかうと、妻は本気で怒った。父の笑い声に息子もつられた。訓練された犬は誇りの目を初老の男に向け、時に牛車から離れてしまう。牛車の屋根に備えた槍と矢を初老の男カヴイは時々睨むようにみた。弓矢と槍には虎でさえ一時ももたない猛毒が塗ってある。が、先に気配を感じなければ負ける。軋む車軸の音も忘れるほど神経を研ぎ澄まし、離れてはしゃぐ2頭の犬を視界に追った。
犬は息を荒げて近くにもどってきて嬉しそうに尾を振る。
そうか、間もなく水場だ。朽ち果てた小屋もあり、周りは草地であった。犬は日頃にない、ご馳走を食える事を憶えている。危険な役目を担う犬に、せめてもの罪滅ばしに違いなかった。
水場に着くと妻子と共に火をおこし、牛を草地に放す。2頭の犬は陽の光が注ぐ、このわずかな空地を歩き回り匂いを嗅いでいる。カヴイは灌木を集め、蔓草で縛っては小屋の補強につとめた。日が暮れる前までの備えは生死を左右する。3人は飯を食い、疲れた身体をゴザの上にのばすと眠りについた。張りつめた気持ちに目を覚ますと窓を開けた。星ぼしの光が辺りを鈍く照している。
あと2日だ。カヴイは麓の村リエチを思い浮かべた。
翌日の昼頃からは長い下り坂になった。道は蛇行を繰り返し、時折北の空を遠くまで見渡すことができた。
道は処どころ手を加えてあることに気ずく。これでは記憶が混乱することを何よりも怖れた。森をいつしかぬけてた。カヴイは日の傾きをみると焦る気持ちが募ってくる。道の両端の灌木が見事なまでに刈り取られ、マンゴーの苗が植えられ、手頃に育ったバナナの葉には実がなっている。それはカヴイの記憶にはない風景であった。けたましく吠える犬の鳴き声が、聞こえる。すると、頑丈な木柵をめぐらした大きな家屋が現れ、10人ばかりの人がカヴイを見つめていた。
山から来たのか。どうやら家族のようで、この家屋の管理を命じられていると答えた。雨季があがれば道普請がはじまる。川へ通ずる道も切り開く、その拠点であった。
100人が寝泊まりする。たいへんだ。わしらもペアル、心配はいらんよ。
家屋の隣の一段と見事な木柵の中には数えきれない鶏が動きまわっていた。
翌日 麓の村リエチに着いた。カヴイはサァラを目指していた。サァラは駅舎であり、村人は旅人に食事を用意する。取り引きの場であり村人の寄り合いの場でもあった。まだ日が傾く前にサァラに着いてみると、大勢の男らが酒盛りをしていた。カヴイの牛車に気ずくと一目で山の者とわかったが、妻子をみると驚いた。
ポーサットにまいります。昨年ポーサットの役人が山の村を訪ねて以来、素性を隠す必要も無くなっていた。リエチの村人は山の村のおかげで今後も豊かになることを知っている。一座のなかの小太りの男が食事の用意を命じ、カヴイに酒をすすめた。
道普請がはじまったと聞いてほっとしておる。知事様はご機嫌だ。
小太りの男を村長の息子と耳打ちし、我らはポーサットから来た大工と明かした。
役所を建てるよう命じられておる。倉庫もだ。村長の息子は悩ましい顔をつくると酒を飲み干した。
仏寺もありますぞ。仏寺はもっと大変な仕事になります。マハーナコンから来ていただかないと。
そうであった。息子は眉間に皺をよせるも終始笑みが絶えない。日がだいぶ傾いても酒盛り衰えない。カヴイは寝食の礼をのべたが男らは、ろれつも回らないほど酔っていた。カヴイが座を離れる時、ローイ様はときこえた。
カヴイは強い驚きを覚えた。ローイがいた。
なだらかな平原は遠くまで見渡せる。処ところには鮮やかな稲穂が実り牛が草を食んでいる。時折牛車とすれ違がった。牛を放し木陰で休んでいると民家から人があらわれ取れたばかりの果物を差し入れてくれた。
妻は不思議な顔をして固まっていたが、恐る恐る笑顔をみせて受け取った。
カヴイは果物を食いながら、この豊かな田園を見つめた。深い森をひとつ越えると別世界であり、時の流れを思わずにはいられなかった。
牛車はポーサット川に沿った道をすすむと家屋も人も多くなり、気ずいてみればポーサットの港市に着いていた。市場の辺りは多くの牛車で溢れ、積み荷を待つ者から飯を食う者らの声は騒がしく圧倒された。
カヴイは桟橋の近くに牛車を停めた。
港市の事務官 ローイと言う者を知っておりますか。カヴイは川舟の荷を検査している役人に尋ねた。役人は汗にまみれ汚れた身なりの者を見ると怒りに震えた。
ローイ様はムラタァンでありポーサット州の知事 身分をわきまえないと、ただではすまぬぞ。
あまりの剣幕に周りの者らも手を止めて嘲り嗤った。
知事様を気安くローイと呼ぶが、お前は何者であるのか。
知事になっていたのか。カヴイのため息がもれた。
誰か、司法官に告げよ。ただ、うつ向く初老の男に誰も憐れみを持つものはいない。
初老の男は小さな声で、ローイの従兄弟であることを告げた。役人は目を見開いて驚いた。こんな薄汚れた者がと思いながらも、役人は初老の男の堂々した眼差しを見た。
なに、従兄弟とな。それは失礼いたした。知事様は公邸におられる。
役人の態度は一変し案内を懇願した。桟橋からやや下流に巨大な橋が架かっている。立派な桟橋があり大きな倉庫が見えた。そして、大きな家屋が並んでいる。ポーサット群役所であり急勾配の屋根は赤茶けた瓦で葺いてあった。その門を入り石畳に足を運ぶと門がまたあらわれた。門衛は役人の知らせに慌てて中に走る。
知事公邸です。私の身分では立ち入ることもできません。いたるところのフタバガキの巨木が木陰をつくり冷やりとし、自らの息ずかいが聴こえる。だが、妻と息子の不安そうに小さくなって姿をみると、この訪問を後悔しはじめた。
間もなく従者を伴った若い男があらわれた。綺羅びやかなサンポットを履き、腕と足首には黄金のブレスレットをはめた若い男はまわりに威厳を振り撒いた。若い男は砂ぼこりににまみれた初老の男をみて驚き言葉を失った。案内の役人もその空気に動揺する。
知事様の従兄弟と頑なに申しました。
若い男は確かに父より従兄弟がいることを聞かされた記憶があった。それは従兄弟への尊敬の念は尋常なものではないもので、こんな薄汚れた者が父の従兄弟である筈がないと思いたかった。
父の従兄弟と申すのは、その方か。父は今大事な客人と会われておる。父に代わって用件をうかがおう。
カヴイはこの若い男にローイの若かりし面影を認めた。ひと目ローイに会いたいと思っていた。ローイに
ヤショウダラプラへの舟の手配を頼めるか訪ねた。
初老の男は一礼すると妻と子の肩に手を置き立ち去ろうとした。若い男は憤りを覚えた。父はこの港市、ポーサット郡の知事 その父を気安くローイと呼ぶこの貧者に若い男は唇を噛みしめた。
待たれ、私が舟の手配をする。それまで宿駅で待つがよかろう。子息はさらにこう付けたした。
たとえ父の従兄弟であったとしても身分というものがある。この港市では父の命に従わねばならない。いずれ父は帝王陛下から金の日傘を許される者となるからだ。
カヴイはこの若い子息が憤っていること悟った。私が間違っておりました。
宿駅の窓からポーサット川が見える。増水し広々とした川面に漂う木の葉でもなければ、その流れのあることさえわからない。
あんなに偉い役人だと思わなかった。妻は落ち着いてみると不満をカヴイにぶっけた。
三十年、会っていない。
カヴイは妻子を連れ橋を渡り対岸の市場に向かった。舟荷に関わる者たち漁師らが黒々と日に焼けた半裸を晒しながら、おそい昼をすごしていた。串刺しの魚がわずかな種火に焼かれ、その傍で熱い飯をバナナの葉に包む少女、酔った男らとかん高く笑う女らの声をみていると、女の声がした。
飯は食ったかい。いいんだよ。どうせ余るから。
カヴイは戸惑いながら飯を受けとった。少女は息子に包みを直にわたすとはにかんでみせた。カヴイは記憶をたよりながら少しばかり小高いところにある祀堂に着いた。少年の頃、カヴイは木材を運び建て方の作業をした。怒鳴られながらも身軽な少年は懸命であった。ある時、屋根組の上から太湖が見えた。青く輝く水平線に心を奪われたあの日を思い出す。もはや祀堂と呼べる何物も残っていない。狭い境内で包みを開きながら、ポーサット川の流れに指で追ってみる。遠くになるほど、淡い緑が薄れ白っぽく霞んでいる。大湖は見えなかった。
大きな池がある。とカヴイはつぶやいたが、妻と息子は包みの飯に夢中であった。
山地では、これ程大きく塩のきいた魚を食うことはできない。ここまで来た。と噛みしめたながらも、牛車を売り着るものと舟代を得ることを考える。不図、気配を感じて顔をあげる、間をおかず強い風が吹いてきて祀堂に溜まっていた埃がまいあがる。雨季があがる頃の雨は身体に良くないとは迷信であろうか。三人の足取りは速かったが、西の空から暗雲のかたまりが迫ってきた。あまりにも速い暗雲は陽光を遮り風景を消しさるように近ずく。それは天の半分が夜になったかのようで幻術のようであった。橋のたもとまで来た時、老婆の呼ぶ声を耳にした。バナナの葉の向こうから手を振って呼んでいる。三人は高床の下にもぐり込んだ。低い台座にすすめられて腰をおろすと視界は雨でみえなくなった。カヴイのお礼の言葉もこの雨は掻き消した。なすすべもなく、この雨音をきいていると、カヴイはいつの間にか眠っていた。やがて雨がやんだ。
どこから、おいでになった。気ずいてみると老婆の側に夫がいた。
山地から来ました。私はペアルです。カヴイのことばに老夫婦は目を輝かして喜んだ。
私もペアルです。日に焼けた顔に老夫婦とばかり思っていたが話を聞いているとカヴイとそうかわらないとわかった。新品の牛車そして、離れの家屋には世話をする下人が住んでいるようだった。老夫婦は若い頃、太湖で漁を命ぜられた。漁といっても綺麗な羽をもつ鳥を捕まえることで、はじめは途方暮れる日々であった。若い頃の二人は一年の半分は小さな舟に揺られながら眠った。巧く生け捕り役所にみせると役人は褒めてくれ着るものもくれた。嬉しくて欲をかいて遠出した。木々が鬱蒼とした一体に差し掛かった時、水軍の兵士らに囲まれていた。夫婦が連行されたところには見たこともない大きな船が浮かび、数えきれない戦舟が並んでいた。そして背後には仮小屋が浮かび何百という兵士がいた。漁師とようやく口にできた時、偉い兵士が助けてくれないかと言った。そこには同じ境遇の者が多くいて、顔を合わせると歓迎してくれた。
その日から魚をとる漁師となり、久しく仲間にも恵まれ水に浮かぶ町のような軍営の様子に慣れるのも時間はいらなかった。だが、やたら彫りの深い顔立ちの兵士が多く言葉が通じないことに気ずいた。
チャム人だ。頭のなかが混乱した。クメールとチャムはずっと争そっている筈であった。仲間は後で理由を教えると言って笑う。
家屋よりも大きな船をジャンクと呼び宋人が操つっていると教える仲間の目は不安どころか憧れの眼差しを向けていた。チャム人の兵士らは戦舟を漕ぎ、弓矢を射る訓練は夜でもおこなわれていた。
ある日、龍の頭を先首に飾った戦舟の一団が近付くと何百の兵士らは皆片肘をついてお迎えした。何人かの供を従がえて舟を降りてきた人物は穏やかに兵士らをみていた。仲間は半ば下げた顔を向け、我らの王だと言った。その瞳は赤く涙が浮かんでいた。
その日は突然きた。船団は次々と出てゆく。
これからも助けてくれまいか。偉い兵士のことばに皆ふたつ返事で応えた。
三日ばかり舟を漕いでたどり着いた岸辺の村で仲間らと漁をはじめた。村人は旧知のように迎えてくれ粗末ながらも家屋を用意してくれた。それから、漁をして、魚を捌き天日に干す毎日を過ごした。時々、牛車がその魚を何処に運んでゆく。あの船団のことも忘れかけていた頃、夫婦に子供ができた。
おそらく四年の月日が流れた。この岸辺の村に戦象の一団がやってきた。身に纏っているものから気ずかなかったが、あの偉い兵士であった。
ジャヤヴァルマデェバア帝はその方らを忘れてはおらぬ。村を用意した。
かつての仲間達とともに引っ越しがはじまった。仲間は村の娘を娶り皆が小さな子ども連れになっていた。クロムの山を見ながら岸辺の村に着いた。案内の役人は整然と建てられた家屋を指し示した。真新しい家屋を誰もがただ呆然とみていた。
我らは感激し競って漁をしました。4年に及んだ戦さで食糧が足りないことを知りました。
カヴイは黙って耳をかたむけた。
思えば、目のまわるような忙しさが三十年続きました。幸せでした。
二人の息子は漁に忙しい両親の日々のなか仏寺に通い学び商人になった。数年の後、隊商を率いるまで認められ、こわれるまま家柄の良いクメールの娘の婿になり漁しか知らない両親に贅沢というもの与えてくれた。しかし、二人の息子の華やかな家族の姿をみると魚の臭いが染み付いた両親は恥じるしかなかった。太湖の岸辺から出歩いたこともなかった両親はヤショダラプラの絢爛と繁栄する様を観た。人々は優雅で穏やかな表情に溢れている。息子らの願いですでに隠居になっているもとに息子が訪ねてきた。
ラヴォに行く事になった。商務官の身分になる。商務大臣、直々の命であると興奮して報せにきた。
そして、両親を案じ、下人付きの家屋を用意する考えであると言った。もう心配はかけたくないという思いと、故郷であるポーサットを懐かしむ思いを話した。
思い帰せば、ペアルであるゆえに酷い扱いを受けながらも二人は出会い離れなかった。舟を与えられ一年の半分を舟の上で寝た記憶を今だ忘れられずそれは、二人の宝物であった。
不思議なことです。私たちは同じ時に入れ替わりしたのですな。カヴイはヤショダラプラで過ごした若き日が鮮やかによみがえる。
私たちは陛下のお顔をみたのです。老夫婦は秘密を打ち明けるように小声で言った。
それは幸福なことです。感嘆の顔を老夫婦に向けながらカヴイもまた遠き日に見たジャヤヴァルマ帝 あの方を思い浮かべた。
またどうしてヤショダラプラに行きなさる。
それが、わからないのです。カヴイは不明を恥じるように下を向くしかなかった。行けばわかるとの思いはこれまでの人生を捨てるには安易過ぎると誰もが思うであろうが、心の思いを信じる他なかった。もはや過去は存在しないばかりか、今の自分と何の関係もないものとカヴイもわかっていた。
日が傾きかけた頃、港市の知事が取り乱しながら宿駅に走って行く姿に多くの役人が驚き騒然となった。今頃公邸ではヤショダラプラからの賓客との宴の最中であり役人らは日頃にない緊張に包まれていた。カヴイと妻子は水場で汗を拭っていた。
兄者、兄者ではありませんか。港市の有力者は跪かんばかりにカヴイの手をとって喜んだ。
やっとお会いできました。
カヴイはローイの肩に手をおいて頷いた。膝まずき涙をながす知事の姿を多くの役人らが目撃した。
宴を取りやめる。
知事の息子は慌てた。あの二人の賓客の身分が余りにも偉大であった。帝位継承権をもつスーリヤクマラ王子の侍従そして、中央政府の地方監督官。
父上 身分というものございます。宴にお戻り下さい。あの賓客の機嫌を損ねたら知事さえ簡単に解任されるだろうと気が気ではない。
そんな騒ぎに二人の賓客も駆けつけ知事の息子の後ろに近寄った。ローイ殿、この方がそうですか。ローイが頷くと侍従はカヴイに深く合掌した。
監督官殿 あの方と女官長様にはご縁がありましてな。
さようでしたか。地方監督官は女官長と耳にすると顔をぶるっと震わせた。女官長は一切政務に関わからない。一方で高位高官ですら面会もかなわない。しかしながら、大后インドラデビィ様の実の妹のように遇されそして、後宮五千人の支配人であった。
口外はいたしません。その縁とはいかがなものでありましょう。
陛下の最初の妃を知っておりますな。
監督官は頷いた。即位後間もなく亡くなられたと聞いたことがある。当時 チャンパ軍との4年に及ぶ戦闘はこのヤショダラプラを大混乱に落とし、少年であった監督官も難を避け家族と疎開していた。もはや、最初の妃 ジャヤラージャデヴィ王妃は歴史上の人物になりかけていた。
彫工であったあの方は、王妃が最も深い哀しみにある時に仏像を捧げ王妃をお励ましになったのです。実の姉であるインドラデビィ様は今も大事に供養されておると聞きました。思いのつまった形見なのでしょう。
そのようなことが。監督官はすべてを理解した。ローイ殿への異常な支援、女官長の登場、この度のヴアルナの派遣はあの彫工への御礼であったのだ。御礼の主は陛下。
知事であるローイが賓客の前に戻って来た。泣き張らした目元は嬉しそうに笑っている。
兄者に叱られました。
翌朝、港市の有力者は庶民の身なりをして家族のもとを訪ね賑わう市場へ向かった。早朝の活気に満ちた一角の飯屋の座敷に家族を案内した。甘辛いタレと香草をまぶし焼いた鶏と飯を口にはこんだ。カヴイの息子が夢中にほおばる姿を有力者は嬉しそうにみつめた。
兄者、これは宋風の味付けです。
うまい。カヴイも唸った。
ローイは三年前までコンポンチュナンの港市にいたことを説明した。コンポンチュナンの港市は太湖とメーコン川を繋ぐ要所のなかの要所であった。国内の船便はもとより数多の異国人の船で賑わっている。水軍の兵営、収税官、通詞がおり豊かな港市である。
ポーサット郡は代々王族領であり王族の臣下が配下を連れて来て知事として赴任する。そして、数年の任期を無難に過ごし後任と交代する。孤立し目ぼしい産物もない領地は役人の箔をつけるには都合がよかった。ところが、領主であるスーリヤ クマラ王子は身分不相応なローイという者を知事に任命した。バラモンでもなければ高等官でもない。異例の任命に中央政府から異論も出たがスーリヤ クマラ王子に異を唱える者はいなかった。三年が過ぎようとしている。新しい知事のあまりにも優秀なことに港市の住人はローイを仰ぎみルようになっていた。港市の有力者が市場の片隅で朝飯を喰っている様を周りが気付きはじめた。しかしなぜ、ああも貧相な家族に気を使っておるのかわからなかった。
有力者は陽気でよく笑った。
家族のところにローイの息子が歩み寄って来る。二人の女が後ろに控えていた。息子は家族に合掌して頭を下げた。息子もまた庶民の身なりであった。
お前を呼んでおらぬぞ。お姉様が怖がるではないか。
お許しください。
ローイは家族に着るものを用意していることを話した。さあ、あの女らが案内します。
カヴイとローイはただ街を歩いた。牛車を避け、川舟の荷を眺め、ポーサット川辺の木陰に腰をおろした。
ヤショダラプラに参るのですか。
そうだ。ローイが引き留めの言葉をつないだら、どう応えようかと目を閉じた。
兄者はヤショダラプラにおいでになると思っておりました。
ローイがポーサットの役人になって半年も過ぎた頃、ヤショダラプラが謀反の者らの手に堕ちようとしている。との一報がもたらされた。時の帝トリブバァナディティヤヴァルマン帝は王命を発し兵を懇願した。知事ら高官は徴兵令を宣言 兵を募りヤショダラプラへ向かった。愚か者が現れたようだ。知事らは嗤う。
そこに第二報がもたらされた。使いの者はさらなる徴兵の命をつげたが、使いの表情は落胆を隠さず知っていることを話した。謀反人は新しい帝として擁立された。王宮を占領するチャムの兵とトリブバァナディティヤヴァルマン帝は共にその新帝と激しく対立している。何度きいても奇妙なことであった。ただ、クメールの王権は分裂し何がおきるかわからなかった。誰もが様子をみようと思った時、南部の太守の兵が現れた。
我らはジャヤヴァルマン帝の軍勢だ。コンポンチュナンに兵営がある。力をかしてくれまいか。
ローイのような若い下級役人は当然その対象になりコンポンチュナンの兵営で事務官として多忙な日々を過ごすことになる。戦乱はローイを下級役人として扱う余裕などはない。隠せない殺気は異様な空気となって兵営を支配しているなか、ローイは物資の調達に走りまわった。兵は数百の単位で出て行き、戻ってくる。
身分も経験もない者も戦乱の渦中では実力のみが期待される。兵営の長官がローイを評価するのにそぉ時間はいらなかった。主計官になり兵営の実務を仕切り、四年の歳月が過ぎた。そして戦乱は勝利に終えたときいた。
私の婿になってはくれまいか。
コンポンチュナンの太守はローイの才覚を見込んで娘をくれた。ポーサットの役所は白紙になったと説得した。ローイは太守の娘婿として港市を仕切る政務官になった。コンポンチュナンの港市は太湖とメーコン河を繋ぐ地の利を活かし繁栄を続けた。二十五の歳月が流れ呼び寄せた両親も昨年亡くなった。時に船着き場に仏僧の姿をよく見掛けることが多くなっていた。ローイは老いた太守にヤショダラプラでの仏教の隆盛について話しこの地にも必要を説いた。太守は筋金入りのシヴァ信徒であって、由緒ある王族の末裔である。
それが、よかろう。
間もなくローイはある仏僧と懇意になった。仏寺の建立と僧の派遣を問うた。僧は率直に喜び港市の視察を申しでた。ローイは物資に溢る市場、異国の商人らの姿そして活気あふれる人々の顔を僧にみせた。
大変な賑わいですな。噂どおりの豊かさ。
ローイの顔がほころぶ。建立費は問題ないことを暗に示していた。
ローイ殿、この港市には病にある者、貧しい者らはいないのですか。近頃、陛下に見習い仏寺を建てようとする者がおりますが、間違いですな。
ローイは虚を突かれたように立ち止まった。
ローイよ、このように老いてから子を授かった。それ以来、養父母のことを考える。妻のお腹にもう一人おる。難産であった。ヤショダラプラの医師にみせたい。
ローイは立ち上がると近くを通る牛車を停め御車に何かを命じていた。御車は緊張のあまり何度も口上を繰り返した。
兄者、昼過ぎに太湖の宿駅に向かう舟があります。そこで待てば帝都に向かう船に乗ることができます。
それをたのむ。牛車を処分をたのみたい。それから上等な香木がつんである。
ローイは強く頷くと、カヴイの手をとった。公邸に向かう足取りは人混みの中でもこの港市の有力者そのものであった。
午睡をおえた昼下がり、大きめの川舟が桟橋に繋がっていた。二組の若い夫婦が子供を連れてすでに乗船していた。ローイの姿に桟橋をあずかる役人も舟の水夫らも上手く口がきけない。大量の米の積み込みが終わるまでまだ間があった。ローイは手荷物を渡した。航路の予定であり、知事の署名がはいった身分書であるり、しばらくを賄える宋銭であると言った。
兄者、あの香木を専門の役人にみせたところ、余りにも上質なことに驚いておりました。
それは、よかった。山中で道を間違えた時変わった地形の木の根に感じて掘りおこすと倒木が埋まっていた。嗅いでみると香気が鼻をついた。蛮刀で削りながら一塊を切り取り持ち帰った。小さな一塊は重く、嗅いだことのない神々しい香気であり、水に沈んだ時、大変な物を手にしたことに気ずいた。カヴイは村の番割でよく香木探しの役が回ってきたが、これ程上質な物をまだしらなかった。まだ倒木は埋まっている。いや、もっとたくさんある。桁違いの高値で宋人が買うであろう。
ローイよ、あの山中は宝の山になる。
ローイは頷き苦笑いをした。山中への道普請はカヴイをさがす為のものであったからだ。だがその上奏のためスーリヤ クマラ王子の謁見において道普請の報告をすると、隣席していた女人がある提案をした。
産物調査のヴアルナを山中にいれてみてはどうか。スーリヤ クマラ王子は感嘆の声を発した。
さすがはお姉さま。
ヴアルナは政府から独立性のか強い職能集団であり、世襲をもってその専門性を保持している。ヴアルナの動員には最終的には時の帝の許しを必要とした。
ポーサットをたのみたい。数日前に陛下の意想を受け女官長はスーリヤ クマラ王子と引き継ぎの話しをしていた。
ローイとやら、もう安心だ。女官長様がその方の後見してくださる。
ローイは表御殿でみるスーリヤ クマラ王子の威厳に眉ひとつ動かすこともできない緊張を思い出す。
ローイよ、私とこの女官長は孤児であったのだ。その頃からの幼なじみで実の姉と思っておる。
スーリヤ クマラは間もなく西方の大都 ラヴォに総督として赴任する。そしてラヴォ王家を創設する命がジャヤヴァルマン帝より下された。帝位継承者からは外される。が、重責を任された。と呟いた。
いよいよ、龍の娘様が参られます。
水夫が縄をほどいて長い竹の棒で川底をけると舟が勢いよく動きだした。ローイが掴むように振る手をカヴイも見えなくなるまでみた。考えてみれば慌ただしいこの数日であった。妻子がいなければ途中で倒れていてもおかしくないとも思える。その妻は着たこともない衣装に身を包みどこかすましていた。
川幅はみるみる拡がり水平線が見える。太湖に入り込んだかと思えたが水面には木々の梢が無数に見えた。長い竹を操っていた水夫の掛け声で水夫らは櫂を力強く漕ぎだす。舟は日に向かっていた。
カヴイは包みをほどいた。小さな袋の中には宋銭に混じって黄金の腕輪が入っている。ローイのやつ、カヴイははじめて振り返った。その下のバナナに包まれた飯とあの鶏を妻子にすすめた。
やがて島影のようなものが湖面にみえた。
宿駅ですよ。漁師、商人、旅人も利用できます。ここでヤショダラプラへの船を待つことになります。
二組の家族も水夫らも到着を間近に饒舌になった。舟はコの字に連なる水上家屋にすべるように入りこむ。運河沿いに建ち並ぶ地上の街と錯覚をおぼえてもおかしくない。商人とおぼしき者らが酒を酌み交わす姿、乳飲み子を腰に抱く少女、囲炉裏の煙と干し魚の臭い、水に入り体をあらう男達が水夫らに手を上げている。早かったなぁ。
すると、いかめしい役人が現れて停船を命じた。
帝都ヤショダラプラへ参るののか。用向きを尋ねたい。
若い二組の家族は親類を訪ねる旨をのべ、その親類の奉公先は身分がある役人であることを誇るようにつげた。本当かどうかはここで問題ではない。質す方も告げる方も互いの面子が滑らかにおさまることが重要である。
その方は。さてカヴイは応えに窮することになった。
水夫が厳めしい顔の役人にひそひそと耳打ちをする。
何、ローイ様の兄者とな。
さようです。今日は知事様が見送られました。と言って知事からの差し入れである酒と檳榔を指した。
カヴイら家族が案内された部屋は回廊のいちばん奥まった処にある見るからに上等な部屋であった。いかつい顔は上機嫌で丁寧に家族に接した。
高等官も利用する部屋であります。ローイ様も度々泊まられます。遠慮はいりません。
役人は三方向にあるニッパスの戸を引き開ける。すると、傾いた陽とともに赤紫に、淡い銀色にしずまる湖面がひろがるのをみた。息をのむ光景にしばらく声もでず、湖上のそよ風も気がつかなかった。目が慣れてみれば上等の呉座が敷かれ、座卓や燭台が置かれている。その隣に寝室があった。陸地よりだいぶ離れているゆえ害虫もいないと役人は言うと燭台に灯を点した。
それでは食事の用意をいたします。
ローイに貰った飯があります。とカヴイは包みをみせると、この宿駅の役人は悲しい顔をした。
ローイ様に顔向けができません。
家族は欄干に身をのりだし少しずつ傾きかける陽と変わりゆく湖面の光景をみていた。魚 いっぱいいる。息子が杭柱に集まる魚を見て声を張り上げて夫婦は我に帰った。
役人とその家族が食事を運んできた。料理も飯もみな陶器に盛られスプーンも用意されていた。
宋風でございます。試して下さい。これもローイ様に教わりました。
インドの、バラモンの慣習の影響なのかクメール族はずっと昔からバナナの葉などを食器として使い、右手を使い口に運んでいた。食器は一回限りのもので浄と不浄の観念があったかもしれない。
白い陶器に盛られた料理はちがった。湖面はもう見えない。1本の灯りがやさしく部屋を点し、妻と息子はようやく自由になったかのように、山中に居るときのように明るい。いつまでもはしゃぎ寝ることをしない息子を妻が添い寝していたが、二人ともいつの間にかしずかになっていた。
カヴイは杭上家屋をつなぐ回廊に出た。賑やかな声もひそまった家屋の連なりは星明かりを浴びて遠い昔の幻のようにみえる。何人かの男らは廊下やつなぎとめた舟で寝ていた。微かに揺れる舟のなかの男の満足げな寝顔を星明かりが照らしている。
もう四十年も前のことだろうか。過ぎた歳月も、その時の感情も思い出せない。ただ今がある。しかし記憶は遠い日に連れてゆこうとする。
若かりし日、カヴイは棟梁に嘘をついてヤショダラプラを目指した。違法ではあった。知らない漁師の舟にのり漁を手伝いながら、魚の臭いと鱗がこびりついた舟で寝起きしヤショダラプラに着いた。
別れ際の養父を思い出す。
大工の仕事が合わないならば一度ヤショダラプラへ行ってみよ。
明るくそお言う養父に淋しさを覚えた。が養父は小さな固く縛った物を手に握らせた。大事な時に使え。
銀の腕輪であった。
少年カヴイがヤショダラプラに着いた頃 ヤショーヴアルマン帝が君臨していた年時である。出自も定かでなく短い間帝位にあった思われ、間もなく自らの臣下に帝位を簒奪される。この頃クメール帝国が最も不安定な時であった。それは、軍人帝王と呼ばれる、スーリヤヴァルマン帝の長い治世にある。若くして帝位をもぎ取り、およそ人知では想像を超えた大神殿の建造を始め、東西への大遠征に明け暮れる時代であって、まさにクメールの栄光がインドシナの大地に及んだ輝かしい時代であった。だが英雄のその晩年は敗北に終わり病床についた。疲弊と荒廃が残ったヤショダラプラの回復を摂政として従兄弟であるダラニンドラヴァルマンに託すほかなくスーリヤヴァルマン帝亡き後数年の間摂政を続けなければならなかった。人々に笑顔が戻りつつある時、ダラニンドラヴァルマンは新しい帝にヤショヴァルマンを指名し隠居した。カヴイがヤショダラプラに着いたのはそのような出来事の少しばかり後の頃である。
カヴイは自らの内にある好奇心に驚き自由といったものを初めて感じた。信じられない人々の多さ、様々な職業の営み、異族の姿、富貴なる者の存在、果てしなくつづく街に圧倒された。川辺の日陰で行き交う牛車を眺めていると狭い横路に人々が集まっていた。気になったカヴイが近付いてみると人々が飯の配給を受けている。見るからに貧しい男らと子連れの母親らの姿であった。男らは足を引きずり、動かない片腕を下げたまま飯の包みを受け取っていた。男らはスーリヤヴァルマン帝の遠征に従った者らであった。その奥で頭をまるめ赤茶けた衣をまとった者が柔和な笑みをうかべている。カヴイが初めてみる仏僧であった。
その方の分もあるぞ。と言ったかのようにカヴイを見つめ頷いた。確かにカヴイの身なりは汚れている。
カヴイも配給の飯を受け取ったが、何か罪悪感が残った。
カヴイはスーリヤヴァルマン帝の大神殿をひと目観たら何処かに紛れ働らかなければならない。この時代、人々の所属は明確に決まっており、流人のようなカヴイにはまともな所が無かった。どれほど歩いたであろうか。舟が行き交う巨大な環濠の橋をわたると、深い森のなかに大きな家屋が建ち並んでいた。
間違ったのか。カヴイは焦りはじめた。そして、この一直線の通りを歩いている自分に不審の目を向けらていることも感じた。
カヴイは大神殿についた。神殿の西南の角であった。鏡のように清らかな水をたたえた環濠は空の蒼さを映し、青々輝く回廊のあまりにも正確な様に、遠くにそびえる本殿尖塔に声を失った。カヴイは夢中で正門に向かって歩いた。正門の門衛がこのおかしな少年に気ずくのは当然にすぎない。
どうした。賦役はまだ終わってはおらぬぞ。
押し黙った少年の態度に門衛は殴りかかった。カヴイは怒り狂う門衛の顔と背景にみえる神殿をみながら地面に倒れた。どうやら門衛は賦役から逃れた者と誤解した。
よいか。役人にあったら馬鹿なふりをするのだ。別れ際に漁師に教えられた。
門衛は少年を詰所の裏に縛りつけた。少年は激痛を覚え地面をみると赤い蟻が足元に蠢いている。目をつぶってじっとする他ない。長い時間を感じた。
この者だ。さっさと連れてゆけ。門衛のことばに初老の男が頭を下げている。男が少年に近付いてみると、首をかしげ、この唇を腫らした少年をじっとみた。
クマェではないな。飯を喰いたかったらついてまいれ。カヴイは強く頷いた。
灌木や竹で建てられた賦役の飯場に連れられた。その長屋には正式な賦役の任につくクメール人の他に多くのカヴイのような山地民がいた。
ほう お前もペアルの者か。足を組み寝ころがっていた男は楽しそうに起き上がった。カヴイより少しばかり年長の男の屈託のない声にカヴイは安堵した。
よく働けば近いうち土地をいただくこともある。そこに村をつくりペアルの娘を呼ぶ。どうだ、仲間に加えてやってもよいぞ。
近くの者らが呆れたように笑う。
この時代のクメール人の世界は厳に母系相続であったため男子は他家に婿入りするか、相続しない娘とともに新しく家をおこすことになる。どちらかを得なければ男には帰る場所が無いともいえた。
カヴイは日の出とともにスーリヤヴァルマン帝の神殿に多くの賦役民とともに向かった。雨季が日々激しくなる時期、環濠には筏で運ばれた砂岩が荷揚げを待っている。百人ほどの人夫に混じりよく編んだ蔓を引く、それが山地の者らの仕事であった。監督官が指示とばし、石工が槌をふるっている。何処からと無く怒声が聞こえてくる、そうした毎日であったがカヴイは神殿を眺めることに悦びを感じていた。環濠の外からは見えなかったが敷地には多くのバラモンといわれる祭儀官の家屋が建ち並んでいた。異形の姿をカヴイは間近でみた時、固まったように見つめた。
見ては駄目だ。トゥイがみたこともない厳しい声でカヴイの肩を引っ張る。
やがてわかる。トゥイのさびしい眼差しをみた。
監督官の怒声が炎天下のなかにひびく。
よいか、気をつけろ。神聖なる神殿を血で汚すことはあってはならない。おそらく出血の滴が地面に落ちようものなら急ぎその土を神殿の外に排出するだろう。だがその事を疑問に思う者も誰もいなかった。
雨季が激しくなる日が増えるにつれ工事は閑散となったかのように思われた。近隣の村から来ているクメール人らは、いつ帰郷の命がでるかと話しが弾む。
多量の雨水は多くの運河の水位を満たし重い砂岩の運搬を容易なものにしてくれ、カヴイら山地の者らは休む日もなかった。もうすぐ正月だ。辛抱だ。カヴイを救ってくれた初老の男が穏やかに言う。カヴイらは西参道の傍で石材を積み重ねていると、正門の方から華やな一団が向かってきた。大きな深紅の傘を高らかにかかげている。近くにいた監督官は気ずくのに遅れ走ってきた。
片膝をつけ。頭を下げろ。というと自らも手本を示した。深紅の傘の影にある者がカヴイらの前をゆっくりと通りすぎてゆく。カヴイの前を過ぎようとした時、どこか妙にあまい香りが鼻についてカヴイは一瞬その男を見た。口髭を蓄え目の大きな男だ。驚いたのは男の身体、肌がすべすべと光沢を放っていることであった。男ら一団はここに何も、誰もいなかったように通りすぎていった。
あの方のもとで働くことはできますか。昼飯をおえ木陰で寝ころびながらカヴイは世話役の親方に聞いてみた。周りの皆は吹き出した。そんなことを言ってみたい。実はこの新入りの少年が代弁してくれていることに可笑しくおもった。
初老の世話役はスーリヤヴァルマン帝の神殿建造の初めからこの仕事に従事している。生涯をこの建造に捧げてきた。寒い北の山地から来た記憶も定かではなく、我が子のように賦役の民を見つめていた。
あの方は石工 彫工の職能集団、ヴァルナの総帥だ。敬虔なるシヴァ信徒であって神聖なる者らと呼ばれている。世話役は生真面目にカヴイにそお言った。
やがてクメールの正月になった。飯場は山地の者ばかりになり淋しくも思えた。
人々は華やぎ連れだって神殿、祠堂を巡礼する人々で賑わっているときこえてくる。
少年カヴイはこの日を待ち望んでいた。スーリヤヴァルマン帝の神殿に入ることを許されこと知っていた。
アンコールワットとの呼び方は当時にはあり得ない。大きな王の神殿ならば、マハーナコン ラージャヴィフェヤであっただろうし、スーリヤヴァルマン帝の神殿ならば、スーリヤ パルバタ。スーリヤヴァルマン帝の山、が近いと思われる。山は王権を意味していた。
少年カヴイはスーリヤパルバタの神殿 第一回廊に向かった。人々の流れに圧されながら初めてその美しく精緻な彫刻の様をみた。
整然たる兵士の行進の先に帝王スーリヤヴァルマン帝の姿が金色に輝いている。それらは止まった記憶のなかにまだ息をしているようにカヴイに迫ってきた。神話の数々その意味はわからないまでも石は永遠を刻むものと、少年は思った。
人々の流れは東門を出るところで終わった。誰もが神妙な表情はまた、暑熱の陽射しをうけ笑みに賑わう。庶民はこの第一回廊から上には入れない。カヴイは己の身分を呪うように本殿尖塔を見上げた。まだ震えが止まらない身体に陽射しに輝く尖塔はあまりにも高くまぶしい。
彫工になれるならば何も望まない。
その時、何かの声が脳裏に聴こえた。
本当か。
本当だ。脳裏で強く叫んだ。
少年は別れ際父からもらった銀の腕輪を握りしめ正門ヘと引き返した。そして、午睡のおわるのを待って再び第一回廊の前に立った。
本日の参拝は終わった。衛士はおらぬか。宗務官は不審な顔を少年に向けた。
賦役の者です。これは父の形見でございます。寄進のお許しを。といって銀の腕輪を差し出した。
宗務官は腕輪を手にとって驚いた。
立派な行い、許されるであろう。宗務官は奥に立ち去ろうとした時、突然片膝をついた。
賦役の者が銀の腕輪を寄進するものなのか。
巻き上げた髪と白い髭、白紐が首に垂れた老人の姿が現れ、低く響く声がきこえた。老人の賦役の少年をじっと見つめるその目は石のように動じない。カヴイは吸いこまれてゆく錯覚さえも忘れた。
バクティ神えの信愛とは、このような者のこと。
後に控えていた従者が静かに頭を下げた。老人は階段をおりカヴイに歩みよる。
その方の望みをきこう。
管長様は寄進の申し出の理由を尋ねられておる。従者のことばにカヴイは返答に窮するが老人の眼差しはカヴイを射つくすようであった。カヴイは東門から尖塔をみた時の話しをした。
聴こえたのだな。カヴイは頷いた。
いま一度観るがよい。案内いたせ。
若き宗務官である従者にうながされ再び回廊の彫刻を目の当たりにできた。スーリアヴァルマン帝とともにあった帝国の栄光を宗務官は昨今のことのように説明する。誰もいない回廊に宗務官の高揚する声が響く。
ここに若き日の管長様が彫られておる。ひと目でバラモンと呼ばれる者たちのなかに管長の姿はあった。
よいか、帝国の栄光と繁栄を支えておるのは偉大なバラモンに他ならない。
しかし、少年には難しく少年の耳には、いや心には響いてはいなかった。石がこのように美しきものに化けるこの素朴な事実に魅了され、出来事や神話が刻印され永久になる事を彫刻が叶えてくれることを知った。
これで悔いはないとカヴイは思った。
管長様がお待ちだ。よいか呼吸を整えよ。雑念を失くした心境にない者を好まれない。
カヴイの身分ではかなわない第一回廊から奥ヘと階段を登った。回廊というよりは柱廊であり、囲むように四つの水を満面に貯めた空間であった。あの老人と同じ姿の者が何人かいた。カヴイは雑念を拒むように、ただ呼吸を整えるのに夢中でそれらはぼんやりと視界に入った。
柱廊の奥まったうす暗い処にあの老人は独り瞑目し座っている。若い宗務官とカヴイは気配を消し去った生き物のように、しずかに老人の前に座った。
欲をもたぬと申したな。
カヴイはこの老人をみつめた。
お主は見事な供犠をした。神はその望みを約束される。一年の後、まだその心のままならな尋ねてまいれ。
賑やかなクメールの正月が終わり街はもとの規則を取り戻し賦役もはじまった。まともに飯が食えると喜ぶトゥイの明るさは相変わらずであった。
作業は水路の手直しと伝わってきた。慣れない重労働にちがいない。
この巨大な都城は無数に張り巡らされた大小の運河網と水路によって機能していた。稲田への豊富な水の供給は三毛作を可能にし、運河は流通の根幹をなした。雨季の雨水を貯め乾期の終わるまで上手く使うことは、洪水の被害を抑え乾燥に応じることになる。それは高度な調整能力と、土木工事それを支える官僚機構によって運営されていた筈で巨大な人口を養うことを実現させた。
クメール人の国が帝国になり得たのは、この水の管理に他ならず、水利こそが国家であった。
作業を中止せよ。慌てて監督官が怒鳴りながら走って来る。もう間にあわんと思った監督官は街道の外に出て控えろとも叫んだ。近くの住民も続々と街道の端に集まてきた。ヤショーヴァルマン帝の行幸の出立が変わったことを報らされていなかった。
よいか、帝のお顔を絶対にみてはならんぞ。
間もなく楽隊の鳴らす響きが聞こえてきた。沿道の住民の歓声が盛り上がる。
やがて遠目からでもわかる華やかな行列が近ずいて来た。きらびやかな装束をまとった数百の兵士らが槍と盾を持ち行進する様は第一回廊そのままであった。その後に鮮やかな深紅の日傘がが連なり、日傘の下には黄金の長柄に輝く駕籠に乗る高位高官らが続いた。それから、沿道は大きなため息でどよめいた。白昼にもかかわらず手には蝋燭を点した女官らの着飾った姿と王家の女たちの煌びやかな姿に沿道の人々はことばを失った。
そして沿道は急にしずかになった。白い日傘が何本も重なり近付いて来る。沿道の人々は皆片膝をつき唇を固くした。儀仗兵の鋭い眼差しが容赦なく注がれるなか、黄金の角をもつ戦象がみえた。そして象の背の櫓に揺られるヤショーヴァルマン帝の姿があった。
戦象が近付いて来る。沿道をある威圧感が覆い戦象の足音さえ聞こえてくる。多くの人々にとって帝の姿をひと目みたいとの望みは抑えがたいものだった。
美しいお顔だ。お若い。微笑まれたぞ。
嘘だ。そんな筈はない。カヴイは壁面に輝くスーリアヴァルマン帝の威厳を思い出した。
微笑まれたぞ。
その一瞬少年はあろうことか頭を上げてしまった。少年は帝をみた。帝と目があった気がした。刹那とも云う時が止まった。カヴイは帝のお顔をまぶたに記した。
ヤショーヴァルマン帝の象がスーリアパルバタの大神殿正門に着いた。帝は象をおり特別に設けられた祭儀に臨むべく環壕をわたった。簡素な祭壇は第二門の手前に設けられ数人の祭儀官が座っている。あまりにも簡素なことに従者が絶句したがヤショーヴァルマン帝は意にかえさない。高位のバラモンは片膝を付かない。管長チヤクラスバーミンが小さく頷くとある祭儀官の祈りが始まった。祭壇の火に呪文とともにいろんな物が投じられる。寸分違わず行われた所作を見届けると老バラモンは祝辞を述べた。
まことに慶賀の極み、モーン王家の王女様を娶ることは吉兆なる徵、再びふたつの王家の繁栄の訪れを神は歓迎いたしましょう。ヤショーヴァルマン帝は頷き、ビシュヌ神を讃える詩句を口ずさんで祭儀は終わった。師よ我が敬愛するバラモンよ、ご自愛なされ。軽妙な楽隊の音がはじまる。
再びヤショーヴァルマン帝の行列は西に向かって動き出した。沿道の歓声が届くなかチヤクラスバーミンは珍しく遠ざかる帝を見送る、背後に祭儀官らが近寄ってきた。
あの者は幾度もの警告を聞かなかった。仏の教えとやらを国教にと執着する愚かさを。
左様、この城府はバラモンによって築かれた、バラモンのもの。
冥界ヘの行列になりましたな。あれ程神の言葉、サンスクリットに精通した帝を失うのは残念であります。
チヤクラスバーミン様、我らを支持しご指導をお願いいたします。
チヤクラスバーミンはまだ微かにみえる行列をみながら背後の祭儀官に応えた。
己のが思いを為すがよい。正邪を問う必要はない。
六日ばかり過ぎた時、西方から大事件の報せがもたらされた。その報せは瞬く間にヤショーダラプラを駆け巡り人々を驚愕させた。ヤショーヴァルマン帝がモーン王国ヘの途襲撃を受け亡くなったとの訃報であった。クメール人程噂話が好きな民はいない。他人や自らの、幸運なことも不運なことも余すことなく他人に語る。しかし、さすがに帝の訃報だけに眉間に険しい皺をつくり様々な考えを口にした。
はじめから、この婚姻は、モーン王の計略であった。いや大国ハリプンチャイの王の命ではないか。ある者は別な見方を披露する。
我らを最も憎んでいる者はチヤム人だ。襲われた土地は昔から反乱の絶えない異族らが多い。チヤムと仲が良い。チヤムは奇襲が得意な奴らだ。
巷にはあらぬ情報で溢れてゆくなか、ひとりの帝の不在に巨大な官僚機構は右往左往をし、ただ混乱するばかりであった。帝の父、先の摂政であるダラニンドラヴァルマンは捜索を続けること、モーン王に使者を立てることを何度も懇願した。
ご遺体がみつからない。当然の理由であろう。
訃報は遠方まで届き各地の兵が続々とヤショーダラプラに入って来た。帝の訃報に火がついたようにやって来る兵が一千を越えて団結するようになると、挙兵を訴え、政権を罵倒する。そして、口々に軍人帝王スーリアヴァルマン帝の栄光を叫んで街を練り歩く兵等に同調する人々も日増しに増えていった。
こんな屈辱があっただろうか。兵は涙を拭う。
カヴイら賦役の者たちは、そんな興奮した兵らの姿を間近で見るようになって帝の訃報を知った。カヴイはただ茫然とあの華やかな行列とまだ微かに憶えているヤショーヴァルマン帝の顔を思い浮かべた。隣に寝ころぶトゥイもまた神妙な顔をしながら夢が遠のいたとため息をもらした。
明日から賦役はない。飯場に帰って来た世話役はそう告げた。帰るところの無い者達には不安がよぎる。
また正月がきた。飯が食えん。とトゥイが軽口をたたくと、さすがに世話役が怒った。
俺も、あの勇ましい兵の仲間になろうかなぁ。この軽口には世話役も苦笑いを浮かべた。
いずれ、近々新たな帝が即位される。その時のために、あの者らは自分を売り込んでおるのだ。
もはや王宮に集まりし高位高官らは対立し為す術もなくなったようにみえた。それでも新たな帝の擁立が大勢になり、世俗を離れたバラモンたち祭儀官、占星官、祭儀官を辞した高名な苦行者に全てを委ねることに決した。
会合はスーリアパルバタで行われた。日没の刻、異様な風貌の者達が第二回廊の奥へと入ってゆく。家族のもとを離れ浮世をさ迷い苦行に身を投じている者らに表情は無い。
管長の申し出にあらずば、あの方々は参られない。祭儀官は蝋燭の灯りに浮かびあがる苦行者の貌をみた。国の大事にこうも無関心に慣れることに畏れを抱く。これが大義名分と云うもの。
十字に構成された柱廊と四つの水槽を星明かりが照らしている。夜空は四角の枠にあり、静寂は宇宙とともにあった。
申すまでもなく神聖なるものの権威はバラモンでありクシャトリアである帝王は神聖なるものの保護者にすぎませぬ。祭儀を否定し四民平等などを唱える仏教に狂った者が世を去りました。
あるバラモンの言葉に静寂は乱れない。
バラモンの永遠をとりもどすため、お力を賜りたい。
沈黙は変わらない。四角の水面が薄く鈍く光を集めている。がそれは、異存も無い表れでもある。
バラモンの理想を保護し俗世を統べる者を呼んでおります。と言うと、このバラモンの大きな声が響いた。暗闇から現れた男もまたバラモンの装束を纏い、居並ぶ者らに溶け込むように座った。
バラモンがその口からもれる言葉は永遠にして真理なるもの、私は神聖なるものの保護者となりましょう。
居並ぶ者らがこの男を凝視し、瞑目にあるチャクラスバーミンのその顔に目を向けた。
思いを為すがよい。
その時はきた。暗闇のなかで誓いの言葉を放った男は多くの高位高官そして、尊敬を集めるバラモンらの推挙をもって帝位を得た。トリブバァナディティヤヴァルマン、三界の主神と名のったこの帝はヤショーヴァルマン帝の有力なる大臣であって、臣下から帝位に初めて就いたことになる。先帝の行方不明といった異常事態に麻痺したヤショーダラプラの住人は安堵の息をもらした。すぐさま、街並みに新帝の噂で盛り上がる。それはほぼ新帝の出自に関わる事であった。
クメール王朝最高の学者であるヤジニュヤ ヴラゥハァ直系の子孫である事実はヤショーダラプラの住民を二百年前の記憶を呼び戻す。シバァプラの御曹司。最も正統なる王族の家柄との評価と賛辞の声が人々の間に広まりつつあった。
クメールの至宝と讃えられるバンティヤ スレイは当時そう呼ばれていない。言うなれば、人々はシバァプラの神殿と呼んでいた筈である。真東に聖山プノン ダイを遠望し、マへンドラパルバタから流れる清らかな水が傍を潤していたこの神殿は神意を具現化する特別な土地に建てられた。ヤジニュヤ ヴラゥハァの博識は西方に伝わり、その評判によって多くの賢者と呼ばれるバラモンの訪問を受けることになる。王師を務め幼帝の摂政も兼ねたヤジニユヤ ヴラゥハァは王朝での権勢を欲しいままにすることができた。来訪バラモンとともにヒンドゥー文化の花を咲かせることになる。
まぎれもなく、ちょうど二百年前だ。
シバァプラの神殿が着工された年時を想いトリブバアナァ帝は先祖の恩恵に幸福の涙をながした。そして玉座から立ち上がると、帝位を与えてくれた三人の祭儀官の手を握りしめた。
私の理想とする国のあり方はバラモンによる合議によって計られることになりましょう。
三人の祭儀官はこの日よりトリブバアナ帝の相談役として大老職に就くと大臣ら高官の人事をすすめながら最も重要な即位の儀式の日取りを案じていた。クメール帝の即位の儀式は昔からある一族のみに許され、その正統性と特権は世襲をもって継承されてきた。王が神と一体となる、デーブァラージャのための儀式にあずからない王者は正統性をめぐって内乱を惹き起こしてきた歴史は多くあった。
アラニャイカプラから神王祭儀官の来訪を耳にしてトリブバアナ帝が小躍りしたのは、そんな時だった。帝は柔和な笑みを浮かべ老祭儀官を王宮に迎えた。
機はまだ熟しておらぬようです。その言葉に帝の顔から笑みが消えた。緊張の空気のなかに大老職の穏やかに笑う声が響く。機を熟するとはいかがなものとお考えか。
実状を知らぬようですな。
神王祭儀官の領地であるアラニャカイプラはヤショーダラプラから二百キロ西方にある。ラヴォ王国とは街道でつながる要所であり近辺にはクメール人の大きな都市、プラがある。だが、そのクメール人の都市は亡きヤショーヴァルマン帝一族、マヒ-ダラプラ王家の支配するところであった。
ラヴォ王の怒り、マヒ-ダラプラの不信、わかりますかな。祭儀官は軽蔑の目を大老らに向けた。
ほう、内乱をお望みか。険しい空気が謁見の間に張つめた。居合わせる高官らの浮かれた昨今までの表情は無い。
先帝のご遺体が見つかっていない以上、安易に事をすすめれば深刻な事態になる。よろしいかな、ラヴォ王は謀反の疑いを深め、貴方のことを簒奪者と断じておるとのことだ。
この私が、簒奪者だと。トリブバアナ帝は怒りに震える拳で玉座を叩き祭儀官を睨みつけた。だがクメール王朝の歴史を体現する祭儀官の威厳は動じない。
機をみることことです。と言うと人払いを願った。物音も消えた謁見の間にトリブバアナ帝、三人の大老そして神王祭儀官が車座に座った。長い沈黙のあと神王祭儀官はため息とともに四人を見回した。
迫真の演劇、厳しい言葉を浴びたトリブバアナ帝の額にはまだ汗が流れていた。
許されよ。我らの他に知る者がいてはならない。
龍の娘とその使いらのことですな。
さよう、もう一つの、いや、最後の障壁を打ち壊さねば我らの望むヒンドゥーの世界を手にすることはできない。
この五人に共通する強い思いは遠い祖先の栄光にあった。優れたバラモンであり、度重なる王家との婚姻によって、この国を偉大なるものへと導いてきた祖先の歴史であって、ヒンドゥーの国からの来訪バラモンの血を濃密に自覚していた。その先祖らも幾度かクメールの帝位を手にする瞬間に至った時があった。だが何らかの、表面ではわからない者、龍の娘とその使いによって阻まれた。
かって、この国は山の王が治めるとの意をもってプノンと名のり漢代の人々は扶南と記した。プノンはインドシナに長く君臨し古代の秩序を形成した。海を介して漢とヒンドゥーの国々を結びつけた海の世界の王者といってよく豊かな産物と思想を東方にもたらす役目を担った。七世紀の中頃、それまで深く内陸部にいた勢力が台頭しプノンの王権を脅かし併合しチェンラと名のった。もともと農耕民であるチェンラはプノン王国のもつ高い文化に憧憬の念をもち最終的に互いは和解した。そして二つの王家はある約束事を交わした。
プノン王家の王女とチェンラ王子が婚姻をし、二人の間に生まれた娘をもって代々その母系で相続されると云うことであった。プノン王家のナァ-ガ王伝承から、いつしか龍の娘と秘かに呼ばれた。
帝よ、慣例に習い先帝の正妃ジャヤラージャデゥイを娶るのだ。
トリブバアナ帝の目が激しく動揺した。
なぁに、形式ばかりのこと。この国の古い家系の者らは無論、チャム人やモゥン人ら多くの異族は貴方の正統性を認めざろをえなくなる。
しかし、先帝の一族が激しく反発するのは誰の目にも明らかであり、品よく育ったトリブバアナ帝の顔は歪んだままであった。大臣として先帝一族との楽しい交流の思い出のなかにジャヤラージャデゥイ王妃の美しい姿がよみがえる。理想を求めることとは別に、その昨今の思い出は実に生々しく胸に迫まった。
先帝、いや、あの者は生きておる。神王祭儀官の断じたことばに三人の大老は確信を共有したかのように小さく頷いた。
時を待つことは許されないようだ。
鉄壁とも思える襲撃に応じ父親を護り命を落としたのは息子シュリンドラクマラ王子であった。王子はマヒ-ダラプラ王家の貴公子と呼ばれ次の帝位に最も近い若者であった。マヒ-ダラプラ王家を敵にまわすわけにはいかない。
毒には毒をもってあたる。まだ我らの想定のなか。
トリブバアナ帝は老人たちの妖気に自らが望んだ帝位と云うものの恐ろしさを覚えた。
この私は何をすべきか。
帝となる貴方は自らその手を汚してはならない。
人々の日常は変わらない。この巨大な人口を擁する都市を維持するためには己の所属とその義務を果たさねばならない毎日が目の前にあるに過ぎず、人々の話題といえばこの時期の日没後の寒さが人々の挨拶がわりともなっているくらいであった。
トリブバアナ帝の使者が先帝一族の広大な宮殿を尋ね帝の望みである婚姻の命を伝えた。先帝の父ダラニンドラヴァルマデヴアは抗議する家臣らをなだめ、悲嘆とも覚悟ともわからぬ表情を崩すことはなかった。
先帝の一族と家臣らがトリブバアナ帝の即位の無効を訴え集まっているとの噂が市中に拡がると各地方から来ていた兵らが宮殿を取り囲み挑発をはじめた。
恫喝し解散させよ。よいか、暴走を決してするな。籠に乗る大老の命じる声を聞いた地方の兵はようやく訪れた出世の機会に身震いした。
あの方は新帝に最も近くにおられる大老、大袈裟だ。二百ほどの者らに本気をだすまでもない。
挑発は日に日に悪質なものとなってゆき小さな小競合いが頻発する。そんななか隊列を組んだ牛車の一団がやって来た。積み荷を奪えと誰かが言う声に兵らが隊列を取り囲み槍を向けると、瞬く間にその兵が打ち倒された。兵らの顔に怒気がみなぎり、ついに双方は乱闘になった。短い時間のあと参加した兵らが血を流し倒れ、牛車の一団は何も無かったように宮殿に入った。
これはまずい。負傷した兵らの姿を目に指揮をとる者の脳裏には、この無様な出来事が王宮に知られることへの焦りばかりが占めていた。
これで名分が得られました。有力なる兵の声に貫禄を装って頷ずくと突撃を命じた。
数十頭の戦象と槍や弓を持つ一千の歩兵が宮殿正門に布陣すると戦象にのる者が立ち上がった。
謀反人を差し出せ。と怒鳴るといっせいに矢が放たれた。
正門が開いて数人の男が現れる。先帝の宮内大臣と名のる者の眼光が兵らを射つくす。
何のまねだ。先の摂政ダラニンドラヴァルマデヴア様に矢を向ける意味がわからぬか。謀反人などおらぬ。
戦象の上からの男の奇声に突撃が始まった。防備に劣る正門は簡単に打ち破られ間をおかず戦象が宮殿内に乱入すると双方はぶっかった。矢を射られた戦象の狂った雄叫びと兵らの怒号はまさに無秩序と混乱を呈し多くの犠牲をみた。矢を射られ倒れた兵らが戦象に踏み潰される光景を見ながらも数に勝る兵らは次々に乱入し徐々に横に陣形がつくられていった。狭い正門が有利にはたらいたが限界を悟った。
怒弓を用意せよ。残る者で斬り込む。龍の使いの頭の命が伝令されてゆく間のことだった。
遠くから深紅の日傘が近付いてくる。ひと目で貴人とわかる人物が双方の間に入って来ようとしていた。
この死闘のなかに、その深紅の日傘の鮮やかさは一時であれ荒れ狂うものを静めた。ダラニンドラヴァルマデゥアは両手を上げ、止めるのだと言った。
御前さまが、龍の使いらは、まさかの光景に固唾を飲む。乱入してきた兵らのなかには、その声、穏やかな面差しの顔を憶えている者もいた。かってスーリアヴァルマン帝のチャンパ侵攻が敗北に終った時、摂政として敗残兵の傷を癒し世話をしてくれた恩義を忘れていなかった。だが、静寂は破られた。一矢がダラニンドラヴァルマデゥアの胸を突き刺し、崩れるように倒れると深紅の日傘も倒れた。
貴人が死んだ。この意味に多くの兵らは動けないでいるなか、龍の使いらが駆け寄ってきた。もはや息途絶えた身体を前にひれ伏した。
菩薩さまのもとに参ろうぞ。
間もなくだ。トリブバアナ帝は大勢が自らに有利に運んでいることに安堵した。ようやく正規軍の将校らが帝の求めに応じて軍営に集まりだした。バラモンの理想といえど、この世を決めるのはやはり軍隊であろうか。
トリブバアナ帝は王宮の背後にある広大な池を散策しながらそう思った。しかし歴代のクメール帝が愛したこの池の美しさに、自らの理想が重なる時の訪れを予感し得た。日傘や団扇を持つ従者らも帝の穏やかな眼差しに目を輝やす。
だが、つかの間の静寂は破られた。あの何事にも動じない大老が顔色を変えて近付いて来た。
摂政様に矢を放ち、お亡くなりになりました。
大老の険しい表情に大事を悟ったトリブバアナ帝は従者らに人払いを命じた。
それは、百にも満たない先帝の家臣らに一千の兵らが打ち倒されている戦況であって、今もって凄まじい戦闘の最中であることだ。
龍の使いでしょうか。
間違いない。帝よただちに軍の召集を命ぜよ。
龍の使いの凄まじい戦闘力が次々と報じられるなか五人はある結論に至った。それは龍の娘を人質に我身を守り王権の安定を優先するものであった。
翌朝、正規軍が摂政の宮殿を取り囲みはじめる一方で暴走をした地方兵らの逮捕をはじめた。摂政に敬意を抱く者が多い正規軍の怒りは厳しい逮捕となった。宮殿内の悲惨な光景と血の匂いが暑い陽光を浴びてハエやら鳥がまつわりついているなかトリブバアナ帝の弔意を伝える大臣らが顔を覆いながら向かってゆく。
大后ジャヤラージャチュウダマニは夫の亡骸に寄り添っていた。先帝の宮内大臣と傷をおった男らが黙ってトリブバアナ帝の釈明と弔意をきいた。
帝王に相応しい諡号を贈ることを強く望まれており葬儀を挙げたいとの帝の意向を伝えた。
何を企んでいる。今度は正規軍を使っての脅しか。
宮内大臣の言葉に大臣らは帝の心情を思い耳を疑った。大臣らにとってもトリブバアナ帝は学問と芸術を愛する人柄であったからだ。
我夫とともに過ごした故郷プリヤ カンの地に帰りましょう。
大后ジャヤラージャチュウダマニの望み叶えられたが、家臣団には追放の命が下ることになる。宮殿内に住む女らは外出もままならない監視に置かれてゆく。先帝の后ジャヤラージャデビィと姉インドラデビィはそんな境遇に絶望を抱いたことだろう。
龍の使いの存在に身の危険を実感したトリブバアナ帝はヤショダラプラに戒厳令をひき厳重な検問を命じた。そして先帝一族の高官、ことに仏教徒である者は任を解かれ、あるいは遠地ヘ赴任が命ぜられた。ヤショダラプラの住人は権力の交代を間近に眺める事ができたが、かっての帝位継承にともなう戦乱を伝え知っている住人らは思いの外小さなものと受け止めた。洪水がひいて、その片付けに追われるように都の秩序は回復されてゆく。
そんななか、賦役の長屋にも軍人が現れた。軍人は槍をひとりひとりに向け殺気だった目を離さない。
反新帝を唱え反乱にくみした者らには多くの異族がいたことが、その遺体から判明していた。カヴイらは軍人に追われるように広場に集められた。座るように命じられ鈍い者には容赦がなかった。やがて高官が現れ軍人の振る舞いを叱責した。
その方らを疑うことは心苦しいが、先帝の父君をたぶらかした輩のなかには多くの異族、山地の者がいた。しかし、トリブバアナ帝は実に情け深く、その方らに身の潔白を明かす機会をお与えになる。はじめて聴く高官の声に賦役の者らの目が注がれた。
先帝を亡きものにした愚かな者を突き止め、その野心を打ち砕くため征討軍に命が下る事になると明かした上で西方の要地アランヤプラに大規模な兵営を設けることになり賦役の者らの役目となった。
アランヤプラはモゥン王国に近く、その南方は歴史的に反抗的な異族が多い、何よりも神王祭儀官の領地であった。
クメール帝国の威信を示す事が、亡き先帝の弔意になるであろう。高官の声に熱がこもった。
勇気のある者、勤業なる者には、その望みを聞くことを誓う。名誉ある軍人になるまたとない機会であるぞ。
高官らが帰えって広場は静かになると賦役の者らは高官の言ったことを確かめあっている。そして、高官の最後の言葉を理解すると多くの者が目を輝かした。
カヴイは、ただ西方に行くことを知った。
西に向かう賦役の者らの隊列のなかでトゥイの明るい鼻歌を聞くカヴイの姿があった。暑熱に皆が無口であるのにトゥイはアランヤプラでの兵役に希望をつのらせていた。街道の村での炊き出しと村人の歓待に先行きを明るいものにみえてた。稲田が広がる、のどかな村落、水牛のそばで裸の子供達が手を振っている。そんな風景をカヴイも久しくみていなかった。
賦役の隊列の前後には軍人がのる牛車が監視をし、後には戦象にのる軍の保護官の姿があった。いわゆる、兵站、補給を司る事務方の高官であり、その気難しい顔は皆に緊張を強いた。
交通の要所である郡都シソポンを出立する時、戦象の御者が熱病に倒れた。軍人らは慌てて替わりの御者を探している。その様子にトゥイが駆け寄り御者の任を求めた。軍人らは顔を見合せ疑った。
その方、はったりで申したら体刑ではすまぬぞ。
だが、トゥイは御者を見事に務めアランヤプラに着いた。
アランヤプラの住人らの心配は予想を超えていてカヴイらを驚かせた。街中が何かに怯えている。モゥン王が攻めてくる。との声を多くきいた。カヴイら賦役の者らは街外れに長大なる防護柵の築造をただちに命ぜられた。兵役はヤショダラプラでの賦役と変わらない。石から木材に変わり、毎日深い穴を掘り丸太を建て、所々に櫓を設けた。
ひと月ぐらいして二千の正規軍がやって来ると住人らは、やっと安堵の息を漏らした。二千の軍は毎日演習を行い、時に、その存在を誇るように遠方ヘ出掛ける隊列をみた。見事に御者の任を務めたトゥイは保護官に気に入られ軍人になり、保護官の後で隊列を見送る列にあった。
雨季が訪れた。アランヤプラは誰が見ても要塞のように変貌しつつある。
快活なトゥイは我意を得たように働き、ひとりでいるカヴイを見かけると親しく話しかけることがあったが、今日のトゥイは興奮を隠さない。
念願がかなうやもしれない。村をつくれる。
トゥイはまだ口外してはならない上層部の決定をカヴイに漏らした。長期戦に備え、この近郊に軍人の村、屯田兵の村をつくることが決まり賦役の者ら三百あまりがその命を受けることになる。月の半分は兵役を務め、半分は自からの糧のため、伝統的なクメール人の生活様式が許され私有も認められる。
どうだ、カヴイ、よき話しだろう。内緒だ。
トゥイは頷くカヴイにこう一方的に話すと、
お前、クメール語が書けると聞いたが、俺に教えてくれないか。
雨季が激しくなると作業も閑散としてくるなか二人の指が地面の上に動いていた。
敵は我らの軍勢と、この堅牢なる砦の前に怖じ気づき、その野心のかなわぬことを悟った。とは言え油断することがあってはならない。トリブバアナ帝の命を受けた高官の言葉が続いた。この由緒あるアランヤプラ、この近郊に土地を与えよう。開墾して村をつくり、兵役を務めよ。帝の命である。
翌日正規軍の大半がヤショダラプラに向かうなか賦役の者らは兵士となるための教練がはじめられた。短期間で基本を覚えるため、その厳しさは賦役よりも過酷であった。槍、そして弓を射る。刃を殺していたが、その分遠慮がない。少しでも気を緩めれば激痛がはしる。職業軍人に敵うわけがないが痛みと悔しさに必死にならざろう得ない。
間もなく正月に近付く頃、教練も終盤にさしかかった。数頭の戦象を使い模擬戦がはじめられた。一頭の戦象の廻りに二十人から三十人が配置し指揮する者が決められ双方がぶつかり合う。
そんな時、カヴイも戦象の櫓に乗り指揮をする順番がめぐってきた。覚悟をきめたカヴイは敵方の動きに応じて大きな声を奮わせる。敵方がいっせいにカヴイを標的に矢を射つた時、カヴイはその数本の矢を打ち落とし、まるで見えているようにかわした。驚く敵方、いや、この光景は検分する正規軍将校に驚き以上のものを与えた。
あの者はいったい何者だ。取り押さえろ。
演習はただちに取り止めを命ぜられ、将校らが戦象に乗るカヴイを取り囲んだ。いったい、何があったのか判らぬカヴイに将校の凄まじい目が向けらた。
お前、何者だ。どこで訓練を受けた。
まだ話しを飲み込めないカヴイが黙っていると将校の怒声とともに槍で打ち倒された。多くの者が呆然するなかトゥイが駆け寄りカヴイに寄り添い抗議の声をあげた。そおいえば、この者もおかしな奴であった。将校らは確信を深めたように、にやりと嗤う。こやつらが龍の使いと呼ばれし者ならば相当の恩賞にあずかることになる。もはや、演習どころではなかった。
カヴイとトゥイは牢に縛られ訊問がはじめられ、この二人と接触がある賦役の者らも、その対象になり、その報せはアランヤプラの政庁にも届き大騒ぎとなってゆく。神王祭儀官の親族が現れ将校の説明をきいてみると、その信憑性に疑う余地はなさそうであった。
わが当主の喜びが目に浮かびます。はっきりすれば大きな手柄、帝のお耳にも入る事になりましょう。
将校らは事の重大さを、あらためてしった。
手荒に扱わず取り込む事によって、龍の使いの拠点なり重要人物が浮かび上がると確信した。
しょせんはまだ少年、親しく接すれば口も割る。
だが、翌日事態は急変しあっけない幕切れとなる。カヴイとトゥイの身辺を聞き取っていた兵士らが証拠となる物を見つけ報せに来た。それは小さな竹筒に丸く詰め込まれた棕櫚の葉、貝葉に書かれたものであり一同に歓声が上がった。しかし、次の瞬間、将校らはその文字が聖なるサンスクリットで書かれていることに驚いた。当然ながら将校らにこの文字を読める者はいない。ヤショダラプラの優れたバラモン、パンジッタと称される高等官なら読めるが下手すれば手柄が我らから離れてしまうことを聴くと怖れた将校らは神王祭儀官の親族に助けを借りることに決めた。
親族は上機嫌に将校らを招いた。さすがに歴代のクメール帝の即位の儀式に関わってきた一族の屋敷は小さな王宮のようであって、多くのバラモンの姿が見受けられた。
ほう、これが動かぬ証拠ですか。丸まった貝葉をひろげた親族は一読すると、その両手は震えだした。親族は隣に侍するバラモンに読めとばかりに手渡した。その様子は将校らにとって息を飲む瞬間であった。
読んでみよ。親族の小さな声がきこえた。
真実のバクティ、神ヘの信愛をしる者。この者の清浄なる供儀に神は微笑まれる。乾いた大地にはじめて降るシゥユのごとき。チャクラスバーミン。
将校らはクメール語に変えて読んだ言葉をぼんやりと理解したが、馴染み無い語彙に戸惑うばかりであった。
珍しいことだ。あのチャクラスバーミン様がこの若者に期待をもった。
将校らもチャクラスバーミンの名は知っている。スーリアパルバタの管長であり、尊敬される苦行者らの灯明のような存在そして、トリブバアナ帝が心から王師と仰ぐと云われる。
その若者をただちに解き放ちなさい。
トゥイは別れを前に淋しさが込み上げてきた。カヴイの大胆な出来事に驚き、父親の形見に涙をこぼした。俺と村をつくるなんか小さなことだ。
約束も機会も、その時となってみなければわからない。運よくかなったとしてもだ。幸運は一度手にしたら、どのようなことをしても守らなければならない。市井のクメール人ですらそうであり山地の異族など掃き捨てらる落ち葉だとしっていた。
少年は屯田兵の証である粗末な短剣を腰にヤショダラプラヘ向かった。将校らの謝罪とともに牛車の申し出も断ることもできなかった。そして、少年は再び第二回廊の前に立っ。宗務官やら大勢が出入りし、美しく着飾った女人の一団が歩みよってくる。
何用であるか。大事な祭儀を前に忙殺される
宗務官はこの下位の軍人をみると苛立った。
少年は貝葉の書付を宗務官にわたし、管長チャクラスバーミンとの面会を求めた。
お主、憶えておるぞ。だが、管長さまは、お身体がすぐれない。案内いたそう。管長の秘書である宗務官は、こう言うとカヴイを連れスーリアパルバタの正門を出て牛車に乗った。カヴイの心配な目は神殿に向けられた。
カヴイよ、管長さまは平静にある。俗事、欲得に接することを避けるため、そおしておるのだ。
牛車は王宮に近ずきつつある。高位高官の邸宅であろうかフタバガキの巨木の薄暗い下に建ち並らんでいる。赤茶けけた色の瓦が木漏れ日をうけて映えている。目がなれてきた。
ここが石工、彫工のヴァルナの総帥であるチャンドラクマラーパンジッタ様の邸宅だ。
紅土の基礎の上に築かれた正門は周りを圧倒して、ひときわ壮大であった。二人の門衛がカヴイらの存在に気がつくと横柄な目を向ける。
チャクラスバーミン様の使いで参った。かねてより、ご当主に報せてある。
少年はひとり表御殿の謁見の間に通され、しばらく待たされた。家人が香を炊き、南面を仕切る美しい布地を取り外すと見事な方形の池が見え蓮の花が咲きほこっている。当主が座る長椅子が溢れる光を浴びて、その金の細工が輝く。やがて、侍従らが入ってきた。少年の存在など目に入らないように長椅子の両側に立つ。鈍い銅鑼の音が静寂を破り当主、チャンドラクマラーパンジッタがあらわれた。口髭を蓄え、腕にも足首にも金の輪をを嵌め込んだ壮年の男はその精悍なる大きな目で少年をみた。そして側にいる侍従に何かを呟いている。神妙に頷き、あらたまって少年に向かった。
カヴイと申す者、彫工の集団としての機会を与えよう。この日より修練所にて勤めることを認める。チャクラスバーミン様のご期待に応えよ。
侍従の代読がおわると当主は何もなかったかのように退出していった。
日が暮れよう時、カヴイは家人のあとを付いて修練所についた。幅の広い運河が残り日を映していた。工房と宿舎を兼ねた建物は何棟にも連なり、工房は独特で威厳さえあった。
翌朝、沐浴を指示され朝飯を食う頃には数十人がいることをしった。数人の親方、筆を持つ絵師が彫工の作業をじっとみている。
カヴイと申したな。まずは、みて掴め。
カヴイは職人の作業を見、掃除をし、鑿の研ぎ方を学んで、ようやく見習いの仲間入りになった。カヴイと似たような年頃の若者が二十人ほどおり皆が彫工の親族か縁者であり、若者らはカヴイをみると、その身なりの貧しさから異質な者と感じた。
何ですと、スーリアパルバタの管長の紹介ですと。
それ故、ご当主も早く一人前にせよと命ぜられた。だが彫工は甘くない。
ヴァルナはクメール人の世界では職能集団と位置付けられた。十数種あるヴァルナは敬虔なるシヴァ信徒に参加を許される建前は強くねずいていたが彫工、石工らはビシュヌ神あるいは仏教の神殿にも携わっていた事は寛容さとヒンドゥーからの流行に負うことがあった。殊にラーマヤーナ、マハーバーラタの二大叙事詩はクメール人に物語を与えて久しい。
ここは神聖なる職域、信仰も知らない無学の者の存在を快く思わね者がカヴイに険しい態度をとった。熟練の彫工らも神殿壁面に鑿をいれる時、技量を視られる。失敗は許されない緊張に、どこか苛たっていた。
少年カヴイは与えられた課題を理解すると一心に鑿をふるった。その心地よい音と弾ける石粒、削れてゆく様に何もかも忘れた。やっと叶った彫工の職、はじめは楽しいものであったが気ずいてみると、その集中力は我を忘れて時間の外側にいるような錯覚さえおぼえた。おい、飯だ。親方の何度も呼ぶ声に驚いて鑿を置く日が続いた。蒸し暑い工房の中、呼吸ひとつ乱さず鑿をふるい与えられた課題を充分に仕上げていくと、誰しもが驚きの目を向けるようになった。
親方や絵師らは所長にカヴイの素質、その評価を告げた。
チャクラスバーミン様は偉大だ。あらゆる事を見透す。その俗事に関心の無いお方の目にとまったということか。
雨季が訪れた。たち枯れた草木が少し緑になってゆく。そんな頃、一台の荷車が修練所に着いた。親方らは石工が直方体に仕上げた赤い砂岩をカヴイの前に置き、精緻な図面をひろげた。
カヴイよその方、稀にみる技量の持ち主だ。これを彫ってみよ。見事に彫れた暁には彫工として認められる。だが、一か所でも欠けたら、この貴重な赤色砂岩を自らが贖うことになる。
わかりました。カヴイには迷いがなかった。門を背景にひとりの人物が長い剣を抱え左手に蓮華を持っている。門の周りは精緻な唐草が浮かぶ深彫であった。
顔がありませんが。
これなるは神聖なるシブァプラの門衛神、トバァラパーラ、真似は許されない。