ミロ・スカーレットの幸福
ミロ・スカーレットが目覚める。
朝の音。
日光に照らされた鳥たちがチュンチュンと鳴いている。
仕事へと向かう車の音。
コーヒーを煎れる音。
パジャマを着替える服のくずれる音。
知らない音。
誰かが叫ぶ音だ。
誰かが叫んで誰かが喚いて。誰かがおちょくって。誰かがなだめる音。
知らない音だ。
楽しくなるような、ワクワクしてウキウキするような。
人がいっぱい下にいる。
昔住んでいた、屋敷では到底考えられなかった音だ。
笑ってしまう。ニヤニヤしてしまう。ナニかがまた始まるんだ。
右腕の鉤爪がキンキンと弾むように鳴っている。
メイド服を着て、下に向かう。
「ミロ・スカーレット!!!鉤爪の殺し屋!!!お前を殺す!!!」
金髪の男が飛んできた。
鉤爪で叩き落とす。
刃は引かなければ切れることはない。ただ、鈍器のように金髪の男の顔面にめり込んだ。
ドッスン。バキバキ。
木の床板の折れる音。
金髪の男の上半身は床下に埋まった。
細身の男が溜め息をつくのが聞こえた。掃除をするのは僕なんですからね…。とも言っていた。
面白い。この家は朝から面白い。
大人びた女に手招きされる。
「ミロちゃんはこっちへおいで。私の隣のイス。」
ミロは言われるがままに、女の右隣に座った。
他の殺し屋たちはパンやスープなどが並んだテーブルを囲むように座っている。
女はミロの左手の上に手を置き、優しく語りかける。
「昨日はよく眠れたかしら。」
「…ウン。」
女の顔をまともに見れない。
頬が熱くなっているのが分かる。
ミロは照れたような笑顔をした。
この女からは母性のようなものを感じる。
母親がいたら、こんな感じなのだろうか。
顔面の爛れた男が、パンを片手に語りはじめる。
「ミロ・スカーレット、自己紹介をしよう。俺の名はジャック。ジャック・オルトロだ。この家の家主でもある。この家について聞きたいことがあったら何でも聞くがいい。プルトンに伝えて君に教えるよう言っておこう。」
「結局僕が教えるのかい。まあ、この家に一番詳しいのは、家主よりも僕だからね…。」
細身の男がまた溜め息をつく。
「プルトンだ、よろしく。この家はこう見えて結構頑丈な造りをしているんだ。頑丈ってのは物理的な話でなく。まあ、何やら敵が現れても撃退できるような工夫が為されているのさ。小難しい造りをしてるってことだ。わからないことがあったら、まあ、直接僕に聞くといい。」
回りくどい言い方をする男だ。痩せこけた顔でまた溜め息をつき、スープを啜りはじめる。
「ガッハッハ!!!今日も今日とて暗い男だのうプルトン!!!」
ドン、とテーブルを叩いて、大男が立ち上がる。
昨日、金髪の男との決闘に立ち入ってきた男だ。
パンやバターナイフが転げ落ちる。
あーあーと女が拾い上げる。
筋肉質なその男は、上半身を反らせて仁王立ちし、立派な二つの大胸筋を前面に押し出して咆哮した。
「バラン・エグドラゴ。お父上の付けた勇猛なる太陽の戦士の名前である!!!お主の昨日の果たし合い、ものの見事であった。いずれはこのワシともお相手いたそうぞ。」
ぬん!と筋肉質な手でテーブルを叩く。スープがこぼれコップグラスが転げ落ちる。
いい加減にしなさいよ…。
女が落ちたパンたちを拾い上げる。
床はすでにビチャビチャだ。
「あたしのことは分かるわよね。ミロちゃん。」
グラスを拾いながら、女がミロに語りかける。
「ウン。」
昨日、風呂場で体を洗ってもらってるときに、教えてもらった。
「まあ、この場を借りて改めて。ニオ。ニオ・グランダッチ。殺し屋稼業を始めて8年になるけど、最近はもっぱらこのバカ共の飯を作るなり世話をしているわ。腕はもう、衰えているかもね。」
そんなはずはない。
彼女の細長い手足からは、奥底に潜むしなやかな筋肉の美しい流れを感じる。
鍛えることをやめていない証拠だ。
きっと、この殺し屋たちの中でも、相当の…。
金髪の男が立ち上がる。
床板の下から抜き出たようだ。どんくさいが、その不屈さには好感が持てる。金髪の男はミロを睨んだ。
「ヴァルツ・ナットレイ。お前を地獄へ叩き落とす男だ。」
そんな称号を持っていたのか。
や、今明らかに付けたものだろうが、面白いので触れないことにした。こいつは、なかなかイジリがいがありそうだ。当分オモチャにすることも悪くなかろう。ミロが密かに思っていると、ふと思い出したようにニオが呟きだした。
「あら、残りの二人はどこに行ったの?」
「奴等なら仕事に出掛けている。昨日依頼が入ったらしいからな。」
顔面の爛れた男、ジャックが返す。
仕事とは殺しのことだろう。
彼らは殺し屋だ。
自分も。目の前のこの人たちも。
ミロは可笑しな気持ちになった。今一度、殺し屋たちが家族になることの異常性に口の端を歪ませた。
なんて面白いことに巻き込まれているのだろう。
ミロは確かな幸せを感じていた。
ミロの笑顔が、いつもより笑顔らしくなっているように思えた。
「さーて、今日は何をしようかしらね。」
「もちろん、世界の転覆についてだ。」
「そればっか。」
ジャックとニオが楽しそうに話している。
ミロは、子供のように見つめていた。
子供が、親の言いつけを守って黙っているときのような。
足を揺らしながら、暇そうな顔をしながら。
親…か。
ミロの両親は彼女の幼い頃に他界している。
育ててきたのは、育ての親。
ミロが心の中で『育ての親』と呼んでいる人物だった。
そして、愛していたのはあの家政婦だった。
優しくて、時には厳しい。
怒った顔には、いつも愛情が多分に含まれていた。
笑った顔には、優しさが多量に含まれていた。
ミロにとって、薬のような存在。
心の薬のような。
………
真っ暗な部屋の中。
男が、無心で立っていた。
目には、何の感情も籠っていない。
冷ややかな瞳だ。
感情の全く浮かんでいない顔は、まるでお面を着けているようだ。
彼は、青白く光を放つモニターを見詰めていた。
暗闇の中、男の顔を青白い光は照らしていた。
男の面のような顔は変わらず微動だにしない。
「…見つけた。」
彼は、冷ややかに、とても冷たくそう呟いた。
冷気が舞うような声色だ。
「いま救ってやるからな、ミロ。」
男はそう口にした。
部屋の温度が一段と下がったように思える。
そうして男はそのモニターを背に部屋を後にした。
モニターには、殺し屋たちと共に朝御飯を食べる少女の姿があった。
男が廊下をあるく。
1歩1歩が、地面を凍らしてるようだった。
ミロを探すために、ミロが『育ての親』と呼ぶその男は、ヘリコプターに乗り込み、氷の扉を閉めた。