Lost Gold
割れたガラスを踏みしめる音で我に返る。ぼんやりと進めていた歩みを止めて辺りを見回した。
窓のない通路は、足元にかすかな明かりがあるのみで薄暗い。それもかろうじて電気が通っているような状態だから、もっと上の階に行けばもう明かりはないのかもしれない。埃っぽい空気に咳き込むと、先導していたヴィクターが足を止めて振り返った。宝石のように綺麗な金色の瞳に、彼が持っている蝋燭の光が映り込んでいる。
「おい、何ぼさっと突っ立ってるんだ」
「ああ、ごめん」
「さっさとついてこい。置いていくぞ」
ヴィクターはそう言うと、すぐに背を向けて歩き出した。一度は足を止めてくれただけ、今日は優しい方だ。
「帰ってもいいんだぜ」
「え、誰が?」
「お前以外にいるかよ、この馬鹿」
「いや、俺はてっきりヴィクターが……」
「何か言ったか?」
「……何でもない」
ヴィクターにぎろりと睨まれて口を閉じる。
いつも通りのしかめっ面で「塔にのぼるぞ」と有無を言わさずつれてきたのはどこの誰なんだか、と思いながらヴィクターの背中を眺める。前々から塔にのぼるという話はしていたけれど、いざ行くとなると、その訪れは突然だった。
ヴァイオレット色のコートをはためかせ、ヴィクターはいつも自身の存在を主張している。このくすんだ灰色に包まれた世界で、鮮やかに。俺はそれがいつも羨ましかった。だから、彼のそばにいたいと願った。
俺たちが今いるところは、外から見る限り、とにかく巨大な塔だ。一歩中に踏み込むと、ただひたすらに一本道が続いているだけ。それも真っ直ぐに伸びているから迷う心配もない。壁に突き当たると、そこには扉があって、扉を開けると長い階段がある。階段をのぼっていくと、先程まで歩いていたような一本道が現れる。その繰り返し。塔に入ってから、かれこれ数時間は経っただろうか。
「ヴィクター、少し休もうよ」
前を行く背中に声をかける。けれど返事はない。聞こえていないはずがない。この場には俺とヴィクターしかいないのだから。
「ヴィクター」
もう一度、名前を呼ぶ。何かを打ち合わせたような金属音。足を止めて目を凝らすと、ヴィクターが燭台を持っていない方の手で握っている長い鉄棒が音の発生源だった。いつもはしっかり握っているはずなのにと思いながら、かすかな灯りの中でヴィクターの手元を見る。ほんの少しだけ。震えているように見える彼の手を見て、思わず足を止めた。
「……まったく、調子狂うなあ」
俺の言葉にヴィクターは足を止めて振り返った。その眼差しはどこか不安げに揺れていて、面持ちは緊張した様子だ。ヴィクターに向かってにこりと微笑む。
「君らしくもない。集中しろよ、ヴィクター。ここまで来たら、てっぺんまでのぼるしかないだろ?」
塔をのぼることに高揚しているのは、ほかならぬヴィクターに決まっている。けれどそれと同じくらい緊張しているのも彼自身のはずだ。平静を装っていても隠しきれていない。
「……そうだな。のぼるしかねえんだ」
ヴィクターの言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。それからすぐに顔を上げる。そこにいるのは、いつも通り眉間にしわを寄せて不機嫌そうな顔の友人だった。瞳に映る炎は先ほどより小さくなっている。
「ったく、クロウが柔なせいで先に進めやしねえ」
「え、俺のせいなの?」
「階段まで行くぞ」
言い終える前から背を向けてずんずんと歩き出すヴィクター。彼はいつだって自分勝手で、言葉が足りない。
「そこまで行ったら、とりあえず休憩?」
「……そういうことだ」
けれど俺は、そんなヴィクターが嫌いじゃなかった。
「困ったねえ。どうする、ヴィクター?」
「うるせえ黙ってろ」
「わあ、ひどい」
「殴るぞ」
「うん黙る」
ヴィクターの苛立ちがこちらまで伝わってくる。それは言葉の端々や、規則的に刻まれる床を叩く金属音から。元々彼は気が長い方ではないが、腕っぷしも弱くないし、頭の回転だって決して遅くない。苛立つ様子を見せるとしても、普通ならば一瞬だけだ。それがこんなにはっきりと現れているということは、結構な非常事態なんだろうと思う。もっとも、俺にはヴィクター以上の打開策が思いつけるわけでもないし、ヴィクターは自分で考えたこと以外受け入れようとしないので、言われた通り黙っているのが正解だろう。考えたって答えは一つしかないのに、と思いながら問題のものを眺める。
「聞いてねえぞ、ロボットがいるなんて……」
「そりゃあ、この階まで来れた人が今までいなかったからじゃない? やったねヴィクター、快挙だよ」
「黙れっつっただろ、クロウ」
いつもよりずっと低い声でこちらを睨みながら言うので、一瞬だけ言葉に詰まる。相当、機嫌が悪い。
けれど生憎、こちらとしてもヴィクターの不機嫌にあてられながら待っているのも限界。ヴィクターが動き出さないのなら、俺が勝手に動くだけだ。
「じれったいんだよ」
そう言いながらグローブをしっかりはめていることを確認すると、隠れて様子をうかがっていた階段から飛び出して、悩みの種――古代ロボットの前に躍り出た。五十階を越えたところで現れた、動力不明のロボット。古びた外見をしている薄汚れたロボットだが、センサーと思しき光は明々と灯っている。何も知らずロボットの前で首を傾げた俺たちを、そのロボットは熱光線で出迎えた。要するに、塔の警備員だったのである。別に熱光線くらいならヴィクター一人でも対応できたのだが、同時に砲撃してくるし動きは意外と素早いし、挙句の果てに仲間のロボットまで呼びだしてくる始末。二台目の姿が見えたとき、俺とヴィクターは息ぴったりに階段へ踵を返し、身を隠して様子をうかがうことにした。ロボットは過去の遺産なだけあって、あまりセンサーが優秀ではないようだった。動力が何かわからないが、技術は古いし、性能も鈍っているだろう。とはいえ、無謀に突っこめば仕事熱心な警備員が待っている。そういうわけで、ヴィクターが何とかしようと頭を悩ませていたのだが。
「どうせ壊すしかないんだから」
「馬鹿、近っ……!」
俺の行動に咄嗟の反応が遅れたヴィクターの言葉よりも早く、目の前の機械に拳を叩きこむ。思ったより硬いが、材質は劣化しており、鈍い音が聞こえた。手ごたえもある。これならごり押しで何とかなりそうだ。
「近くなきゃどうにもならないでしょ。俺はヴィクターと違って武器なんか持ってないんだから」
そう言いながら一台目を吹っ飛ばして壁にぶちあて、すぐに二台目の方を向く。一台目は派手な音を立てて部品を床にばらまいた。ゆっくりと光が消えていく。
「まったく、こういう時に俺を使わないでどうするのさ。いつもの勝気なプライドはどこに行ったわけ?」
「……言うじゃねえか、クロウの分際で」
「はは、ヴィクターの口悪いのが移ったのかも」
「お前のは元々だろうが」
「ひどいなあ」
熱光線を避けて二台目のロボットに蹴りを繰り出す。さすがに足では痛かったが、一台目同様壁とご対面させることに成功した。威力が足りなかったのか、あまり破損しなかった二台目が再びこちらに向かってこようとしたのを、いつの間にそこまで近付いたのか、ヴィクターの鉄棒が貫く。それだけのことができるなら、やはり最初から悩まずに強行突破するべきだったと思う。
「ちんたらしてるのはヴィクターに似合わないよ」
「んなこと知ってる。だからといって、未知のもんにいきなり殴りかかる奴があるかよ。お前みたいな奴はいっぺん痛い目見とけ」
「それ、親友に言う台詞なの?」
「は? 俺はお前と親友になった覚えなんかねえぞ」
「えっ」
「なんだその意外そうな顔は」
「いやあ、あはは」
笑って誤魔化すと、ヴィクターはため息を吐きながら鉄の棒をロボットから引き抜いて肩に担いだ。眉間にしわを寄せて難しい顔をしながら俺を見ている。
「クロウ、お前は相変わらずポーカーフェイスだな。考えてることがまるで分からん」
「そう? ヴィクターの方がポーカーフェイスだと思うけど」
「……いや、絶対お前の方がそうだ」
「あ、待ってよ!」
じっと俺の顔を見つめた後、ヴィクターは視線をそらして歩き出した。五十階分以上の階段をのぼったというのに、疲れていないのだろうか。足取りは塔に入った当初とまるで変わりない。時々休憩しているとはいえ、体力や疲労が完全に回復するわけではないし、彼は化け物か何かなのだろうか。
黙々と前を歩くヴィクターとはぐれないように、早足で追いかける。どうせ一本道だろうが、先ほどのような障害物が待ち受けていないとも限らない。離れないに越したことはない。なにせここは、既に前人未到のフロアなのだから。
「ヴィクター、気をつけて」
「分かってる」
何にと言わずとも、彼にはきちんと伝わったようだ。伊達に親友じゃないのだ。ヴィクターは否定するけれど、俺はやはり、彼の親友だと思う。もっとも、先の戦闘からヴィクターの鉄棒一本でも古代ロボットを破壊できることが分かったので、あまり警戒しているような足取りではないが。
「もう五十階か……外はそろそろ暮れ時かな。どう思う、ヴィクター?」
「……」
「無視か。いいけど、別に」
「……クロウ」
「うん?」
立ち止まったヴィクターが振り返る。
「…………悪い、何でもねえ」
何か言おうとするように口を開いたけれど、ヴィクターは結局それだけ言った。深く訊ねないことにして笑って頷く。
「貧弱な誰かさんのせいで、今日はここまでだな。あのロボットが動き出すことはねえだろうし、この階で休むぞ」
「わーい!」
「ちっ、うるせえ奴だ」
ヴィクターの口が悪いのはいつものことだから、それを気にしていてはきりがない。純粋に休めることを喜ぶとじろりと睨まれたけれど、気付かないふりをする。ヴィクターは他人にも自分にも厳しい男だ。だからこうして、俺が疲れたからと理由をつけて休ませないといけない。おそらく一人でのぼっていたら、ヴィクターはよほどのことがなければ足を止めようとしないだろう。
だから俺は、ヴィクターと共に来た。きっと彼はそれを知らないし、知ったとしても「頼んでない」と言うのだろう。だけどそれでいい。ヴィクターは、それでいいのだ。
蹴り落とした小石が風を切る音がする。しばらくしてから、がつんと鈍い音が下のほうから響いてきた。隣のヴィクターをうかがうと、さすがの彼も顔面蒼白だった。
既に八十階を数えた。まもなく九十階に差し掛かるというころ、視界が突然変化した。今までは階段をのぼると真っ直ぐな一本道が伸びていて、両側は窓も扉もない薄汚い壁だった。その壁がここにきてなくなったのだ。道が広くなったわけではない。純粋に、今までと同じ一本道を残して両脇の壁と、そしてその部分の床がきれいになくなっていた。底の見えない暗闇に小石を蹴り落としたところ、ある仮説が浮かんできた。口にはしていないが、おそらくヴィクターも同じことを考えているだろう。
「ねえ、ヴィクター」
それでも恐る恐る口を開く。ヴィクターは黙って虚空を見つめている。
「これ、もしかして……一階まで続いてるんじゃ……?」
蝋燭を灯しても見えない底。長らく落ちていった小石。延々と続いていた一本道。それらのことから導き出せる答えは、ひとつしかなかった。
「……たぶん、そうだろうな。死んでも落ちるなよ」
「むしろ落ちたら死ぬから。いっそ死んでから落ちたほうが痛みはないかもしれないね……」
皮肉を返すだけの元気は残っているが、それもお互い頼りない。
「これであのロボットでも出てきたら最悪だよねえ」
「やめろ、出たらどうする」
嫌そうな顔をするヴィクターに、不謹慎にも笑いがこみ上げた。さすがのヴィクターも怖いと見える。しかし恐れていても先には進めない。口をつぐんでヴィクターに視線をやると、ちょうど目があった。どうやら同じことを考えていたようだ。
「行くぞ」
「うん」
今までの焦るような足取りではない。一歩一歩、確かめながら歩いていく。息を殺して気配を探りながら進む。
――どれくらいの時間が経っただろう。汗をぬぐって小さく息を吐く。ペースが遅いから、一向に階段へ辿り着かない。俺でさえじれったく思うのだから、ヴィクターは尚更だろう。それでも早まって歩みを進めないのはヴィクターのいいところだ。
「……何か、音がしない?」
「音?」
ふと、耳が俺たちの足音以外の音をとらえる。自信はないけれど、この先から聞こえるように思う。ヴィクターがぴたりと足を止めて鉄棒を構えたので、俺もヴィクターの後ろで拳を構える。
「……いるな」
警戒するヴィクターの声とほぼ同時に、目の前の暗闇に金色の光が浮かび上がった。目線のはるか上、天井に程近いところだ。
「ヴィクター、俺、嫌な予感がする」
「奇遇だなクロウ。俺もだ」
機械音を立てながら、それは暗闇から姿を現した。
人間の体のような造りだが、縦の長さが人間ではありえなかった。足の部分は短いが、巨体を支えられるように足の裏は大きい。地面に引きずっている長い腕には四本の指がついている。人間より一回りは大きいであろう頭部の真ん中に、大きな金色のランプがついている。
それは、大きなロボットだった。見たことないということは、これも古代ロボットなのだろう。
「…………」
唖然として見上げていると、それはゆっくりと俺たちを見下ろした。しばらくの間、機械の眼と見つめあう。前に立っているヴィクターも微動だにできないようだった。冷たい汗が頬を伝う。小さく息を呑んだとき、ロボットの目が赤く点滅した。
「っ逃げろ!」
ヴィクターが叫んだ途端、ロボットは大きな腕を振り上げた。狙いは確実に俺たちだ。ロボットが、よくもまあ健気に職務を果たそうとしているものだ。
「逃げろったって、どうすんのさ!?」
「とにかく前に走れ!」
「んな無茶な!」
巨大ロボットの脇をすり抜けて道の先へ走りこんだヴィクターが叫ぶ。言いたいことはわかるが、この一本道で巨大ロボットをどう避けろというのか。一歩間違えれば地上へ真っ逆さまだというのに。
「ちっ、このデカブツ野郎!」
舌打ちをしたヴィクターが、足元の小石を拾ってロボットに向かって投げる。頭を狙ったのだろうが外れてしまった。けれど小石が視界に入った瞬間、ロボットの意識は確かにそちらに向いた。ヴィクターのほうへ駆け出そうとした途端赤い目をこちらに戻したので、結果としてはたたらを踏む羽目になったのだが。
「……ヴィクター、なんとかなるかもしれない!」
けれどヴィクターのおかげでこのロボットをなんとかする方法を思いついた。大きく振り上げたロボットの腕を避けながら、ヴィクターに向かって声を張り上げる。
「悪いんだけど、君の持ってるもの何でもいいから穴に向かって投げて!」
「穴ぁ?」
「目の前にあるだろ!」
奈落の底へ目を向けてから怪訝そうにこちらを見るヴィクターに苛立つ。もう一度ロボットの腕を避ける。徐々に後ろへ追い詰められている。後ずさりしていてはいつ奈落へ落ちるか分かったものではない。
「何でもいい!」
早くして、と叫べば、ようやくヴィクターは得心したように眼を見開いた。そして次の瞬間には、手に持っていた鉄の棒を投げた。ご丁寧に、ロボットの頭をかすめて。ロボットがそちらに気を取られた一瞬を見逃さず、すかさず距離をつめて体を回転させる。遠心力を上乗せした蹴りを短い足に叩き込むと、わずかにバランスが崩れた。勢いのままもう一度蹴りこむと、ロボットは穴に向かって倒れた。長い腕はどこもつかめないまま、ただ瞳のランプを点滅させながら落ちていった。
肩で息を整える。特別激しい運動をしたわけでもないのに汗が流れる。胸の奥で大きく脈打つ心臓を感じる。
「クロウ」
「……ヴィクター」
ヴィクターの声で我に返る。自分の手が震えていたことに今更気付く。怖がっていたのは俺も同じだったのだ。
「平気か?」
「……うん。大丈夫。俺、そんな柔に見える?」
震える手を力強く握りしめて恐怖にふたをする。ポーカーフェイスだ。俺たちはどれだけの代償を支払ってでも塔をのぼらなければならない。そのために、恐怖という感情は邪魔なだけ。
「もやしだけど、柔ではねえな」
「ちょっと、それ誉めてるの? 貶してるの?」
「俺がお前を誉めるわけねえだろ」
「あ、それはそれでひどい」
足元に注意しながら、ゆっくりとヴィクターに近付く。蝋燭の灯りで暗闇に浮かび上がるヴァイオレット色のコートのポケットに片手を突っこんで立っている。先に行かず待ってくれているのは、彼なりの優しさだろう。おそらく無自覚だろうが。
ヴィクターの手に鉄の棒がないことに気が付いた。彼の唯一の武器だったのに、俺を助けるために手放させてしまったようだ。燭台を投げなかったのは僥倖だが、まだ得体のしれないフロアが残っている現在、少々心もとない。かといって取りに行くわけにもいかないし、道中で何か代わりを見付けてもらうことにしよう。
「あれ? そういえば、ロボットが落ちた音ってした?」
何気なく問いかけると、ヴィクターの血の気が引いていく。まさかと思って頬を引きつらせたとき、何か大きなものが叩きつけられる音が聞こえた。少しだけ塔も揺れたようだ。
「き、聞こえたね」
「……だな」
顔を見合わせると、どちらともなく姿勢を正して前を向いた。立ち止まっている時間は、ない。
「行くぞ」
「うん」
やけに階段が長く続いているように思う。今までなら、すでに次の階に到着していてもおかしくないくらいのぼったはずだ。けれど階段は続いている。一本道のように壁がなくて落ちる、という心配はしなくてもよいが、ずっと階段をのぼり続けるのは正直しんどい。黙々と足を進めるヴィクターの体力が知れない。
けれど、ここで休憩しようなどと口にするほど馬鹿ではないつもりだ。階段が長いという誤算はあれど、もうそろそろ百階に到達するのだ。百階は最上階と噂されている。誰も確認した人がいないのだから、もちろんでまかせかもしれない。それでも俺とヴィクターは、この塔の百階、頂上を目指して来た。そしてそれを信じている。だからもうすぐなのだ。もうすぐのはず。そうでなければならない。
「長いね」
「そうだな。ここもフロアぶち抜きで階段にしてるのかもしれねえな」
「ああ、そうかも」
そう言われて、まだ五十階にも達していなかったころ、おそらく二階分の階段をのぼらされたことを思い出した。あの時は途中に踊り場があり、折り返し地点があったためそうだとわかったのだ。しかし今はそれもない。カーブしていたような記憶もないし、もちろん折り返してもいない。だからこそ違和感を感じているのだが、言わずともヴィクターは同じことを思っていたようだ。
「とはいえ、この直線の階段じゃ辻褄が合わねえんだが」
「だよねえ。俺にはさっぱりだよ」
「だろうな」
「えっ、ひどい」
「俺にもまるでわからん。……なあ、クロウ」
唐突にヴィクターが足を止めた。数段下で立ち止まる。俺の方を振り返ったヴィクターは、困惑したように眉を下げていた。初めて見る表情だ。
「俺たちは、どこへ向かっているんだろうな」
いつもの悪態や威勢はどこへ行ったのか、金色の瞳が不安げに揺れている。蝋燭の炎まで弱々しく見える気がする。俺の言葉を待っているのか、引き結ばれたヴィクターの唇は動く気配がない。
「――君らしくもない」
そんなヴィクターの瞳をしっかりと見据えながら、はっきりと聞こえるようにため息を吐いた。ヴィクターの眉がぴくりと動く。
「そんなこと考えるタイプじゃないだろ、ヴィクター。それは俺が考えること。君はただ、前を向いて歩いてればいいんだよ。俺なんか置いていくくらいのつもりでさ」
笑みを浮かべながらそう言うと、ようやくヴィクターは眉を寄せたいつもの表情を浮かべた。
「それもそうだな。こんな根暗なことは、お前に任せとく」
「ヴィクター、塔に入ってからやけにひどいよね? 俺なんかした?」
「んなことねえだろ。いつもこんな感じだ」
「いや、絶対いつもよりひどい、雑」
「うるせえ静かにしろ。置いてくぞ」
「ちょ、もう!」
置いてくぞ、と言ったヴィクターは、言葉通り容赦なく俺を置いていくつもりのようだった。背を向けて、これ以上の会話を拒むかのように足早に階段をのぼっていく。少し遅れて駆け足で続いた。
引き続き無言のまま階段をのぼっていると、ヴィクターがまた足を止めたが、その理由はすぐに分かった。扉がある。ようやく階段の終わりが来たのだ。俺たちがどこに向かっていたのか、この扉を開ければきっと分かる。ヴィクターが深呼吸した。ドアノブに手をかけて、けれど躊躇したようにそこから動かない。黙って見守っていると、不意にヴィクターが振り返った。どうしたのかという意味を込めて首を傾げると、すぐに顔を前に戻した。
「……クロウ、ありがとな」
小さな声で照れたように、けれど確かに俺の名前を呼んで、彼はそう言った。ヴィクターからその言葉をもらったのは、記憶違いでなければ初めてだ。嬉しくてにやけそうになる顔を手で覆う。喉の奥で唸るように「うん」と返すと、ヴィクターはそれ以上何も言わず、扉を開けた。
先に踏み込んだヴィクターに遅れて、ようやく階段をのぼりきって扉の先へ足を踏み入れる。見たことのない光景に体中の力が抜ける。
――そこは、鏡張りだった。
「う、わあ……」
今までの階と違って、フロア全てを使っているようだ。一本道じゃないどころか迷路のように鏡が張り巡らされており、不思議な光景が広がっている。床と天井にも鏡が張られている。光源がどこなのかさっぱり分からないが、ヴィクターの持つ灯りがなくとも十分なほどに明るかった。ふと、辺りを見回す。
「ヴィクター、先に行かないでよ。一本道ならともかく、これじゃさすがに迷うんだから」
姿が見えないことに気が付いてヴィクターに声をかける。鏡の影に隠れているだけで近くにいるだろうと思ってのことだったが、返事はない。数歩進んでみる。足元で鏡にひびが入った。目の前の鏡に触れて確認しながら先へ進むけれど、一向にヴィクターの姿は見えない。
「ヴィクター、どこだい?」
嫌な予感がこみ上げてくる。
「……ヴィクター! 聞こえたら返事して!」
声を張り上げてヴィクターの名前を呼ぶ。けれど反応はない。鏡に虚しく響くだけだ。背筋が冷える。大きな音が聞こえないということは、今までに出てきたようなロボットがいるわけではなさそうだ。けれど逆に、音を立てられない状態にあるということではないのか。こちらの呼びかけに反応できない状況に陥っているのではないか。不安が胸の中で渦巻く。
「ヴィクター、返事をしろ! 聞こえてるんだろう!? ヴィクター!」
何度呼んでも、結果は同じだった。嫌な静けさだけが広がっている。拳を握って、胸に強く押し当てる。目を閉じて何度か深呼吸して息を整える。頭を冷やして落ち着こう。ヴィクターならそうするはずだ。そして考えるのだ。どうすれば彼を見付けられるのかを。
目を開いて、躊躇なく目の前にあった鏡に拳を叩きこんだ。脆くなっていたのか、あっけなく砕けて床に散る。フロア全体が迷路のように作られ、そこに鏡が張られているわけではないようだ。床や天井はともかく、壁の鏡はそれ一枚だけの可能性が高いことが分かった。割れた鏡の先には別の道があり、その先にはまた鏡がある。割った鏡の破片を踏んで前に進むと、また目の前の鏡に拳を叩きつけた。簡単に割れる。少しだけ拳が痛んだ。けれど構わず先に進む。この際ヴィクターがどこにいたって構わない。このまま鏡を全て割っていけば分かることだ。このフロアにいなければその時はその時だし、今はこれしか方法が思いつかない。鏡の割れる音で向こうが気付いてくれればそれでも構わないのだ。
「…………ヴィクター」
塔にのぼると言い出したのはヴィクターだったじゃないか。先にリタイアするなんて、絶対に許さないからな。
「……ヴィクター」
こんな時にしおらしくしているのは君に似合わないじゃないか。俺をからかって楽しむ趣味も持ち合わせていないだろう。
「ヴィクター!」
腹の底から声を振り絞る。
返事をしろ、頼むから。音を立てるのでもいい。ここにいると教えてくれれば。ヴィクター、君は確かに世界に存在しているのだと、あのヴァイオレット色のコートを翻して世界に立っているのだと、俺に教えてくれ。ヴィクターがいないのなら、俺はどうすればいいのだ。分からない。分からないから、だから、たった一言返事をしてくれ。
「ヴィクター……」
唇を強く噛み締めながら、渾身の力で鏡を叩き割る。いくら鏡が劣化して脆くなっているとはいえ、何枚も割り続けていれば痛みを覚えてくる。グローブをしているけれど血が滲んでいるようにも思う。痛いなとは思ったけれど、正直どうでもよかった。ヴィクターを見付けなければ。その一心で体は動いていた。
「……何か、言えよ。馬鹿野郎……ッ」
もう何枚目か分からなかった。思わず疲労から膝をつく。破片がむき出しの肌にかすって血を滲ませる。まだ鏡は続いている。フロア全体に鏡が巡らせてあるのなら、こうして直進していてもまだ先は長いことになる。一本道のときでさえそれなりの距離を歩いたはずだ。ヴィクターは一体どこへ行ってしまったのだろうか。疲れてしまった。けれど、前へ進まなければ。
よろけながら立ち上がって、すがるように目の前の鏡に寄りかかる。片手をついたまま、残った拳を握りこんで叩きつけた。割れない。二度目の拳を打ち込む。上の方は砕けた。もう一度打ち込む。ようやく鏡が割れた。先の鏡を割ろうと足を進めたとき、浮遊感を覚えて足元に目を落とす。鏡の破片が奈落に飲み込まれていく。暗い穴だ。体が下方へ落ちていくのを感じる。反射的に伸ばした手で床のふちを掴んだ。割れた鏡の欠片がグローブ越しに突き刺さる。足元を支えるものがない恐怖に意識がはっきりしてくる。このままでは、落ちる。
「ああ、クソッ。あの馬鹿は落ちてないだろうね……」
「どの馬鹿の話をしてやがるんだ?」
「えっ?」
片手だけじゃ体重を支えられないと思って両手をかけたとき、真上からよく知った声が降ってきた。顔を上げると、不機嫌そうな金色の輝きが見えた。
「ヴィ……ヴィクター!?」
「ほかの誰に見えるんだよ」
ほら、と言ってヴィクターが腰をかがめて手を差し出す。こんなときだったけれど、思わずきょとんと見つめ返すと、彼はひとつ舌打ちして俺の腕を掴んだ。みしりとヴィクターの足元で鏡にひびが入る音がする。両方の腕をしっかりと掴んで、なんとか引きずり上げてくれた。床に手をついたままヴィクターを見上げると、彼は眉間にかつてないほどのしわを寄せ、怒りの色でこちらを見ていた。
「ありがとう、助けてくれて」
「別に。死ななくてよかったな」
「……それ、こっちの台詞だから」
「あ?」
明らかなヴィクターの皮肉にむっとして返す。彼としては俺が落ちかけていたところを助けた手間に対する怒りを覚えているのだろうけれど、はっきり言って今回は彼の怒りを受け入れるつもりはない。こちらだってかなり怒り心頭なのだ。
「どこかの誰かさんが何も言わずに見えなくなるから、俺はものすごく心配して探したんだけど?」
「はあ? それはお前がついてこなかったからであって……」
「俺、何度もヴィクターの名前呼んだよね。聞こえなかった?」
「……呼んでた、のか?」
「へえ……しらばっくれるんだ。いい度胸だね」
「ちょっと待て、俺は本当に心当たりがない。ちゃんと聞こえるくらいの声で呼んでたんだろうな?」
「当たり前でしょ。何なら呼ぼうか、今」
「それは絶対うるせえから止めろ」
真面目な顔でヴィクターが止めるから、思わず俺も怒りの矛先をどこに向けるか迷ってしまった。ヴィクターは決して嘘をつけるような性格ではない。目を見れば嘘かどうか、すぐに分かる。不可解そうな顔といい、ヴィクターの言い分は本当かもしれない。
……とはいえ、先にはぐれたのは向こうだ。心配をかけられた分はきっちり怒っていいだろう。
「君が嘘を吐くとは思えないから、その言い分は信じるよ。……ただし、俺を置いて行ったのは事実だからね、ヴィクター?」
言い訳しようと口を開いたヴィクターを目線で黙らせる。目を泳がせながら彼は口を引き結んだ。それを見て、大きく息を吐く。
「……もう何でもいいや。俺、すごい疲れた」
「……だろうな。あんだけ鏡を割ったんなら」
呆れたように言い放つヴィクターは、俺が割ってきた鏡の跡を眺めている。ヴィクター自身はどこにいたのか気になったが、心の底から疲れていたので訊くのも面倒で口を閉ざした。
ヴィクターがちらりとこちらを見る。目線は合せないけれど、小さく顎を引いて頷く。ヴィクターが歩き出したので、立ち上がって後を追う。体についた鏡の破片を落としながら歩いていると、少し先でヴィクターが立ち止まっていた。俺が近付くとまた歩き出し、少し離れると距離が近付くまで待っている。このフロアに入って早々はぐれたことを反省はしているようだ。ならば彼を待たせるわけにもいかない。少し足を速めた。
「……ヴィクター」
「なんだ」
結局黙っていられずに、口を開く。ヴィクターはなんの抑揚もなく答えてくれた。
「今更だけど、君はこの塔をのぼりきってどうしたいの?」
「塔にのぼるぞ」と言われて、深く訊ねることなくただ頷いてきた。未知の階へ到達すれば、当然英雄のように扱われる。けれどヴィクターはそんなことが目的ではないように思う。彼は人にどう思われようと気にする人間ではない。ならば、何か別の目的があるはずだ。
今なら、何か答えてくれる気がした。
ヴィクターはしばらくの間黙っていた。無視をしているわけではないと思う。こちらに視線をくれたから。
「……特に、目的なんてねえさ。ただ頂上に何があるのか知りたかった、それだけだ」
「……それだけ?」
「それだけだ。文句あるか」
「いや、文句はないけど……」
「シッ、静かにしろ」
文句はないが言いたいことはたくさんある、と言おうとしたが、ヴィクターに小声で遮られる。警戒している様子から、すぐに口をつぐんでヴィクターの見ている方に目をやる。近くの鏡にひびが入り、何かの気配が近付いてくる。
「ヴィクター、俺、嫌な予感がする」
「奇遇だなクロウ。……俺もだ」
ヴィクターがそう言った直後、鏡を破りながら巨大なロボットが姿を見せた。いつかに遭遇したものと同じ、巨人のような一つ目のロボットだ。既に頭部のランプは赤くなっている。
「! クロウ、ロボットの奥に扉があるの、見えるか?」
「うん」
その先は言わずとも知れた。要領は前と同じ。ヴィクターと目配せして、ほぼ同時に別の方向へ駆けだす。ロボットは赤い目を点滅させてどちらを狙うか考えていたようだが、一瞬遅かったヴィクターに狙いを定めた。
「ヴィクター、急いで!」
「うるせえ、黙って待ってろ!」
先に扉へ辿り着いてヴィクターへ声をかけると、威勢のいい悪態が返ってきた。ヴィクターは今、何も武器になるものを持っていないはずだが、大丈夫なのだろうか。俺が囮になった方がよかったのではないかと思っていると、ロボットが長い腕を振り上げた。そして振り下ろそうとして……止まった。驚いてよく見ると、そこらじゅうの鏡にヴィクターの姿が映っていて、どれが本物か分からない。ひびが入っているとはいえ、ロボットのセンサーではそこまで判別できないと見える。いつの間にか後ろに回っていたヴィクターが足払いをかけると、ロボットはバランスを崩して前方に倒れた。何枚もの鏡を巻きこみながら倒れたので、機体に破片が刺さって動きが鈍くなった。
「ヴィクター!」
今のうちだとヴィクターを呼べば、彼も頷いてすぐに走ってきた。ロボットが起き上がろうとしているのを尻目に、扉に手をかける。けれど何となく躊躇って手を離した。この先に何が待っているのか。まだ階段が続いているかもしれないし、古代ロボットがたくさん眠っているかもしれない。扉の向こうが塔の頂上とは限らないのだ。情けないことに手が震えている。
「ヴィクター、開けて」
「ったく、情けねえ奴だな」
「はは。まったくその通りだよ」
震える拳を握る。それでもまだ収まらない。鏡を殴り割っていた手が今更ながら痛みを主張し始めた。心臓の鼓動が聞こえてきそうだ。呼吸を忘れそうになるくらい、緊張している。ヴィクターが手をかけている扉が開くのを恐れてもいるし、楽しみにもしている。
「――開けるぞ」
ヴィクターがドアノブをひねって扉を開く。はじめは細かった隙間が徐々に広がっていく。扉の先は明るい光で満ちているようだ。薄暗い塔の中を歩いてきた俺たちには眩しすぎるくらいの、ヴィクターの目と同じ色をした光。眩しそうに腕で顔を覆いながらも、ヴィクターは果敢に一歩踏み出した。
何かが割れるような音を耳が拾う。何の気なしに振り返ると、腕をぶらりと下げたロボットが立ち上がって、確かにこちらを見ていた。ロボットの足元で床が軋むような音を立てている。
「クロウ、お前も――」
「ごめんヴィクター、先に行ってて」
「は?」
振り返ろうとしたヴィクターの背中を突き飛ばして、体をロボットの方に反転させる。足場は良くない。どこが奈落へ繋がっているかなんてわからないのだから。散乱している鏡は邪魔だし光を反射するせいで目がちかちかする。それでもセンサーに俺を捉えているロボットは迷わずこちらを目指している。ロボットは眩しくないのだろうかと思いながら、グローブをはめなおして拳を作る。大丈夫だ、また体力は残っている。
「おい待て、クロウ。何するつもりだ」
「何って、障害物は排除しないと」
「んなもん放っておけ! もう頂上だ、早く来い!」
「頂上から突き落とされたらどうするのさ。不安の種は取り除いておかないとまずいでしょ」
「馬鹿、それなら俺が……」
「武器がないくせに、どうするつもりだよ」
ヴィクターが言葉に詰まった隙を見逃さず、ロボットの方へ一歩足を進める。
「おい!」
「やられるようなへまはしないよ。向こうは壊れてるはずだし」
幸い、ロボットが転んだ周辺は鏡の壁がないので辺りがよく見える。近くはないが、鏡のない穴と思しき暗がりが見える。あそこに落とし込めばいいのだ。それくらいならば、何とかなる。
「すぐに行くから、待ってて」
「……この野郎。嘘ついたら殺すぞ」
「えっ、怖い。じゃあ絶対行くよ」
「じゃあって何だ、じゃあって」
「口が滑った。気にしないで」
「おいこら、」
「あのさ、ヴィクター」
巨体を揺らしながら近付いてくるロボットを待たず、こちらから近付いていく。少しずつ足を速めて、しまいにはロボットに向かって走り出す。
「っ馬鹿、お前まさか……!」
ヴィクターの声が焦りを滲ませる。けれど、振り返ることはない。
「――ありがとう!」
何が、とは言わないけれど、ヴィクターになら伝わる気がした。俺の親友なんだから。……ヴィクターの素直じゃない性格が移ったかもしれない。
向かってくる俺を見て、ロボットが動きを止める。刹那、金色の輝き。それは時間にして数秒だったけれど、一瞬の隙さえあれば十分だった。
「クソ……ッ、絶対すぐに来い! 俺は、待ってる!」
後ろから聞こえるヴィクターの声に返事はしない。約束を破ると、彼はとても怒るから。
金色を失った瞳と、奈落の闇はすぐそこに迫っていた。
ゼミの自主課題でした。
ある曲をイメージしています。いくつか近いフレーズも入っていますので、知っている方にはわかるかと思います。