18時からの美容院
私は髪が長い、と思ったときに髪を切りに行くことを決めている。だから、美容院に行くのは本当に髪の存在がうっとおしくなり、さっさと短くしてしまいたいとき時期が来た時だけだ。そう思いたつと私は電話で予約を取ると、指定の時間に車を走らせる。美容院は車で10分もかからない場所にある。閑静な住宅街に紛れ込むような店の風景は、住宅を美容院に改装しただけの雰囲気を醸し出している。
私は敷地内の駐車場に車を停めると木製のドアを開ける。
カランカランと鳴り響く鈴の音は、店に入った合図となり、店主はこちらを振り向き、私の顔を確認すると、「いらっしゃい」という。私は軽く会釈して返す。そこですぐに気が付いた。アシスタントの女性がいない。
この美容院は店主とアシスタントの女性の2人で経営している静かな店だ。だから、いつものアシスタント女性がいないだけで私には異空間に感じるのだ。
アシスタントの女性は、店主がこの美容院を創業してからずっといた女性だ。通い続けて6年程になるが、彼女が休んでいる日を私は見たことがない。店主と彼女は常に、ご飯と味噌汁くらいにセットで出てくるべきものなのだ。
「ちょっと待っててね」
私は軽くうなずいた。ソファの上で適当な雑誌に目を通していると、私より先に入っていたお客が代金を支払って帰る。そして鈴は心地いい音色を鳴らす。そして、美容院は私と店主だけの空間となる。
「お待たせしました。どうぞ」
私は雑誌を所定の位置に戻すと、店主の指示に従って革製の椅子に座る。椅子は革製で座ると若干の弾力があって仰向けに寝る。上からガーゼをかぶせられてシャンプーが始まる。その間、私はアシスタントの女性がいないことに酷く困惑していた。そして、これを店主に確認していいものなのか困惑した。
私と店主は、プライベートの話はしない。基本的には私の仕事の話ばかりなので、私は店主の名前も知らないし、アシスタントの女性と店主との関係も知らない。それで6年間貫いてきた。そこには一定の線引きがされていたし、お互い暗黙の了解だった。
だがそれでも気になっていた。それほど彼女は魅力的な女性だったからだ。好き、嫌いの問題ではない。人間として素敵だと思える、そんな女性なのだ。身長は小柄で、仕事中は長髪を後ろで束ねていることが多かった。普段の仕事の話もするが、地元の話もよくしてくれた。私が冗談を言うと、大きく口角を上げて笑ってくれたし、目は七福神の大福様のように優しい目をしてくれた。
シャンプーが終わると、今度は社長室のような大きな椅子に座らされ、カットの髪型を聞かれた。私はいつも通り「短くしてください」とだけいう。それだけでカットが始まる。
「今日は休み?」シャンプーしたての湿った髪の毛を櫛でとかしながら、店主は言った。
「はい、明日から出張なので髪を切りに来ました」
「出張?どこいくの?」
「九州です」
「いいなぁ九州、遊べるね」
「いやいや、そんないいものじゃないですよ」
そういうと店主はハハハっと、乾いた笑いをした。そんな何気ない会話でもハサミは手際よく進んでいる。若干のうるおいを保った髪は一定の長さで私の目の前に落ちてくる。髪には若干の重量感も感じた。店主は私の髪に全神経を注ぎながら、かつコミュニケーションをとる。話すだけが仕事の私にとっては出来ない技だ。私であれば絶対に髪の毛を切りすぎたりして、来た客は皆坊主頭になるだろう。
しばらくの間沈黙が続くことも多かった。私も積極的に話すタイプではないし、店主もきっと私と同類項なのだろう。お互い沈黙が続いたが、それはそれで気持ちがいいと思っていた。ただし、それは前回までの事例だ。今回は違った。アシスタント女性がいないことを聞くべきか、聞かざるべきか。常に私の心は揺れていた。
考え抜いた私は聞いてみることにした。理由は、長年の常連客として純粋に疑問を解決したい意欲がわいたからである。この質問をして店主が傷つこうが、どうなろうが、それは承知の上だろう。それに、数日前からいないのなら、きっと他の常連客からも聞かれているに違いない。
「そういえば、いつものアシスタントの女性、いませんね」
私はあたかも平然を装って、鏡越しに映る店主の目を見ていった。
「うん、今日はね」
店主はそういうとまたハサミを動かすことに集中して、私の髪を地表に切り落としだした。
これでいいんだ、と私は思った。これでこの会話は終了。彼女は、今日はいない。ただそれだけなのだ。私と店主の関係で、私がこれ以上詮索する必要はないし、店主もその一言で全てを悟ってほしいという意味なのかもしれない。私は店主とアシスタントの彼女との関係は知らないが、ただ店主は酷く顔が疲れているように見えたことからも、これ以上の詮索をすべきでないと直感で感じていた。
無精髭までそり終わると、この美容院の全てのコースが終了する。
結局、私の髭がそり終わっても彼女はやってこなかった。
18時入店時の夕焼けは店を出るころには沈みかけており、辺りは闇に染まりかけていた。
「九州出張、頑張ってね」
「ありがとうございます」
私は軽く会釈して店を出た。
彼女の事は最後まで気になってはいたが、私が考えてもどうしようもないことなので
私は考えるのを止めて明日からの仕事にだけ神経を集中した。
次に美容院に足を運ぶのは、この髪の長さから想定すると3か月後くらいになるだろう。
その頃には、あの素敵な笑顔の彼女に会えたらいいな、と思いながら、私はアクセルを踏んで家に
帰った。