8
霞んだように見えた島影がどんどんくっきりと見えて、コラム・ソル北西部の港らしき場所からおよそ三キロのところでマクガレイは艦に停止を命じた。初めて目にするその島は、ロジェーム海に浮かぶどの島とも特に変わりはないように見えた。
中央部の緑に覆われた大地は標高八百メートルほど。北側の海岸線は大部分が崖地で、家は見えない。だが海に向かってなだらかに降りてきた西の岬には、巨大な人工物があった。
「あれは発電所か?」
「そうですね。建屋の中にタービンがあるのでしょう。しかしあれは潮汐を利用したものではないですな。隣の塔から察するに、地熱、というよりマグマ発電をしているのではないでしょうか?」
感嘆したように護衛艦の機関士長が答えた。
「特異能力者の島ということで、何か魔法の国のように想像してましたが、科学技術も我々と変わりないようですな」
「当たり前だ。元は共に暮らしていたのだからな」
ふっと笑って、マクガレイは後ろに控えていたアレックスに目を移した。
「さて、あちらからもこの艦は見えているだろうが、何も言ってこんな」
「通信手段がないのかもしれません」
「あんな大規模な発電設備を作れて、無線の一つもないと?」
「よく……わかりませんが」
マクガレイの視線が今度は実質この航海の艦長である航海長に向く。
「呼びかけはしてるのだろう?」
「イエス・ダム。しかし今のところ呼びかけに答えるどころか、あらゆる種類の電波もあの島からは発せられていませんな」
「ほう、心で会話するからか? だが、困ったな。とりあえず我々の中にテレパシストはいないからな」
薄い唇を持ち上げて笑ったマクガレイは、また視線を島に戻した。
「航海長。ご苦労だが、拡声器のボリュームを最大にして島に呼びかけてくれ。中央府議長名代としてファルファーレ海軍中央司令サラ・マクガレイ准将が会談を望んでいるとな」
「イエス・ダム」
敬礼して早速航海長が準備にかかる中、アレックスはマクガレイの肩越しにコラム・ソルを眺めた。
あれ以来、一切の接触はなかった。いつどんな形でメッセージが送られてきてもいいようにと思うあまり、この数日ろくに眠っていない。
(やっぱり俺が寝ぼけただけなのか?)
そう思いたくはなかったが、今のところ自分は何の役にも立っていないのが情けない。
「イルマ、よく見てろよ」
マクガレイが望遠鏡を手渡して言った。
「それから、貴様、シャツにアイロンぐらいかけておかんか。髪も帽子からはみ出ているぞ。中央府の代表は私だが、貴様は私と共に彼らと会うのだ。恥をかかせるな」
「はっ、す、すみませんっ」
慌てて落ちてきた前髪を帽子に押し込む。絶対にこの帽子は脱げないなと思うと、背中に汗をかいた。
いったん艦内放送で前置きがあった上で、大音声が甲板を揺るがせる勢いで響いた。
「こちらはファルファーレ海軍西ロジェーム方面艦隊所属トルネード号である。コラム・ソルの住民に告げる。中央府議長名代ファルファーレ海軍中央司令サラ・マクガレイ准将が貴公らとの会談を希望している。返答されたし」
三回繰り返された拡声器が沈黙すると、発電所の辺りから煙が上がり、岬にボートが引き下ろされるのが見えた。しばらくすると、波の荒い海上を、ボートが滑るようにやってくる。アレックスは望遠鏡の狭い視界の中に、トノンで会った少年と男女の姿を認め、マクガレイに告げた。
「来るのはサッタール・ビッラウラとアルフォンソと呼ばれた男、それからサハルという名の女性のようです」
「ほう、面白いな。見たところあのボートはモーターも積んでいないようだ。この目で見なくては信じられんが、確かにあれは魔術だな」
マクガレイを始め、士官たちは特に恐れる様子も見せなかったが、艦上の海士たちは一様に低くざわめいた。自分たちも船乗りだから、その怪異はよけいに驚きをもって映る。
肉眼でも顔かたちの見分けがつくところまでボートを進めた三人の特異能力者は、なんの操作もなく波の間に船を止めた。
それを見るとマクガレイがこちらもボートを下ろすように命じる。
「こちらだけがメガホンで怒鳴る訳にもいくまい。イルマも役にはたたぬようだし」
実際、アレックスは心の中で何度か少年に呼びかけてはみたが、なしのつぶてだった。がっくりと肩を落とす若い士官の肩を、准将はこともなげに叩く。
「何をしてる。行ってこい」
「イエス……は? 私一人ですか?」
「貴様は私にもあのボートを漕げと? 私が議長の名代なら、貴様は私の名代だ。行って旧交を温めてこい」
「イエス・ダム。会談場所は、まずはこの艦上ということでよろしいでしょうか?」
「向こうが是と言うならな。どちらにとっても相手の懐に飛び込むのは勇気がいるだろうが」
准将は眼下のボートを見下ろし、航海長に厳しく言った。
「甲板上に会談場所を。各員、決して敵対的と思われるような行動はするなよ。花嫁を迎えるぐらいのつもりで、丁重にな。イルマ、行け」
敬礼を返して、アレックスはクレーンで釣り下ろされるボートに乗り込む。無情にも乗員はアレックス一人だが、相手が三人で来ていてこちらが多数という訳にもいくまいと心を励ました。
海面に着いて鎖を外すと、他に駆動手段を持たないアレックスは、モーターのスイッチを入れ、舵を島のボートに向けた。細かい泡が後ろに流れていくのを横目で見て、そういえばあちらのボートはそんな泡すら立てていなかったと改めて思う。スクリューもついていないのだろう。
揺れるボートに膝立ちしていた三人は、アレックスが怒鳴らなくてもいい距離でモーターを止めると、立ち上がった。
危ない、と思う間もなかった。妙なスローモードの映像を見るように、ふわりと鮮やかな青の肩布が風に舞って、気がついたらアレックスの乗るボートに少年が飛び移っていた。
「突っ立っていたら危ないだろ、イルマ少尉」
少年がずれた肩布を直しながら、すました顔で見上げていた。
「あ……そう、だな」
答えてから、アレックスは少年に食ってかかる。
「危ないのはそちらだっ。波もない静かな湾内じゃないんだぞ」
「心配してくれたのか?」
興味深そうにのぞき込まれ、アレックスは慌てて目をそらしかけ、それからまた少年に真っ直ぐに向き直る。
「アレックス・イルマ少尉です。ようこそ、ミスター・サッタール・ビッラウラ。ですが、驚かせないでいただきたい。いくらあなたが大丈夫だと言い張っても、我々にしたら心臓が止まるほどの行為です。あちらの方々は、おいでにならないのですか?」
「あれはアルフォンソ・ガナールと私の姉サハル・ビッラウラだ。彼らはあそこで私の帰りを待つことになっている。とりあえず代表者に挨拶差し上げたいのだが?」
「了解しました。今から艦にお連れいたします。マクガレイ准将は心からあなたを歓迎するでしょう」
鷹揚に頷いた少年の態度は、どこも気張ったところはなく、緊張して手のひらを汗で濡らしたアレックスは、そっとため息をついた。
護衛艦にボートを横付けすると、垂れていた鎖をボートにはめ込み、合図をする。すぐにウィーンというモーター音と共にボートが上にあがっていく。それを興味深そうに眺めていた少年は、揺れて体勢を崩したようなふりをして、アレックスのほうに屈みこむと、小さく囁いた。
「来てくれてありがとう、イルマ少尉。いつぞやはあなたに迷惑をかけただろう。乱暴に心に押し入るような真似をしてすまなかった」
驚いて振り向くと、少年はもう無表情にクレーンの先を眺めていた。
アレックスは少しだけ迷ってから、思い切って少年の膝に触れ、心で話しかけてみる。
『伝わるかどうかわからないが、また会えて嬉しい』
『こちらこそ』
はっきりと少年の声が脳に伝わった。だがその唇は開かれもせず、視線は上を向いている。アレックスはほんの少しだけ頬を緩めた。
サッタールは、アレックスが自ら触れてくるのに、少なからず驚いた。表層の思考は既に読めていたが、歓迎の思いが表面だけのものではなく、またこうした接触を恐れてもいないことに安堵する。
(相変わらず分かりやすい男だな)
すぐにその接触は解かれ、アレックスの心はこれからやらねばならない仕事の手順などで占められたが、一瞬の覗き見の中に化け物という単語とそれに対する強い憤りを読み取って、笑いが漏れてしまいそうになった。
(つまりは我々を化け物呼ばわりする連中が大勢いるってことだな)
セントラルにいたアレックスに念話で接触したのは、外の人間にそのような畏れを抱かせたかったからでもあったが、実際自分を化け物と信じる人間に取り囲まれるのは、いい気持ちはしない。
でもだからこそのアレックスの行動だったのだと思えば、この若い士官に対して感謝の念が湧く。
甲板に下ろされたボートをサッタールがまたぐ間、整列していた海士たちが、微動だにしないで敬礼する姿に、まず驚かされる。無骨な鉄の板の上に、赤い絨毯が敷かれ、その先に中年を少し過ぎた女性が立っていた。
「どうぞ、ミスター・ビッラウラ」
アレックスが手で促し、サッタールはくいっと顎をあげて絨毯を踏んで歩き出す。後ろに付きながら、アレックスは少年の頭が記憶よりずっと高い位置にあるのに気づいた。
(この年頃は半年でずいぶん変わるな)
トノンで会った時は、自分の肩より少し高いだけしかなかったのに、今はもうそう変わらない。
(それに顔立ちも変わったか?)
記憶の中では、もう少しだけ幼い――年齢に追いつかない部分を背伸びで補っているような――気がした。
(あ、いかんいかん。また笑われるか怒られるかしてしまうな)
慌てて頭の中から余計な感想を追いやり、目の前のことに集中する。
二十歩ほどで准将の前に立ったサッタールは、片足をすっと引き、優雅に礼をする。対してマクガレイは、きびきびとした動作で右手を上げ帽子に添えた。
「ようこそ、トルネード号へ。私がサラ・マクガレイ中央司令です。このたびは中央府議長の名代としてここにおります」
「はじめまして、マクガレイ准将。私はサッタール・ビッラウラ。はるばるとロジェーム海を横断して、我が故郷コラム・ソルまでよくおいでくだされました」
マクガレイはサッタールが姿勢を直すのを一拍待ってから、傍らのイスに目を遣った。
「座って話そうか?」
「いえ。私はあなた方を歓迎する旨を伝えに来ただけです。よろしければ、コラム・ソルに上陸しませんか、マクガレイ准将?」
「伝えに? 君……いや、失礼。あなたが島の長ではないのか?」
「今は、下におりますアルフォンソ・ガナールが長を務めております」
サッタールは笑みを浮かべて続けた。
「島に上がられても、なんの危険もないと、ガナールと私が保証いたします」
マクガレイの灰色の瞳が考え深そうに細められた。
サッタールは、目の前の准将が、自分が襲われる危険を考えていないことに少し驚く。周囲からは畏れや嫌悪の感情が押し寄せてくるのに。准将の心はアレックスともまた違うが、目の前の任務のことだけに占められていた。
「身体的な危険があるとは思ってないよ、ミスター・ビッラウラ。率直に言おう。あなた方は他人の心を読むと聞くが、私の心、特に記憶まで探れば、個人的なものは無論のこと、国家の機密も伝わってしまう。それを自由に暴かれるのは困る。これについての保証は得られるだろうか?」
率直過ぎる言だった。サッタールは笑みを消して、じっとその灰色の瞳を見つめ返す。
「我々がそのような非礼はしないと、いや、私が他の誰にもさせないと誓うことはたやすい。だが、読んでいるかいないかを立証することは、我々の間では簡単にできるが、あなた方には困難でしょう」
「今もあなたは私の心を読んでいるのか?」
その質問に、直立不動の姿勢を保っていた海士たちの表情に動揺が走る。
「読もうとはしていませんが、空気中を伝わってくる音を耳で捉えてしまうという程度ならば読んでいると言えます」
「防ぐ手だては?」
「一切、何も情報を渡したくないというのなら、この場に無関係な数式でも一心不乱に唱えるのも一つの方法ですが、それでは何の話し合いにもなりません。ですから准将には、うっかり知られてはならない機密を心に浮かべないでいていただければ、私としてもありがたい。私以外の他人にという意味ならば、会談中には私が周囲に障壁――思念を読もうとする者を排除するバリアを張ることはできます」
「そのバリアを破る者はいないのか?」
「いません。コラム・ソルに私よりも精神操作に長けた者はいない」
「精神操作? もう少し説明をしてもらえるかね?」
サッタールは微笑んだまま、低い声で話し続けた。
「精神操作とは、他人の表層の思念を捉えるだけではなく、隠しておきたい記憶を探り、意志を奪い、したくもない行動をさせ得る力です」
ざわめきが走る。マクガレイの隣に立つ航海長は、後ずさりたい足を渾身の力でとどめているかのように、額に大量の汗をかいていた。だがマクガレイは面白そうに目を瞬かせ、質問を続ける。
「それはどんな相手に対してもかね? 絶対に操られまいと決心していても無駄なのだろうか?」
「決意の強さというよりも、元々持っている思念の強さですから。コラム・ソルの人間に限らず、私の精神操作がききにくい人はいるでしょう。それはどちらにしても簡単ではないし、下手をすれば人格を破壊する暴力的な力です。ですがあなた方が腰に下げておられる銃を、いきなり私に向けたりしないように、或いはこの艦に積んでおられる大砲を私たちのボートに向けたりしないように。もっと言えば水平線の向こうに隠れている二隻の船が、何の前触れもなくミサイルを放ったりしないように。私は私の力を常に自制しているつもりです」
アレックスはぎょっとして、慌てて二隻の駆逐艦のことをうっかり漏らしたのは自分かと青くなった。アレックスだけではなく、その場の全員がそう考えただろう。だが、マクガレイは声をあげて笑いだした。
「ずいぶん正直だな、ミスター・ビッラウラ。最初からそんな手の内を見せてもよいのか、まだ交渉事を始める前に?」
「どんなに言葉を尽くしても、完全に信じるのは難しいでしょう。ただ上陸にあたってあなた方がいろいろと懸念されるだろうことは予想していました。もし、准将が私を信じて島に来てくださるならば、その間はボートにおります私の姉がこちらの艦に移ります。彼女は、表層の思念はやはり拾ってしまいますが、私のような精神操作はできません」
「ほう、では姉君は他にどんな力を?」
「彼女は、あなた方の言葉で言えば、医師であり看護師です。私の大切な肉親ですが、それ以上に島で唯一の医療技術を持った人間です。彼女を失うことは、私たちにとってファルファーレ海軍があなたを失うよりも大きな痛手になります。他にいないのですから」
アレックスは無意識にサッタールの横顔から、ボートにいる女性に視線を移らせた。その顔が青ざめて見えたのは、ただ緊張してるばかりではないのだろう。
マクガレイも、自分よりも価値があるのだと言われた女性をちらりと見遣って、すぐに視線をサッタールに戻した。
「なるほど。人質を置いていくというのだな。しかし私はあくまでも友好的に話し合いを持ちたいと思って、ここまで航海してきた。後ろに駆逐艦がいるのは認めるが、それはこちらの政治上の考慮と考えていただきたい。人質はお断りする。この艦で彼女を害そうとする者はいないと断言できるが、居心地はよくなかろう。どう見てもあなたの姉君は軍人ではない。そんな緊張の中に放り込むのは私の主義に反する。ここに一人で上がってこられた君を信じて、私があなた方の歓待を受けることにしよう」
言って差し出されたマクガレイの手をまじまじ見たサッタールは、困ったようにアレックスを見た。自分に気軽に触れるなと伝えてなかったのかという非難を感じて、アレックスが准将にそっと告げる。
「准将。コラム・ソルでは、その……握手の習慣は……」
「ああ、そんなことを言ってたな。だが構わん。度量の大きさで貴様に負けるつもりはないぞ」
にっと笑ってみせた上官に、アレックスは天を仰ぐ。これでは元帥とあまり変わりがないような気がする。
サッタールは、困惑したままマクガレイの指先にそっと触れ、用心深く准将の心を探らないよう自分を制御しながらすぐに離す。ただその心の内に敵意が感じられないことだけを確認し、その為にわざと触れさせたのだと気づく。
少なからず動揺したのを隠すように、深く頭を下げ、年輩の女性に心から敬意を込めて礼を取った。
「ありがとうございます、マクガレイ准将。あなたの心の広さと勇気に、深く感謝いたします」
「なに、息子のような歳の者に負けてはいられないからな」
笑ったマクガレイは、くるっと青ざめたままの航海長を振り返った。
「ということだ、航海長。私は今すぐ島に上がる。とりあえず随伴はイルマ少尉だけでよいから、またボートを下ろしてくれ。それから後衛にも、その場で待機するように連絡しろ。ミスター・ビッラウラはああ言われたが、島民すべてがそんな肝の太い者ばかりではなかろう。無用の混乱は避けたいからな」
「准将っ」
儀礼も忘れて航海長はマクガレイの袖を引いた。
「冗談ではありませんぞ。小隊一つぐらいは連れて行ってください」
「ダメか?」
「いけません。儀礼的訪問であっても使節が護衛もつけないなんてことはありません。イルマ一人では護衛になりません」
何気に役立たず扱いのアレックスは苦笑したが、航海長の言うことは常識そのものだった。サッタールの表情をうかがうと、どちらでも構わないと泰然とした風にみえる。
「ミスター・ビッラウラ。准将と私、それに数人の護衛が上陸することは可能か? 我々の常識とあなた方の常識は異なるかもしれんが、その折り合いのつくところを探したい」
サッタールはアレックスの問いに、微笑みを崩さずに頷く。
「構いません。それとやはり姉はこちらにご厄介になりましょう。あなた方が不安なままおいでになられることの方が、私たちの本意ではありません。姉はああ見えて気丈ですし、もしできればこちらの軍医殿とお話する機会があれば喜ぶでしょう。島ではどうしても治療できない患者もいるのです」
最後の方はアレックスにというよりも航海長に向かって話しながら、サッタールは甲板に整列している海士たちを見回した。
「私はあなた方が姉を一人の医師として取り扱ってくださることを願います」
「心を読むのならば、我々の危惧も理解してくれているだろう、ミスター・ビッラウラ。我々は何もあなたが准将を襲うとは考えていない。しかしこういう場合、不測の事態に備えるのが軍隊というものだ」
航海長が厳しい目でサッタールを見つめた。
「姉君が乗艦されるならば、軍医と情報交換できるよう取り計りましょう。この艦を預かる者として安全に過ごされることは信じていただきたい」
「もちろんです」
マクガレイは渋い顔をしたが、人質ではなく情報交換に来るのだということで心の折り合いをつけたようだった。
しかしサッタールは内心でこのやりとりに早くもうんざりした気分になっていた。
(やれやれ、外交交渉っていうのは長老たちの相手とはまた違う煩雑さがあるもんだな)
考えてみれば当たり前のことだったが、ここにはサッタールの狭い経験では計り知れない細かい人間関係があるようだった。海上に残っているアルフォンソからじれた思念が伝わってくる。
『おい、まだかよ。いっそのことサハルを持ち上げてそっちに行かせようか? やろうと思えばできるぜ』
『まあ、待てって。それよりサハルは艦の軍医と話ができるそうだ』
『よかったわ。できたら一緒に島に行ってショーゴを診てもらえないかしら?』
『それはこの女将軍をもてなした後だな』
心で素早く会話したところで航海長がアレックスに命じる声が聞こえた。
「イルマ、ミズ・ビッラウラを迎えにもう一度行ってこい」
航海長の命令に、駆け出そうとしたアレックスを、サッタールが引き留めた。
「そんな手間をかける必要ありません。よろしければ彼女を私たちの方法でこちらに呼びましょうか?」
「あなた達の方法……?」
戸惑って足を止めたアレックスに、航海長が目を剥いて鋭く命令を下す。
「行け、少尉」
「イエス・サー」
上官の命令に再度逆らう訳にも行かず、ボートに向かうアレックスを見遣って、マクガレイがくっくと笑い始める。
「すまないな、ミスター・ビッラウラ。だが余計な刺激を我が部下に与えないでいただきたい。いかなる方法かは気になるところだが、あなたの姉君が不愉快な思いをするだけだぞ。こういう細かな儀礼には慣れていないかもしれないが、そこをすっ飛ばすと怒られる。私のようにな」
同時に、はやるな少年、という思念が伝わって、サッタールは頬に血を昇らせた。まさか心を読めない人間に、自分の心情を推察されるとは思っていなかった。
「つい出すぎました。申し訳ありません。この艦のことはあなた方の流儀に従いましょう」
ほっとした空気が流れ、サッタールは改めて彼らが自分達に抱いている恐怖と困惑を思い遣った。
それにしてもこの艦には一体何人が乗艦しているのだろうと考える。二百名はいるとすると、それだけで島の人口の三分の一近くになるのだ。全てが戦闘職種ではないとしても、本気でコラム・ソルを制圧しようとしたら、アルフォンソが孤軍奮闘しても無理だろう。後衛の二隻を計算に入れないとしても。
いくつもの機関砲が砲首を下げたままになっていたが、あれも命令一下で自動制御された弾丸が飛び出すのだろう。狭い島などひとたまりもないに違いない。
(私はとんでもないことを始めてしまったのか?)
急速に不安に犯されそうになる。恐怖を抱いているのはお互い様だが、現実にはこちらの方がよほど分が悪い。
「ミスター・ビッラウラはコラム・ソルの外に出られたのは、トノンの一件だけか?」
思い巡らすことが顔に出た自覚はなかったが、准将に落ち着いた声で話しかけられ、サッタールはこみ上げた不安を胸の深いところに沈めた。
「ええ」
「帆船で来られたと聞いたが。それはあの港にはないようだな」
「帆船は先の彗星の襲来時に燃えてしまいました。残念ですが実用的なものではありませんので、そこまで防御に手が回りませんでした」
「ほう、それは我が元帥が聞いたら嘆くだろうな。私も見てみたかったものだ、荒波を乗り越えて悠々と進む帆船を」
准将の心の表をそっと探ったが、言葉通りの思いしか見あたらなかった。
(この人はたいしたものだな)
アレックス・イルマも心を探られても動じない人間だったが、それは彼が個人的な感情以外に隠しておきたいものがないからだ。だが目の前の女性は違う。心を隠す訓練などしたこともないだろうに、表層に浮かべる事柄を巧みにコントロールしている。
「あの帆船以外は、近海で漁をする船しかありませんので。お見せできなかったのは私も残念です。美しい船でした」
「漁に使うというのは、まさかあのボートではないだろうな?」
外海に出るにはいかにも小さなボートに目を遣ると、ちょうど迎えに行ったアレックスがサハルを乗り移らせているところだった。サッタールはアルフォンソの力を借りて飛び移ったが、サハルはしとやかにアレックスに抱きかかえられている。姉が外の男に抱かれているのを見るのは妙な気がした。
「もう少し大きな船が多いですね。エンジンもついていますし」
サッタールの上の空の答えに、マクガレイは片眉だけあげた。
「それはよかった。もしかしたらあなた達は轟音を発するエンジンなど軽蔑しているのかと思うところだった」
「そんなことはありません」
「そうだな。でなくてはあの巨大な発電所のある意味がないからな」
サハルとアレックスに向けていた注意を再び准将に戻し、サッタールは小さく笑う。
「油断のできないお方ですね、マクガレイ准将」
なんのことかわからないという顔をして見せたマクガレイは、特異能力者の若い女性を十分にもてなせるよう命令を下しに大股に離れていった。
サハルの登場は、無骨な男達が圧倒的多数を占める軍艦の乗員に、サッタールとは違う感慨を及ぼした。
真っ赤な刺繍で複雑な文様を描いた肩布をふわりと首に巻いてたサハルは体重を感じさせないようなしなやかな足取りで鉄の甲板を踏むと、居並ぶ乗員ににっこりと微笑み、准将と航海長に膝を折って優雅に頭を下げた。
「サハル・ビッラウラと申します。コラム・ソルでは医師を務めております。この度は快くお招きくださってありがとうございます」
白い花を挿し頭上高く結い上げた髪は、長く背に垂れて動く度に甘い香りが漂う。
航海長はサハルを見て、ますます用心深い顔をしたが、マクガレイは感心したように見下ろした。
「弟君もなかなか綺麗な少年だと思ったが、あなたは文字通り花が咲いたようだな。ようこそ歓迎する、ミズ・ビッラウラ。だが申し訳ないが、私は入れ代わりであなたの島を訪問させてもらう。軍艦ゆえに快適に、とは言えぬかもしれんが、しばらくの間、この艦でゆったりと過ごしていただきたい」
「お心遣い、いたみいります」
艶やかに微笑むサハルに魅入られたような眼差しを送る者もいれば、航海長のように警戒する者もいた。
『やり過ぎるなよ』
思わず念話を送ると、泡がはじけるようなイメージと共に返事がくる。
『伝説の島って思われてるみたいだから、ちょっとがんばってみたのよ。アルフォンソに飛ばしてもらえなかったんだもの。私は大丈夫。ここの医師とショーゴのことを話してみるわ』
少しも気後れのない姉を頼もしく思いつつ、サッタールは准将に向かい合う。
「それでは、私は島のボートで一足先に戻ります。あちらでお待ちしております」
帰りは、制止の声が聞こえなかったふりをして、舷に飛び乗るとそのまま手すりを蹴って海に向かって飛んだ。ボートで待つアルフォンソをじっと見つめると、力を制御して少年を下ろそうとする男から、盛大な文句の思念が響きわたった。
青い肩布も長いシャツの裾も風を受けて膨らむ姿は、呆気にとられた乗員たちの目に、海鳥のように映った。