第二章 交錯する思惑 7
ロジーム海は波が荒い。沿岸地域ならばまだしも、大洋の真ん中ともなれば何にも遮られない貿易風が絶えず湿った大気を吹き付けてくる。
ウェイブレット号とは違い、小型とはいえ護衛艦は格段に揺れないはずなのだが、それでも大波に舳先を突き刺すように進む度に、前後左右に大きく傾いだ。
後衛に二隻のヘリ搭載駆逐艦が続いているはずだが、水平線の向こうに距離を取っているのでここからは見えない。もっともミサイルより高速で落ちてくる隕石を打ち払い、セントラルにいた自分を探し出せる彼らが、水平線の先にいる艦に気づかないなんてことがあるだろうか、とも思う。
「貴様の艇よりは船足は遅いだろうが、乗り心地はいいだろう、少尉?」
上甲板で波を眺めていたアレックスに、マクガレイが後ろから声をかけた。
「イエス・ダム。ですがウェイブレットはもう私の艇ではありません」
「残念か?」
にやりと笑ったマクガレイの歯がきらりと光った。
「……そうですね。愛着はあったと思います」
「海士たちは同じ船に乗り続けることも多いが、士官はそうはいかん。艦艇どころか任地も変わる。その間には自分の艦と思える船にいくつも出会うが、やがては他の誰かにその艦を引き継ぐことになる。なにがしかの感傷はあるものだ。しかしそれに構ってなどおられんぞ。元帥なんか、ご自分の旗艦すらお持ちじゃないからな。まあ、あの人はそれが不満で度々私の艦に乗りにくるのだが」
最後は少しだけ苦笑になった。セントラルに閉じこめられている形の元帥が、中央司令のマクガレイを訪れてはどんな会話を繰り広げているのか、想像できるだけに表情に困る。
曖昧に笑って見せたアレックスに、准将は切り込むように訊いた。
「その後、何らかの接触はあったか?」
「いえ。そう思うとあれはやはり夢を見たのかも知れません」
鋭い目が、突き通すように見つめてくる。
「まあ、いい。夢だとしたら貴様もずいぶん入れ込んだものだなとは思うが。元帥じゃないが、相手は若い女性ではなく少年の方なのだろう? よほど印象に残ったのだな」
「え……あ、はい。そうですね、印象的でした」
「どんな点が?」
これまでに形を変えてこういった質問が繰り返されて、アレックスの脳裏にはあの少年の面影がきっちりと刷り込まれていた。とは言っても、そこには自分の抱いたイメージが付加されているだろうから、実物に再会して同じ印象に再び打たれるかどうかはわからなかった。
「瞳……いえ、視線です。心の中に分け入ってくるような」
「心を読むのなら、そういう感じを与えるのかもしれんな」
マクガレイもそんな瞳を思い浮かべようとするように視線を宙に向けた。
「どんな性格だと思ったか?」
「気位の高い、他人の前で弱味など決して見せない少年だと、最初は思いました。高慢というのではなく。ただそれは少年の置かれている立場からくるものかも知れません。私が彼の腕を掴んだとき、一瞬ですが無防備に驚いた顔を見せましたから」
「貴様に襲われるとでも思ったのか?」
「いえ。少年によれば、コラム・ソルの人間は他人の表層にある思考を耳で聞くように読んでしまうらしいですが、肌が触れることでそれはより深いものになると。だから滅多に他人に触れることはないのだと言ってました。純粋に驚いたのでしょう」
「それは重要な情報だ。いくら友好的に話し合ったとしても握手を求める時はよく考えんといかんな」
小さく頷いて、マクガレイは手に持っていた薄い冊子を差し出した。
「元帥が、議会機密文書館からこっそりコピーしてきたものだ。私はもう読んだから、貴様はこれを読み終わったら適当に処分しておけ」
「これは?」
風にぱらぱらとページがめくれそうになり、アレックスはしっかりと持ち直してタイトルに目を走らせる。『イウサール―南の錬金術師―についての報告』と読める。
「大陸間戦争が本格的に起こる約百年前の文書だな。ブルの諜報機関が作成したものらしい。当時ブルーノ大陸にいたイウサールという人物について書かれている。だがブルーノの公文書にはそのような名の人物はいないのだな。中身は読めばわかるが、イウサールが不思議な術で人心を惑わし、数万を越える信者を全大陸から集め、当時としては驚くほど高い生活水準を維持する地区の指導者におさまっていたという、その事績だ」
「……それがかつてのコラム・ソルの人々の先祖だと?」
「さあな。そうかもしれんし、間違っているかもしれん」
投げやりに答えたマクガレイは、ずっと艦を追ってきている海鳥を見て微笑んだ。笑うと怖い印象が全く変わる人だなと、アレックスは母親ほどの歳の女将軍を見つめた。
「歴史はどうでもいいとは思わないが、その文書に書かれている人物が本当にコラム・ソルの関係者だとしたら、恐らくはずいぶん迫害の的だっただろうな、イルマ。敵対していたブルのスパイの筆だから余計に恐怖を煽って書いたのだろうがね。人間とは、自分の理解できないものを排除しようとするものだ。でなくては恐れのあまり動けなくなる。だが、私はできるだけフラットに彼らに会いたいと思っている。アレックス・イルマ。初めて彼らに出会ったのが貴様のようなのほほんとおめでたい奴だったのは、双方にとって僥倖だったのかもしれんな」
最後にまた笑って、マクガレイは甲板の階段を降りていった。
残されたアレックスは、その評価が誉められたものか貶されたものか判断できず、ほんの少しの間一人で悩む羽目になった。
壊れた発電所の冷えきったタービン建屋の上にあぐらをかいていたサッタールは、組んでいた腕を解いて傍らのサハルに笑いかけた。
「彼らはだいぶ近づいてるよ。速度と距離がよくわからないけど、明後日あたりには見えるんじゃないかな」
サッタールが指さした先には、今は波がうねる海しか見えない。それでもサハルはつま先立ちに伸び上がり、手を額にかざして見渡した。
「海軍さんはまたあの時の船で来るのかしら?」
「いや、違うんじゃないかな。あれはそんなに大きくなかったし。私は遠見で視ているんじゃないから、はっきりわからないけど」
「トノンの船も大砲みたいなのを持っていたわよね。あれより大きな船だと、もっとすごい物を積んでいるのかしら? 大丈夫?」
落ち着かない顔で弟を見下ろしたサハルは、ほっと息をついて、サッタールの隣に膝を抱えて座った。
「ごめんね、サッタール。長老たちは皆、この島の終わりが来たって騒いであなたを責め立てているのに、私はあなたの手助けを何もできない。あなたの邪魔をしようと思念が飛び交っているのに、それを防いであげることもできないわ」
「ふん。長老たちの思念なんて、この島から一歩も出られないんだから何の邪魔にもなってないさ。あの人たちは放っておいたら干からびるまで騒いで嘆いているだけだ」
高慢とも取れる口調の中に僅かな不安の渦を見つけて、サハルはそっと弟の手を握った。触れていれば隠し事は難しいがサッタールは振り払ったりはしなかった。
父親が死んで以来、いや、そのずっと前から、この姉弟は寄り添うように生きてきた。サハルは強大な力を持て余す弟を、ハラハラしながらただ見ているしかなかったと思っているが、それは違う。サハルがいなかったら、そもそもサッタールは今のようにあふれる感情を抑えることができず、力に負けて自滅していただろう。
「せっかくアルフォンソが長を引き受けてくれたんだから、長老たちの相手も彼がすればいいのよ」
少しふてくされて言う姉に、サッタールは吹き出して言った。
「十分引き受けてるよ。アルフォンソは私がここを出た後もずっと長老たちの不満を一人で引き受けてくれるんだ。私がもし逆の立場なら、やりきれないね」
「そうね。それでも私はあなたが心配だわ。もう私よりも大きくなっちゃったのに」
この一年で急激に身長を伸ばした弟の頭をそっと撫で、サハルは微笑む。島にいるならばしてやれることも、もう少ししたらできなくなるのだ。
「ショーゴのことは絶対になんとかするよ、そしていつか姉さんも外の世界を見に行けばいい」
「ふふ。そしたらアルフォンソはますます孤立無援ね」
「……私も帰ってくる。全て終わったら」
「そう、そうね」
サッタールもサハルも、それ以上は言葉にしなかった。未来がどうなるのか、本当には誰にもわからないのだから。
長を交代したと告げた時、集まった島人たちは一様に驚き、困惑し、そして怒った。島の歴史の中で、事故や病、老衰で長が存命のうちに交代することはあったが、当のサッタールはピンピンしている。理由は何だと詰め寄ってきた老ゴータムを軽くいなしたのはアルフォンソだった。
「力の強い者が長になる。それが裁定なはずだな。だがそもそもサッタールと俺では力の種類が違いすぎる。今まではあんたたちの不安を抑えなだめるのに、サッタールの思念の強さが必要だった。だが、今はもっと物理的な力が必要だ」
「何だと? もう彗星は行ってしまった。また夏の終わりに残っている塵の中をくぐるだろうが、もうそんな脅威はないはずじゃ。それならば彗星の来るずっと前に交代が必要だっただろう?」
「ふん、彗星はな、あくまでも一時のことだ。だがこれからはそうじゃない。中央府の船が来る」
アルフォンソの落とした爆弾に、集まった人々が黙り込む。次の瞬間、声と思念の両方で蜂の巣をつついたような騒ぎがわき起こり、サッタールは顔をしかめた。
「ど、どういうことじゃ? 何故それを知っておる?」
口から泡を飛ばした老ゴータムは、アルフォンソを通り越してサッタールに食ってかかった。
「おまえか? おまえが呼んだのじゃな? おまえは昔からこの島を嫌っておったからな。この島も、父親もっ! 大人しく長を務めていればよいものを、トノンなんぞに出かけていったから、中央府に目を付けられるんじゃっ」
長く伸ばした爪がサッタールの頬を引っかこうとした刹那、ゴータムの体がいきなり後ろに吹っ飛んだ。集まっていた人々の真ん中に投げ出され、幾人もが悲鳴を上げて一緒に床に転がる。
「これは失礼、ゴータム・サスティ殿。少し力加減を誤ったな」
再び静まり返った島人を前に、アルフォンソが声と思念で言い放った。
「サッタールならば辛抱強くあんた達を説得して回るだろうが、俺はそんな悠長な真似はしない。そんなことをしていられる時間もない。だから長を交代したのだ。いいか? 海底鉱山の資源を掘り出すのも精錬加工するのも大電力が必要だ。そしてその技術を持つショーゴ・クドーは人事不詳だ。発電機が故障しても、もう我々だけでは修理できん。各戸で使っている太陽パネルも今はまだしも、劣化したら換えはないぞ。水を汲み上げるのも、布を織るのも、今後は一切人力でせねばならん。船を動かす電池式モーターもやがて使えなくなるから、後は風とオールで漁をするのだ。台所の火すら薪を集めるようになる。一日一日を生き延びる為だけに、人生のほとんどを費やすようになる。そして次の世代は極端に少ない」
もはや誰もが息をひそめてアルフォンソの演説を聞いた。
「島を愛し、島で生きたいのなら、今は新しい道を探るべき時だ。サッタールがそれを判断し、俺も賛成した。中央府がこの時期に来るのは我々にとってもチャンスだ。交渉はサッタールがあたる。中央府と何をどう取り引きするかは、話してみないとわからんが、奴らが自分たちの憲章を守ろうとするならば、一方的にはならん。だが、島を無防備に置いたりはせんぞ。打ち込まれたミサイルをそのまま相手に返すぐらいのことは俺一人でもできるからな」
周囲の人の手を借りて、もがくように起きあがったゴータムは、燃えるような目でサッタールとアルフォンソを見上げた。
「わしは……わしは出て行かんぞ」
「この島に骨を埋めたいなら、ちっとも構わんぞ。俺もそのつもりだから、まだまだ長いつきあいになるな、ゴータム爺さん」
しかしサッタールは自分も、とは言わなかった。言えなかった。帰ってきて、ここで生涯を暮らすのだとは。それはその場にいたほとんど全員に知れただろう。
代わりに、アルフォンソと肩を並べ、静かに言った。
「中央府が来ても、あなたがたのことは必ず守る。だから皆、アルフォンソに協力して欲しい」
その思いもまた真実だと、心を開いたサッタールの言葉に、コラム・ソルの人は一人一人頷きだけを返してそれぞれの場所へと帰っていった。