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 トゥレーディアが西の海に沈んだ。風もない凪の夜だった。ロビンはまだ顔を見せない。星明かりだけが草についた露を微かに光らせている。

 サッタールは海を見下ろす崖沿いの道を歩いて、鬱蒼とした森の中に入っていった。


 コラム・ソルには五つの有力な血筋があった。サッタールとサハラを生んだビッラウラ、アルフォンソのガナール、ショーゴと妹のユイはクドー。他にサスティとアンダーソンがあったが、サスティは老ゴータムしか残っていないし、アンダーソンの直系は絶えた。


(もうこの島を今のままで維持することはできない)


 サッタールは草を踏みながらそっと思った。心に障壁をたてて遮ることができるとはいえ、念話に慣れた人から離れて一人になった時しか、その先を思い巡らすのは危険だった。



 五十歳を超えた者が人口の七十五パーセントを占めている。そして島の生活を維持する為に、有用な力を持つ者ほど能力が酷使され、疲弊も早く、寿命も短い。

 島を開き、中央府に援助を請うべきなのか、それともこのまま静かに滅んでいくべきなのか。サッタールが未来を選ばなくてはならない。長になってしまった時からずっと、その課題が少年を縛っていた。


 草を踏み、生い茂った森を抜けると、視界が急に開ける。そこに青く透き通る水をたたえた小さな湖アマル・フィッダがある。


 底のどこかで海と繋がっているこの湖は、淡水ではなく汽水で飲用には適さない。そして驚くほど多くのクラゲが棲息している。

 光合成をする藻類と共生している為、餌を必要としないこのクラゲたちは、陽が昇ると湖面に上がって来て夕方には底に沈むが、二つの月が満月の夜は本が楽に読めるほど明るいファルファーレでは、月のある夜はゆらゆらと透き通る体を漂わせるのが常だった。


 だが今は静かな青い水だけが広がっている。


 サッタールは着ていたものを全て脱ぎ捨て、突き出した岩の上から飛び込んだ。水面を破る音と飛沫が森の木に木霊する。一度頭を出して大きく息を吸うと、今度は深く潜っていく。


 ただでさえ暗い湖は、いくら透明度が高くても潜ればほとんど闇に近い。

 冷たい水が肌を包み、すり抜けていく。

 上も下もわからない闇の中、サッタールは異形の魚のように泳いだ。


(宇宙に出たら、こんな感じなのか?)


 ふとそう思ったが、生命維持の為の宇宙服を着用しなければ、いくら超常能力を持っていてもコンマ一秒も生きられないに違いない。


 しかしここならサッタールは体一つで自由に動ける。どうしようもない事柄でいっぱいの沸騰しそうな頭も柔らかく澄んでいく。


 もう一度息を吸い込み、クラゲたちの寝床まで潜っていく。白い層をなしているクラゲの寝床は、安全領域の境だ。そこを超えれば硫化水素を含む猛毒の水に変わる。

 他の生物がほとんどいないこの湖で、クラゲたちはひっそりと繁殖する。元は海にいたはずなのに、ここに迷い込んでここで生まれたクラゲは、もう一度海に放り込んだらすぐに死んでしまうのだ。閉ざされた場所で、ただ生きて漂っている。


(まるで私たちみたいだな)


 自嘲して、サッタールは体から力を抜いた。天地がわからなくても、そうして我慢していれば体は必ず浮いてくる。そろそろ息が続かなくなると思った頃、ようやく水面が見えた。


(あと一かき……)


 と思った、刹那。突然水面が大きく割れて黒い影がサッタールの視界を覆った。


 慌てて身を捩ったとたん、口と鼻から空気が一斉に漏れ、代わりに水がどっと入ってくる。

 パニックを起こしそうになった瞬間、黒い手に髪をひっ掴まれ、乱暴に水面に引き上げられた。


「ガッ、ゴホッ」


 サッタールを引き上げた手に、拳で腹を打たれ、肺に入りかけた水がだらしなく口から飛び出た。


「おいおい。ここはおまえの庭だろ? なーに一人で溺れかけてんだよ」


 皮肉混じりのアルフォンソの声で、サッタールの頭に一気に血が昇る。


「ゴホッ、あ、あんたが溺れさせたんだろっ」

「はあ? いつまでも上がってこねーから、痺れを切らしたんだろ。呼びかけたら返事ぐらいしろや。島随一の念話者のくせに」

「呼びかけた……?」


 ようやく咳が止まって、間近にある男の顔を見つめた。


「いつ?」

「ざっと半時間は前からだな。発電所がぶっ飛んでショーゴが倒れた。サハルがおまえを呼んでいる」

「ショーゴが?」


 呆けたように鸚鵡返しに言ってから、サッタールは自分を支えていたアルフォンソの腕から逃れて、岸に向かって両手をかいた。


「ショーゴが倒れて姉さんが私を呼んでいるんだな? ショーゴはよほど重病なのか? 原因は?」


 上がって体を肩布でいい加減に拭うとズボンとシャツを素早く身につける。


「何で倒れたかは今サハルが診てる。ただ、左足が機材の下敷きになって潰れた。倒れたショーゴにユイが気がついて、島中に轟くような悲鳴を上げたんだが、それも聞いてねえのか」

「すまない」

「しかたねえ。おまえは潜っているときはいつもそうだ。ここはおまえの結界みたいなもんだからな」


 アルフォンソは肩をすくめ、サッタールを促した。


「サハルにも治せないとなると、ショーゴは危ないかもしれん。急いで行くぞ」


 サッタールは頷きも忘れて闇の中を走り出した。



 ショーゴはコラム・ソルの最重要人物の一人だ。島の住人が、能力の種類や多寡によらず穏やかな生活を営めるのは、ショーゴの一族が営々と築き保守してきた電力のおかげだ。

 加えて足りなくなっていく資源資材をうまく運用していく才は他の誰も代わりができない。


 駆けていく二人の後ろで、夜啼き鳥が一声けたたましく声をあげた。





 ショーゴの家は発電所の隣にある。サッタールを呼びにきたアルフォンソが力を惜しみなく使い、充電の切れかかったエアカーを力技で動かしたので、着いたのは湖から三十分とかからなかった。


 ベッドに寝かされたショーゴの顔色はよくはなく、息も細い。まだ幼いユイが布団から投げ出された兄の手を必死に掴んで名を呼び続けていた。


「容態は?」


 同じぐらいに青白い頬をしたサハルはその問いに小さく首を振った。この島で秘密を抱え続けるのは難しい。ユイの前で言いたくはなかっただろうが、別室に移ってもあまり意味はない。


「脳に損傷があるの。それが倒れた原因なんだけど、私、気づくのが遅れて……まず潰れた足を診ていたから。治療は……」

「姉さんでもできないのか?」

「左足は残念だけど、切り取らざるをえないわ。骨も神経も潰れてしまっているの。それを再生できほど私の力は強くない。脳の方も大きな血栓は取り除いたのよ。でもそれ以上いじるとなると、どうしてもバックアップが必要なの」


 サハルの力は、体内の異常を透視で発見し、破れた脳の血管を修復できるほどに繊細で優秀だった。だからこそ他に医者などいないこの島の癒し手なのだ。


「脈拍も呼吸もおかしくない。血圧も体温も正常。瞳孔の反射もあるわ。なのに意識は戻らない。身体が動かせないのは脳の損傷のせいだとしても、大脳の活動自体はできているはずなのに。もちろん心でも呼びかけてるわよ。私もユイも」


 サハルの困惑が伝わってくる。


「あなたなら、彼の心に届くかもしれない」

「やってみよう」


 サッタールはショーゴの痩せた顔を見下ろし、ユイとは反対側の手を握った。サハルの言うとおりショーゴのゴツゴツとして所々皮膚が厚くなった手は温かい。

 だが普段なら触れただけであふれるように伝わってくるものが、何も感じ取れない。


 サッタールは目を瞑り、ショーゴの手の甲を自分の額に当てた。


『ショーゴ。聞こえるか? サッタールだ』


 ショーゴの表層には何の感情も思考もないと判断し、名を呼びながら少しずつその心に自分を滑り込ませていく。それは真っ暗な湖に潜るのと少し似ていた。水で満たされてるのに生きる物の影もない世界。




 普段のショーゴは賑やかな男だ。いつも何かを忙しく考え、それを遠慮なく口にする。計画し、研究し、実験し、また研究し。頭と同時に手も動かした。


「おまえはさあ、考えすぎなんだよ、いっつも。人生なんかなるようにしかならんぞ?」


 長になってから、どうしたらよいか判断に迷うサッタールに、いつもショーゴはそう言ってくれた。


「あれが足りない、これがうまくいかない。そんなん当たり前じゃん? 足りないとこがなくなったら、俺なんか退屈で死んじゃうねー。うまくいかないことがあったら、うまくいくように考えるか、全然別のこと始めるかだろ? 年寄り連中みたく文句ばっか言ってたってもなーんも変わらねえじゃん。バカバカしい」


 ショーゴは枯渇していく様々な資源を目の前にしても、挫けるどころか逆にファイトを燃やして、ずっと研究をしていた。


「この島は油が採れねえのが致命的だよなー。燃料としてはなくてもなんとでもなるけどさぁ。合成樹脂も化学繊維もアスファルトもタールもなくて俺たちよくやってきたよな。すげーよ、三百年っ!」


 そんなショーゴが何も喋らず、動かない。心は空っぽだった。




「ダメだ。ショーゴの心は深く沈みこんでいるのか、身体を離れてしまっているのか。私にもすぐには見つからない」


 しばらくしてサッタールはそっとショーゴの手を放した。ユイが涙で濡れた目でサッタールを睨んでくる。


「お兄ちゃん、このまま死んじゃうの? まだ生きてるのに、起こせないの? あんた長なのにっ。なんとかしてよっ。お兄ちゃんはずっとずっと島の為に働いてるのに。役立たずっ」


 叫んで、唇をギュッと噛む少女に、サッタールは何も返してやれない。


「ユイ、気持ちは分かるが言い過ぎだぞ」


 脇から様子を見ていたアルフォンソが口を挟む。


「サッタールはすぐにはって言ったろ? 必ず叩き起こしてやるから、おまえは兄ちゃんの身体の世話をしてやれ。サハルの手助けぐらいできるだろ」


 ユイの目がサッタールからサハルに移る。


「足……痛くない?」

「大丈夫。幸か不幸か、今は痛みを感じていないのよ」

「あたし、何をすればいい? 小さな物なら心で動かせるし、大きな物は手で持ち上げるよ」

「そうね。処置が全部終わったらサッタールが絶対に呼び戻してくれるわ。そうしたら身体をきれいに拭いてあげましょう。あと、どうやって栄養をとってもらうか、一緒に考えましょう。ショーゴの好きな物をね」


 サハルの落ち着いた答えにユイが真剣にうなずいた。


「お兄ちゃんは目玉焼きが好きなの」

「そりゃ、おまえがそれしか作れないからじゃねえのか?」

「そんなことないもんっ。スクランブルだって得意だもん。お兄ちゃんはいつもおいしいって言ってくれるもん。アルフォンソの意地悪っ」


 アルフォンソがあははと笑い、ユイはますます食ってかかってきたが、もう小さな頬の涙は乾いたようだった。



 島の者たちが三々五々とショーゴの家に集まってきていた。サハルはアルフォンソにすがるような目を向けて、ユイを連れて出るように頼む。いくら必要な処置とはいえ、幼いユイに兄の足を切り取る場面は見せられなかった。

 





「ちょっといいか、サッタール」


 処置を終えてユイがサハルと一緒にショーゴの身体を拭き始めると、アルフォンソはサッタールの肩を押した。二人は寝室を出てショーゴの作業部屋に向かう。


「倒れた時、ショーゴはなんかの作業をしていたらしい。床に焦げた部品が散らばっていた。俺にはそれがなんだかわからないけどな、大事なものだったんだろう。ユイが言うには、ショーゴは大声で叫んで、しばらくしてから倒れたそうだ」


 様々な工具と得体の知れない機械、実験用具でごたまぜの部屋は散らかり放題に見えるが、ショーゴはどこに何があるかよく把握していた。サッタールはぐるりと周りを見回し、壁の一角に目を留めた。


「通信機が……」


 壁際の通信機が黒焦げになっていた。それはショーゴが工夫と研究を重ねて作った、放送を傍受するためのものだった。


 子供の頃、よくここでショーゴに外の世界の歌を聴かせてもらった。島ではもうずいぶん長いこと新しい歌は生まれていない。小説も絵画も踊りも。新しいものとの出会いのない生活の中で、それはサッタールの胸を躍らせた。


「発電機がぶっこわれたのが先か、こいつが先かわからんが、ショーゴは強いショックを受けたんだな。それでこんなことに……」

「だろうな。換えの部品はない。作ろうにも材料もない」


 アルフォンソは苦い口調で言って、床に転がった煤けたネジを拾った。


「こんな小さなネジ一つでも、ここで作るとなると一苦労なんだとぼやいていたからな。溝に工夫があるとかなんとか。それならもう少し片づけたらどうだと言うと、どこに何があるかわかっているからいいんだと。だがこれじゃあ、他の人間にはちんぷんかんぷんだ。誰も代わりをするどころか補助もできない」

「うん。ショーゴの代わりはいない。島の生活は彼が見えないところで支えている」

「一人でな」


 どうしてこうなってしまう前に手を打てなかったのかと、サッタールは唇を噛んだ。倒れた直接的な原因がショックであったにしろ、ショーゴは身体も頭も心も、すり減るほどに使って過労だったに違いない。


「んなこたぁ、ショーゴだけじゃねえよ。おまえだってそうだろが」


 アルフォンソが勝手に心を読んで口を挟んだ。


「石頭の長老たちの相手をして、ショーゴにもサハルにも力を与えて、いつもヘロヘロだろ? 俺は自分が倒れるような力の使い方はしねえけどな。目の前で誰かが死んでも、自分の力が限界なら手を出さない」

「じゃなきゃ、あんたの方が先に死んでるだろ」


 ぶっきらぼうに答えたが、アルフォンソが自分自身を守っていることでサッタールは救われているのだ。


 自己嫌悪に取り憑かれないよう湧きあがろうとする感情を殺して、サッタールは床に落ちていたショーゴのノートを拾った。パラパラと開くと、中には仕事や新しい着想の覚え書きがびっしりと書かれていた。


「えらく細かい字だな」


 アルフォンソがサッタールの肩越しに覗いて苦笑を漏らす。


「紙以上に優秀な記録媒体はこの島にはないからな」


 トノンで見た島守の邸は、特に裕福ということでもないだろうに、サッタールたちにとってはまるで別世界だった。気軽にポケットに入れられる通信機器。様々な情報を引き出し、記録する電子機器。明るい照明。温度調節の利いた室内には、肌を貫く勢いで打ちつけていた雨の音も聞こえなかった。


 今、外界の人間がこの島の生活を見たら、手工業レベルにしか映らないだろう。実際にそうなのだから。


「サッタール、これを見ろよ」


 アルフォンソがノートの最後のページをめくった。そこにはそれまでの細かい字とは違う、叫びのような赤い字が踊っていた。


《外に、出たい》


 無言でそれを見つめ、サッタールは部屋を改めて見回した。改良に改良を重ねた受信機は無惨な姿を晒していた。ふと思いついてその隣の録音器スイッチを押すと、やかましい音楽が鳴り出す。


「次はお待ちかね、シュバイツァーの歌声をお送りします」

 妙に興奮したような女の声に続いて、甘いテノールの声が歌い出す。



 ――さあ、船出の時がきた

   私を縛る古い因習を断ち切って

   愛する人の手をとろう

   荒波の向こうには夢の国がある

   なにもかもを他人のせいにするのは懲り懲りだ

   私は自分の意志で自分の道を選ぶのだ

   潮が満ちた、いまこそ船を漕ぎだそう

   トゥレーディアが私の行く航路を輝かせ

   ロビンが私の肩を押してくれる

   荒波を乗り越えたらそこはきっと夢の国



「ひっでぇ歌だな」


 アルフォンソが口を歪めた。


「荒波の向こうに夢の国なんざねえよ。あるのはどこまでもつきまとう現実ってやつだ」

「ああ。だけどそんなことはショーゴは嫌というほどわかっているだろう」


 彼がどんな気持ちでこの歌をわざわざ記録したのかを思って、サッタールは目を瞑った。


 どこにも行き場のないクラゲの生態系は、あの湖で完結している。だが自分たちはどうだろう? 最後の時まで足掻くのか、それとも――。


「アルフォンソ、頼みがある」


 サッタールは強ばった口を無理矢理に動かした。


「長をあんたに譲る」

「で、おまえは外に行くのか?」

「ショーゴの魂を見つけて、それで彼が回復すればよし。だけどサハルはそうは思っていなかった。脳の障害が取り除かれなければショーゴの身体は動かない。それでは心が戻って意志疎通ができたとしても、彼は一生ベッドの上だ。そんなことは認められない。そして壊れた発電機はショーゴが戻っただけではもう直せないだろう。材料もない。外ならそれは手に入れられる」


 アルフォンソはサッタールから目を離さずに、ふっと笑った。


「俺が行ってくるって手もあるぜ? ちょいと大陸まで行って、材料とやらをこっそり船に移して来りゃいい」

「ダメだ。トノンで海軍の船を見ただろう? あれは外の船の中でも大きい方じゃない。それなのに幾つもの火器を積んでいた。もしあんたのしたことが知られれば、彼らはこの島を取り囲んで攻撃してくるだろう。彗星の欠片は数時間だから対処できた。でも彼らは何年でも戦えるだけの資源を持っているんだ。私たちには為す術もない」

「おまえが行って頭下げて助けを請えば、奴らが無償で応えてくれるとでも? 結果は同じだぜ? 奴らが大挙してここに押し寄せ、俺たちは珍獣扱いで研究材料に切り刻まれる。島を見れば俺たちが対抗する力もなければ、取り引きするだけの物も持っていないのはすぐに知られる」

「そんなことはさせないっ」


 サッタールが激しく叫び、アルフォンソが顔をしかめる。


「落ち着けよ。おまえが叫ぶと耳が痛い」

 聴覚への物理的刺激は大したことがなくてもサッタールの波立った心は、そう感じさせるだけの力がある。

「勝算はあるのか?」

「……作るんだよ」


 意識して呼吸を整え、サッタールは青灰色の瞳を細めた。


「潮が満ちたら船出だ」

「わかった。だがその前にショーゴを捕まえてくれ」


 首を縦に振って、サッタールは踝を返した。ショーゴの心が四散していないことを胸の内で祈った。





 ここはどこだろうと、ショーゴ・クドーは辺りを見回した。潮の匂いを嗅いだような気がした。足下には青黒い水が渦を巻いて流れている。見上げれば満天の星。


(あーこの時間はまだ月がねえな)


 見慣れた二つの月がないことを少し寂しく思いながら、もう一度見回して、ぎょっとする。


(俺、足がねえ……ってか、身体がねえじゃん)


 ようやく意識がはっきりとして、慌てて視線をさまよわせる。青黒く見えた水は海だった。そしてどこにも明かりが見えない。


(そっか……受信機、吹っ飛ばしたんだったな)


 精神だけが離脱できるとは知らなかった。もしかしたらサッタールならできるのかもしれないが、たいして精神感応の力を持たない自分がこんなことできるとは。


(いや、俺、もしかして迷子か? 身体はどこだよ。サッタールならできたとしてもこんな間抜けな羽目にはならねえんだろうなー)


 頭を掻こうして手もないのに気づき、げんなりとする。


(吹っ飛ばされた時に身体の方は死んじまったかな? そうだとしてこのままだと俺はどうなるんだ? 幽霊か? このままずっと存在できるのか、それとも段々消えていくのかな?)


 疑問が次々と湧いたが、自分ではどうしようもない。死んだ自分を見たら、ユイは泣いて怒って手がつけられないだろうとか、発電機を修理できなければ島の生活がどうなってしまうのだろうかとか、考えてみたが、どうも現実味がない。


(不思議なもんだな。感情ってやつは肉体があってこそのものだったのか)


 発電機からの過電流が衛星受信機を壊したと悟った瞬間の、真っ黒に塗りつぶされたような絶望を思い返そうとした。外の世界を知る手段がなくなったことは、ショーゴには言いようもない痛手だった。


(俺たちはもう何十年も、新しい歌一つ産みだしちゃいねえ)


 歌も、詩も、小説も、踊りも。何もない。もちろん映像作品を作るような余裕もない。ただ日々を生きるために働いて、文字通り心をすり減らしていく。

 未来を託す新しい世代もない。島で最年少のユイは、このままでは全員が死に絶えた後、たった一人になってしまう。たとえ生き延びられたとしても、だ。


 危機感は皆が持っている。だからショーゴも子をなそうとしたことはある。だが、交わった女は生きた子を産むことはなかったし、再チャレンジを試みるには恐怖が先に立ってできなかった。


(もうどーでもいいか。俺、死んだみたいだしな)


 もしかしたらサッタールがこのどうしようもない袋小路から皆を連れ出せるかもしれないという希望はあった。アルフォンソではだめだろう。あの男は自身が生きる力が強すぎて、弱っていく者に寄り添えない。だけどサッタールなら……。


(ほんと、頼むよ。ユイのこともな)



 意識が段々散漫になっていくのを感じた。やはりこのまま消えるのか、と考えた刹那。空虚でなにもないはずのショーゴの頭骸を揺るがすような大音声が響いた。


『ユイの面倒なんかみてられるかっ。それは自分でやれよ、ショーゴ!』


 同時に四方八方から網でくるまれて、ギュウギュウと押し込められるような感覚が襲う。


『いてっ! ちょっ、サッタール、乱暴にするんじゃねえよ。俺、死にかけてんだぜ?』

『知ってる。だが、このまま死なれては困るからな。残念かもしれんが、私があんたを死なさない』


 ついさっきまで、大気に溶けていくほどに希薄だった意識が、パン種のようにこねくり回され、拳大にまで縮められた。代わりにいろんな感情がどっと蘇ってくる。


『おい、こら。困るって言われてもな。俺、せっせと働いてもうクタクタなんだよっ。そりゃ、ユイは可哀想だし、あのお転婆の面倒みるのは大変だろうけどな。ちいっと休んだっていいだろっ。島の人間が困ったって、もう俺には知ったこっちゃねえよ。閉じこもって萎えていきたいならそうしろよっ。外に出る勇気もなくてグダクダ文句ばっかり言いやがって』

『へえ? 案外元気だな』


 笑いを含んだサッタールの声が、耳もとでした。気がつくとなかったはずの身体があった。ただし、鳥の雛としての。


『……何の鳥だよ?』

『アホウドリの雛。クラゲみたいにふわふわとしてられたら捕まえていられなくて。アホウドリは人間が近づいても逃げないからちょうどいい。成鳥になれば飛ぶ力も強いし』


 なんでアホウドリと思ったら、先ほどまでショーゴを覆っていた絶望も怒りも遠くなって、おかしさがこみあげてくる。


『おまえ、いつの間にこんなスゲー技を磨いたの? 聞いたことないぜ?』

『私も初めてやった。心を操るっていうのは、自分のイメージに相手の心を添わせるってことだからな。でもずっとアホウドリのまま放置するわけにもいかない。ショーゴ、自分の身体に戻ってくれないか?』

『……生きてんの? 俺の身体』

『生きてる。ユイが目玉焼きを意識のないあんたの口に押し込んで、あやうく窒息させるところだったけど』

『はは。やりそー。あいつ、泣いた?』

『泣いて怒ってた。私は能なしの役立たずと怒鳴られた』


 ショーゴは小さな躯に似合わない大きなくちばしを開けて笑った。死にかけた心を追って、集めて固めて手のひらに乗せるような奴に向かって、能なしとは!


『あんたの身体は生きてるよ、ショーゴ。ただサハルが言うには脳が損傷を受けて、多分手足を動かすどころか瞼も自力では開けられない。栄養も自分では取れないし、排泄も人手が必要だろう。それに残念だけど左足は膝上から切り落とした。すまない』

『それでも戻って生きろと言うんだな?』

『外の人間と違って意志の疎通はできるだろう』

『だけどもう二度とこの目でユイの顔も青い海も見られないんだろ?』

『頼むよ、ショーゴ』


 見えてると思っているサッタールの顔も、サッタール自身が編み出したイメージなのだろう。だからか、いつもよりもずっと無表情に見えた。

 それなのにショーゴにはサッタールが涙を溜めているのがはっきりとわかった。


『命令しろよ。それなら俺には逆らえない』

『できるか、そんなこと』


 ふてくされたような口調がおかしくて、ショーゴはまた笑った。


『あんたが戻ったら、私は外に行って中央府と交渉する。島に人を呼んで島の生活を変える。私たちも出たい者は外にふらりと出ていって、そして外の暮らしに疲れたらいつでも帰ってこられる。そんな風にしたいんだ。すり減っていく日々を数えるだけの暮らしはもうやめる。そして、あんたの脳の損傷も、外の医療技術なら治せる。私がそのための交渉をする間、うんざりするかもしれないけど自分の身体で待っててくれないか? サハルがその間、あんたの手助けをするだろう。だからショーゴ……』


 外に――。ショーゴは柔らかい羽毛の生えた頬をサッタールの手のひらにこすりつけた。



 サッタールが彗星の危険をトノンに告げに行きたいと言い出した時、長老たちはこぞって反対した。何を今更と。

 それでもショーゴは真っ先に賛成し、しぶるアルフォンソを説き伏せた。何かが変わるかもしれないと思ったから。



『本当に、変えられると思うか? おまえ、長の地位を剥奪されるぜ?』

『もうアルフォンソに譲ったよ』

『手回しいいんだな』


 ショーゴはチイチイと鳴いて、不器用に羽を動かした。


『しょーがねえな。帰るか。ユイがわあわあ喚いてうるさいだろうけど』

『うるさい声を聞いたら、あんたも感動するさ』


 少しだけ笑って、サッタールはショーゴの魂をつかんだまま薄らと明けはじめた空を飛翔した。





 ドンという衝撃と共に、ショーゴは自分が二十数年間馴染んだ肉体に戻ったのを感じた。とたんに目が見えなくなる。


(ああ、今まではサッタールの見ているイメージを見てたんだな)


 考えてみればサッタール自身も、自分の身体を抜けていたのだ。それはとてつもなく危険なことだった。


(ミイラ取りがミイラにって言うもんなあ)


 幸い聴覚は失われていない。背けることのできない耳を、ユイの喚き声がガンガン刺激する。


「お兄ちゃんっ! お兄ちゃん、ねえ、生きてる? ねえ、返事してよっ。もっとおいしく目玉焼き作るからっ。黄身が半熟とろとろのお兄ちゃんの好きな目玉焼きにするからああっ」

『うるせーぞ、ユイ。この上鼓膜まで破けたらどうしてくれるんだよ』


 試しに念話で返すと、ユイはぴたっと口をつぐんでショーゴの頬をぎゅっと抓る。でもショーゴには何も感じられない。


『心配させて悪かった、ユイ。兄ちゃん、ちょっと動けねえけど、ちゃんとここにいる』

『うん。おかえり、お兄ちゃん』

『ああ、ただいま』


 二人のやりとりを聴いていたサハルが、ユイにタオルを差し出しながら言った。


「おかえりなさい、ショーゴ。疲れたなら少し眠ったらいいわ。でももう行方不明にならないでね」


 明るく聞こえるその声に、不安と恐れが混じっているのを感じて、ショーゴは心の中で詫びた。


「それからユイ。ショーゴの機能を低下させない為にも、あなたはちゃんと声をだして話しなさい」

「うん。わかった」

『大声はカンベンな?』

「わかってるよっ!」


 やはり大声で答えて、ユイは自分の涙を拭いたタオルでショーゴの顔もごしごしと擦る。身体に感覚がなくても生きているという実感があった。



 ショーゴを連れ戻したサッタールは、外に出ると冷えた壁に背中をつけ、そのままずるずると地面に尻をつけて座り込んだ。まだ身体も頭もふわふわしている。目の前の人間に思念で話しかけるのと、心ごと身体を抜け出すのとではその疲労度は大違いだった。


 それでもユイの泣き笑いの顔を見れば、良かったという喜びが胸を暖める。


「それで? 次はどうするつもりだ?」


 足音もたてないでアルフォンソが歩み寄り、サッタールの横に座った。


「どうやって外に出る? 俺がこっそり送ってやってもいいが、トノンの時ですら大反対した長老たちは、おまえが外の援助を取り付けて帰ってきても許さないぜ。ますます頑なになって、全部を台無しにしかねんぞ? 衰えたとはいえ、力がない訳じゃない。おまえ、二度とこの島で安眠できねえな」

「そうだろうね。だから向こうから来てもらうんだよ」


 しばらく考えて、アルフォンソはガリガリと頭をかいた。その思考の流れをそっと観察しながらサッタールは薄く微笑む。


「あー、つまり。あちらさんがこっちが及びもつかねえような軍艦の群でやってきて、腰を抜かした年寄りどもが泡を吹いてる隙に既成事実にしちまおうってか? おまえ、相変わらず大人しそうな顔してるくせに、やることえげつねえな」

「あんたには言われたくない」

「その上で交渉役としてセントラルに乗り込む気か」

「必要ならトゥレーディアにだって行くさ」


 不意にアルフォンソの心に遮蔽が降りて、サッタールは眉を寄せた。視線が頬に突き刺さるような気がした。


 ショーゴを探すうちに日は昇り、朝日が顔に暖かい。心を飛ばしたおかげで冷えてしまった身体には心地よくて、眠気が襲ってくる。

 だが、隣の男の視線がそんな眠気に水を差す。


「向こうさんに来てもらうって、おまえ、呼べるのか? 発電機とショーゴが無事なら、通信に割り入ってってこともできなくはなかったかもしれんが」

「それじゃあ伝説の民らしくないだろう? ただ援助を請うだけなら、私たちはあんたが心配するとおりに珍獣保護の対象になってしまう。そんな生殺与奪の権利を与えるつもりはないよ。少しは畏れてもらわないと。下手な手出しは無用だと思わせつつ、でも興味はひきたい。だからここは、私たちらしい方法で呼び寄せるんだ」

「誰を? トノンの島守か?」

「海軍士官アレックス・イルマ少尉」

「あいつか……あの脳天気な堅物がもし呼びかけに気づいたとして、たかだか下っ端軍人一人を畏れさせたってどうにもならんだろ。その前に変な夢でも見たかと布団被って寝ちまいそう……」


 アルフォンソの心に、アルフォンソが見た若い士官のイメージが浮かび上がった。帽子から縮れた前髪をはみ出させたその顔は、心と同じく雄弁に内心を物語ってしまう。いかにも頼りなく、常識的で実際的な人間。


「うん。だけど彼は一方で人に対して誠実だ。変な夢も何度も見れば動くだろう。下っ端でも軍人だ。お誂え向きじゃないか」

「で、成功したらあいつは中央府と俺たちの間に挟まって四苦八苦する訳だ。わかっててやらせるおまえは、質が悪い」

「なりふり構っていられるか」


 やれるかどうか、うまくいくかどうかなんて、やってみなきゃわからないと内心で付け足して、サッタールは目を瞑った。昨夜から一睡もしていない。数時間は何も考えずに眠りたかった。


『ま、いい。寝たきゃ寝ろ』


 やれやれと呆れたアルフォンソの感情が、伝わってくる。かくっと力が抜けた身体が傾いで、傍らの男の肩にもたれかかった。

 潮騒と渡り鳥のしわがれた鳴き声と、アルフォンソの鼓動が、サッタールの子守歌になった。



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