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地軸の傾きが地球ほど大きくはないファルファーレでは、季節の変化はそう大きなものではない上、コラム・ソルはほぼ赤道上にある。北緯十五度付近で発生する台風も、コラム・ソルには影響を及ぼさない。この島は一年を通して常に暖かく、湿った大気に包まれている。
それでも夜には少しばかり涼しい風が入り込んでくる。
サッタールは石を敷き詰めたテラスに裸足のまま出ると、据え置いてある椅子に腰を下ろした。島の外へ出たのはたった一日だけのことなのに、まだ一昨日の疲れが残っている。
この時間にはまだ、近づいてくる彗星の影は見えない。太陽とファルファーレの間に入り込むような軌道の彗星は、夜の側からは観測もできないし、昼間は太陽の輝きに紛れてしまう。
それでも夜明けには禍々しい尾を引く姿がくっきりと見えるだろう。
「よう、まだ冴えねえ顔つきだな、サッタール」
遠慮もなにもない足音と共にアルフォンソが顔を見せ、サッタールの前にあぐらをかいた。
「船を動かしたのは俺だ。おまえとサハルは座ってただけだろうが」
「力は貸しただろう?」
憮然と答える少年に、アルフォンソは人の悪い笑顔を見せた。
「おう、おかげでこっちは力が余ってるさ。我が家の敷地に落ちてくる欠片ぐらいなら小指の先だけで跳ね除けられそうだぜ」
「この家の心配まではしてくれなくていいぞ」
「当たり前だ。俺ごときがわざわざ長の家まで出張るのは僭越至極ってもんだろう。それにショーゴの奴が発電設備だけは守れとうるさい」
「ああ。当然だな。島の最重要設備だ。エンジニアとしてはそう言うだろう」
物憂げに言って、サッタールは空を見上げた。
「目に見える被害はなくても、彗星のまき散らす塵は既に降ってるんだろうな」
「塵は数年間は大気圏を漂って、この惑星全体に少しずつ降り注ぐ。そしたら……中央府も俺たちに注目せざるを得ないかもしれんぞ。三百年前、ここにご先祖が移住する際もそうだったらしいからな。そしたらおまえは、どうするつもりだ?」
そう、塵は降り、それは誰にも止められない。目に見える環境の変化がなくても、この星に住む者達の幾ばくかには確実に影響を与えるのだ。特にこれから生まれる者達には。
「厄介な時代に長になっちまったもんだな、サッタール」
「喜んであんたに代わってやるよ」
「遠慮する。面倒くさい」
言い放ってアルフォンソはごろりと石の床に寝そべった。夜空の真ん中に大きな月トゥレーディアがぽっかりと浮かんでいた。小さい月のロビンは今はまだ東の水平線の上にある。
ファルファーレは二つの月を持っている。それが複雑な潮汐を生み出して、この惑星の気候を支配している。
甘い香りを夜に放つカッセラの花が白い花弁を揺らして虫達を誘っていた。昼に温められた石の上を小さな蜥蜴が走り、更にその蜥蜴を狙う飛ばない鳥が茂みの中で様子をうかがっている。
これらのものたちは、夜明けに襲ってくる災厄に気がついているのだろうかと考え、サッタールはすぐに苦笑を浮かべて首を振った。
「なんだよ。俺が長の野心を持ってないことぐらい、おまえにはお見通しだろ?」
不機嫌にアルフォンソが言って、ごろりと背を向ける。
「おまえの命令の声は、まだ俺を縛ってる。三年前の選定の儀式からずっとな。まったく、たかだか十三のガキだと見くびった三年前の間抜けな俺を褒め称えたいね、こうなってくると」
「なんだ、やはり長になりたいんじゃないか」
「違うと言ってるだろ。俺が長になっていたら、あの星をぶっつぶすそうとして、おまえら全員を道連れにしたかもしれんぞ。できるできないは別としてな」
「三百年前、二万人の一族を道連れにしたようにか?」
「あんときゃ四分の三が死んだ。今やったら全滅だ。それでも壊せやしねえだろうが」
「三百年前の軌道はもっと壊滅的だった。二万人どころかこの惑星の生物の九割が死に絶えてもおかしくないほどに。明日はそんな大惨事はおこらない。せいぜい幾つかの隕石が落ちてきて、運の悪い者が巻き込まれるだけだ。だが発電設備だけは守ってやってくれないか? ショーゴ言うとおり、あれを破壊されたらこの島はいよいよ中央府の援助を乞わざるを得なくなる」
「ふん」
アルフォンソは拗ねたように生返事をしたが、サッタールには彼がその責務を果たすだろうと承知していたから何も言わなかった。
コラム・ソルの住人は、全員が精神感応力を持った上に何らかの超常能力も持ち合わせている。それが三百年前には惑星の破滅を防ぎ、結果、この島に孤立して生きることを選ばせた。
サッタールは、他人の思考や記憶を見通せる。そればかりか意思を奪い、相手を操ることすらできた。アルフォンソの言った命令の声は、その力の最大のものであり、サッタールが全力で命じた声はその後数年たっても彼を縛っているらしい。
(あの時、私はなんと命じたのか?)
実を言うとサッタールはその瞬間のことをよく覚えていない。アルフォンソの心を探れば、なんと命じたのかわかるだろうが、サッタールはそんなことはしたくなかった。
そのアルフォンソの持つ力は、もっと物理的なものだった。重力に逆らって物を持ち上げ自在に操る。自身よりも体積も重力もずっと大きい物も、彼の意志の前では一枚の紙のように軽い。
トノンとの往復に使った船は重さにしたら数十トンはある。まともに帆を使って航行するならば、あの海軍の男が言った通り三人どころか技量を持った十数人が必要だっただろう。それも暴風の中では転覆するのがオチだ。しかしアルフォンソにとっては、大海の横断ですらちょっと疲れた程度の労力でしかなかった。
コラム・ソルの住人がそんな特異体質の持ち主ばかりなのは、べつにこの島自体に秘密があるわけではない。ただ三百年前の災厄を生き延びた者達が、外の世界と交渉を絶ってここに閉じこもっただけだ。
移住を指揮した先祖たちは、ここで静かに安穏と一族が暮らすことを期待しただろう。最低限の物資しか持っていなくても、多種様々な力の持ち主たちが共同すれば最低限の生活を営むだけの食料も日用品も生産できると考えた。
それはおおよそは当たっていた。手工業レベルで衣食住は確保できたし、文化的な生活に必要不可欠な物の生産はマグマの熱を利用した発電所が補っている。銅や鉄を海底鉱山から取り出し、精錬することさえやっている。
たとえ牧歌的な生活であっても、生きるのには十分なはずだった。実際、その後に起きた大陸間戦争に関わることもなく、超常能力が権力者たちに利用されることもなく、いつしか伝説と化して忘れられた存在になったのも、先祖たちの目論見通りだっただろう。
だが、それでも三百年という年月は、この閉鎖された楽園に変化をもたらした。
最たるものは人口の極端な減少だった。七千人弱あった人口は、最初のうちは緩やかに、ここ百年では急激に減って、今は十分の一しかない。コラム・ソルで一番最近に生まれたのはショーゴの腹違いの妹だが、そのユイも今年で八歳になる。
多くの科学技術を持たずに快適な暮らしをする為には特殊な能力に頼るしかなく、それはすぐに能力への信仰に近い感情を生んだ。有用な力を持つ者、それも大きければ大きい程にその人間の血が尊重され、幾つかの有力な家系が島の権力者となり、近親での通婚すら繰り返された。
出生率が激減した理由は他にもあるのかもしれない。元々超常能力者の生殖力は高くなかったし、新しい世界を模索することをやめた人間に、次代への希望を託す心理が働きにくくなっていったのかもしれない。
そもそも何故、ファルファーレで超常能力者が生まれたのか、その科学的な子細はわかっていない。ただ直感的に、あの彗星が関与しているのではないかと推測しているだけだ。
そして、新しい誕生を見ることが少なくなるにつれ、この島では一夫一婦の結婚の概念が崩れていった。若い男女は年頃になると自由に性交渉を持ち、生まれた子は島全体で育てるようになったのが、サッタールの一世代前のことであった。
それでも子供はなかなか生まれてこなかった。
(この島を出るべきだろうか?)
サッタールは島の長になって以来、考え続けてきたことをまた考えた。
島の者は、サッタールのように意識を操ることはできなくても、口にされない思考を互いに読みとることは容易にできる。だからこのサッタールの危険な思考は、すぐ側にいるアルフォンソにも筒抜けだった。
「おまえ、トノンにいる間、苦痛じゃなかったか?」
アルフォンソがため息交じりに訊いた。
「トノンの人口がどのぐらいか知らんが、俺はあそこにいる間中、耳鳴りのように奴らの頭の中身がざわざわ聞こえてきてかなり苦痛だったぞ。暴風雨の音の方がよほどマシだ。俺ですらそうだったんだから、おまえはさぞかし辟易としているかと思ったんだがな」
「ああ……」
喘ぐように息を漏らし、サッタールは額に手を当てる。
「確かに。遮断もできなくはないが、一生涯耳を塞ぐようなことになったらストレスだろうな。先祖たちはどうしていたのか。でも……」
言いかけて止めた先を読んで、今度はアルフォンソが盛大なため息を吐いた。
「あの海軍野郎か? あいつの思考は中でも丸わかりの開けっ広げの赤裸々だったな。囁きとか呟きとかのレベルじゃねえ。まあ、思考が明晰とも言えるかもしれんが」
そう、彼の思考はとても分かりやすかった。そして不快ではなかったと、サッタールは注意深く心に立てた遮蔽の奥で考える。隠していることはアルフォンソにも悟られるだろうが、今はあの若い海軍士官のことを一人で考えたかった。
「サハルがな、あの野郎のことを気に入ってるぜ。おまえ気づいてたか?」
「姉さんが?」
「おう、何もサハルの心を覗いたんじゃねえよ。寝物語に聞いただけだ」
「へえ……」
口にするか文章に綴られた言葉しか公式には認めない文化を持つコラム・ソルでも、親しい仲では自然と互いの心を読みとってしまう。ましてや肌を合わせれば、それは避けられない。
だからアルフォンソはわざわざ聞いたと言及したのだろうが、それはサッタールにはどうでもよいことだった。姉の情事を案じるには、この島の風習はあっけらかんに過ぎた。
「それで、何て?」
「あの野郎となら子が産めるかもとか考えてんじゃね? くそっ、寝物語に聞く話じゃねえな」
アルフォンソは言葉ほどは怒っていない。ただその肉厚の唇をちょっと曲げて見せただけだった。
「姉さんのことは許してくれ。ただ失った赤ん坊が忘れられないだけだから」
「わかってるさ。ただ、子が欲しい若いもんは、皆、外に出たがるようになるかもな。可能性は島にいるよりずっと大きい。だが、長老たちは断固反対するぜ」
「あんたは?」
答えは聞く前にわかったが、サッタールはアルフォンソが言葉にするのを待った。大柄な男は、よっと声を発しながら一動作で立ち上がると、白い歯を見せて答えた。
「俺は……保留。外の奴らの思惑次第だ。俺たちのような異分子を受け入れられるのかどうか見当もつかん。俺自身も中に入ってやっていけるか自信はない。いいか、三百年までは俺たちも外の世界にいたんだ。まぜこぜにな。だからできないことはねえだろうが、袂を分かつことになったのは何故かってのも、よく考えてみねえとな」
「そう言ってくれて感謝する」
サッタールは自分の思考は隠したまま、小さく微笑んで頭を下げた。
「食えねえな、おまえは。三年前から相変わらずだぜ」
今度はアルフォンソも自身の思考を隠して肩をすくめ、背を向ける。
「ショーゴの所へ行ってやってくれ、アルフォンソ」
トゥレーディアが照らす月影の中、この島で二番目に大きな力を持つ男は黙って手をあげた。サッタールはそれを認めると、また視線を空に向けた。
彗星が現れる年、自分たちはその進むべき道を選ぶ。
そんな時代にうっかり長になってしまった自分に思わず乾いた笑いがこみ上げる。
アルフォンソは三年前の選定のことを今でもネタにしたがるが、ひょっとしたらあれは、長になることを回避したかったが為の負けかもしれないとサッタールはこの頃よく思う。
能力者同士の争いは、思念を向ける一瞬のスピードと強さで決まる。アルフォンソが物理的に自分の心臓を握りつぶす前に、命令を発して屈服させた。自分も周囲もそう思っているが、真実はアルフォンソしか知らない。サッタールも今更それをほじくりだしたいとも思わないが。
「はめられたのか、私は……?」
その呟きは誰の耳にも届かなかった。
トゥレーディアが西の海に落ち、ロビンがその後を追うように傾いた時刻。それは始まった。
まだ深い藍色の西の空に幾筋もの光の軌跡が現れ、雨のようにロジェーム海に降り注ぐ。
中には眼を焼くような輝きを放ち、火の玉となって海面に高い水蒸気の柱を立てるものもある。
『全員、頑丈な地下室に待避っ! 窓に近づくと衝撃波で怪我をするぞっ!』
サッタールは西の岬から全島に思念で告げた。サッタールの強い思念の矢から逃れられる者はいないから、全員が聴いたはずだ。あとは直撃しないことを祈るだけだった。
「ちょっ、サッタール。これ思ったよりスゲーなっ」
興奮した面もちのショーゴが岩をよじ登って手を振り回す。
「地下室に待避と言ったはずだが?」
サッタールは島のエンジニアに苦い顔を見せた。
「いや、だって」
にやにやと笑って、ショーゴはうずくまるようにサッタールの隣に腰を下ろす。
「こんな見物、隠れていろってのが無理だって。あと三百年は拝めないんだぜ?」
「三百年どころか今この瞬間に見られなくなっても私は知らんぞ」
「でもアルフォンソ達が見張ってくれてるしさあ。島じゃこの辺りが一番安全なんじゃねーの?」
「あんたが頼んだんだろっ」
「そうだけど。でも発電できなくなっちゃうと困るだろ? 換えの部品たって、ストックなんかないよ? 鉄も銅も銀も段々採掘が難しくなってきてるしさー」
孤絶して生きる島の生活の重要なインフラである電力は、元は自然のエネルギーだからとりあえず枯渇の心配はないが、発電設備は違う。発電所が生みだす電力がなければ、海底鉱山も放棄せざるを得ないし、その他の日用品を作る工場も太陽光パネルだけでは動かない。
「人口が減ったのはむしろよかったかもなー。必要な食料もエネルギーも少なくて済むもんな」
あっけらかんと言うショーゴも、心底からそう思っている訳ではない。ただインフラを支える者として、やけっぱちになっているだけだ。
(むしろ最大のインフラは人間だったのだろうな)
どうすればいいのか迷う中、光の雨が降ってくる。
「おおっ、スッゲー。綺麗だよなぁ」
また一つ、大きな光の玉が空中に現れ、轟音が耳を覆って何も聞こえなくなる。海面にぶつかり、一拍遅れて身体を揺らす衝撃がきた。
「どわぁぁっ!」
ショーゴが両手を振り回し、うるさく叫ぶ横で、サッタールは足を踏ん張ってその揺れに耐えた。
(外の世界では、この災厄にどう対処してるんだろう……?)
彗星の接近すら認識していなかったらしい彼らは、今頃ミサイル放射でもしようとしているのだろうか? 彼らの持つ科学技術ならばこんな大騒ぎは必要ないのかと思うと、悔しさと惨めさが胸に満ちる。
今やくっきりと眼に捉えられる彗星は、太陽を背に負っているせいか尾は確認できない。サッタールは、眼を焼くように輝く星を睨みつけた。
「サッタール、ショーゴ。早く集会場に来て。みんな集まってるわ」
岬の突端に立つ二人の後ろからサハルの声がかかる。ショーゴが最重要と主張する発電機を守る為に、アルフォンソを筆頭とする念動力者たちが集まっているのだ。
サッタールはわかったと手を振ってから、ふと思いついてサハルに怒鳴るように聞いた。
「みんなって、ゴータムの爺さんも?」
「来てるわ」
走ってきた弟と友人に眉を上げてサハルが答える。
「あなたがいないと知って大騒ぎよ。長が主導してあの星を破壊しろって」
「またか」
忌々しく返して、サッタールはサハルを置き去りに走る速度をあげた。ショーゴがすぐ後に続く。
「破壊しろ? そんなこと言ってんの、あの爺さん」
「ああ。三百年前にファルファーレを救ったように戦えとさ。華々しく全滅させたいんじゃないか?」
「へえ……仮にやったとして、できるかい?」
「今、この島の人口が何人だと思う? 前回は三万人が力を尽くして二万人が死んだ。それでも破壊なんか最初からしようとはしなかったんだぞ。軌道をずらしただけだ。もし私一人が命をかければいいっていうなら、とっくにやってるさ」
吐き捨てるように言って、後は黙って足を動かすサッタールを、ショーゴは横目で見て口をへの字に曲げた。
誰も彼も、この状況にうんざりしているのだ。滅びつつあるのに停滞したままの島に。
微細念動力者であり、エンジニアでもあるショーゴは、生まれてから一度も外に行ったことはなかったが、多分、島の誰よりも外の世界を知っている。
発電所の隣、代々受け継がれてきたショーゴ・クドーの生家には、外の世界の衛星から発信される様々な放送通信を受信する設備がある。大海の真ん中にあるコラム・ソルでは電波の条件が悪いが、それでもかなりの情報が得られる。
通信はどれも簡単なものから高度なものまで暗号化されているが、ショーゴの祖先はそれを苦心して解除してきた。だから大陸間戦争の終結も中央府の設立も、トゥレーディアへの月基地建設も、クドー家の者はほぼリアルタイムで見てきた。
ショーゴは月を見上げる度にどうしようもない焦燥感を抱いて成長したのだ。
(何故、俺たちはここに閉じこめられているんだ?)
しかし長老たちのみならずアルフォンソまで、外の世界に懐疑的になるのも、すっかり大人になった今では理解できる。自分達はあまりにも異質なのだ。
だから、ほんのわずかな時間とはいえ外に出たサッタールが、この彗星の災厄を乗り越えた後にどうするのか、興味があった。
(こいつが島を出ると言ったら、俺はどうする?)
目の前に成長途上の痩せた背中があった。その背を追いかけるように、輝く火の玉が空に超然と浮かんでいた。
集会場に入ると、集まった人々はアルフォンソを中心に輪を作っていた。視線だけでサッタールとショーゴの到着を確認したアルフォンソは、片頬を歪めて笑いかけた。
「よお、遅刻かと思ったぜ。どうする? 輪に加わるか、何が起きるか外で見物するか?」
「私はあんたの補助に回ろう」
サッタールは躊躇せずにアルフォンソの背後に回り、筋肉の盛り上がった肩に自分の細い手を置いた。
「力は全て開放するから好きに使ってくれ」
アルフォンソは一瞬だけ目を見開いて、それからまた皮肉な笑みを浮かべる。
「ありがたいが、おまえ、また寝込むことになっても知らんぞ」
「構わない。私が寝込んでる間はあんたが島の面倒をみてくれるんだろ?」
『全開にしなくたっていいぜ。その為に人を集めたんだからよ』
周囲に聞こえないように念話で返してきたが、サッタールはその忠告を無視した。
アルフォンソは、一見豪放磊落に見えるが、その実、注意深い男だ。力を使い果たして人事不省になるような無様な真似はしない。だからサッタールは安心して全力を出せる。
言葉として意識しない思いをくみ取ったかアルフォンソはそれ以上はコンタクトを取らず、集まった人々を眺め渡した。
「始めるぞ」
輪になった人々が一斉に目を瞑り頭を垂れ、持てる力を中央のアルフォンソへと向ける。コラム・ソルの能力は厄介で繊細で、そして柔軟だ。糸車のようにそれぞれの人間の力が紡がれ、それを集めたアルフォンソが太い力の矢を編み上げていく。
もう一人、サッタールと共にアルフォンソに寄り添う老婆は島で随一の遠見だ。彼女の眼は、厚い石の壁や天井を突き抜け、天空の様子を心でアルフォンソに伝えるのだ。
サッタールは自分の思念も記憶も全てアルフォンソに明け渡しつつ、一緒に空の光景を見た。いつの間にか夜は明けていた。深い青空に輝く星と雨のような光の筋。小さな欠片は不意に光ってすぐに燃え尽き消えていくが、大きな欠片は、引き寄せられて大気圏に突入すると、本体の彗星よりも大きく輝いて光の尾を引き、大気を圧縮した衝撃波を伴いながら襲いかかってくる。
その一つが狙いすましたように自分に向かってくるのをサッタールは視た。
息を飲む暇もなく、アルフォンソの操る思念のエネルギーがすれ違うように掠める。
ドンッ、と岬で感じたよりも大きな衝撃が集会場に鳴り響いた。
うまいなと、サッタールは他人に預けた心のどこかで感心する。正面から打てば、もっと強いショックがあるだろう。消耗も激しくてこの輪もすぐに解けてしまう。
アルフォンソはまだ充分に上空にあるうちに、欠片を撫でるように力をぶつけ、落下の軌道をそらしているのだ。
(どうせ周りは海だからな)
一瞬視点が下に向いた。海面に泡がたち、目を回した魚たちが白い腹を見せて浮かんでいる。遠くで海獣たちが一斉に飛び上がり、そして海の底に潜っていくのが見えた。
また空に光が現れる。アルフォンソがそれに向かって伸び上がっていく。
サッタールはその操る力の中に、恐怖の感情が混ざっているのに気づいて眉をひそめた。アルフォンソのものではない。輪に加わっている誰かのものだ。
(私か……?)
身体機能を維持するエネルギーを除いて、全てをアルフォンソに注入しているサッタールには、もはや自分が立っているのか倒れているのかもわからなかった。意識は常に空に向けられ、足の裏に感じているはずの集会場の石の床の感覚もない。
ただ、アルフォンソが思念の矢をぶつける度に、身体に衝撃を感じ、とてつもない疲労が溜まっていく。エネルギーの総量が減っていく。
(まただ――くっそ! あの星はまるで私たちを目がけて欠片を撒き散らしてるんじゃないか?)
考えてみれば、三百年前も、六百年前も、彗星はいつもファルファーレに衝突寸前の軌道で現れている。周期があるにしてもどちらも太陽を公転しているのだ。
今、北半球が冬の位置にいるなら、彗星からは充分に距離があって、たとえ軌道上の落とし物の中をくぐり抜けたとしてもこれほどまでに欠片が落ちてくることはなかっただろう。
ふと、トノンで会った天文学者の顔を思い出す。彼はこの彗星の謎を研究するだろうか? もしそうなら、その成果をぜひ聞いてみたいと思った。いつか、外の世界で。
「おいおい、ボヤッとすんなよ。もう立っているのは俺とおまえだけらしいぜ」
頭骸にアルフォンソの声が鳴り響いて、サッタールははっと周りを見回した。見慣れた集会場の壁が目に映る。
「婆も倒れたんだよ。しょうがねえ、外に出るぞ」
何が起きたのか知覚できないまま、再び視界が開けて、頬に風を感じた。
「来る。悪いがおまえの力、ギリギリまで使わせてもらうぜ」
心のどこかで、あんたはまだずいぶんと元気そうだなと思った。次の瞬間、跳ね飛ばされるほどの衝撃を感じて、サッタールの意識は真っ白な光の中に落ちていった。
ぼんやりとした視界の中で、光の矢が次々と地上に降り注いでいるのを見た。逃げまどう人々。泣きわめく子供達。何かが燃える匂い。
「大変だっ、船が、我々の船が」
「駄目だ、電力設備もイかれてる」
「もう終わりだ、地球から持ってきた最新の技術が全部」
「ローカルで残ったものはないのか?」
「わかりません。ただとんでもなく強い電磁波が電子機器を破壊して」
「もう終わりだ」
「もう終わりだ」
最初は彗星の欠片が島を直撃したのかと思った。そしてすぐにこれは夢――あるいは誰かの記憶――なのだと理解した。
(これは植民して最初の襲来か?)
街が燃えていた。崩れた建物から這い出す人がいた。そして舞い落ちる灰が見えた。
(いや、問題は目に見える灰じゃない。この時だって惑星の規模からいえばたいした衝突はなかったはず)
目に映らない何かが大気中を漂っている。その大半は地面に落ち、海や川の水に溶け、そして生き残った人々の身体に摂取されていく。
(なんだ、これは? これが彗星の秘密か?)
息ができないほどの苦しさが胸を塞ぐ。身体をかきむしりたくてもサッタールには手がなかった。
(そんな馬鹿な。これは夢だ)
誰かが泣いているような気がした。そして、名を呼んでいた。
「サッタール! サッタール、起きなさいっ、自分の身体にちゃんと戻ってっ!」
ゆさゆさと揺さぶられ、唇が何か柔らかいもので覆われた。少し温い水が入ってくる。
そうだ、喉が渇いたなと思った刹那、瞼が無理矢理押し上げられた。
「何を……乱暴だな姉さん」
姉の顔が間近にあって、慌てて振り払おうとして、サッタールは手も動かせないほどの疲れを覚え愕然とした。
「あら、気がついたのね。よかった。魂が無事に戻ったならもう眠っていいわよ」
あっけらかんとした明るい声に、先ほどまで聞いていたはずの泣き声が遠ざかり、急激に眠気に覆われる。
「相変わらず体力ねえな」
憎々しい声はアルフォンソだとわかったが、もう一度目を開ける気にならない。すぐ側でショーゴの気配もする。
「機器は無事だけど、サッタールはしばらく使い物にならないんじゃないのか、アルフォンソ?」
「だな。まあ長として一番の力を尽くしたんだから骨休めさせてやりゃあいいんじゃね? ゴータム爺さんもどうせ寝込んでるしな」
「爺さんが起きてきたら、またサッタールに相手をさせるつもりのくせに」
「そりゃあ長はこいつだ。俺じゃねえよ」
サッタールは意識を完全に沈める前に、渾身の力で手を上げ、アルフォンソの膝に触れた。
『私が起きてくるまで島を頼む。それから私の身体をショーゴの家まで運んでくれ』
思念だけの言葉にアルフォンソが舌打ちするのを確かに聞いて、サッタールは微笑んだ。
やりたくてやってる訳ではないが、それでも自分は長なのだと、そう思った。