31
ぼんやりと天井を見ていた。いや、網膜に映っているのが天井だと理解しないまま、目を開いていたのだろう。
「ショーゴ」
囁くような声がすぐ間近でした。
『ショーゴ、目が覚めたか? 私が見えるか?』
今度は直接脳で声が響き、ショーゴはゆっくりと瞬きをした。
二度、三度と瞬きを繰り返すうちに、視界が明るくなっていくような気がする。
『夢を……見ていたみたいだな』
『夢?』
不意に手を握られているのを感じ、ショーゴはまた瞬きをしてみせる。
「おまえがさー、サハルと一緒にしばらくうちで暮らした時のこと。ユイはおまえに怯えて盛大に泣いたよなー。ユイを笑わせられるようになるまで訓練しろってアルフォンソが連れてきたんだよな」
サッタールは薄く微笑んだ。
「あの頃はずいぶん迷惑かけたな」
「酷かったよなー。島中みんながおまえの怨嗟の叫びに辟易としてるのによお。ユイなんかまだちっこくて遮蔽もできねえのにアルフォンソの奴」
「今もユイは、怖がって私には懐かないしな」
「そうでもねえよ。ユイがおまえに憎まれ口をきくのは、あれは甘えてるからだ」
「ところで、ショーゴ。今、あんたは自分の口で喋って、自分の目で私の顔を見ているって気づいているか?」
ショーゴはまた瞬きをしてから、ゆっくり左手を自分の顔の前に持っていく。
「点滴がついている方は上げるな。管に血液が逆流して詰まるぞ」
サッタールは握っていたショーゴの手を、持ち上げてやる。しばらく自分とサッタールの手を見つめてから、ショーゴはくっくと笑い始めた。
「なんだよ、これが俺の手か? いつの間にかスッゲー痩せちまったな」
ショーゴの言うとおりだった。かつては働き者の手だったのに、今は筋肉が薄くなり、骨に血管が浮いている。
「リハビリしていけば、また元通りになりますよ」
病室の隅から明るい声がして、ショーゴはのろのろと首を回した。
「あんたか……チュラポーン」
「ま、本当ちゃんと聞こえていたんですねぇ。はい、私がチュラポーンです。初めまして、ミスター・クドー」
サッタールの肩越しに顔をつきだしたチュラポーンは、看護師らしい目で、ショーゴの顔色を見た。
「ミスター・ビッラウラから、あなたが私の顔を見るのを楽しみにしていると聞きましたけど? いかがですか、お気に召していただけたかしら?」
ショーゴは少し苦労して唇を持ち上げた。
「ああ。想像していたよりずっと美人でびっくりしたぜ。もうしばらくはあんたに世話を頼めるかな?」
「うふふ。よかったわ。こんな女じゃイヤだって言ったら、即座に睡眠薬を注射して、同僚と交代するつもりだったの。ええ。私はあなた専任ってことになってるから、退院するまでおつきあいさせてくださいね」
それだけ答えるとチュラポーンは、ドクターを呼んできますと静かに病室を出ていった。
「アルフォンソ並に口がうまくなったな、ショーゴ」
「んなことあるかよ。本心だよ」
ショーゴは一度大きく息を吸って、吐いた。
「自分の呼吸が自覚できるって、いい気分だな……ありがとう、サッタール。俺をここまで連れてきてくれて」
「半月後には中央府との交渉を再開する。それまでしっかりリハビリに励んで、私を助けてくれ。悪いが今日はこれで帰る。でも何かあったら私を呼んでくれ。念話は使えるみたいだからな」
「ああ。わかった」
微笑んで、サッタールは席を立った。手術後、ライシガーからおそらく大丈夫だろうと報告は受けていたが、実際に喋って動くショーゴを見て、それまでどれほどショーゴの回復を頼みにしていたか、祈っていたかを痛いほどに悟った。
安堵のあまり胸が苦しくて泣きそうな気がした。
「おやすみ、また明日な」
病室を出て談話室に向かうと、観葉植物の陰に隠れるようにして通話していたアレックスが、慌てて携帯端末を切ってポケットにしまった。
「ミスター・クドーはどうだったの?」
待ちくたびれた様子のイリーネが耳からヘッドホンを外す。
「意識が戻った。自分で喋って、動いていたよ。まだ少しぼーっとしていたけど、明日になればもっと動けるだろう。遅くまですまなかった。今日はこれで帰ろう」
「よかったわ。やっぱり心配だから今夜はここに泊まるって言い出すかと思った」
イリーネは何か言いたげにアレックスを見た。
「その……ジャクソンはちょっと難しい任務があって離れてるんだ。マクガレイ少将が護衛を送ってくれてるから心配はいらないんだけど」
奥歯に物がはさまった言い方をするアレックスを、イリーネが軽蔑した目で見上げる。
「ちょっと。はっきり言いなさいな。ジャクソンは任務なんかじゃなくて行方不明なんでしょう。聞いていたわよ、通話で報告するの」
「えっ……でもお嬢さんは音楽を……」
「あなたが話しにくそうだったから気をきかせてヘッドホンをつけてあげただけよ」
悪びれる様子もなく告げられて、アレックスは己のうかつさに天を仰いだ。
「任務なのか行方不明なのか、どちらだ?」
「どちらかと言えば行方不明だな。ここを出てからの足取りが全く掴めない」
ジャクソンに行方不明という言葉は似合わなかった。あの大男は手足の骨、一、二本折れても平気な顔で任務を続行しそうな覇気があった。
「海軍本部にも姿を現さなかった?」
「いや。そもそも出頭を命じられたというのが嘘のようだ。少将も他のどの上官もそんな命令は下していない」
「ということは自発的に出奔したと?」
「……そういうことになるね」
気まずい顔のアレックスは、他にもまだ隠していることがあるのは一目瞭然だった。サッタールはアレックスの心に触れようとして、すぐにやめた。
話せることなら、帰ってから改めて説明してくれるはずだ。今までがそうだったように。
だが、アレックスは心を固くして視線も合わせようとしない。
「……護衛の手が足りているのなら私はかまわない。とにかく帰ろう」
「そうだね」
ほっとしてエレベータに向かうアレックスの背に、イリーネは納得しがたい表情を投げて囁く。
「おかしいわ。イルマは何か隠してる。でもそれはわたくしに? それともあなたかしら?」
「私だろう」
「そう思うならさっさとイルマの心を覗いてみたら?」
「隠したいと思っているのにか? それは礼儀に外れる」
「あら、そうなの? でも簡単なんでしょ?」
簡単だ、とサッタールは心で呟いた。アレックスに気づかれないように思考を読むことも、それで知り得たことを知らん
顔で通すことも。
しかしそれをするには躊躇いがあった。今までアレックスはサッタールを避けたことはない。それどころか、口にできない情報を、触れて心で喋るという手段を用いてまで伝えてくれていた。
その信頼を思うと、暴くような真似はしたくない。
「いいわ。わたくしが聞いてあげる。だってジャクソンはこの十年間、わたくしの護衛を一番長く務めていたのよ。わたくしだって事情を知る権利はあるわ」
イリーネは唇を尖らせ、エレベータのボタンを押したまま二人を待っているアレックスを睨んだ。バッグを持って小走りに駆け寄り、そのままの勢いで食ってかかる。
「イルマ。本当はもう少し知っていることがあるわね? あなた、隠し事には向かないわよ。その顔に書いてあるもの。ジャクソンに何があったか言いなさい」
しかしアレックスは無表情に少女を見下ろし、事務的に答える。
「お嬢さんは知らなくてもいいことです。任務に詮索は許されません」
「あら、あの人には関係ないってことなの? 違うわね、それならそんな緊張した顔するはずはないわ」
アレックスの目が遅れてエレベータに乗り込んだサッタールに向いて、すぐにそらされた。
「ジャクソンは任務から外れた。私に言えるのはそれだけです」
イリーネの頭越しに、サッタールは固い横顔を見つめた。心を読まないように自制するのは、とても難しかった。
***
マクガレイはジャクソンの行方を追ったが、数日たっても発見できなかった。
港は海軍が管理しているし、飛行機も少なくとも民間機の搭乗名簿にはそれらしい人物はいない。
「考えられるのは一つ。宇宙です」
本部の元帥の執務室で、マクガレイは沈痛な顔でうなだれた。ずっと信頼してきた部下に背かれるのは、自分が考えていたよりも胸に重い。
「南飛行場のトゥレーディア基地へのシャトル発着場は宇宙軍の管轄ですから」
「うむ。トゥレーディアに逃走した海軍兵士はいないかと問い合わせても無駄だろうな」
元帥は腕組みを解くことなく唸った。
「にしても、動機がわかりませんね。家族はもういませんし、他に交友関係も洗いましたが、誰かが脅されてというのでもありませんし」
マクガレイと共にやってきた副司令のサーニーが、銀狐事件の経過を分析しながらうんうんと首を振る。
「思うに、銀狐に関しては、彼も想定外の突発事件だったんじゃないですかね? 私もあの男を知ってますが、もし銀狐事件そのものを彼が仕組んだとしたら、ミスター・ビッラウラは元帥宅に連れて行かれる前に確実に死んでいたでしょうしね。もっと緻密な作戦を練るんじゃないかなぁ。あの下水道に現れた小隊が宇宙軍ゆかりのものとしても、作戦が決まってから連絡し、既に展開しつつあった我が方の部隊と鉢合わせすることのないよう派遣したんでしょう? その間には山ほど未確定事項があったでしょうからね」
「通信関係からも何も出てこないか?」
「出てきませんねえ。まあ専用の通信機を使ったんでしょうけど」
「自分で姿をくらましたのか、それとも消されたのかもわからんな」
イライラとマクガレイが頭をかきむしった。短い銀髪が無造作にあっちこっちに踊ったが、今はそんなことを気にかける気分でもない。
「ミスター・ビッラウラはもうこの件を知っているだろうな、サラ?」
「恐らく。あの少年は普段と変わりなく、交渉の事前準備とミスター・クドーの見舞いに忙しくしているようですが、今までのことを考えても、イルマの思考を読んでいないとはとても考えられませんから」
「イルマ少尉は素直だからねえ。我々と違って」
サーニーが大げさに口をへの字にして両手を広げた。
「でもそれも計算済みで、今も彼を側につけてるんでしょう? 元帥も少将も人が悪い。悩んでますよ、あの若い二人は」
「人が良いままで将軍職が勤まるものならそうしたいものだよ、サーニー。わしも退役したら好々爺になって思うがままに詩作に励むぞ」
苦々しく答えて、ミュラーは立って窓の外を見た。
今夜、トゥレーディアは満月のはずだ。複雑な潮汐を知る為、海軍の者は誰もが二つの月の満ち欠けには敏感だった。
確かに中央府の官庁街の向こうにトゥレーディアが顔を覗かせ始めている。西を見遣れば、まだ残照が波を彩っていた。
「そういえばもうすぐトゥレーディア基地創設百五十年の式典だな。おかげてサムソンはトゥレーディアに行ったきり戻らん」
「私も幾人かの宇宙軍所属の者にさりげなく当たってみましたが、皆、式典準備で忙しそうですねえ。こっちはこっちで忙しかったので忘れてましたが、五日後でしたか。まあ彼らはコラム・ソルにも銀狐事件にもあまり関心なさそうでして。下界のことなど知らんという感じでしたね」
「ふん。いつもいつも上から見下ろしてばかりだからな。大地と海のあるファルファーレがあってこそだというのを奴らは忘れがちなのだ」
「そのうち宇宙船で世代交代でもしていくつもりなんでしょうかねえ」
サーニーはため息混じりに言った。
「式典か……。確か元帥も招かれておいでですね。議長も」
「ああ。ジェイコフ議長なんぞ今夜もう向かうそうだぞ。わしはぎりぎりまでここに残るがな。なんなら君が代わってくれんかな、サラ。わしはサムソンの顔を見たら掴みかかるかもしれん」
「ごめんです。私なら掴みかかる前に殴りとばしかねませんよ」
マクガレイは獰猛に笑い、書類ケースをてきぱきと片づけ始める。
「また新しい情報がありましたらご報告します。イルマのカウンセリングと疑心暗鬼になっていそうな少年の世話をよろしくお願いします」
「年寄りに仕事をふりおって……」
ミュラーがぼやいたところで、新しく任務についた護衛の兵士がドアをノックした。
気は重かったが、それでも、家に戻ったら少しは若い者の相手をしてやろうかと考えていた。