23
ミュラー家の居間が臨時の会議室になって数時間。マクガレイが重苦しい中に戻ってきた。
「お嬢さんには鎮静剤を打たせていただきました。今は看護師がついています」
「すまんな」
短く答えたミュラーは両手で顔を覆った。
アレックスからの急報で海軍本部は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。元帥の孫娘は拉致未遂で済んだが、コラム・ソルから来た少年はそのまま襲撃者に連れ去られてしまった。
殺害するつもりならあの場でしていたはず、というアレックスとジャクソンの意見には全員がうなずいたが、となると襲撃者の身元と潜伏先を探索する地道な作業をしつつ、彼らからの接触を待つより他ない。
ジャクソンが、太い眉を寄せたまま彫像のように立っていた。アレックスはイライラと歩き回って無駄にカーペットに痕をつけている。
「セントラル警察にはまだ伏せていますが、議長にはすぐに情報があがるでしょう。多数の市民の目の前での出来事ですし、ミスター・ビッラウラの顔を歓迎式で見覚えた者もいるでしょうし」
マクガレイは感情を押し殺して現状を報告する。
「港は二つとも私の配下の艦艇で封鎖しています。出航する船には臨検を入れています。空港も部下が見張っていますが、今のところ不審な人物は見つかっていません。おそらくセントラル内の潜伏場所に、今もいるかと思われます」
「警察には情報を提供して協力を求めておけ。宇宙軍の横やりが入るよりはマシだ」
「了解しました」
マクガレイが部下と連絡を取る声だけがしばらく続いた。
もう日は傾いている。オレンジの光がカーテンの隙間から射し込んで、アレックスの足下に影を作った。
「申し訳ありません……」
もう何度目かになる謝罪を口にすると、ミュラーはうるさそうに手を振った。
「イリーネを自由にさせていたのはわしだ。おまえたちだけの落ち度ではない」
「しかし……ジャクソンを身辺から離したのは私です」
「いえ。それならば私の判断ミスです、イルマ少尉」
ジャクソンが口を挟んだが、アレックスは頭を振った。
油断していたのは全員だった。まさかセントラルで、しかもこんな早くに事件が起きると予測していなかった。
「責任の所在と警備体制については後でいい。イルマ、もう一度状況を話せ。本当にミスター・ビッラウラがイリーネ嬢の解放の為に力を使ったのだと思うか?」
アレックスは歩き回っていた足を止め、直立不動の姿勢を取った。
「人質を取られ、我々は手を出しかねていました。私は拳銃を手放さざるを得ませんでした。お嬢さんを捕らえた男の方角にジャクソンがいるのはわかっていましたが、ミスター・ビッラウラに危害が及ぶ可能性もありましたので、奪還は難しかったと思います。ですが、ミスター・ビッラウラの声が……声がしました。お嬢さんを捕まえた男は自分が倒すから保護するようにと」
「それで男が本当にイリーネを放したのだな?」
ミュラーの問いにアレックスとジャクソンが同時にうなずく。
「不自然でした。突然襲撃犯が立ち止まり、非常にゆっくりと、嫌々するようにお嬢さんを地面に落としました。ジャクソンが飛び出して抱きとめた時も、男は一歩も動きませんでした。私はジャクソンがお嬢さんを保護するのを見てミスター・ビッラウラの方に向かったのですが……」
言葉を切ったアレックスの後をジャクソンが引き継いだ。
「人質が一人なら、奪還できる可能性があると思ったのですが、私がお嬢さんを保護したのとほぼ同時に、ミスター・ビッラウラは気を失ったように見えました。彼らの背後から迫っていた部下も同様に見ています」
「殴られたか、薬でも打たれでもしたのか?」
「いえ。襲撃犯は左手で腕を捻り、右手は拳銃を構えていましたから違うと思います」
マクガレイとミュラーの視線がアレックスに向く。
「私の推測ですが。もしミスター・ビッラウラが何らかの方法で襲撃犯を操ったのだとして、それは大変な負担なのではないでしょうか? 彼は午前中も役人との交渉で消耗していましたし……その……いろんな葛藤も……」
「そうか。ああゆうことは簡単ではないと以前話していたな」
マクガレイが記憶を探るように宙を見て、すぐに厳しい顔をジャクソンに向けた。
「ミスター・ビッラウラが気を失った後の襲撃犯の行動には不審なものはなかったのだな?」
「はい。彼らは五人で気絶したミスター・ビッラウラの喉に銃を当てつつ通りを抜け、幌付きのトラックに乗り込みました。彼らの前に顔をさらしていない部下に後を追わせたのですが」
「見事に巻かれたか」
「申し訳ありません」
「まあイリーネ嬢が無事だったのはよかったな。人質があの少年なら何とでもなる」
マクガレイが目を細めて不敵に笑い、アレックスを顎で指し示した。
「驚いたことに精神感応者でもないこいつに連絡が取れるんだ。彼の意識が戻れば、我々も動き出せる。おい、イルマ。おまえは少年から連絡があるまでは一睡もするなよ。なんなら医師に興奮剤を処方させるか」
「イエス・ダム。あの、この件はコラム・ソルには……?」
「馬鹿者。外交の失点を早々に知らせたりするか」
「しかし、本人が島に連絡を取ったら……」
「少年はおまえに知らせると言ったのだろう? あれは約束は守ると思うがな。それに中央府との交渉も残っている。それを反故にしたくなければ、必ず戻ってくるさ」
マクガレイの言葉に、アレックスは姿勢を正した。サッタールは戻ってくる。それだけは信じられる気がした。
口の中に嫌な感触を覚えて、サッタールは小さくうめいた。酷く頭が痛い。足の指先まで痺れていて、なんの感覚もない。
「おい、気づいたみたいだぜ」
誰かが耳元で喋り、腰を蹴りとばされた。その衝撃でようやく自分の置かれた状況を思い出す。
(私は……こいつらに連れ去られたのか)
左右の手がそれぞれの足首に縛りつけられ、口はボールのような物が押し込まれ塞がれていた。転がされているのはほこりっぽいコンクリートの床だ。乱れた髪が頬に張りつき、口の端から流れ出た唾液で湿っていた。
(ここはどこだ? コンクリートの床ということは船や飛行機ではないんだな)
目を瞑ったままそこまで確認していると、大きな手に髪を掴まれ、痛みにまたうめき声が漏れた。
「あんまり手荒に扱うな。客になるかもしれないんだからな」
先ほどとは別の落ち着いた声がして、身体ごと持ち上げられ、壁にもたれるように起こされた。胸がむかむかして胃液が喉にせり上がってくるのを懸命に押し戻す。目を開けようとしたが、瞼が重くてなかなか持ち上がらない。
「苦しそうだな。薬に耐性はないようだ。どれ、水を飲ませてやる。猿ぐつわは外すが、舌は噛むなよ」
サッタールは承知したしるしに小さく頭を振った。手が後ろに回り、口からボールが外されると、二度、三度と大きく息を吸う。空気が澱んでいるのがわかった。
唇に器があてがわれ、水が流れ込んでくる。反射的に飲み込もうとしたが、舌も喉もうまく動かないで、タラタラと水は顎から滴り落ちた。それでもなんとか喉の方に流し込むと、今度は嚥下がうまくいかずに気管に入ってしまい、咳込みたいのにそれもうまくいかない。ヒューヒューと音が鳴る。
「おいおい。コップの水で溺れるなよ」
くっくと笑う声にカッとなる。
(そうだ、この声はあの時の……)
思念を盗み聞いた声だった。
イリーネの無事が気にかかるが、周囲を確認したくても脳は身体のあちこちから訴えてくる痛みや不快感でいっぱいで、目の前の男の思念さえ読みとれない。これではアレックスに連絡を取ることも覚束ない。
「ここは……? なぜ私を、狙うん……だ? おまえたちは……」
絞り出した声よりも胸の喘鳴の方が大きいような気がした。
「あんた、コラム・ソルから来たんだろう? コラム・ソルといえば他人の心を操り、彗星を招き寄せてヴェルデ西海岸を破壊した超能力者の集団だという噂だった。俺は最初聞いたときは眉唾だと思ったんだが、あんた、実際にエンリコの奴を操っただろ?」
「エンリコ……?」
回らない頭で考えて、イリーネを連れ去ろうとした男かと思い当たる。
「何のこと……だ?」
「今さらごまかすんじゃねえよ。奴は、あのお嬢さんを放したのは絶対に自分の意志じゃねえって泣いてたぜ」
「泣いて……?」
「ああ、命乞いだ。裏切り者は始末されるからな。もしあんたが俺を操ろうとしたら、すぐさま俺は仲間の手で殺されることになっている。だから変な真似はしないでもらいたいな」
男は凄惨に笑った。やれるものならやってみろという自信がその表情から伝わってくる。
「俺の名はルキーノ。俺たちは銀狐だ。その名前に聞き覚えは?」
サッタールは小さく首を振った。
「そうか。コラム・ソルは他と全く交流がなく弧絶していたらしいな。まあ、一般の市民も関心がなきゃ知らねえだろうが」
ルキーノはサッタールの前にあぐらをかいて座り込み、じっと視線を当ててくる。自分がどれほど惨めな姿に見えるだろうと思うといたたまれない。が、むしろ弱々しく見せるべきなのだろう。今は、まだ。少なくとも薬が抜けるまでは。
「大陸間戦争はいくらなんでも知ってるな? あの戦争は四大陸の間で行われたことになってるが、実状はもう少し複雑でね。どの大陸にも当時の政府に属しない集団がいた。北のブリージョ大陸の中でも最北端、一年の四分の三は氷に閉ざされる、そんな土地が俺たちの大地だった」
銀狐の本拠地は極地にあった。そのすぐ南側を四千メートル級の山脈が走り、北の海は一年中溶けることのない氷に覆われている。
そんな不毛な土地に彼らが住みついたのは、地下に莫大な石油と石炭が埋まっていたからだ。最初は地表の泥炭を採取していたのだろう。しかしすぐに深く掘れば掘るだけ、良質の油が採れることに気づいた銀狐たちは、大陸の内外で戦争が行われる度に、それらの資源を売って暮らしていた。
ブリージョ政府は再三山脈を越えて侵攻してきたが、その度に銀狐は北政府と反目する他大陸に大量の石油を供給しては、背後から政府を襲わせた。敵を両面に持つ上に部隊の補給もままならない氷の大地に、政府側は常に撤退を余儀なくされた。
一種のパワーバランスの上に、銀狐の繁栄があったと言ってもいい。
状況が一変したのは、四つの大陸が手を結び中央府が設立されてからだった。
その時に利権を手放せば、あるいは銀狐は地方の盟主として今も一定の勢力を持てたかもしれなかった。しかし実際には銀狐は孤立し、石油の買い手も弱小の盗賊や海賊のみとなっていく。
「この話はあんたたちにも参考になるだろう? 俺たちが中央府に騙されて滅んだ話はな」
ルキーノはうなだれたままのサッタールの顎に手をかけ、仰向かせた。その手が燃えるほど熱く感じられる。
「中央府は何度も俺たちに停戦を促してきた。それでも百年以上は銀狐は仲間だけでなんとかやってきたんだが、当主だった俺の大叔父は、貧しくなっていく俺たちの暮らしを見かねて中央府の呼びかけに応じたんだ。人のいいことにな、のこのことセントラルまでやってきて。だが大叔父は停戦には応じるが中央府の傘下に入るつもりはなかったのさ。ただ平和裡に石油、石炭の商取引をするつもりだった。それなのに中央府は、大叔父をブリージョ大陸政府の役人に任命し、採掘権を取り上げようとしやがったんだ。だから大叔父は交渉を切り上げて北へ帰ってきた。俺たちは皆、それでよかったと思ったもんさ」
サッタールは勲章を渡した時の議長の満面の笑みを思い浮かべた。なるほど、中央府はいくつもそうした不満分子を手名付けてきたのだろう。確かに銀狐の話はコラム・ソルに似ている。コラム・ソルも大海の孤島とはいえ、彼らにとっては有益な資源を持っているのだから。
「それで……? 北に平和に暮らしてるはずのおまえたちは何でこんなところにいる?」
「北で平和に? はっ、今はもうあそこは銀狐の土地じゃねえ」
ぺっと唾を床に吐いたルキーノが、サッタールの目をのぞき込んでくる。薄いブルーの瞳の奥に憎しみの炎が燃えていた。その渦巻く感情に飲まれそうになる。
「敵はいつも山脈を越えてやってきた。だから俺たちの目も山脈からの抜け道ばかり向いていたんだ。それと空だな。迎撃ミサイルだって整備していたんだぜ。まさか厚さが数メートルもある氷の下からミサイルを撃ち込まれるなんて思いもしてなかったのさ」
「氷の下……潜水艦か……」
「そうだ。宣戦布告もなく、奴らは延々と氷の下を潜ってきて、まず第一弾のミサイルで氷をぶちこわし、続くミサイルで俺たちの街を焼き尽くした。指揮をしたのはなんと当時は東方面司令だったヴィンツ・ミュラー少将だ」
ハッとした。それで彼らがイリーネを狙った目的が繋がる。燃えるような憎しみの理由も。
「……復讐か」
「ふん。俺たちは騙されたんだ。今あんたたちが騙されているようにな」
考えなくてはならない。そんな悲劇はごめんだった。
サッタールはルキーノの視線を避けて目を瞑った。それをどう取ったのか、ルキーノは手を離し、立ち上がった。直接触れていた憎悪の感情から逃れられ、大きく息をつく。
「覚えておけよ。中央府が欲しいのは常に利益だ」
それはわかっている。役人たちは海底鉱山の話を聞いた瞬間、目の色を変えた。
(私たちは海底資源が欲しいんじゃない。銀狐と違って。それらは手放してもいい。引き替えになるものがあるのなら)
そうだった。望むものは、超常能力を持つ人々の穏やかな暮らしと、それでも外で人生をチャレンジしたい者たちへの支援。頑なに対立したいのではない。そうでなくてはサッタールは島を出たりはしなかった。
(だが中央府はそれを許すだろうか?)
次々と中央府の人間の顔を思い浮かべる。そして最後に心配そうなアレックスの海のような青い瞳が浮かんだ。
今ごろ、やきもきしているだろうなと思いながら、サッタールは不自由な姿勢を忘れて呼吸を整えることに専念した。